ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

日本の県名クイズ~解答編&追試

先日、出題した日本の県名クイズの解答編である。

読み方現:都道府県名がそれぞれ5点、全20問の100点満点で自己採点してくれたまえ。

 

神戸

読み方=かんべ

現:都道府県名=三重県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、神戸藩が改称され神戸県が誕生。

しかし、同年の11月には神戸県を含め6県と合併して安濃津(あのつ)県となり、神戸県は僅か4ヵ月の命だった。

安濃津県は翌1872年(明治5年)4月に三重県と改称され、1876年(明治9年)4月に渡会(わたらい)県と合併して、三重県は現在の姿となる。

なお、神戸県は兵庫県神戸市とは全く関係がない。

 

宮谷

読み方=みやざく

現:都道府県名=千葉県、茨城県

明治維新まもない1868年(慶應4年)に府藩県三治制が施行、翌1869年(明治2年)2月に令制国安房(あわ)国・上総(かずさ)国・下総(しもうさ)国・常陸(ひたち)国の旧幕府領および旗本領だった部分を宮谷県として発足した。

1871年(明治4年)11月には安房国上総国の地域を木更津県(現在の千葉県)、下総国常陸国の部分を新治(にいはり)県(現在の千葉県と茨城県)に移管。

宮谷県は2年9ヵ月で消滅した。

 

足羽

読み方=あすわ

現:都道府県名=福井県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、福井藩福井県となる。

しかし、同年の12月に福井県足羽県と改称された。

ところが1873年(明治6年)1月、敦賀に合併され、足羽県の命も儚いものとなる。

その後、敦賀県は1876年(明治9年)8月にお隣りの石川県に合併されるなど不遇の時代を送り、1881年(明治14年)2月にようやく福井県として独立した。

もし足羽県がもう少し頑張っていれば、福井県は今ごろ足羽県という名称になっていたかも知れない。

 

厳原

読み方=いづはら

現:都道府県名=佐賀県長崎県

江戸時代は対馬府中藩と呼ばれ、対馬国および肥前国の一部を統括する藩だったが、明治維新になって1869年(明治2年)に行われた版籍奉還によって厳原藩と改称。

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、厳原藩厳原県となった。

しかし同年の9月には佐賀県と合併して伊万里となり、厳原県はたった2ヵ月の短命県となる。

この地域は⑧でも登場するが、実に紆余曲折の運命を辿った。

 

櫛羅

読み方=くじら

現:都道府県名=奈良県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、櫛羅藩が改称され櫛羅県が誕生。

しかし同年11月、櫛羅県は奈良県に吸収されて、無駄に画数が多いのに4ヵ月でアッサリ消滅。

奈良県はその後、1876年(明治9年)4月には堺県に編入されて姿を消す。

1881年(明治14年)2月には大阪府の管轄となるなど苦難の道を歩み、ようやく奈良県として再び独立したのは1887年(明治20年)4月のこと。

なお、櫛羅県は海なし県なのになぜ「くじら」なのかは不明。

 

生実

読み方=おゆみ

現:都道府県名=千葉県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、生実藩が改称され生実県が誕生。

しかし同年11月、生実県は印旛県に編入、例によって4ヵ月で消え去った。

1873年(明治6年)2月に印旛県は木更津県と合併して千葉県となり、現在の原型が出来上がった。

 

磐前

読み方=いわさき

現:都道府県名=福島県宮城県茨城県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって誕生した6県が合併して、同年11月に平県が発足、その後まもなく磐前県と改称された。

1876年(明治9年)4月には宮城県の一部が磐前県に編入。

同年8月に磐前県は福島県や若松県と合併、現在の福島県とほぼ同じ形になる。

その際、宮城県から編入された地域は宮城県に戻され、磐前県南部の一部は茨城県に移管した。

 

三潴

読み方=みずま

現:都道府県名=福岡県、佐賀県長崎県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって誕生した久留米県、三池県、柳川県が合併して、同年11月に三潴県が発足。

1876年(明治9年)4月には佐賀県を吸収合併、佐賀県は消滅した。

同年8月、三潴県の旧・佐賀県部分は長崎県に編入され、残りは福岡県に併合されて、三潴県はその役目を終える。

なお、長崎県から分離して佐賀県が復活したのは1883年(明治16年)5月のこと。

薩長土肥の一角を担う佐賀県がこれだけ冷遇されたのは、薩摩の鹿児島県と共に政府から難治県とマークされ、さらに1874年(明治7年)に勃発した佐賀の乱が原因と言われている。

 

母里

読み方=もり

現:都道府県名=島根県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、母里藩が改称され母里県が誕生。

同年11月、母里県は松江県、広瀬県、浜田県の一部(隠岐国)と合併して島根県となり、母里県は姿を消した。

ちなみにその後、島根県は浜田県だけでなく鳥取県をも併合するなど大県となり、鳥取県と分離して現在の姿になったのは1881年(明治14年)9月のこと。

なお、母里藩は江戸中期まで、①と同じく神戸藩と呼ばれていた(読みも同じ)。

 

胆沢

読み方=いさわ

現:都道府県名=宮城県岩手県

1869年(明治2年)8月、陸前国陸中国にあった伊沢県および栗原県の一部区域に胆沢県を設置した。

戊辰戦争で敗れたこの地域は明治政府に没収されたため、廃藩置県より早い時期に県を発足させたのである。

1871年(明治4年)11月、胆沢県は一関県に統合され、2年強で消滅してしまう。

その後、一関県は水沢県磐井県などと改称し、やがて宮城県岩手県に分割編入された。

 

【総括】

上記の各設問を読んでとっくにお気付きだと思うが、明治政府により1871年(明治4年)7月に断行された廃藩置県では、江戸時代に存在した藩をそのまま全て県としたのだ。

これはもちろん、欧米列強に対抗する必要性から、強力な中央集権国家の建設が急がれたためである。

 

実は廃藩置県より前の1868年(慶應4年)、即ち明治政府が樹立した年に府藩県三治制が施行され、旧幕府の領地に3府(東京府京都府大阪府)41県が誕生していた。

そして3年後の廃藩置県により誕生した県を合わせると、実に3府302県が存在していたのだ。

現在の47都道府県と比べると約6.5倍である。

もしこの頃に生まれていたなら、地理の時間は県名を暗記するだけでも大変だっただろう(もっとも、当時の日本にはまだ学校制度はなかったが)。

さらに、当時にもし高校野球まであって1県1代表制だったら、305校が甲子園に集い、304試合も行っていたことになる。

 

しかし、廃藩置県では計画性もなく取り敢えず藩を県に置き換えただけなので、さすがにこれでは統制が取れず、4ヵ月後には3府72県と約1/4に激減、江戸時代までの行政区分だった令制国とほぼ同じ数となった。

