ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

甲子園球児の「食う寝る所に住む所」

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阪神甲子園球場で行われている第99回全国高等学校野球選手権大会もたけなわである。

日本全国から甲子園に集まってきた高校球児たちが、日本一を目指して戦っているわけだ。

 

当然、遠くからやって来た球児が自宅から甲子園に通う、なんてことはできない。

全ての高校球児たちは、甲子園の近くにある宿舎に寝泊まりしているわけである。

現在発売中の「Number933号(文藝春秋社)」では、それに関する記事が掲載されているので、興味がある人は読んでみるといい。

 

球児たちが利用する宿舎は、当然のことながら甲子園球場がある兵庫県西宮市を中心に、神戸市や宝塚市、大阪空港がある伊丹市辺りに集中している。

もちろん、兵庫県に近い大阪市や、大阪府豊中市池田市吹田市守口市などに泊まる高校も多い。

甲子園から一番遠い所にあるのは大阪府堺市で、南海本線堺駅に直結するホテル・アゴーラリージェンシー堺に泊まる高校もあって、「あんな高級ホテルに高校球児が泊まるのかよ」と驚いたものだ。

 

現在、多少の例外はあるが、各都道府県代表の宿泊施設は日本高等学校野球連盟高野連)によって決められている。

前述の「Number」にも書かれているが、以前はそういう取り決めもなく、地方大会の段階で上位進出した高校は、宿の確保に苦労したという。

なにしろ夏休み、しかもお盆の季節が重なるので、部屋が空いている宿舎があるとは限らない。

しかも、地方大会で敗れてしまえばキャンセルしなければならないのだ。

さらに、初戦敗退ならすぐに宿を引き払うことになるが、勝ち進んだ時に備えてその分の部屋を確保しておかなければならない。

宿にとっては、お盆の時期の書き入れ時に部屋を確保しておきながら、早々と敗退されては商売上がったりになるのだ。

そういう問題も鑑みて、高野連が間に入って確実に宿を確保できるようにしたという。

 

そのあたりの事情を利用したのが、漫画家の水島新司

甲子園の時期になると、水島新司は初戦敗退した高校の宿に飛び込みで部屋を確保するのだ。

当然、部屋が空いているのは計算済みである。

そのため、甲子園周辺の宿をわざわざ予約する必要はない。

高校野球には興味がなくても、たとえば春休みや夏休みにUSJなどへ遊びに行きたい人は、大阪のホテルが満室でもこの手を使えるだろう。

 

水島新司が描いた漫画「ドカベン」では、主人公の山田太郎が通う明訓高校と、ライバル校である土佐丸高校が甲子園では一緒の宿舎になっていた。

ライバル校同士が同じ宿舎に寝泊まりしながら、お互いの動きを牽制し合っていたのが、この漫画の大きな魅力となっていたのである。

もっとも、この頃にはまだ「この県の代表校はこの宿舎」という取り決めはなかった。

 

桑田真澄清原和博などが甲子園で大活躍していた1980年代、PL学園が甲子園に出場した時には、PLでは宿舎を取らずに大阪府富田林市にある野球部寮から甲子園に通っていた。

富田林は堺よりも遥かに甲子園から遠かったのだが、それでも野球部寮から通うメリットの方が大きかったのである。

寮に住んでいると普段と変わらない生活ができるのだから、いつもと同じような実力を発揮しやすい。

しかも、グラウンドは目の前にあるのだから、普段と同じ練習はいつでもできる。

他の高校は、高野連からあてがわれたグラウンドで練習できるものの、自由に時間を選択できるわけではない。

つまり、甲子園入りすることによって、いつものリズムが狂ってしまうのだ。

その点、PLは普段と同じリズムで野球ができる。

もっとも、他校のように修学旅行的な気分を味わうことが出来ず、いつもと同じ単調な生活で選手たちには退屈だっただろうが……。

 

上宮も富田林市の隣りにある太子町に野球部寮があって、甲子園に出場してもそこから甲子園に通っていた。

理由はPLと同じである。

ただし、現在ではそういう特例は認められず、PLや上宮(上宮太子も)は大阪代表校が宿泊する大阪市内のホテルに泊まるようになった。

 

このように、宿泊施設によって不公平が生じたり、あるいは宿泊料が高騰することを懸念して、オリンピックのような選手村を造ればいいのではないか、という機運が高まったことがあった。

それが、1985年にオープンした西宮市の兵庫県立総合体育館、通称「球児村」である。

 

兵庫県立総合体育館は阪神タイガース二軍の本拠地である阪神鳴尾浜球場の隣りにあり(当時はまだ鳴尾浜球場はなかったが、近くに高野連指定の練習用球場があった)、甲子園へは車で約10分と実に便利な場所に立地している。

そして何よりも料金がリーズナブル、他のホテルや旅館に比べて半分程度の料金で宿泊できたのだ。

さらに、体育館だけあって投球練習やティー打撃程度なら可能、そして有料ながら器具が揃ったトレーニング施設も充実していたのである。

甲子園出場校にとって、これほど有り難い施設はあるまい。

事実、「球児村」がオープンした当初は、春夏問わずに1大会5校程度の学校が兵庫県立総合体育館を宿泊施設として利用していたのだ。

 

