クロスワードパズルも60回記念大会。
ポスト「アタック25」になるか!?
週刊ファイトでパズルを作りました。
無料記事のため、どなたでも自由に挑戦できます↓.
第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。
▲外野から見たPL球場
最近、慶應義塾大学の野球部に入部し、新人戦で活躍する元プロ野球選手の清原和博の長男・清原正吾選手が話題になっている。
筆者の数少ない自慢の一つに、KKコンビの世の中デビューを生で観た、というのがあるが、そのことについてはこのネタランで何度か書いた。
KKコンビについて、今では若い人はよく判らないかも知れないので、もう一度おさらいしておく。
1983年、夏の甲子園に出場したPL学園(大阪)は、一年生の桑田を事実上のエース(2完封を含む4勝)、やはり一年生の清原を四番打者(1本塁打)として抜擢、この一年生コンビの大活躍により全国制覇を達成した。
桑田・清原は一躍大スターとなり、いつしか彼らを人は「KKコンビ」と呼ぶようになったのである。
特に桑田は、1968年4月1日生まれ。
つまり、早生まれでの最後の日であり、「史上最年少の甲子園優勝投手」ということで話題になった。
何しろ、桑田が生まれるのがあと1日遅かったら、桑田はまだ中学三年生だったので、この年に甲子園で活躍することは有り得なかったのだから。
高校野球の制度が変わらない限り、桑田の「最年少甲子園優勝投手」の記録が破られることはない。
この年、最も注目を集めた高校はPLではなく池田(徳島)。
池田は前年夏とこの年の春の甲子園を制覇し、史上初の夏春夏三連覇の偉業を成し遂げるかが最大の関心事だった。
特に、池田は当時まだ珍しかったウェート・トレーニングをいち早く取り入れ、パワー抜群の「やまびこ打線」をどの投手が止めるのか、ということでも注目されていたのである。
そんな中、PLの前評判は決して高くはなく「一年生にエースと四番を任せるなんて、PLも落ちたものだ。とても池田には敵わないだろう。桑田なんて、やまびこ打線にアッサリKOされるに違いない」というのが大方の予想だった。
ところが、準決勝での両校の対決で、「実質中学生」の桑田は、全国レベルの三年生投手でも抑えることができなかったやまびこ打線を完封してしまった。
しかも、桑田自ら特大のホームランを打つというオマケ付きである。
当時の高校野球雑誌で、「PLの桑田投手は最年少選手として話題になったけど、池田の三年生の金山(光男)選手は(1965年)4月2日生まれで『一番のオジン選手』なのに、話題にならなかったのはナゼ?」という読者投稿があった。
そう、高校野球には年齢制限があるので、1983年夏の甲子園に出場できる選手は「1965年4月2日~1968年4月1日に生まれた高校生」に限られている。
例えば、この年の夏の甲子園に出場した箕島(和歌山)の硯昌巳は二年生だったが、留年したうえでの二年生だったため、翌年は年齢制限に引っ掛かるので高校野球の大会には出場することはできない。
このような制度があるのは、かつては規定が曖昧で、全国大会に出場するため大学選手を引っ張ってくる、なんてことが行われていたからだ。
そう考えると、池田の金山は「一番のオジン選手」だったはずだが、この年の甲子園大会に限っては違った。
つまり、金山以上の「オジン選手」が、甲子園に出場していたのである。
その選手とは、後に阪神タイガースなどで活躍する、当時は興南(沖縄)の左腕エースだった“マイク”こと仲田幸司だ。
マイク仲田の生年月日を見ると「1964年6月16日」となっている。
つまり、上記の「1965年4月2日~」よりも1年早いわけだ。
それではなぜ、マイク仲田はこの年の高校野球大会に出場できたのか?