これはもちろん、小さい県同士を合併させたためで、上記クイズでも多くの県が4ヵ月で消滅している。

75府県でも現在よりずっと多いが、統廃合がさらに進められて、1876年(明治9年)8月には3府35県と現在よりも少なくなってしまった。

38府県は約3年間続いたが、当時は交通網も発達しておらず、鉄道も東京周辺や大阪周辺に限られていたため、あまりに県域が広すぎると県庁への手続きなどで住民に大きな負担を強いることになったので、今度は県の分割が行われるようになった。

明治時代での、県の改編が終了したのは1888年(明治21年)で、3府43県と現在にほぼ近い形となったのである(北海道はまだ府県と同格ではなかった)。

 

さて、自己採点の結果はいかがだっただろうか。

もし全問正解の者がいたら、その人はバケモノである。

なお、予告したとおり、40点以下の赤点坊主追試を行う(てか、ほとんどの者が赤点だろう)。

 

追試

日出

伯太

置賜

菰野

飫肥

 

解答は写真の下に記載している(写真と答えは関係ない)。 

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【解答】

 日出

読み方=ひじ

現:都道府県名=大分県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、日出藩が改称され日出県が誕生。

同年11月、日出県を含む8県と合併して大分県となった。

 

伯太

読み方=はかた

現:都道府県名=大阪府

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、伯太藩が改称され伯太県が誕生。

同年11月、伯太県堺県に編入されて4ヵ月で消滅した。

1881年(明治14年)2月、堺県は大阪府に編入される。

なお、現在でも大阪府和泉市には伯太町という地名があって、その近くには陸上自衛隊があり、自衛隊があるということは夜の街が(ry。

 

置賜

読み方=おきたま

現:都道府県名=山形県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、米沢藩が改称され米沢県が誕生。

同年11月、米沢県は置賜と改称した。

1876年(明治9年)8月、置賜県、山形県、鶴岡県が合併して、現在の山形県となる。

 

菰野

読み方=こもの

現:都道府県名=三重県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、菰野が改称され菰野が誕生。

しかし同年の11月、菰野県や①の神戸県を含め6県と合併して安濃津(あのつ)県となり、菰野県は僅か4ヵ月の命だった。

安濃津県は翌1872年(明治5年)4月に三重県と改称され、1876年(明治9年)4月に渡会(わたらい)県と合併して、三重県は現在の姿となる。

現在の三重県菰野町には菰野高校があり、甲子園にも何度か出場しているので、読み方は知っている人が多いかも知れない。

 

飫肥

読み方=おび

現:都道府県名=宮崎県

1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって、飫肥藩が改称され飫肥が誕生。

同年11月、飫肥県は廃止され都城が発足した。

1873年(明治6年)1月、都城県は美々津(みみつ)県と合併して宮崎県となる。

しかし1876年(明治9年)8月、宮崎県は鹿児島県に吸収され、消滅してしまった。

⑧でも説明したとおり、元・薩摩藩鹿児島県は明治政府から要注意県と警戒されており、鹿児島県による宮崎県併合もその一環だったが、翌1877年(明治10年)2月には明治政府が危惧したとおり西南戦争が勃発、旧・宮崎県地域も戦禍に巻き込まれてしまった。

宮崎県にとってはとんだトバッチリだったが、消滅から10年後の1883年(明治16年)5月9日に宮崎県はようやく独立を果たした。

実はこの日、富山県佐賀県も分離・独立を果たしており(富山県は石川県から、佐賀県は⑧参照)、この3県にとって5月9日はインディペンデンス・デイである。

 

【自己採点】

では、読み方を10点、現:都道府県名を10点で自己採点してみよう。

100点満点中50点以上なら進級、40点以下なら留年とする。

日本の県名クイズ

以下の10県は、かつて日本に存在した県名である。

それぞれの県名の読み方と、現在はどの都道府県に所属しているか答えよ。

なお、現在の都道府県が複数に及ぶときは、1つだけ答えてそれが合っていれば正解とする。

点数は、読み方が5点、現:都道府県名が5点、計20問の100点満点。

 

神戸

宮谷

足羽

厳原

櫛羅

生実

磐前

三潴

母里

胆沢

 

100点満点中、40点(8問正解)以下は赤点として、赤点の者には後に追試を行う。

では、100点を目指して頑張ってくれたまえ。

 

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「ええで、ええで」の頑固な天才監督

2017年7月1日、プロ野球(NPB)の名監督として知られる上田利治が亡くなった。享年80歳だった。

阪急(オリックスブレーブス(現:オリックス・バファローズ)および日本ハム・ファイターズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)の監督を務め、通算勝利数は1322勝で歴代7位(2017年7月1日現在)、リーグ優勝5回、日本一3回という、紛れもない名将である。

 

◎1時間19分の猛抗議

上田監督といえば、真っ先に思い浮かぶのは1978年の日本シリーズだろう。

この年、4年連続日本一を目指した上田監督率いる阪急は、球団初のリーグ優勝を果たして初の日本一を狙うヤクルト・スワローズ(現:東京ヤクルト・スワローズ)と対戦、3勝3敗で最終の第7戦にもつれ込んだ。

ヤクルトの主管試合だったが、行われたのは読売ジャイアンツの本拠地だった後楽園球場。

このシリーズでは、ヤクルトの本拠地である明治神宮球場が東京六大学野球と日程が重なったため、ヤクルトはライバル球団のホーム・グラウンドを借りたのである。

当時はまだ、大学野球プロ野球よりも優先される、そんな時代だった(1992年はプロ野球が優先され神宮球場で初めて日本シリーズを行い、東京六大学ナイトゲームとなっている)。

 

さて、問題となったのが1-0とヤクルトのリードで迎えた6回裏のヤクルトの攻撃、四番打者の大杉勝男内野手が阪急の足立光宏投手からレフトのポール際へ大飛球を放つ。

レフト線審の富澤宏哉は右手をグルグル回し、ホームランとコールした。

三塁側ベンチから上田監督が飛び出し、「ポールの外側を通ったんやからファウルやないか!」と左翼のポール真下まで行って猛抗議。

当然、判定は覆らないが、上田監督は納得できない。

 

現在のようにビデオ判定も、「抗議は5分以内」というルールも無い時代である。

いたずらに時間だけが過ぎていき、金子鋭コミッショナーまでグラウンドに現れて上田監督を説得するなど、抗議は実に1時間19分にも及んだ。

テレビ局はもちろん、上田監督の自宅にもひっきりなしに抗議の電話がかかってきたという。

ところが、不思議なことにこの一戦の視聴率は平均45.6%、瞬間最高視聴率61.5%という日本シリーズ史上最高の数字を叩き出した(いずれも関東地区)。

当時、巨人戦以外では視聴率なんて稼げなかったのに、この高視聴率。

特に視聴率が高かったのは1時間19分という長い長い抗議の間で、その間は全くプレーは行われず、大のオッサンたちが数人固まって何やら話し込んでいる姿が映し出されていただけなのに、秋晴れの爽やかな日曜日の午後に日本国民の6割がテレビ画面に釘付けとなっていたのである。