しかし、現在ではこの「球児村」を利用している高校はない。

いつの間にか、兵庫県立総合体育館は「球児村」としての機能を失ったのだ。

その理由はよくわからない。

ただ、甲子園周辺の宿泊施設から「球児村」の設立に反対があったのは事実である。

いくら先の読めない甲子園球児の受け入れとはいえ、ホテルや旅館にとっては有り難い団体客であり、しかも宣伝にもなる。

それに兵庫県立総合体育館も、49校もの甲子園球児を宿泊させるのは困難だったのだろう。

 

そして、何よりも大きかったのは「球児村」が球児にとって不評だったということだ。

選手が泊まる部屋は、僅か8畳に2段ベッドが3つも並ぶ6人部屋。

まさしく、ベッド以外は何もないわけで、試合や練習で疲れて帰って来ても、くつろげる空間は全くない。

部屋にはテレビもなく、さらに「寝るだけの部屋」にもかかわらず、消灯時間になるとエアコンまで切られてしまうので、暑苦しくて寝られたもんじゃない。

大広間でくつろいだり、涼しい部屋で安眠できるホテルや旅館とは大違いだ。

 

それ以上に大きかったのが、食事面での不満。

食事は全てセルフサービス、5校もいるので(当時では75人)お盆を持って長い時間を並ばなければならない。

その間に料理は冷えてしまい、しかも味気ないオカズばかり。

1人当たりの食事量は決められているので、食欲旺盛な球児たちにはとても物足りない。

他校の選手たちは、ホテルや旅館側も採算を度外視してステーキだスキヤキだと豪勢な料理をふるまうので、そんな話を聞くたびに「羨ましい。なんで俺たちは甲子園まで来て、こんな不味い物を食わなきゃいけないんだ」と気持ちが萎えてしまう。

 

こういうこともあったせいか、「球児村」は僅か数年でその幕を閉じることとなってしまった。

ヒマワリ at 馬見丘陵公園

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奈良県の北西部、河合町と広陵町に跨る地域に馬見(うまみ)丘陵公園がある。

2つの町に跨っているだけあって、実に広大な公園だ。

広い公園内には奈良らしく古墳などの見所があるが、多くの人々を惹き付けるのはなんといっても彩り鮮やかな植物だろう。

過去にも何度か馬見丘陵公園について書いたことがある。

 

aigawa2007.hatenablog.com

 

www.bus-sagasu.com

 

今の季節は夏。

夏といえば、なんといってもヒマワリだろう。

馬見丘陵公園でも7月29日から8月6日まで「馬見ひまわりウィーク」が開催されている。

では、夏の馬見丘陵公園を紹介しよう。

 

馬見丘陵公園は緑道エリア、北エリア、中央エリア、南エリアと分かれているが、今回の馬見ひまわりウィークは北エリアが中心。

他のエリアにもヒマワリはあるが、やはり北エリアに行ってみよう。

 

北エリアの入口には花見茶屋があり、ここが出発点となる。

入るといきなりヒマワリがお出迎え。

……と思いきや、ヒマワリの中央部分から水が噴き出している!

よく見ると、ヒマワリの形をしたミスト・シャワーだった。

もちろん、昔懐かしのフラワーロックではない。

 

ヒマワリ型のミスト・シャワー

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ヒマワリのミスト・シャワーを浴びて、涼しくなってからヒマワリの散策開始!

花見茶屋の北側には集いの丘があり、ヒマワリ以外にも様々な植物が植えられている。

 

北エリアの入口近く、集いの丘

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集いの丘を北へ歩くとこんな感じ。黄色い花はルドベキア

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集いの丘の最北端にある大型テント。ここで暑さもしのげ、さらに景色も絶好

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集いの丘をぐるっと一周して、花見茶屋に戻ってきた。

花見茶屋の近く、彩りの広場(ダリア園)にはいよいよ真打ちのヒマワリが!

 

彩りの広場に咲く、小ぶりのヒマワリ

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見頃となったヒマワリ

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彩りの広場にもルドベキア

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では、彩りの広場から南下して中央エリアに行ってみよう。

小径を歩いてトンネルを抜けると、そこは中央エリアだ。

トンネルの中にはベンチがあって、日陰で休憩もできる。

 

北エリアと中央エリアを繋ぐトンネル。疲れたら、中のベンチに座って休もう

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中央エリアに入って、そこにあるのは花の道だ。

ここはバラ園となっているが、夏はやっぱりヒマワリ。

 

花の道に、一斉に咲くヒマワリ

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ヒマワリといえば、英語でいえばサンフラワー(Sunflower)。

つまり「太陽の花」だ。

そして、ヒマワリの都市伝説とも言えるのが「ヒマワリの花は、常に太陽に向かって咲いている」というもの。

つまり、ヒマワリの花は太陽の動きに合わせて自らも動く、というものだ。

しかし、それが迷信であることが実証された。

花の道のヒマワリは、太陽に背を向けていたのだ(てか、別に馬見丘陵ではなくても珍しくない光景だろうが)。

実際には、ヒマワリは成長期において太陽の動きに合わせるのだという。

 

太陽に対して、一斉に背を向けるヒマワリ(背が低い一輪だけ太陽に向かっている)

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花の道を抜けて、中央エリアの中心部にやって来た。

ここの芝生の丘でもヒマワリが植えられていた。

すぐ傍には冷房が効いた公園館があるので、疲れたらここで休もう。

館内には古代遺跡も展示されている。

 