マイク仲田はアメリカ生まれで、アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフだ。
高校野球には前述のように年齢制限があるが、特別な事情がある場合は19歳でも大会に参加できる(20歳以上は、いかなる事情があっても出場できない)。
マイク仲田の場合は「特別な事情」に該当したのだろう。
マイク仲田は、二年夏(普通なら三年生)と三年春夏(普通なら高校卒業)の三季連続で甲子園に出場している。
この年の夏の大会前にマイク仲田は、練習試合で池田を完封しており、甲子園でも興南は「打倒・池田」候補に挙げられていた。
ところが、マイク仲田が練習試合で池田を完封したちょうど同じ頃、そのマイク仲田を打ち込んだ選手がいたのだ。
それが、他ならぬ清原である。
筆者はKKコンビの世の中デビューを生で観た、と書いたが、それはこの年の夏の大阪大会でのこと。
PLにとっての初戦(二回戦)、住之江公園球場での大阪学院戦、四番打者として登場したのが背番号14の清原だった。
この試合が清原にとって初の公式戦、つまり世の中デビューだったわけだ。
清原は公式戦初試合で、見事に二塁打を放っている。
筆者はこの時、清原が一年生だとは知らなかったが、翌日の新聞で一年生だと知った。
まさか、自分と同い年の選手が、一年生でPLの四番を張るとは……。
▼清原和博にとって“高校デビュー”の場となった住之江公園球場
そして四回戦での大阪球場、吹田戦で先発マウンドに上がったのが、背番号17の桑田だった。
当時の大阪大会でのベンチ入りは17名で、つまり背番号17の桑田はドン尻のベンチ入りメンバーだったのだ。
好調の吹田打線を、背番号17の投手が抑えられるのか?と思ったが、この小さな投手は凄い球を投げていた。
二回戦の住之江球場ではPL三年生エースの藤本耕のピッチングを見たが、ハッキリ言ってモノが違っていたのである。
結局、桑田は吹田を2安打完封、これが桑田にとって公式戦初登板初勝利だった。
この試合で清原は公式戦初ホームランを放っている。
高校一年生の選手にとって、初の公式戦は夏の地方大会ではない。
それより前に、入学間もない4月に春季大会が始まる。
普通の都道府県では、春季大会で好成績を収めると夏のシード権を獲得するが、大阪の場合はシード校制度がなかった(今年から大阪でもシード校制度を採用)。
従って、大阪では春季大会は夏の大会に直結しないが、それでも選手たちにとっては夏のベンチ入りメンバーに入るための大事な大会である。
この年の春季大会では、清原も桑田もベンチに入っていなかった。
つまり、普通では夏の大会でもベンチ入りできないところだが、実際には夏にベンチ入りを果たしている。
春季大会に出場できなかった清原にとって、夏のベンチ入りのチャンスが6月に行われた興南との練習試合だった。
マウンドに立つのは、甲子園で活躍し、練習試合ながら池田を完封したマイク仲田。
代打で登場した清原にとって、これが高校入学後の対外試合初打席だった。
打席に立った清原はバット一閃、マイク仲田から見事にライナーで右中間を破る二塁打を放ったのである。
この時、清原は3ヵ月前まで中学生だった一年坊主。
一方のマイク仲田は、本来なら高校を卒業している19歳。
もしマイク仲田が、年齢通り高校を卒業していたら、どうなっていただろうか。
マイク仲田のポテンシャルから言って、高卒でいきなりプロにドラフト指名されていた可能性は高い。
実際のマイク仲田は高校卒業後、ドラフト3位で阪神に入団し、2年目には一軍で1完封を含む3勝をマークした。
マイク仲田が清原と対決した年にプロ入りしていたとすると、一軍登板は難しかったかも知れないが、二軍戦では投げていたのではないか。