面白いシーンだけが視聴率を稼ぐのではなく、止まっている画面でも事と場合によっては高視聴率になることが証明された。

結局、1時間19分後に大杉のホームランが認められて阪急は0-4で敗北、ヤクルトが初の日本一となって上田監督はシリーズ終了後に監督を辞任した。

 

1978年の日本シリーズ第7戦、上田監督による1時間19分の猛抗議

www.youtube.com

 

◎非情のトレード通告

上田監督は日本シリーズのエピソードに事欠かない。

「1時間19分」の2年前、1976年の日本シリーズで上田阪急は第一次長嶋茂雄政権の巨人と対戦した。

 

巨人のV9時代、阪急は山田久志投手、加藤秀司内野手福本豊外野手という「3馬鹿トリオ」を揃える充実した布陣で5回も巨人にぶつかったが、いつも厚い壁に跳ね返されてきた。

上田が阪急の監督になって2年目、即ち前年の1975年には古巣の広島東洋カープに4勝0敗2分で勝って阪急は初の日本一となったが、上田監督にとっても阪急ナインにとっても「巨人を破ってこそ真の日本一」という意識が強かったのである。

このシリーズ前、上田監督は後楽園球場にメジャーを持ち込み、ホームからレフトのポールまでの距離を測り、「フェンスには90Mと書かれてるけど87メートルしかあらへん。インチキやがな」と言い放った。

この一言で、巨人コンプレックスを抱いていた阪急ナインも、巨人を上から見下す上田監督の姿を見て「巨人は恐るるに足らず」とリラックスし、シリーズ開幕3連勝に繋がったという。

阪急はシーズン中も後楽園球場で試合をしており(当時は日本ハムの本拠地でもあった)、上田監督はこのことを知っていたのだろう。

ただし2年後、90Mと書かれたレフト・フェンスのポール際で、1時間19分も大揉めに揉めることまではわからなかっただろうが……。

 

シリーズは阪急が3連勝した後に3連敗、最終の第7戦にもつれ込んだ。

勢いから言って巨人有利と思われていたが、2-1と巨人リードで迎えた7回表の阪急の攻撃、森本潔内野手クライド・ライト投手から「狭い後楽園」のレフトへ逆転2ランを放ち、これが決勝点となり阪急は4-2で勝って4勝3敗と巨人を初めて破り、2年連続日本一となったのである。

ベンチの上田監督は日本一が決まった時ではなく、森本が逆転ホームランを放った時に涙が出そうになった。

それは巨人に勝てそうだったから、ではない。

嬉しさと寂しさと辛さが入り混じった感情に捉われていたのである。

 

試合終了後、恒例のビールかけも終わり、酒豪の多い阪急ナインは喜び勇んで銀座へ繰り出し、朝までドンチャン騒ぎした。

しかし上田監督はホテルに残り、独りで一晩を過ごす。

気持ちの整理をつけるためである。

上田にはまだ、やらなくてはならない大仕事が残っていた。

それは日本一になったばかりの上田にとっても、気の重い仕事だった。

 

翌朝6時頃、上田監督が眠る部屋のドアをドンドン叩く者がいた。

どうせ酔っぱらったナインのイタズラだろうと上田監督がドアを開けると、そこ立っていたのは顔見知りのスポーツ新聞記者。

その記者はいきなり質問をぶつける。

「上田さん、森本の中日へのトレードは本当ですか!?」

 

トレードは、シーズンが終わってから検討しても遅い。

大抵はシーズン中に水面下で話し合われる。

中日ドラゴンズ与那嶺要監督から阪急に戸田善紀投手が欲しいとの申し入れがあり、上田監督は見返りとして中日の強打者である島谷金二内野手を要求した。

両チームの天秤を合わせるためにトレード話は両球団の間でドンドン膨らみ、遂に4対3という大型トレードにまで発展した。

阪急側の4人の中に、森本の名前が入っていたのである。

結局この大型トレードは、日本シリーズ前に阪急と中日との間で合意に達した。

その情報を、かの記者が中日側から嗅ぎ付けたのだ。

 

「頼む、ワシが本人に通告するまで、記事にはせんといてくれ!」

上田監督は記者に頭を下げた。

今頃、森本は銀座で呑み疲れて、日本一の嬉しさを噛みしめながらいい夢心地になっていることだろう。

なにしろ巨人相手の日本シリーズ終戦で、日本一を決めるホームランを放ったのだ。

ダイヤモンドを一周し、ナインから手荒な祝福を受ける森本の姿を見て、上田監督は嬉しさと辛さが入り混じる複雑な気持ちになり、涙を必死にこらえていたのである。

そんな森本に、冷水を浴びせるようなことはしたくない。

記者も、普段は頑固な上田監督の熱意に負けて、せっかくのスクープを記事にはしなかった。

後日、上田監督は森本らにトレードを通告した。

「中日に行っても、新しい道で頑張ります」

森本は「潔」という名前の通り、潔く答えた。

 

とはいえ、日本一を決めたばかりの阪急による4人の選手の大放出に(中日相手以外を含めると7人)、阪急ナインも世間も騒然となったのである。

上田監督は、たとえ優勝しても最強軍団を作るためには血の入れ替えが必要と考えていたのだ。

 

余談だが、大豊作ドラフトと言われた1968年組で、阪急には山田、加藤秀、福本がおり、後に「史上最高のショート守備」の呼び声高い「いの一番指名」の大橋穣東映フライヤーズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)から加入、さらに島谷と稲葉光雄が森本らとのトレードで1977年に入団して、1968年組が6人も阪急に集結した(ただし稲葉はこの年のドラフトで広島に指名されたが、入団拒否している)。

ちなみに、1968年のドラフトでは入団拒否されたものの阪急は門田博光を指名しており、もし門田も入団していたら7人もの凄いメンバーが揃っていたいたことになる。

 

1976年の日本シリーズ第7戦 巨人×阪急(後楽園球場)

www.youtube.com

 

◎実績のない名監督

日本プロ野球の監督とメジャー・リーグ(MLB)の監督では、どこが違うか?