芝生の丘のヒマワリ

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冷房が効いた公園館。古代遺跡の博物館にもなっている

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今回のご案内はここまで。

馬見丘陵公園にはまだまだ見るべきスポットがあるのだが、なにしろ広大すぎる。

季節ごとに見所があるので、それに合わせて行くべきポイントを絞るべきだろう。

 

奈良県営だけに入場無料、駐車場も各エリアごとに設置されており駐車無料と、実に訪れやすくなっている。

無料でこれだけの花を観賞できるのだから、相当なお値打ものだ。

 

中央エリアでも南エリアに近いカリヨンの丘

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公共交通機関利用の場合、最寄り駅は近鉄田原本線池部駅(大阪、京都、奈良方面から直通電車なし)だが、こちらが近いのは緑道エリアのみ。

最も便利なのは、近鉄大阪線五位堂駅大阪上本町駅から直通、快速急行停車)からバスに乗って、馬見丘陵公園バス停(中央エリアの入口)で下車するルートだろう。

 

なお、今年(2017年)の馬見ひまわりウィークは前述したように8月6日(日)まで。

土日には、北エリアの花見茶屋で「ちゃっぷちゃっぷ広場(子供用の浅いプール)」「馬見グルメガーデン」「大道芸パフォーマンス」といった催しがあるので、馬見丘陵公園で今年の夏を満喫してみてはいかが?

 

イベントが行われる北エリアの花見茶屋の周辺

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PL花火芸術2017

8月1日、大阪府富田林市で毎年恒例の教祖祭PL花火芸術が行われました。

今年はPL学園硬式野球部が休部となって初めてのPL花火。

「PL学園が甲子園に出場しなかった年は、硬式野球部員は花火後の清掃をしなければならない」

という噂がありますが、今年はそれも関係なくなりました。

非情に寂しいことです。

それでは気を取り直して、PL花火を写真でお楽しみください。

 

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ラストを飾る、夜空が昼間のように明るくなるド迫力の超特大スターマイン

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ラグビーマガジンにラグビー・リーグが載った!②

 

ラグビーマガジン 2017年 09 月号 [雑誌]

ラグビーマガジンベースボール・マガジン社)の2017年9月号の105ページに、筆者が書いた記事が掲載された。

内容は先日ネタランでも書いた、大阪・枚方市で行われたラグビー・リーグの試合である。

 

ラグビー・リーグ(以下、リーグ)といえば13人制のラグビーで(ただし、今回行われたのは9人制)、過去に何度か説明したとおり15人制(あるいは7人制)のラグビー・ユニオン(以下、ユニオン)とはルールが違う。

日本では「ラグビーといえばユニオン」と認識されているため、ラグビーマガジンでもリーグを取り上げることはほとんどない。

 

実は去年(2016年)、筆者が撮影したリーグでの試合の写真がラグビーマガジンに掲載されたが、この時は写真と短い説明文のみ。

しかし今回は、ガッツリ文章と写真も掲載された。

 

先月(6、7月)はユニオン日本代表のテストマッチと、スーパー・ラグビーでのサンウルブズ勝利試合があった中で、ラグビーマガジンにリーグの記事を書くという大胆不敵さ(笑)。

でも、今月号(9月号)にはこの両試合の詳報が載っているし、付録としてトップリーグの写真名鑑が付いているので、売れ行きも普段よりいいはず。

つまり、読者にとってリーグのことを知る機会が増える、ということだ。

 

これによって、リーグをプレーしたい!という人が出て来て、さらにリーグ日本代表「サムライズ」を目指す人が増えてくれれば、と思う。

今月号のラグマガ、ぜひ読んでいただきたい。

 

なお、リーグの試合の詳細はこちらを参照↓

 

aigawa2007.hatenablog.com

 

日本の県名クイズ~解答編&追試

先日、出題した日本の県名クイズの解答編である。

読み方現:都道府県名がそれぞれ5点、全20問の100点満点で自己採点してくれたまえ。

 

神戸

読み方=かんべ

現:都道府県名=三重県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、神戸藩が改称され神戸県が誕生。

しかし、同年の11月には神戸県を含め6県と合併して安濃津(あのつ)県となり、神戸県は僅か4ヵ月の命だった。

安濃津県は翌1872年(明治5年)4月に三重県と改称され、1876年(明治9年)4月に渡会(わたらい)県と合併して、三重県は現在の姿となる。

なお、神戸県は兵庫県神戸市とは全く関係がない。

 

宮谷

読み方=みやざく

現:都道府県名=千葉県、茨城県

明治維新まもない1868年(慶應4年)に府藩県三治制が施行、翌1869年(明治2年)2月に令制国安房(あわ)国・上総(かずさ)国・下総(しもうさ)国・常陸(ひたち)国の旧幕府領および旗本領だった部分を宮谷県として発足した。

1871年(明治4年)11月には安房国上総国の地域を木更津県(現在の千葉県)、下総国常陸国の部分を新治(にいはり)県(現在の千葉県と茨城県)に移管。

宮谷県は2年9ヵ月で消滅した。

 

足羽

読み方=あすわ

現:都道府県名=福井県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、福井藩福井県となる。

しかし、同年の12月に福井県足羽県と改称された。

ところが1873年(明治6年)1月、敦賀に合併され、足羽県の命も儚いものとなる。

その後、敦賀県は1876年(明治9年)8月にお隣りの石川県に合併されるなど不遇の時代を送り、1881年(明治14年)2月にようやく福井県として独立した。

もし足羽県がもう少し頑張っていれば、福井県は今ごろ足羽県という名称になっていたかも知れない。

 