いずれにしろ、”実質プロ”とも言えるマイク仲田から放った二塁打が、清原にとって夏の大会でのベンチ入り切符となった。
ちなみに、現在のマイク仲田は野球チームの監督、ではなく工事現場の監督になっている。
▼PL球場のスコアボード下にあった、KKコンビが高校時代を過ごしたPL学園硬式野球部の「研志寮」(大阪府富田林市)
先日、我が家の風呂がブッ壊れてしまった。
実は昨年の4月頃、給湯器にエラーが出て、その時は知り合いの電気屋さんに対処方法を聞いて事なきを得たが、電気屋さんからは「次にエラーが出たら、買い替えなアカンかも知れまへんな」と言われていたのである。
そして、約1年経ってエラーが出たので「遂に来るべきものが来たか」という感じだった。
例の電気屋さんからは最後通達、つまり買い替えが必要だと言われたのだ。
修理も可能だが約10万円もかかり、修理してからすぐ故障して買い替えでは10万円をドブに捨てるようなものである。
それならばと、約40万円もかかってしまうが、買い替えを選択した。
もっとも、家に配管などの穴を開ける必要はないので、最初からの工事に比べると幾分かは安いそうだが。
問題なのは、土日を挟むため工事完了まで4日間ぐらいかかるということだ。
つまり、4日間も風呂なし生活を余儀なくされる。
場合によっては、5日ぐらいはかかるかも知れないという。
恐ろしいほどの体臭に悩まされそうだ。
そんなこと、とても耐えられそうにない(自分が、というより周りの人が)。
初日はいきなりの出来事だったので、やむなく風呂なしとなった。
何しろ、風呂場はお湯どころか水も全く出ないのだから、シャワーすら浴びることはできないのだ。
風呂場以外は水こそ出るものの、お湯は出ない。
それでも洗髪ぐらいはしておきたかったので、洗面所の冷たいシャワーでシャンプーする。
何しろ梅雨の真っ只中、非常に寒かった。
それにしても、入浴なしの日など何十年ぶりだろう。
2日続けて風呂なしは無理なので、翌日は銭湯へ行くことにした。
と言っても、我が家があるのは新興住宅地なので、銭湯などあるわけがない。
考えてみれば筆者は、ずっと団地や新興住宅地で育ったので、銭湯に行くという習慣がなかった。
銭湯へ行くのは、既に亡くなった祖母の家へ遊びに行った時ぐらいである。
祖母の家には風呂はあったものの、壊れていたので銭湯へ行かざるを得なかった。
しかし、滅多に入ることができない大浴場、むしろ銭湯を楽しみに祖母の家へ行っていたようなものだ。
当時はスーパー銭湯なんてなかったので、行っていたのは昔ながらの銭湯。
暖簾がかかっている、これぞ「ザ・銭湯」という感じで、情緒があったのを憶えている。
周りは古い家が多かったため(祖母の家の便所も汲み取り式)銭湯は必要で、また近くに近畿大学があったので、独り暮らしの学生なども銭湯を利用していたようだ。
家の風呂と違い、銭湯は広々としていて気持ちが良かった。
風呂上がりに飲んでいたコーヒー牛乳の味が忘れられない。
大人になって、別の銭湯に入った時は、
「この銭湯、ずいぶん狭いな。祖母の家の近くの銭湯は、もっと広かったのに」
と思ったのだが、よくよく考えてみれば子供の頃は体が小さかったので銭湯が広く感じただけで、大きくなってから入ると狭く感じるのは当たり前なのだが。
思わぬ昔話になったが、話を元に戻すと近所に銭湯がないので車に乗って行ったのが、大阪府羽曳野市にあるスーパー銭湯「延羽の湯」だ。
駅からは遠く離れたヘンピな場所にあるのだが、隣りには「123」という巨大なパチンコ屋がある。
関西人には結構有名なパチンコ屋で、郷ひろみがテレビCMに出演したので知られるようになった。
この「延羽の湯」とパチンコ「123」は、同じ延田グループなのだ。