野球に詳しいファンなら、誰もがこう答えるだろう。

「日本ではスター選手がそのまま監督になるが、メジャーでは選手としての実績が無くてもマイナー・リーグで指導者としての手腕を認められた人物だけが監督になれる」

と。

 

話は変わるが、野球の監督についてよく言われるのが「他のスポーツでは、監督はユニフォームを着ないのに、野球だけが監督も選手と同じユニフォームを着る」ということだ。

普通のスポーツでは、監督はスーツかジャージ姿だが、野球ではユニフォームを着ているだけではなく、選手と同じようにちゃんと背番号まで付けている(高校野球には監督の背番号はないが)。

そもそも、日本では野球に限らずどんなスポーツでもチームのボスのことを「監督」と呼ぶが、アメリカでは普通のスポーツは「ヘッドコーチ」と呼ぶのが一般的なのに、野球はなぜか「フィールド・マネージャー(あるいは単にマネージャー)」と呼ばれる。

つまり、英語においても野球の監督はちょっと特殊なわけだ。

 

その理由として、有力なのが「野球の監督は元々、選手兼任(いわゆるプレーイング・マネージャー)だった」という説だ。

つまり、野球における監督とは専門職ではなかった、ということか。

要するに他のスポーツでの監督とは、最も偉いコーチ(ヘッドコーチ)が務める専門職だったのだろう。

それがやがて野球でも監督は専門職となり、フィールド・マネージャーというポストとなったが、選手と同じようにユニフォームを着るという風習は残った、ということだ。

ちなみに、公認野球規則ではユニフォーム着用を義務付けているのは選手だけで、監督はユニフォームを着る必要はないのである(実際に昔のMLBではスーツ姿の監督もいた)。

 

MLBでは、1985~86年までシンシナティ・レッズピート・ローズが選手兼監督を務め、それ以降はMLBに選手兼監督は存在しない。

だが日本では、つい最近の2014年から2年間、中日の谷繁元信が選手兼監督になるなど、未だに前近代的な監督人事がある。

選手兼任監督は日本でも特殊としても、スター選手がそのまま監督になる傾向は相変わらず。

巨人の高橋由伸監督は引退即監督、阪神タイガース金本知憲監督は二軍監督のみならずコーチ経験すらなく監督に就任しているが、日本では珍しいことではない。

いいか悪いかは別にして、日本では現在でも二軍監督やコーチ経験のない者が一軍の監督に就任することがよくあるのだ。

MLBでは選手としての実績に関係なく、マイナー・リーグで監督やコーチを務め、その手腕を認められた者のみメジャー・リーグでの監督に抜擢されるのが通例になっている。

したがって、MLBでは選手として全く無名でも、メジャー・リーグの監督に就任することは珍しくない。

 

で、ようやく上田監督の話に戻るのだが、上田監督の場合は日本では珍しいMLB型の監督である。

つまり、選手としての実績がほとんどないのだ。

大学卒業後、広島カープ(現:広島東洋カープ)に捕手として入団するも、僅か3年で現役引退。

通算成績は121試合出場、打率.218、2本塁打

選手としては、成功したとはとても言えない。

普通なら、この程度の成績では野球界からキッパリ足を洗って第二の人生を歩むか、運良く球界に残れたとしても裏方さんになるのがせいぜいだろう。

ところが上田には、弱冠25歳にして史上最年少となるコーチ要請があったのだ。

これで上田の人生は大きく変わる。

上田はまだ若かったし、野球界でなくても一般社会人として充分に活躍できるだけの人物だったのだが、その件については後に述べよう。

 

二軍から始まった上田のコーチ人生だったが、翌年には早くも一軍コーチに昇格。

二軍で1年、一軍で7年間、広島でコーチを務めていた上田だったが、その姿を見ていた人物がいた。

野球の話を始めると「やめられない、止まらない」ので「かっぱえびせん」の異名を持つ山内一弘である。

山内は選手生活の晩年を広島でプレーし、年下コーチの上田と共に過ごした。

選手としての実績のない上田が、年長者の選手に向かってズケズケ注文をつける姿を山内は見て、指導者としての資質を見出したのだ。

 

しかし1969年のシーズン終了後、上田は広島を退団した。

原因は、根本陸夫監督との対立である。

根本といえば後に「球界の寝業師」と呼ばれた男。

10歳以上も歳が離れた辣腕監督に、まだ選手として働いていてもおかしくない32歳の若造コーチが盾突いたのだ。

しかも、何度も言うように上田には選手としての実績は全くと言っていいほどない。

後の1時間19分抗議からわかるように、上田は相手が誰であろうと自説を曲げない性格だったのである。

 

上田は1年間、中国放送で解説者を務めた後、山内の推薦を受けて阪急にコーチとして入団する。

ここで、上田は名将・西本幸雄監督と出会ったのだ。

上田はヘッドコーチとして西本監督を補佐しながら、監督業のエッセンスをしっかり吸収した。

1974年、西本監督がライバル球団の近鉄バファローズ(現:オリックス・バファローズに吸収合併)に引き抜かれると、上田は内部昇格の形で阪急の監督に就任。

選手として実績のない上田が、37歳の若さで一軍監督に登り詰めたのだ。

二軍監督の経験がないとはいえ、10年以上のコーチ業にプラスして一軍のヘッドコーチ経験をみっちり積んだのだから、MLBに近い人事と言えるだろう。

 

1975年、監督として2年目の上田阪急は、当時は2シーズン制だったパシフィック・リーグの前期優勝を果たし、プレーオフでは後期優勝の西本近鉄を破り、恩師に恩返しをした形でパ・リーグ制覇を果たした。

その年には日本シリーズで古巣の広島を破って、西本監督が成し得なかった阪急初の日本一に導き、翌76年は西本阪急が果たせなかった打倒・巨人を達成した。

そして上田監督はリーグ4連覇、3年連続日本一と阪急黄金時代を築いたのである。

「名選手、必ずしも名監督ならず」という言葉があるが、上田監督は「名監督は名選手とは限らない」ことを証明したのだ。

 

◎伝説の398点

時計の針をさらに戻して、上田監督のルーツを探ってみよう。

上田は徳島県立海南高校から関西大学へ進学した。

この時の入学試験が、半ば伝説になっている。

上田が入試で獲得した点数は、

「400満点中、398点」

というものだ。

もちろん全受験生の中で断然トップ、正解率は実に99.5%である。

といっても、これには少々カラクリがあって、上田は野球部のスポーツ推薦があったため、100点を上乗せした点数だった。

つまり、実際は400満点中298点ということである。

しかし、100点の下駄を履かせなくても驚異的な点数であることには変わりなく、298点でも約75%の正解率だったのだ。

もし上田があと3点取っていれば、400満点中401点という、実に奇妙なことになる。

 

今でこそスポーツ推薦といえどもある程度の点数を稼がなければならないが、当時の野球部推薦といえば試験用紙にダルマの絵を描いただけで合格、なんていう時代。

ダルマの絵というのはオーバーとしても、野球部推薦Aランクの者は白紙答案でさえなければ合格だったのは事実のようで、上田と同世代の長嶋が立教大学を受験した時、野球部監督の砂押邦信に「白紙答案だけは提出するな。もし答えがわからなければ自分の住所、本籍、出身地、両親や兄弟の名前を漢字で書いておけ」と言われたという。

そんな時代に「アホな野球部員」がガチで298点とは、試験問題が漏洩しているのではないか、と関大の教授会で問題となった。

さっそく教授会は野球部のマネージャーを呼び出したが、マネージャーはこう答えた。

「上田は野球部主将を務めながら生徒会長もこなし、睡眠時間は3,4時間であとはずっと勉強していたから、実力で298点を取っても不思議ではないと思います」

この言葉で教授会も納得、上田の関大入学が認められて、野球部に入部した。

野球部では、後に阪神の大エースとなる村山実とバッテリーを組み、大学選手権を制して関西勢として初めて大学日本一の栄冠に輝いた。

 

