大阪・鶴浜で家具量販店がガチンコ対決!?
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第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。
ヨーロッパで行われているラグビーのシックス・ネーションズ(6ヵ国対抗)のイングランド×イタリアで、物議を醸すプレーがあった。
イタリアの戦法がオフサイドではないか?と議論を呼んだのである。
上の映像を見ると、タックルが成立した時点で、イタリア(青)の選手が明らかに前でプレーしているのがわかる。
普通なら、誰もがオフサイドと思うのだが、レフリーはオフサイドの反則を取らない。
日本代表のヘッドコーチとして2015年のワールドカップでは南アフリカ(スプリングボクス)を破るなど、3勝1敗の好成績を残してその手腕を発揮し、現在はイングランド代表のヘッドコーチを務めるエディ・ジョーンズは「あんなのはラグビーではない」と痛烈に批判した。
だがこれは、レフリーの判定通り、決してオフサイドではない。
なぜなら、タックルが成立した時点で、イタリアの選手は絡んでいないからだ。
つまり、タックルは成立したが、ラックは形成されていないのである。
そのため、レフリーは再三にわたって「タックル・オンリー!」と叫んでいる。
ラックとは、敵と味方の1人ずつが絡んで、初めて形成される。
この場合、タックルが成立してもイタリア(青)の選手は絡まずに、イングランド(白)の選手だけが集まっているので、ラックとは認められないのだ。
ラックが形成されていない以上、オフサイドラインは発生しないのである。
ラック(モールもそうだが)におけるオフサイドラインとは2本あり、ラックに参加しているそれぞれのチームの最後方にいるプレーヤーの足がオフサイドラインとなる。
つまり、敵と味方の双方に、それぞれのオフサイドラインがあるわけだ。
ちなみに、ラックやモールに参加しているプレーヤーには、オフサイドラインは存在しない。
この写真ではラックが形成されているので、水色の16番の選手がプレーに参加すればオフサイドの反則となる
ところが、ラック(モールもそうだが)が形成されなければ、オフサイドラインは発生しない。
上の映像のイングランド×イタリアの場合、ラックは形成されずに、単にタックルが成立しただけなので、前にいるイタリア(青)の選手はオフサイドにはならないのである。
ただし、前にいるイタリア(青)の選手が「タックルの地点(タックル・ボックス)」に働きかければオフ・ザ・ゲートという反則になる。
オフサイドとオフ・ザ・ゲートとの違いについては、下記を参照されたい。
イタリア(青)の選手は、タックルが成立しても、明らかにボールには絡んでいない。
おそらく、これは意図したプレーだろう。
そして、選手を前に出して、イングランド(白)の選手がパスアウトをする瞬間を狙ってタックル、あるいはインターセプトを狙っていると思われる。
多分、ルールを熟知して編み出した戦法に違いない。
だが「これがラグビーか?」と問われれば、その通り。
あまり褒められた戦法とは言えない。
法の穴をかいくぐった、マフィアのような戦術とも思える(イタリアだけにね)。
そもそも「タックルの地点(タックル・ボックス)」という概念が登場したのは西暦2000年という、比較的新しいルールだ。
そのため、このような戦法が頻発するならば、ルール改正の引き金となる可能性もあるだろう。
ただ、この戦術にも弱点はある。
タックルの地点よりも前方に選手を置くことによって、後ろのディフェンスが弱くなるからだ。
大抵の場合、タックルが成立すると攻撃側はラックを想定するため、防御側はイタリア(青)のようなディフェンス方法を編み出したのだが、逆に攻撃側はそのディフェンスを見越して、パスアウトせずにそのまま前方へ突進するという戦法もある。
しかし、イタリア(青)もそのあたりは想定してか、タックルの地点に多くの人数をかけ、突破を防ぐようにしている。
今後、ルール改正となるか、あるいは攻撃側が新たな戦術を生み出すのかはわからない。
ただ、自陣ゴール前での相手ボールのラインアウトで、わざとモールには加わらずに(つまり、モールは形成されない)、相手のアクシデンタル・オフサイドを誘うような戦術は「セコいなあ」と感じてしまう。
このあたりはルールの不備と言われても仕方がないが、上記のラック(にはならないプレー)も含めて、ルール改正の議論にはなりそうだ。
たとえば、以前はスクラムから出たボールをスクラムハーフがパス・ダミー(パスを放るふりをすること)して、相手のオフサイドを誘うようなプレーがあったが、現在では反則となっている。
要するに、ラグビーでは相手を欺くようなプレーは忌避されているのだ。
そう考えると、今回のイタリアのような戦法をさせないようなルールが生み出されるかも知れない。
前回からの続き。
1995年度のシーズン前、平尾は同志社大学の同期で、ライバルであるサントリー(現:サントリー・サンゴリアス)の土田雅人に相談を受けていた。
震災直後に、土田は平尾に会うためにわざわざ東京から大阪にやって来たのだ。