厳原

読み方=いづはら

現:都道府県名=佐賀県長崎県

江戸時代は対馬府中藩と呼ばれ、対馬国および肥前国の一部を統括する藩だったが、明治維新になって1869年(明治2年)に行われた版籍奉還によって厳原藩と改称。

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、厳原藩厳原県となった。

しかし同年の9月には佐賀県と合併して伊万里となり、厳原県はたった2ヵ月の短命県となる。

この地域は⑧でも登場するが、実に紆余曲折の運命を辿った。

 

櫛羅

読み方=くじら

現:都道府県名=奈良県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、櫛羅藩が改称され櫛羅県が誕生。

しかし同年11月、櫛羅県は奈良県に吸収されて、無駄に画数が多いのに4ヵ月でアッサリ消滅。

奈良県はその後、1876年(明治9年)4月には堺県に編入されて姿を消す。

1881年(明治14年)2月には大阪府の管轄となるなど苦難の道を歩み、ようやく奈良県として再び独立したのは1887年(明治20年)4月のこと。

なお、櫛羅県は海なし県なのになぜ「くじら」なのかは不明。

 

生実

読み方=おゆみ

現:都道府県名=千葉県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、生実藩が改称され生実県が誕生。

しかし同年11月、生実県は印旛県に編入、例によって4ヵ月で消え去った。

1873年(明治6年)2月に印旛県は木更津県と合併して千葉県となり、現在の原型が出来上がった。

 

磐前

読み方=いわさき

現:都道府県名=福島県宮城県茨城県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって誕生した6県が合併して、同年11月に平県が発足、その後まもなく磐前県と改称された。

1876年(明治9年)4月には宮城県の一部が磐前県に編入。

同年8月に磐前県は福島県や若松県と合併、現在の福島県とほぼ同じ形になる。

その際、宮城県から編入された地域は宮城県に戻され、磐前県南部の一部は茨城県に移管した。

 

三潴

読み方=みずま

現:都道府県名=福岡県、佐賀県長崎県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって誕生した久留米県、三池県、柳川県が合併して、同年11月に三潴県が発足。

1876年(明治9年)4月には佐賀県を吸収合併、佐賀県は消滅した。

同年8月、三潴県の旧・佐賀県部分は長崎県に編入され、残りは福岡県に併合されて、三潴県はその役目を終える。

なお、長崎県から分離して佐賀県が復活したのは1883年(明治16年)5月のこと。

薩長土肥の一角を担う佐賀県がこれだけ冷遇されたのは、薩摩の鹿児島県と共に政府から難治県とマークされ、さらに1874年(明治7年)に勃発した佐賀の乱が原因と言われている。

 

母里

読み方=もり

現:都道府県名=島根県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、母里藩が改称され母里県が誕生。

同年11月、母里県は松江県、広瀬県、浜田県の一部(隠岐国)と合併して島根県となり、母里県は姿を消した。

ちなみにその後、島根県は浜田県だけでなく鳥取県をも併合するなど大県となり、鳥取県と分離して現在の姿になったのは1881年(明治14年)9月のこと。

なお、母里藩は江戸中期まで、①と同じく神戸藩と呼ばれていた(読みも同じ)。

 

胆沢

読み方=いさわ

現:都道府県名=宮城県岩手県

1869年(明治2年)8月、陸前国陸中国にあった伊沢県および栗原県の一部区域に胆沢県を設置した。

戊辰戦争で敗れたこの地域は明治政府に没収されたため、廃藩置県より早い時期に県を発足させたのである。

1871年(明治4年)11月、胆沢県は一関県に統合され、2年強で消滅してしまう。

その後、一関県は水沢県磐井県などと改称し、やがて宮城県岩手県に分割編入された。

 

【総括】

上記の各設問を読んでとっくにお気付きだと思うが、明治政府により1871年(明治4年)7月に断行された廃藩置県では、江戸時代に存在した藩をそのまま全て県としたのだ。

これはもちろん、欧米列強に対抗する必要性から、強力な中央集権国家の建設が急がれたためである。

 

実は廃藩置県より前の1868年(慶應4年)、即ち明治政府が樹立した年に府藩県三治制が施行され、旧幕府の領地に3府(東京府京都府大阪府)41県が誕生していた。

そして3年後の廃藩置県により誕生した県を合わせると、実に3府302県が存在していたのだ。

現在の47都道府県と比べると約6.5倍である。

もしこの頃に生まれていたなら、地理の時間は県名を暗記するだけでも大変だっただろう(もっとも、当時の日本にはまだ学校制度はなかったが)。

さらに、当時にもし高校野球まであって1県1代表制だったら、305校が甲子園に集い、304試合も行っていたことになる。

 

しかし、廃藩置県では計画性もなく取り敢えず藩を県に置き換えただけなので、さすがにこれでは統制が取れず、4ヵ月後には3府72県と約1/4に激減、江戸時代までの行政区分だった令制国とほぼ同じ数となった。

これはもちろん、小さい県同士を合併させたためで、上記クイズでも多くの県が4ヵ月で消滅している。

75府県でも現在よりずっと多いが、統廃合がさらに進められて、1876年(明治9年)8月には3府35県と現在よりも少なくなってしまった。

38府県は約3年間続いたが、当時は交通網も発達しておらず、鉄道も東京周辺や大阪周辺に限られていたため、あまりに県域が広すぎると県庁への手続きなどで住民に大きな負担を強いることになったので、今度は県の分割が行われるようになった。