なお、上田が入ったのは関大の法学部。

上田の叔父が徳島県弁護士会の副会長だったため、上田自身も弁護士を目指していたのだ。

そのため、プロ入りしてからも上田は六法全書を読みふけっていたという。

選手を引退した後、まだ若かったのだから、もしコーチ要請がなければ頑固な上田は弁護士を目指していたかも知れない。

仮に弁護士にはなれなかったとしても、上田の頭脳なら一般社会でもエリートとして出世街道を歩んでいただろう。

 

晩年の上田監督は、選手を褒める時に「ええで、ええで」を連発する好々爺というイメージだったが、実際には文武両道で名門大学にトップ入学を果たす天才的頭脳の持ち主であり、1時間19分の抗議も辞さない無類の頑固者だったのだ。

 

【文中敬称略】

 

2006年に撮影した阪急西宮球場の跡地。現在は大型商業施設の阪急西宮ガーデンズ

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番狂わせ十番勝負!プラスワン

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番狂わせ」という言葉を広辞苑で引くと、こう書かれている。

 

①予想外の出来事で順番のくるうこと。
②勝負事で予想外の結果が出ること。

 

二つの語義に共通するのは「予想外」というワードだ。

「番狂わせ」という言葉を額面通りに受け取ると①のみになる。

②の場合は、ノックアウト式トーナメントなら本来勝ち上がるはずの者(チーム)が負けると組み合わせが変わるので「番狂わせ」という意味が当てはまるが、総当たりリーグ戦の場合はどちらが勝っても組み合わせは決まっているので、文字通りの「番狂わせ」ではないだろう。

しかし、やはり総当たりリーグ戦でも②のように「番狂わせ」という言葉が使われるのだ。

つまり、戦国時代でいう「下剋上」という意味でもある。

 

勝負の世界、特にスポーツの世界においては、しばしば「番狂わせ」が起きる。

そして「番狂わせ」が起きた時、例外なく人々の心に残るドラマが生まれるのだ。

そんな「番狂わせ」を10戦、独断と偏見で選んでみた。

もっとも、筆者が忘れている試合があるかも知れないし、順位も筆者が思い付きで付けただけなので、異論があってもそこはご容赦いただきたい。

(日付は全て現地時間)

 

第10位

岩崎恭子(競泳)

1992年7月27日 バルセロナ・オリンピック 競泳女子200m平泳ぎ決勝

ピコルネル・プール 2分26秒65 金メダル

 

水泳版:藤井聡太四段とも言える岩崎恭子

いや、藤井聡太四段を「将棋版:岩崎恭子」と呼ぶべきか。

1992年にスペインで行われたバルセロナ・オリンピックで、全く無名の女の子が日本中の脚光を浴び、世界から注目されることになった。

競泳女子200m平泳ぎで、当時の五輪新記録を叩き出して金メダルを獲得した岩崎恭子は、当時まだ弱冠14歳6日。

五輪まで、世界記録保持者のアニタ・ノール(アメリカ)に6秒近くも差があったのに、ピコルネル・プールでの決勝では残り10mでノールを逆転しての金メダルだった(ノールは銅メダル)。

競泳史上最年少の金メダル獲得であり、日本にとっても史上最年少の五輪メダル獲得。

「今まで生きてきた中で一番幸せです」という言葉は日本中を感動させ、また誰もが心の中で「そらそやろ」とツッコんだ。

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第9位

ニューヨーク・メッツ×ボルチモア・オリオールズ(MLB)

1969年10月16日 ワールド・シリーズ 第5戦

シェイ・スタジアム ニューヨーク・メッツ4勝1敗 初の世界一

 

1962年、メジャー・リーグ(MLB)のエクスパンション(球団拡張)によって、ナショナル・リーグに誕生したのがニューヨーク・メッツだった。

しかし、同じニューヨークにある老舗球団のアメリカン・リーグに所属するニューヨーク・ヤンキースと違い、メッツは「お荷物球団」と呼ばれるほど弱小で、1年目などは40勝120敗、勝率.250というウソみたいな成績でダントツの最下位。

ところが、球団創設8年目の1969年にはペナント・レースから突っ走り初の東地区優勝、そしてこの年から始まったリーグ・チャンピオンシップ・シリーズ(プレーオフ)では西地区優勝のアトランタ・ブレーブスに、全米国民が椅子からすっ転ぶ3連勝(当時は5回戦制)で初のリーグ優勝。

そしてワールド・シリーズでは、圧倒的有利と言われたア・リーグボルチモア・オリオールズと対戦、初戦を落としたものの、その後は4連勝して4勝1敗により誰も予想しなかった初の世界一を奪還した。

「お荷物球団」からの奇跡の世界一は「ミラクル・メッツ」と呼ばれ、シェイ・スタジアムを埋め尽くしたニューヨークっ子を狂気させたのである。

日本でいえば、球団創設9年目で初の日本一に輝いた東北楽天ゴールデンイーグルスのようなものか。

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第8位

貴花田×千代の富士(大相撲)

1991年5月12日 夏場所 初日

両国国技館 〇貴花田(寄り切り)千代の富士

 

大関の初代・貴ノ花次男として、鳴り物入りで角界にデビューした貴花田(後の横綱貴乃花)。

先場所では平幕ながら11連勝を飾り、夏場所では西前頭筆頭まで番付を上げてきた。

初日では優勝31回を誇る「小さな大横綱千代の富士との取組。

上手の取り合いから先に左上手を引いた貴花田千代の富士を寄り切り、世代交代を目の当たりにした両国国技館の観衆から座布団が舞った。

千代の富士は2日後「体力の限界!」という言葉を残して引退した。

父の初代・貴ノ花に敗れた優勝32回の大横綱大鵬もその一番によって引退しており、親子二代にわたり大横綱に引導を渡したことになる。

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第7位

阪神タイガース×西武ライオンズ(NPB)

1985年11月2日 日本シリーズ 第6戦

西武ライオンズ球場 阪神タイガース4勝2敗 初の日本一(2リーグ分裂後)

 

1936年に始まった日本プロ野球(NPB)で最古参メンバーの阪神タイガース

しかし、1950年に2リーグ分裂してからはセントラル・リーグ優勝が僅かに2度、1964年を最後に20年間も優勝していなかったため「ダメ虎」と呼ばれていた。

だが1985年のペナント・レースでは、宿敵の読売ジャイアンツ戦でのランディ・バース掛布雅之岡田彰布によるバックスクリーン3連発など打線が爆発、21年ぶりのリーグ優勝を果たした。

迎えた日本シリーズパシフィック・リーグの覇者は当時最強と言われた西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)。