「俺は今、サントリーからヘッドコーチ就任の打診を受けとる。お前の返事で受諾するかどうか決めたい。キャプテンは誰にしたらええと思う?」
「お前、敵に何を相談しとんねん」
平尾は苦笑しながらも答えた。
「でもまあ、永友(洋司)がええんとちゃうか」
すると、東京に帰った土田はヘッドコーチ就任を受諾し、本当に入社3年目の永友をキャプテンにしてしまった。
「おいおい、ホンマにええんかいな」
平尾は土田の決断に驚いた。
そして、平尾の助言が日本ラグビー界を変えることになる。
第3回ワールドカップでは、日本代表は3戦全敗、しかもニュージーランド(オールブラックス)には17-145という大敗を喫した。
さらに、この大会を機にラグビー・ユニオンは、それまで守り続けてきたアマチュアリズムを撤廃、プロ化容認の方向に進んだのである。
ラグビー先進国のレベルアップが加速することは、火を見るよりも明らかだった。
日本ラグビー協会も、社会人大会をそれまでのノックアウト式トーナメントをやめ、予選プールを採り入れたワールドカップ方式に改めたのである。
阪神・淡路大震災によりチーム作りが遅れたものの関西リーグを制し、予選プールも勝ち抜いた神戸製鋼(現:神戸製鋼コベルコ・スティーラーズ)は、決勝トーナメントの準々決勝でサントリーと対戦した。
試合は一進一退の好ゲームとなり、神鋼が3点リードのまま後半ロスタイムを迎えた。
そのまま逃げ切れば準決勝進出だが、神鋼は自陣で痛い反則を犯してしまう。
ペナルティ・ゴール(PG)を狙うのは、新キャプテンに就任したSHの永友。
永友は正面からのPGを難なく決め、同点で試合終了。
トライ数の差で、サントリーが準決勝進出を決めたのである。
神鋼の8連覇が途絶えた瞬間だった。
平尾は、敵に塩を贈った形になる。
サントリーは社会人大会を勝ち抜き、さらに日本選手権も制した。
そして平尾は、1997-88年のシーズンをもって引退することとなる。
1997年2月、平尾は日本代表監督に就任した。
弱冠34歳、史上最年少の日本代表監督である。
平尾は代表強化を目的として「平尾プロジェクト」を発足、ラグビーのみならず他のスポーツからも人材を募った。
そして同年のパシフィック・リム選手権ではカナダに歴史的な逆転勝ち。
1998年、日本代表として初の外国人主将としてアンドリュー・マコーミックを指名、さらなる強化を図った。
そして強豪のアルゼンチン(ロス・プーマス)に快勝、さらにアジア予選も突破して1999年に行われる第4回ワールドカップ出場も決める。
1999年のワールドカップ・イヤーではパシフィック・リム選手権で優勝、平尾ジャパンに対する期待が否が応でも上がる。
しかし、現状のままではワールドカップで勝てないと平尾は判断、オールブラックス出身の外国人選手を多く起用した(当時の規約では、他国の代表経験者でも条件さえ満たせば代表選手になれた)。
そのため、海外メディアからは「チェリー・ブラックス」などと揶揄され、さらに本戦でも日本らしいプレーを見せられずに3戦全敗でワールドカップを終えたのである。
ワールドカップが行われたウェールズの風は、平尾ジャパンにとって厳しいものとなった。
さらに、翌2000年のシーズンでは、パシフィック・リム選手権で全敗の最下位。
テストマッチでも負け続け、平尾は遂に辞任へと追い込まれたのである。
平尾は代表監督として、残念ながら結果を残すことはできなかった。
その後の平尾は、日本代表や神鋼を裏から支える存在となった。
しかし2016年10月20日、志半ばの53歳という若さで、平尾はこの世を去ったのである。
平尾の現役時代から指導者に至る時期は、ちょうど世界のラグビー界にとっても大きな転換期だった。
日本代表としてプレーした頃の1987年には、ラグビー・ユニオンとして初めてのワールドカップ開催。
日本代表が大惨敗した1995年のワールドカップを境に、ラグビー・ユニオンはプロ化容認。
プロ化が遅れた日本は、世界に大きく水を開けられることになった。
そんな状態で平尾は、代表監督を任されたのである。
そして、平尾のキャプテン時代に日本代表の監督だった宿沢広朗も若くして亡くなった。
平尾や宿沢が日本代表の中枢として活躍していれば、日本代表の姿も今とは違った形になっていたかも知れない。
それでも日本代表は2015年のワールドカップで、南アフリカ(スプリングボクス)を破るなど3勝1敗の好成績を挙げた。
この大会を、平尾が見届けることができたのがせめてもの救いだ。
そして2019年は、いよいよ日本でワールドカップが行われる。
平尾には、やはりこの時まで生きていて欲しかった。
高校時代の恩師である山口良治は、こう語る。
「賢い子やったけど、俺を置いて先に逝くなんて、最後にこんな間違いを犯すとは……」。
-完-
【参考文献】
「知のスピードが壁を破る」平尾誠二(PHP)
「ラガーメン列伝」末冨鞆音・編(文春文庫)
「勇気の中に」大八木淳史(アリス館)
「楕円球の詩」林敏之(ベースボール・マガジン社)
「奇跡への疾走」イアン・ウィリアムス(講談社)
「戦闘集団の心理学」大西一平(クレスト社)
「PLAY ON!日本ラグビーのゆくえ」日本ラグビー狂会(双葉社)
「ラグビーワールド」(ワールド出版)
「Number」(文藝春秋社)
-文中敬称略-