明治時代での、県の改編が終了したのは1888年(明治21年)で、3府43県と現在にほぼ近い形となったのである(北海道はまだ府県と同格ではなかった)。

 

さて、自己採点の結果はいかがだっただろうか。

もし全問正解の者がいたら、その人はバケモノである。

なお、予告したとおり、40点以下の赤点坊主追試を行う(てか、ほとんどの者が赤点だろう)。

 

追試

日出

伯太

置賜

菰野

飫肥

 

解答は写真の下に記載している(写真と答えは関係ない)。 

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【解答】

 日出

読み方=ひじ

現:都道府県名=大分県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、日出藩が改称され日出県が誕生。

同年11月、日出県を含む8県と合併して大分県となった。

 

伯太

読み方=はかた

現:都道府県名=大阪府

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、伯太藩が改称され伯太県が誕生。

同年11月、伯太県堺県に吸収されて4ヵ月で消滅した。

1881年(明治14年)2月、堺県は大阪府に編入される。

なお、現在でも大阪府和泉市には伯太町という地名があって、その近くには陸上自衛隊があり、自衛隊があるということは夜の街が(ry。

 

置賜

読み方=おきたま

現:都道府県名=山形県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、米沢藩が改称され米沢県が誕生。

同年11月、米沢県は置賜と改称した。

1876年(明治9年)8月、置賜県、山形県、鶴岡県が合併して、現在の山形県となる。

 

菰野

読み方=こもの

現:都道府県名=三重県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、菰野が改称され菰野が誕生。

しかし同年の11月、菰野県や①の神戸県を含め6県と合併して安濃津(あのつ)県となり、菰野県は僅か4ヵ月の命だった。

安濃津県は翌1872年(明治5年)4月に三重県と改称され、1876年(明治9年)4月に渡会(わたらい)県と合併して、三重県は現在の姿となる。

現在の三重県菰野町には菰野高校があり、甲子園にも何度か出場しているので、読み方は知っている人が多いかも知れない。

 

飫肥

読み方=おび

現:都道府県名=宮崎県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、飫肥藩が改称され飫肥が誕生。

同年11月、飫肥県は廃止され都城が発足した。

1873年(明治6年)1月、都城県は美々津(みみつ)県と合併して宮崎県となる。

しかし1876年(明治9年)8月、宮崎県は鹿児島県に吸収され、消滅してしまった。

⑧でも説明したとおり、旧・薩摩藩鹿児島県は明治政府から要注意県と警戒されており、鹿児島県による宮崎県併合もその一環だったが、翌1877年(明治10年)2月には明治政府が危惧したとおり西南戦争が勃発、旧・宮崎県地域も戦禍に巻き込まれてしまった。

宮崎県にとってはとんだトバッチリだったが、消滅から10年後の1883年(明治16年)5月9日に宮崎県はようやく独立を果たした。

実はこの日、富山県佐賀県も他県から分離・独立を果たしており(富山県は石川県から、佐賀県は⑧参照)、この3県にとって5月9日はインディペンデンス・デイである。

 

【自己採点】

では、読み方を10点、現:都道府県名を10点で自己採点してみよう。

100点満点中50点以上なら進級、40点以下なら留年とする。

日本の県名クイズ

以下の10県は、かつて日本に存在した県名である。

それぞれの県名の読み方と、現在はどの都道府県に所属しているか答えよ。

なお、現在の都道府県が複数に及ぶときは、1つだけ答えてそれが合っていれば正解とする。

点数は、読み方が5点、現:都道府県名が5点、計20問の100点満点。

 

神戸

宮谷

足羽

厳原

櫛羅

生実

磐前

三潴

母里

胆沢

 

100点満点中、40点(8問正解)以下は赤点として、赤点の者には後に追試を行う。

では、100点を目指して頑張ってくれたまえ。

 

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「ええで、ええで」の頑固な天才監督

2017年7月1日、プロ野球(NPB)の名監督として知られる上田利治が亡くなった。享年80歳だった。

阪急(オリックスブレーブス(現:オリックス・バファローズ)および日本ハム・ファイターズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)の監督を務め、通算勝利数は1322勝で歴代7位(2017年7月1日現在)、リーグ優勝5回、日本一3回という、紛れもない名将である。

 

◎1時間19分の猛抗議

上田監督といえば、真っ先に思い浮かぶのは1978年の日本シリーズだろう。

この年、4年連続日本一を目指した上田監督率いる阪急は、球団初のリーグ優勝を果たして初の日本一を狙うヤクルト・スワローズ(現:東京ヤクルト・スワローズ)と対戦、3勝3敗で最終の第7戦にもつれ込んだ。

ヤクルトの主管試合だったが、行われたのは読売ジャイアンツの本拠地だった後楽園球場。

このシリーズでは、ヤクルトの本拠地である明治神宮球場が東京六大学野球と日程が重なったため、ヤクルトはライバル球団のホーム・グラウンドを借りたのである。

当時はまだ、大学野球プロ野球よりも優先される、そんな時代だった(1992年はプロ野球が優先され神宮球場で初めて日本シリーズを行い、東京六大学ナイトゲームとなっている)。

 