下馬評では投手力に勝る西武が絶対的有利だったが、阪神は一発攻勢で西武を圧倒、4勝2敗で2リーグ分裂後初の日本一となったのである。

敵地・西武ライオンズ球場では吉田義男監督が胴上げで宙に舞い、500km以上離れた大阪では大熱狂の渦となった。

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第6位

ジェームス・ダグラス×マイク・タイソン(ボクシング)

1990年2月11日 WBA・WBC・IBF世界ヘビー級タイトルマッチ12回戦

東京ドーム 〇ジェームス・ダグラス(10回KO)マイク・タイソン● 王座移動

 

1980年代後半から無敵を誇っていたヘビー級プロボクサーのマイク・タイソン

WBA・WBC・IBFの三冠王者として来日、1990年2月11日に東京ドームでジェームス・ダグラスの挑戦を受ける。

この日まで37戦全勝(33KO)の成績と23歳という若さが溢れるタイソンと、世界王座の経験が無くて29歳という下り坂のダグラスとの対戦。

当然、試合前の予想ではタイソンが圧倒的に有利、アメリカのオッズでは42対1と賭けが成立しない比率だった。

もはや、どちらが勝つかではなく、タイソンが何ラウンドでKOするかという一点のみに焦点が絞られていた。

ところが、試合が始まるとタイソンの動きにいつものキレがなく、ダグラスは8ラウンドの最後にダウンを奪われたものの、10ラウンドには遂にタイソンを捉え、左ストレートで見事にKO勝ちした。

タイソンはプロ入り後初の敗戦、以降は転落の人生を歩むことになる。

一方のダグラスも、8ラウンドでの自身のダウンは10秒以上倒れていたという「疑惑のロング・カウント説」が囁かれ、10ヵ月後の初防衛戦ではイベンダー・ホリフィールドに3回KOで敗れて100日天下に終わり、ボクサー人生としては短いものとなった。

しかしダグラスは「タイソンに初めて勝った男」として、ファンにその名前を刻みつけたのである。

余談ながらこの日の前日、東京ドームでは元横綱双羽黒北尾光司がプロレス・デビューし、クラッシャー・バンバン・ビガロにピン・フォール勝ちした。

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第5位

日本×ブラジル(サッカー)

1996年7月22日 アトランタ・オリンピック グループ・リーグ

マイアミ・オレンジボウル 〇日本1-0ブラジル●

 

サッカー世界最強国のブラジル。

このアメリカでのアトランタ・オリンピックから男子サッカー競技は23歳以下という縛り以外にオーバーエイジ枠が設けられ、ブラジル五輪代表は3人のオーバーエイジによるA代表選手を加えた。

一方の日本五輪代表オーバーエイジ枠を使わず文字通り23歳以下代表、A代表経験者は僅かに2名という布陣だった。

予想では当然、A代表に劣らぬスター軍団のブラジルが圧倒的に上、日本の西野朗監督は選手が自信を無くすことを恐れて、ブラジルの試合ビデオは見せなかったという。

グループ・リーグ第1戦、アトランタから遠く離れたフロリダ州のマイアミ・オレンジボウルで行われた日本×ブラジルは予想通り、ブラジルが一方的に攻める。

しかし、ブラジルの猛攻を日本のGK川口能活がゴールを死守、0-0のまま試合は進み後半27分に日本はワンチャンスを活かし、MF伊東輝悦がゴールを決め、1-0でブラジルを振り切った。

シュートはブラジルの28本に対し日本は僅か4本、試合前の予想と相まってこの試合は「マイアミの奇跡」と呼ばれる。

ただ、日本は2勝1敗ながら得失点差によりグループ・リーグ突破はならず、ブラジルは決勝トーナメントに進出し銅メダルを獲得した。

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第4位

オグリキャップ(競馬)

1990年12月23日 第35回有馬記念

中山競馬場 2分34秒2(2着に3/4馬身) 1着

地方の笠松競馬場から中央競馬に進出、圧倒的な力を見せ付けた「芦毛の怪物」オグリキャップ

しかし、6歳(当時は数え年)を迎え、さすがの怪物も衰えを見せていた。

直前の天皇賞(秋)ジャパンカップでは惨敗を喫し、暮れの有馬記念が引退レースになることが決まっていたのである。

単勝オッズでも4番人気、それもどちらかといえば同情票のようなもので、オグリキャップの復活を信じている者は少なかった。

オグリキャップには、それまでは敵となることが多かった武豊が騎乗、最後の直線から一気に抜け出し、メジロライアンをかわして奇跡の復活優勝を遂げた。

中山競馬場には、競馬では異例となる「オグリ・コール」の大合唱(オグリキャップには意味がわかってたのだろうか?)、ラストランでの1着は「オッサンのバクチ」というイメージが強かった競馬が一気に社会的地位を上げることになり、イメージ・アップに計り知れない貢献をしたと言えよう。

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第3位

三沢光晴×ジャンボ鶴田(プロレス)

1990年6月8日 三冠統一ヘビー級挑戦者決定戦 60分1本勝負

日本武道館 〇三沢光晴(24分8秒 片エビ固め)ジャンボ鶴田

 

昭和の終わりから平成に年号が移る頃、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスは、ジャンボ鶴田天龍源一郎という二大エースによるライバル関係が人気を博していた。

ところが1990年4月、大企業のメガネスーパーが新団体SWSを設立、そのエースとして天龍を引き抜かれ、全日本プロレスは大ダメージを受けたのである。

しかも、天龍一派と目されるほとんどのレスラーはSWSに移籍し、全日本プロレスは選手層が薄くなって、年内には崩壊するだろうとさえ言われた。

何よりも、鶴田のライバルがいなくなったことが大打撃となったのである。

しかし、ニュースターは突然現れた。

それまで2代目タイガーマスクを名乗っていた三沢光晴がマスクを脱ぎ捨て、鶴田に牙を剝いたのである。

素顔時代の三沢は知名度がなく、また軽量でヘビー級としての実力も疑問符が付いていたため、鶴田への挑戦は無謀と思われた。

なにしろ鶴田は日本最強と言われた完全無欠のエース、本気で怒らせたら敵うレスラーなど1人もいないと思われていたのである。

1990年6月8日の日本武道館、誰もが鶴田の圧勝を信じて疑わなかったが、鶴田の猛攻を必死で耐える三沢の姿を見て勝負の行方はわからなくなり、そして遂に一瞬の返し技により鶴田からピン・フォールを奪ったのだった。

この一戦は全日本プロレスを窮地から救った試合と言われ、実際にこの試合を境にして一気に全日本プロレス・ブームとなったのである。

三沢は、それまで虎の仮面を被ったアイドル・レスラー、あるいは単なるテクニシャン程度の評価でしかなかったが、鶴田を破ったことにより全日本プロレスのエースとしての道を歩み出した。

その三沢と鶴田、2人とももう既にこの世にはいない。

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第2位

PL学園×池田(高校野球

1983年8月20日 第65回全国高等学校野球選手権記念大会 準決勝

阪神甲子園球場 〇PL学園7-0池田●

 