金曜日の夕方、「延羽の湯」の駐車場に車を停めて館内に入ろうとすると、自転車に乗った部活終わりらしき男子高校生が2人「延羽の湯」に入って行った。
今時の高校生は、学校の帰りにスーパー銭湯へ立ち寄るのか。
そもそも、大浴場に入るのは何年ぶりだろう。
銭湯やスーパー銭湯はもちろん、温泉旅行すら近年は行っていないので、大浴場なんて本当に久しぶりだ。
10年ほど前に東京へ行った時、新宿にある1泊3,800円という格安のビジネスホテルに泊まったことがあるが(素泊まり)、そのホテルは部屋にユニットバスすらなくて共同の大浴場があるのみだったが(トイレも共同)、その時以来か。
とりあえず入館したが、勝手が全く判らない。
てっきり入浴券を買うのかと思ったが、券売機が見つからず、どうすればいいのか往生してしまった。
すると、脱いだ靴を入れるロッカー(無料)のキーをフロントに預けてください、という貼り紙を発見したので、靴をロッカーに入れてキーをフロントに持って行った。
そこで番号の書かれた脱衣所のロッカーのキーを渡されたが、支払いは入浴後だという。
ちなみに入浴料は大人850円で、フェイスタオルを無料で貸してくれる。
キーとタオルを受け取り、浴場を探したがどこにあるのか判らないほど館内は広かった。
ようやく男湯を見つけ、久しぶりの大浴場を味わうことに。
結構、客も多かったが、金曜の夜にすれば少ないかも知れない。
やはりコロナが影響しているのか。
中も広くて気持ち良かったが、筆者は長湯を楽しむタイプではないので、850円で利用するのはもったいないかも。
それに、早く帰って原稿を書かなければならなかったので、あまりノンビリもしていられない。
とはいえ、せっかく来たのだからと露天風呂は味わうことにした。
露天風呂のスペースはかなり広く、しかも幾つもある。
しかし、この時期だから仕方がないが、虫の死骸が浮いていたので、すぐ出て内湯に入り直した。
やはり露天風呂は冬が一番か。
と言っても、冬の露天風呂は寒いのだが。
サウナも苦手だし、早く帰る必要もあったので、サウナには入らず出ることにした。
風呂を出ると、子供の頃のコーヒー牛乳と違って、生ビールをジョッキで一気飲みしたいところだが、コロナのさなか酒類は提供していまい。
もっとも、ビールを販売していたところで、車なので呑むことはできないが。
ともかく、銭湯生活の1日目は終わった。
翌日の土曜日は、昼から買い物も兼ねて奈良県へ。
奈良県は車で行くと我が家から結構近く、また安いスーパーやガソリンスタンドがあるので、よく利用する。
そこで行ったスーパー銭湯が、橿原市のイオンモール近くにある「橿原ぽかぽか温泉」(そのままのネーミング)。
ここは「延羽の湯」と違い、券売機でチケットを買う必要がある。
入浴料は大人750円で、「延羽の湯」より100円安い(平日は700円)。
ただし、フェイスタオルの無料貸し出しはなく(もちろんバスタオルも)、タオルを忘れた人は有料で借りるか、買わなければならない。
中の付帯施設は「延羽の湯」ほど多くなかったが、内湯の広さは引けを取らなかった。
ただし、カランとシャワーの場に置いてあるのは、ボディーソープとリンスinシャンプーだけ。
「延羽の湯」ではボディーソープの他に、シャンプーとコンディショナーをそれぞれ置いており、洗顔用ソープまであった。
とはいえ、「延羽の湯」もそうだったが、洗髪後に髪がきしむことなく、肌荒れもしなかったので、そこそこのシャンプーを置いているようだ。
最近の客は、シャンプーには敏感で、石油系の安いシャンプーを使っていると一発で見抜かれるので、シャンプーには気を遣っているのかも知れない。