さて、問題となったのが1-0とヤクルトのリードで迎えた6回裏のヤクルトの攻撃、四番打者の大杉勝男内野手が阪急の足立光宏投手からレフトのポール際へ大飛球を放つ。

レフト線審の富澤宏哉は右手をグルグル回し、ホームランとコールした。

三塁側ベンチから上田監督が飛び出し、「ポールの外側を通ったんやからファウルやないか!」と左翼のポール真下まで行って猛抗議。

当然、判定は覆らないが、上田監督は納得できない。

 

現在のようにビデオ判定も、「抗議は5分以内」というルールも無い時代である。

いたずらに時間だけが過ぎていき、金子鋭コミッショナーまでグラウンドに現れて上田監督を説得するなど、抗議は実に1時間19分にも及んだ。

テレビ局はもちろん、上田監督の自宅にもひっきりなしに抗議の電話がかかってきたという。

ところが、不思議なことにこの一戦の視聴率は平均45.6%、瞬間最高視聴率61.5%という日本シリーズ史上最高の数字を叩き出した(いずれも関東地区)。

当時、巨人戦以外では視聴率なんて稼げなかったのに、この高視聴率。

特に視聴率が高かったのは1時間19分という長い長い抗議の間で、その間は全くプレーは行われず、大のオッサンたちが数人固まって何やら話し込んでいる姿が映し出されていただけなのに、秋晴れの爽やかな日曜日の午後に日本国民の6割がテレビ画面に釘付けとなっていたのである。

面白いシーンだけが視聴率を稼ぐのではなく、止まっている画面でも事と場合によっては高視聴率になることが証明された。

結局、1時間19分後に大杉のホームランが認められて阪急は0-4で敗北、ヤクルトが初の日本一となって上田監督はシリーズ終了後に監督を辞任した。

 

1978年の日本シリーズ第7戦、上田監督による1時間19分の猛抗議

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◎非情のトレード通告

上田監督は日本シリーズのエピソードに事欠かない。

「1時間19分」の2年前、1976年の日本シリーズで上田阪急は第一次長嶋茂雄政権の巨人と対戦した。

 

巨人のV9時代、阪急は山田久志投手、加藤秀司内野手福本豊外野手という「3馬鹿トリオ」を揃える充実した布陣で5回も巨人にぶつかったが、いつも厚い壁に跳ね返されてきた。

上田が阪急の監督になって2年目、即ち前年の1975年には古巣の広島東洋カープに4勝0敗2分で勝って阪急は初の日本一となったが、上田監督にとっても阪急ナインにとっても「巨人を破ってこそ真の日本一」という意識が強かったのである。

このシリーズ前、上田監督は後楽園球場にメジャーを持ち込み、ホームからレフトのポールまでの距離を測り、「フェンスには90Mと書かれてるけど87メートルしかあらへん。インチキやがな」と言い放った。

この一言で、巨人コンプレックスを抱いていた阪急ナインも、巨人を上から見下す上田監督の姿を見て「巨人は恐るるに足らず」とリラックスし、シリーズ開幕3連勝に繋がったという。

阪急はシーズン中も後楽園球場で試合をしており(当時は日本ハムの本拠地でもあった)、上田監督はこのことを知っていたのだろう。

ただし2年後、90Mと書かれたレフト・フェンスのポール際で、1時間19分も大揉めに揉めることまではわからなかっただろうが……。

 

シリーズは阪急が3連勝した後に3連敗、最終の第7戦にもつれ込んだ。

勢いから言って巨人有利と思われていたが、2-1と巨人リードで迎えた7回表の阪急の攻撃、森本潔内野手クライド・ライト投手から「狭い後楽園」のレフトへ逆転2ランを放ち、これが決勝点となり阪急は4-2で勝って4勝3敗と巨人を初めて破り、2年連続日本一となったのである。

ベンチの上田監督は日本一が決まった時ではなく、森本が逆転ホームランを放った時に涙が出そうになった。

それは巨人に勝てそうだったから、ではない。

嬉しさと寂しさと辛さが入り混じった感情に捉われていたのである。

 

試合終了後、恒例のビールかけも終わり、酒豪の多い阪急ナインは喜び勇んで銀座へ繰り出し、朝までドンチャン騒ぎした。

しかし上田監督はホテルに残り、独りで一晩を過ごす。

気持ちの整理をつけるためである。

上田にはまだ、やらなくてはならない大仕事が残っていた。

それは日本一になったばかりの上田にとっても、気の重い仕事だった。

 

翌朝6時頃、上田監督が眠る部屋のドアをドンドン叩く者がいた。

どうせ酔っぱらったナインのイタズラだろうと上田監督がドアを開けると、そこ立っていたのは顔見知りのスポーツ新聞記者。

その記者はいきなり質問をぶつける。

「上田さん、森本の中日へのトレードは本当ですか!?」

 

トレードは、シーズンが終わってから検討しても遅い。

大抵はシーズン中に水面下で話し合われる。

中日ドラゴンズ与那嶺要監督から阪急に戸田善紀投手が欲しいとの申し入れがあり、上田監督は見返りとして中日の強打者である島谷金二内野手を要求した。

両チームの天秤を合わせるためにトレード話は両球団の間でドンドン膨らみ、遂に4対3という大型トレードにまで発展した。

阪急側の4人の中に、森本の名前が入っていたのである。

結局この大型トレードは、日本シリーズ前に阪急と中日との間で合意に達した。

その情報を、かの記者が中日側から嗅ぎ付けたのだ。

 