1982年夏、83年春と史上4校目の夏春連覇を果たした池田(徳島)。

83年夏も史上初の夏春夏3連覇を目指し、阪神甲子園球場に乗り込んで来たのである。

池田は圧倒的な力で準決勝まで進出、3連覇は間違いなしとさえ言われた。

準決勝の相手、PL学園(大阪)はエースの桑田真澄と四番打者の清原和博がいずれも一年生で、一年坊主が中心のチームに戦後最強の池田が負けるわけがないと思われていた。

しかし、池田のエース水野雄仁から桑田が超特大のホームランを放ち、投げても桑田が池田の強力な「やまびこ打線」を完封するなど、PLが7-0で圧勝。

勢いに乗ったPLは決勝でも横浜商(神奈川)を破り、5年ぶり2度目(春夏通算4度目)の優勝を果たした。

この瞬間から甲子園の主役は池田からPLに移り、桑田・清原のKKコンビによるPL時代に突入したのである。

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第1位

日本×南アフリカラグビー

2015年9月19日 第8回ワールドカップ プール・ステージ

ブライトン・コミュニティ・スタジアム 〇日本34-32南アフリカ

 

過去7回のワールドカップに全て出場していた日本代表の戦績は、1勝21敗2分という惨憺たるもの。

そんなジャパンにとって、2015年ワールドカップのプール戦での初戦の相手は、過去2回のワールドカップ優勝を誇る南アフリカ代表(スプリングボクス)。

当然、この大会でも優勝候補の一角に挙げられていた

試合前の予想も何も、少しでもラグビーを知っているなら、ジャパンがスプリングボクスに勝つと思っていた人なんて1人もいなかっただろう(内緒だが、筆者はネタランで「ジャパンはスプリングボクスには絶対に勝てない」と断言していた)。

いや、エディ・ジョーンズ:ヘッドコーチに鍛えられたジャパンの31人の精鋭以外は。

イングランドのブライトン・コミュニティ・スタジアムで行われた試合は、ジャパンのタックルが次々にスプリングボクスの大男に突き刺さり、予想に反して一進一退の攻防。

29-32でジャパンの3点ビハインドで迎えた試合終了間際の後半40分、ジャパンは敵陣5mまで攻め込んで相手反則によりペナルティ・キックを得た。

しかしジャパンは同点確実のペナルティ・ゴール(3点)を狙わずに、あくまで逆転に拘ってスクラムを選択。

ジャパンはスクラムから出たボールを左右オープンに振り回して相手ディフェンスを翻弄し、最後はWTBカーン・ヘスケスが逆転トライを決めた。

「最も番狂わせが起きにくいスポーツ」と呼ばれるラグビーで、スプリングボクスに34-32で逆転勝ちしたこの試合は「ブライトンの奇跡」と呼ばれ、史上最大のジャイアント・キリングと世界各国からも賞賛の嵐、「ハリー・ポッター」の作者であるJ・K・ローリングは「こんな物語はとても書けない」とまで言ったのである。

だが、ジャパンは3勝1敗ながら勝ち点により予選プール敗退、「最強の敗者」と言われ、スプリングボクスは決勝トーナメントに進出して3位となった。

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以上、いわゆるアップセットと呼ばれる勝負を10試合選んだが、共通しているのはいずれも「その時、歴史が動いた」ものである、ということだ。

そのほとんどが、新鋭(14歳の岩崎恭子など)が当時最強と謳われた者(チーム)を破ったものだが、中にはオグリキャップのように引退を決める勝負で鮮やかに勝った場合もある。

そして「番狂わせ」とは単なるスポーツ界の出来事に留まらず、社会現象ともなるのだ。

 

番外編

ゼットン×ウルトラマン(地球防衛)

1967年4月9日 ゼットン星人による地球襲来

科学特捜隊日本支部基地付近 〇ゼットン(波状光線)ウルトラマン

 

地球侵略を企む数々の怪獣を倒してきたウルトラマン

しかし、ウルトラマンの必殺技スペシウム光線も、宇宙恐竜ゼットンの前には通用しなかった。

逆にゼットン波状光線によりウルトラマンのカラータイマーを直撃、遂にウルトラマンは初敗北を喫した。

地球を守る絶対的ヒーローが悪の怪獣に敗れる、これ以上の番狂わせはあるまい。

だが、ウルトラマンの死後に科学特捜隊の岩本博士が開発したペンシル爆弾により、ゼットンは一発でアッサリ破壊された。

ウルトラマンですら勝てなかったゼットンに、いつも怪獣に歯が立たなかった科特隊が圧勝したというは、史上最大の番狂わせと言えるだろう。

そして、ウルトラマンが負けるシーンを目の当たりにした子供の頃の前田日明は、ゼットンを倒すべく格闘家への道を歩むのだった。

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シルクロードの終点・平城京

奈良市世界遺産

詳しい情報はこちらのバスサガスから↓

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藤原京と大和三山~後編

藤原宮跡の周辺をご紹介。

詳しい情報はこちらのバスサガスから↓

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”永遠の学園”PL学園・甲子園優勝物語⑦~鉄壁の春夏連覇編

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毎年8月1日に行われるPL花火芸術(大阪府富田林市)

 

★1987年夏(阪神甲子園球場
 第69回全国高等学校野球選手権大会

●一回戦

中央 000 020 000=2
PL 100 001 05x=7

 

●二回戦

九州学院 000 002 000=2
P  L 222 000 10x=7

 

●三回戦

高岡商 000 000 000=0
P L 300 010 00x=4

 

●準々決勝

習志野 000 100 000=1
P L 200 011 00x=4

 

●準決勝

PL 231 200 202=12
帝京 000 210 020=5

 

●決勝

P  L 110 200 001=5
常総学院 000 000 110=2

 

センバツ制覇で自信を付ける

桑田真澄(元:巨人ほか)、清原和博(元:西武ほか)という、いわゆるKKコンビが抜けた翌年はセンバツ初戦敗退、夏の甲子園は不出場となり、暗雲が立ち込めたPL学園(大阪)。

しかし2年後の1987年に春のセンバツで優勝し、PLは再び高校野球の頂点に返り咲いた。

特にこのチームは、秋季大阪大会で3位、近畿大会では準決勝敗退と決して下馬評は高くなかっただけに、センバツ優勝ですっかり自信を付けたのである。

 

春季大阪大会では、センバツで腰を痛めていたエース左腕の野村弘(現:弘樹。元:大洋・横浜)を休ませて、センバツではリリーフ・エースとして活躍した右腕技巧派の岩崎充宏を中心とした投手陣で勝ち進み、優勝。

続く近畿大会でも、圧倒的な強さを発揮して近畿王者となったのである。

 

打線では、センバツ二塁打を量産し、打撃開眼した片岡篤史(元:日本ハムほか)が四番に上がってきた。

筆者は、片岡の中学時代を知っている人から聞いたことがあるが、その頃はハッキリ言って大した選手ではなかったらしい。

センバツでも下位の七、八番を打っていた。

 