今回は、来る前の朝に脱稿していたので、少しはノンビリと入浴することにした。
長湯をしても値段は同じなのだから、楽しまなければ損だ。
露天風呂もあり、「延羽の湯」ほど数は多くなかったが、湯に虫も浮いてなかったのでゆっくり浸かった。
内湯にはジェットバスが幾つもあり、これは気持ちいい。
ただ、今回はサウナにも入ってみたが、こちらは熱かったので(当たり前だが)すぐにギブアップ。
入浴が終わり、ここは緊急事態宣言のない奈良県なのでビールを販売していたが、車のためもちろん呑めない。
もし、誰かに運転してもらえるのなら、熱いのを我慢して汗を体内から完全に絞り出すぐらい長時間サウナに入っていただろう。
その後の生ビールは、さぞかし旨いに違いない。
家に帰ると、土曜日にもかかわらず電気屋さんが特別に来てくれて、工事をしていた。
そしてなんと、その日の夜遅くには風呂に入れる状態になるという。
つまり、日曜日には銭湯に行く必要がなくなったわけだ。
ひょっとすると、月曜日も銭湯へ行かなければならないかもと覚悟していたので、これは嬉しかった。
こうしてみると、家に風呂があるというのがいかに有り難いことか判る。
スーパー銭湯の入浴料を平均800円とすると、1ヵ月で24,000円。
3人家族だと、実に72,000円もかかる。
普通の銭湯だと大阪府の場合、大人の入浴料は450円だそうだ。
スーパー銭湯に比べると約半額だが、それでも1人1ヵ月で13,500円、3人家族だと1ヵ月40,500円である(割引となる回数券はあるが)。
そもそも、現在では銭湯の数は激減している。
いずれにしても、水道料金と光熱費を考慮していないとはいえ、3人家族の場合スーパー銭湯だと半年の6ヵ月で432,000円、普通の銭湯でも10ヵ月で405,000円と、1年も経たずに今回の工事費の40万円を超えてしまうのだ。
それだけではなく、家に風呂があると時間を選ばない。
筆者の家のように、銭湯が近くにないと、車を飛ばしてはるばるスーパー銭湯へ行く必要がある。
ガソリン代もかかるし、何よりもタイム・イズ・マネーの考え方からすると時間のロスは大きな損失だ。
しかも、銭湯の場合は営業時間外には入浴できないが、家に風呂があるといつでも好きな時間に入浴できる。
それに、昔に比べると今の風呂は格段に進歩した。
筆者が幼少の頃の風呂は、まず湯船に水を貯める必要があったが、それを監視していないと水が溢れてしまう。
水を貯めてからガスで風呂を沸かすが、沸き上がるまで40分ぐらいはかかっていた。
もちろん、ガスを止めるのを忘れていると、お湯が異常に熱くなってとても入浴できなくなる。
それでも、ガスで沸かすようになってからは、かなり便利になったに違いない。
それ以前は薪で風呂を沸かしていたのだから、相当大変だっただろう。
何しろロシア人は「月曜日はお風呂を焚いて、火曜日にお風呂に入」っていたのだから。
しかし、何のために1日前から風呂を沸かしていたのだろう?
ただでさえロシアは寒いのに、お湯は冷めなかったのだろうか。
しかも、このロシア人女性は1週間に一度しか風呂に入っていなかったようだ。
(この歌の解釈については、こちらをどうぞ↓)
それはともかく、今の風呂はスイッチ一つで適温・適量のお湯が貯まる。
風呂が沸くのも5分程度なので「風呂に入りたいな」と突然思い付いたら、ほとんど待つことなく入浴できるのだ。
しかも、筆者の家の風呂がガスから電気給湯器に移行した頃は、夜遅くになるとお湯が不足して入浴できなくなったが、今ではそんなことはない。
昔は、寒い冬に夜遅く帰宅して、風呂でも入って温まろうとしてもそれすらできなかったのだ。
故障して気付いた、家に風呂がある有難味を噛みしめながら、日曜日は我が家の風呂を堪能しよう。