「頼む、ワシが本人に通告するまで、記事にはせんといてくれ!」

上田監督は記者に頭を下げた。

今頃、森本は銀座で呑み疲れて、日本一の嬉しさを噛みしめながらいい夢心地になっていることだろう。

なにしろ巨人相手の日本シリーズ終戦で、日本一を決めるホームランを放ったのだ。

ダイヤモンドを一周し、ナインから手荒な祝福を受ける森本の姿を見て、上田監督は嬉しさと辛さが入り混じる複雑な気持ちになり、涙を必死にこらえていたのである。

そんな森本に、冷水を浴びせるようなことはしたくない。

記者も、普段は頑固な上田監督の熱意に負けて、せっかくのスクープを記事にはしなかった。

後日、上田監督は森本らにトレードを通告した。

「中日に行っても、新しい道で頑張ります」

森本は「潔」という名前の通り、潔く答えた。

 

とはいえ、日本一を決めたばかりの阪急による4人の選手の大放出に(中日相手以外を含めると7人)、阪急ナインも世間も騒然となったのである。

上田監督は、たとえ優勝しても最強軍団を作るためには血の入れ替えが必要と考えていたのだ。

 

余談だが、大豊作ドラフトと言われた1968年組で、阪急には山田、加藤秀、福本がおり、後に「史上最高のショート守備」の呼び声高い「いの一番指名」の大橋穣東映フライヤーズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)から加入、さらに島谷と稲葉光雄が森本らとのトレードで1977年に入団して、1968年組が6人も阪急に集結した(ただし稲葉はこの年のドラフトで広島に指名されたが、入団拒否している)。

ちなみに、1968年のドラフトでは入団拒否されたものの阪急は門田博光を指名しており、もし門田も入団していたら7人もの凄いメンバーが揃っていたいたことになる。

 

1976年の日本シリーズ第7戦 巨人×阪急(後楽園球場)

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◎実績のない名監督

日本プロ野球の監督とメジャー・リーグ(MLB)の監督では、どこが違うか?

野球に詳しいファンなら、誰もがこう答えるだろう。

「日本ではスター選手がそのまま監督になるが、メジャーでは選手としての実績が無くてもマイナー・リーグで指導者としての手腕を認められた人物だけが監督になれる」

と。

 

話は変わるが、野球の監督についてよく言われるのが「他のスポーツでは、監督はユニフォームを着ないのに、野球だけが監督も選手と同じユニフォームを着る」ということだ。

普通のスポーツでは、監督はスーツかジャージ姿だが、野球ではユニフォームを着ているだけではなく、選手と同じようにちゃんと背番号まで付けている(高校野球には監督の背番号はないが)。

そもそも、日本では野球に限らずどんなスポーツでもチームのボスのことを「監督」と呼ぶが、アメリカでは普通のスポーツは「ヘッドコーチ」と呼ぶのが一般的なのに、野球はなぜか「フィールド・マネージャー(あるいは単にマネージャー)」と呼ばれる。

つまり、英語においても野球の監督はちょっと特殊なわけだ。

 

その理由として、有力なのが「野球の監督は元々、選手兼任(いわゆるプレーイング・マネージャー)だった」という説だ。

つまり、野球における監督とは専門職ではなかった、ということか。

要するに他のスポーツでの監督とは、最も偉いコーチ(ヘッドコーチ)が務める専門職だったのだろう。

それがやがて野球でも監督は専門職となり、フィールド・マネージャーというポストとなったが、選手と同じようにユニフォームを着るという風習は残った、ということだ。

ちなみに、公認野球規則ではユニフォーム着用を義務付けているのは選手だけで、監督はユニフォームを着る必要はないのである(実際に昔のMLBではスーツ姿の監督もいた)。

 

MLBでは、1985~86年までシンシナティ・レッズピート・ローズが選手兼監督を務め、それ以降はMLBに選手兼監督は存在しない。

だが日本では、つい最近の2014年から2年間、中日の谷繁元信が選手兼監督になるなど、未だに前近代的な監督人事がある。

選手兼任監督は日本でも特殊としても、スター選手がそのまま監督になる傾向は相変わらず。

巨人の高橋由伸監督は引退即監督、阪神タイガース金本知憲監督は二軍監督のみならずコーチ経験すらなく監督に就任しているが、日本では珍しいことではない。

いいか悪いかは別にして、日本では現在でも二軍監督やコーチ経験のない者が一軍の監督に就任することがよくあるのだ。

MLBでは選手としての実績に関係なく、マイナー・リーグで監督やコーチを務め、その手腕を認められた者のみメジャー・リーグでの監督に抜擢されるのが通例になっている。

したがって、MLBでは選手として全く無名でも、メジャー・リーグの監督に就任することは珍しくない。

 

で、ようやく上田監督の話に戻るのだが、上田監督の場合は日本では珍しいMLB型の監督である。

つまり、選手としての実績がほとんどないのだ。

大学卒業後、広島カープ(現:広島東洋カープ)に捕手として入団するも、僅か3年で現役引退。

通算成績は121試合出場、打率.218、2本塁打

選手としては、成功したとはとても言えない。

普通なら、この程度の成績では野球界からキッパリ足を洗って第二の人生を歩むか、運良く球界に残れたとしても裏方さんになるのがせいぜいだろう。

ところが上田には、弱冠25歳にして史上最年少となるコーチ要請があったのだ。

これで上田の人生は大きく変わる。

上田はまだ若かったし、野球界でなくても一般社会人として充分に活躍できるだけの人物だったのだが、その件については後に述べよう。

 

