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ネターランド王国

国王:ハードフォーク安威川トークン

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:ハードフォーク安威川トークン」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

宿沢ジャパン平尾組〜W杯唯一の勝利〜その6

トンガ、韓国を撃破したジャパンは、最終戦の西サモア戦に挑んだ。
アジア・太平洋地区優勝決定戦である。
と言えば聞こえがいいが、実際は両国とも2勝してW杯出場を決めており、いわば「消化試合」のようなものだった。
しかも、2位チームはW杯予選リーグで、スコットランドアイルランド、アフリカ地区代表(後にジンバブエに決定)と戦うことになっており、1位チームよりも比較的楽なゾーンだ。
堂々と1位通過をしたいが、2位通過も悪くない。
そこで宿沢は、言葉は悪いが「メンバー落とし」を行った。
キャプテンの平尾とSH(スクラム・ハーフ)の堀越正巳神戸製鋼)を先発から外した。
結果は11−37とジャパンの完敗。
もっとも、ベストメンバーでも西サモアには勝てなかっただろう。
なお、1位通過の西サモアはW杯本戦で「厳しいゾーン」に入ったが、第一回大会3位のウェールズを破り、堂々と決勝トーナメントに進出した。
いずれにしてもこの西サモア戦はジャパンにとって消化試合であり、完敗したのでこの試合のことが大きく語られることはあまりなかったが、この「メンバー落とし」が思わぬドラマを生んだので、それを紹介しよう。


この試合で堀越に代わりSHを務めたのが渡辺晴弘(元・本田技研鈴鹿)である。
そしてこの試合が渡辺にとって初キャップだった。
「キャップ」とはイギリスで始まった風習で、スポーツの国別代表戦に出場した選手に対して帽子(キャップ)が贈られたことを起源としている。
特にラグビーではこの風習が世界中に拡がり、キャップを得ることが選手の名誉とされた。
テストマッチ(国別代表戦)のフィールドに立つことこそが選手にとって最大の目標だったのである。
アマチュアリズムを保ってきたラグビーユニオンにもワールドカップが開始され、プロ化が進んで世界中の各地域に国別リーグ戦が誕生した現在では「テストマッチ」の持つ意味と重さはかなり変わったが、それでも「キャップ」が選手にとっての最大の名誉であることには変わりがない。


そして渡辺はこの西サモア戦で念願の初キャップを得たわけであるが、実はその初キャップ試合が引退試合になるという、極めて稀なケースだった。


渡辺は東京生まれの東京育ち。
目黒高校から中央大学と、ラグビーの名門を渡り歩いた。
ただし、選手としての優勝経験はない。
その前後の世代が優勝していて、いつも巡り合わせが悪かった。
巡り合わせの悪さは大学卒業後も続き、渡辺を勧誘するラグビー部のある企業はなかった。
そんな中、唯一誘ってくれたのは三重県本田技研鈴鹿だった。
生粋の江戸っ子である渡辺にとっては縁もゆかりもない土地であり、できれば首都圏で就職したいという希望を持っていたが、背に腹は変えられなかった。
本田技研鈴鹿で5年間ラグビーに打ち込み、それでジャパンに選ばれなかったら、キッパリとラグビーから足を洗おう、そう決心した。


渡辺は社会人になってメキメキと頭角を現し、遂に4年目の'88年、アジア大会でジャパンに選ばれた。
そしてアジア大会ではジャパンの一員として初めて台湾戦に出場したが、キャップは授与されなかった。
このアジア大会では、決勝戦以外はキャップ対象試合とは日本協会は認めていなかった。
ここでも渡辺は巡り合わせの悪さに泣かされたのである。


そして、前述した西サモア・トンガ遠征でも日本選抜の一員として参加したが、ジャパンの遠征ではないので試合に出場してもキャップを得ることはなかった。
リミットの5年目、本田技研鈴鹿に退職届を提出、ラグビーを引退し、第二の人生のためにラグビーとは無縁の株式会社ダスキンへの就職を決めた。
しかし退職の二日前、渡辺は日本協会からの電話でフィジー戦の出場を要請される。
ただし、ジャパンとしてではなく日本選抜としてである。
渡辺はこれを引退試合にするつもりで、フィジー戦に出場した。
もちろん、キャップを得ることはない。
だが、このフィジー戦は前述したようにアジア・太平洋地区予選を見据えたものだったが、敗れたとはいえ渡辺の動きは光った。


そしてこのフィジー戦が、渡辺に最後のキャップ獲得のチャンスを与えた。
宿沢が渡辺をアジア・太平洋地区予選のメンバーに選んだのである。
しかし、渡辺はこの要請を断るつもりでいた。
もうラグビーからは足を洗ったのだ。
これ以上ラグビーに関わっていては、新しい職場のダスキンにも迷惑をかけるかも知れない。


ところが、渡辺引退を惜しむ新聞記事が出たとき、たまたまそれを読んだダスキン上層部がビックリ仰天した。
まさか今度入社した渡辺なる人物が、そんなに凄いラグビー選手とは夢にも思わなかったのである。
ダスキンは渡辺にジャパンへの参加を認めた。
巡り会わせが悪かった男が、最後の最後でチャンスを得た。


こんなとき、「ラグビーの神様が渡辺にキャップを与えた」などと言う人がいる。
表現としては面白いが、僕はそういう考え方は大嫌いだ。
ラグビーをしているのはあくまでも人間である。
もちろん、これはラグビーに限らずあらゆるスポーツについても同様だ。


巡り合わせの悪かった渡辺に、キャップを与えたのは神様ではなく、本人の努力による賜物だ。
そして、西サモア戦を前にW杯出場を決めたジャパンのメンバーがいなければ、渡辺の初キャップはなかったかも知れない。
つまり、渡辺本人とジャパンのチームメイトが、渡辺の初キャップを演出したのだ。
僕はそう思っている。


渡辺は西サモア戦を初キャップ及びラストゲームとして、正式にラグビー界から引退した。


(つづく)