二軍から始まった上田のコーチ人生だったが、翌年には早くも一軍コーチに昇格。

二軍で1年、一軍で7年間、広島でコーチを務めていた上田だったが、その姿を見ていた人物がいた。

野球の話を始めると「やめられない、止まらない」ので「かっぱえびせん」の異名を持つ山内一弘である。

山内は選手生活の晩年を広島でプレーし、年下コーチの上田と共に過ごした。

選手としての実績のない上田が、年長者の選手に向かってズケズケ注文をつける姿を山内は見て、指導者としての資質を見出したのだ。

 

しかし1969年のシーズン終了後、上田は広島を退団した。

原因は、根本陸夫監督との対立である。

根本といえば後に「球界の寝業師」と呼ばれた男。

10歳以上も歳が離れた辣腕監督に、まだ選手として働いていてもおかしくない32歳の若造コーチが盾突いたのだ。

しかも、何度も言うように上田には選手としての実績は全くと言っていいほどない。

後の1時間19分抗議からわかるように、上田は相手が誰であろうと自説を曲げない性格だったのである。

 

上田は1年間、中国放送で解説者を務めた後、山内の推薦を受けて阪急にコーチとして入団する。

ここで、上田は名将・西本幸雄監督と出会ったのだ。

上田はヘッドコーチとして西本監督を補佐しながら、監督業のエッセンスをしっかり吸収した。

1974年、西本監督がライバル球団の近鉄バファローズ(現:オリックス・バファローズに吸収合併)に引き抜かれると、上田は内部昇格の形で阪急の監督に就任。

選手として実績のない上田が、37歳の若さで一軍監督に登り詰めたのだ。

二軍監督の経験がないとはいえ、10年以上のコーチ業にプラスして一軍のヘッドコーチ経験をみっちり積んだのだから、MLBに近い人事と言えるだろう。

 

1975年、監督として2年目の上田阪急は、当時は2シーズン制だったパシフィック・リーグの前期優勝を果たし、プレーオフでは後期優勝の西本近鉄を破り、恩師に恩返しをした形でパ・リーグ制覇を果たした。

その年には日本シリーズで古巣の広島を破って、西本監督が成し得なかった阪急初の日本一に導き、翌76年は西本阪急が果たせなかった打倒・巨人を達成した。

そして上田監督はリーグ4連覇、3年連続日本一と阪急黄金時代を築いたのである。

「名選手、必ずしも名監督ならず」という言葉があるが、上田監督は「名監督は名選手とは限らない」ことを証明したのだ。

 

◎伝説の398点

時計の針をさらに戻して、上田監督のルーツを探ってみよう。

上田は徳島県立海南高校から関西大学へ進学した。

この時の入学試験が、半ば伝説になっている。

上田が入試で獲得した点数は、

「400満点中、398点」

というものだ。

もちろん全受験生の中で断然トップ、正解率は実に99.5%である。

といっても、これには少々カラクリがあって、上田は野球部のスポーツ推薦があったため、100点を上乗せした点数だった。

つまり、実際は400満点中298点ということである。

しかし、100点の下駄を履かせなくても驚異的な点数であることには変わりなく、298点でも約75%の正解率だったのだ。

もし上田があと3点取っていれば、400満点中401点という、実に奇妙なことになる。

 

今でこそスポーツ推薦といえどもある程度の点数を稼がなければならないが、当時の野球部推薦といえば試験用紙にダルマの絵を描いただけで合格、なんていう時代。

ダルマの絵というのはオーバーとしても、野球部推薦Aランクの者は白紙答案でさえなければ合格だったのは事実のようで、上田と同世代の長嶋が立教大学を受験した時、野球部監督の砂押邦信に「白紙答案だけは提出するな。もし答えがわからなければ自分の住所、本籍、出身地、両親や兄弟の名前を漢字で書いておけ」と言われたという。

そんな時代に「アホな野球部員」がガチで298点とは、試験問題が漏洩しているのではないか、と関大の教授会で問題となった。

さっそく教授会は野球部のマネージャーを呼び出したが、マネージャーはこう答えた。

「上田は野球部主将を務めながら生徒会長もこなし、睡眠時間は3,4時間であとはずっと勉強していたから、実力で298点を取っても不思議ではないと思います」

この言葉で教授会も納得、上田の関大入学が認められて、野球部に入部した。

野球部では、後に阪神の大エースとなる村山実とバッテリーを組み、大学選手権を制して関西勢として初めて大学日本一の栄冠に輝いた。

 

なお、上田が入ったのは関大の法学部。

上田の叔父が徳島県弁護士会の副会長だったため、上田自身も弁護士を目指していたのだ。

そのため、プロ入りしてからも上田は六法全書を読みふけっていたという。

選手を引退した後、まだ若かったのだから、もしコーチ要請がなければ頑固な上田は弁護士を目指していたかも知れない。

仮に弁護士にはなれなかったとしても、上田の頭脳なら一般社会でもエリートとして出世街道を歩んでいただろう。

 

晩年の上田監督は、選手を褒める時に「ええで、ええで」を連発する好々爺というイメージだったが、実際には文武両道で名門大学にトップ入学を果たす天才的頭脳の持ち主であり、1時間19分の抗議も辞さない無類の頑固者だったのだ。

 

【文中敬称略】

 

2006年に撮影した阪急西宮球場の跡地。現在は大型商業施設の阪急西宮ガーデンズ

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