センバツまで四番に座っていたのは深瀬猛

前年夏の甲子園では二年生ながら浦和学院(埼玉)の主砲として活躍していた鈴木健(元:西武ほか)と並び称され、「左(東)の鈴木健、右(西)の深瀬」と呼ばれるほど、深瀬はプロ注目の長距離砲だった。

その深瀬を押しのけて四番の座を奪ったのだから、片岡の急成長ぶりがわかるだろう。

なにしろ片岡は、PL卒業後は同志社大を経てプロ入り、日本ハム・ファイターズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)が誇ったビッグバン打線の中軸を担うようになるのだから。

もっとも、キャプテンだった立浪和義(元:中日)は後に「アッちゃん(片岡のこと)が四番やねんから、全然強力打線とちゃうやん」と憎まれ口を叩いていたが……。

 

しかし、片岡が四番に入ることによって、立浪―片岡―深瀬という左・左・右のクリーンアップ・トリオが完成、センバツでは五番を打っていたピッチャーの野村を七番に下げて、打線は厚みを増した。

さらに投手陣は野村の腰痛が癒えて、岩崎は春季大会で経験を積み、右腕本格派・橋本清(元:巨人ほか)の剛速球もますます冴えてきた。

近畿大会に優勝したからと言って大阪ではシード校制度はないのだが、夏の大阪大会ではもちろんダントツの優勝候補に挙げられていたのである。

 

◎苦しんだ夏の大阪大会

だが、日本一のレベルを誇る大阪は、そう甘くなかった。

四回戦では、強豪の上宮に先発の野村が捕まり、2回で3点を失ってKO。

しかし、片岡や深瀬のホームランなどで逆転に成功、投手は橋本―岩崎と繋ぎ、8-5で上宮をなんとか振り切った。

 

準決勝は公立校の桜宮。

今度は好調だった打線が苦しみ、苦戦するも3-0でなんとか桜宮を下す。

朗報だったのは、野村が9回完投、さらに完封したことだった。

8月1日のこの日、PL学園がある大阪府富田林市では教祖祭PL花火芸術(トップ写真参照)が開催された。

毎年恒例の行事とはいえ、まるで甲子園出場の前祝いのようだった。

ちなみに夏の甲子園不出場の年は、硬式野球部員は花火終了後の清掃を強いられる。

筆者はこのアルバイトをしたことがあるが、バイト料は一晩1万円で(夜食付き)、その仕事をPL野球部員はタダ働きさせられるのである。

 

決勝の相手は「打倒PL」に燃える近大付。

近大付は後年に甲子園制覇を果たすことになるが、この頃は常に大阪大会の上位に食い込むも、あと一歩のところでいつも甲子園出場を逃していた。

その大きな壁となっていたのがPLだったのである。

特に1983年には秋季近畿大会で準決勝に進出し、翌春のセンバツ出場は当確と思われていたものの、KKコンビのPLに2度続けて2ケタ失点の大敗が問題となり「投手力が弱すぎる」ということでセンバツ出場はならなかった。

だから、近大付の合言葉は「甲子園に出よう」ではなく「PLに勝とう」だったのである。

その執念が近大付のエース・門脇太に乗り移った。

PLの強力打線を0点に抑えていく。

一方のPL先発の野村も好投、0-0のまま遂に9回裏、PL最後の攻撃となった。

ここでPL打線は集中力を見せ、一死から三連打で一死満塁とした。

打者の野村が放った打球はセンター前へ。

PL得意のサヨナラ・ゲームで甲子園行きを決めた。

甲子園を含む今夏の大会で、PLが最も苦しんだのがこの近大付戦である。

そのため、この年の近大付は「幻の全国2位校」と呼ばれた。

 

◎春とは対照的な戦いぶり

夏の甲子園にやって来たPL、もちろん春の大会前とは違い優勝候補の大本命だった。

その象徴的な存在だったのが、春は腰痛で苦しんだエース野村である。

大阪大会の準決勝と決勝では2日続けての完封勝利、完全復活を遂げていた。

大会の焦点はただ一つ、PLの春夏連覇を阻む高校はどこか、である。

 

この大会は、好投手が目白押しだった。

大会№1の剛腕と噂された尽誠学園伊良部秀輝(元:ロッテほか)、伊良部と並ぶ速球派と言われていた佐賀工(佐賀)の江口孝義(元:ダイエー)、1年夏から甲子園のマウンドに立っている沖縄水産(沖縄)の上原晃(元:中日ほか)、総合力№1・東亜学園西東京)の川島堅(元:広島)、北の鉄腕・函館有斗(現:函館大有斗南北海道)の盛田幸妃(元:大洋ほか)など。

だが、PLの野村、橋本、岩崎の投手陣は、彼らに全く引けを取らなかった。

実際に、野村と橋本は高校卒業後にプロ入りし、岩崎はプロ入りしなかったものの常にプロから狙われる存在だったのだ。

全国的にも10本の指に入る投手が、PLには3人もいたわけである。

 

PLは大会初日から登場、中央(現:中央中等、群馬)と対戦した。

中央は初出場の県立校ながら、監督は1978年春のセンバツで甲子園史上初の完全試合を達成した松本稔ということで注目を集めていたが、下馬評では圧倒的にPLが上。

だがPLは初回にいきなり1点を先制したものの、5回表に野村が捕まり、2点を奪われて逆転された。

PLは6回裏に1点を返して同点に追い付くが、楽勝の予想が大きく外れて大苦戦。

しかし8回裏、一死満塁からセンバツでラッキー・ボーイだった六番・長谷川将樹の右前打で勝ち越すと、七番・野村の三塁打など打線が爆発し一挙5点、守りでも6回以降はリリーフ登板の橋本がキッチリ締めて、7-2で善戦の中央を退けたのである。

野村の不調は誤算だったが、腰痛が治ったことで野村が降板しても春と違ってそのまま外野守備に就くことができ、打線の厚みが変わらなくなったことは大きな成果だった。

試合後、PLの中村順司監督は逆転された場面について「選手を信頼するしかなかった」と語っている。

 

ノーマークの中央に苦戦したことで、PLは一皮むけた。

二回戦の相手は強豪の九州学院(熊本)。

PLは初回、立浪の2ランで2点先制。

2回裏には今夏から一番打者となった、センバツでホームランを放っている尾崎晃久の2ランで4-0と突き放す。

さらに3回裏には右の長距離砲・五番の深瀬が甲子園初ホーマーとなる2ラン。

なんと、初回から3イニング連続2ランでPLが6-0と圧倒的優位に立つ。

PL先発の野村が6回表に2点を失うとすぐさま岩崎にスイッチ、九州学院打線の火を消し止めて、結局はPLが7-2で九州学院を一蹴した。

 

三回戦は北陸の名門・高岡商(富山)と対戦。

初回、PLは五番の深瀬がレフトのポール際へ2試合連続ホームランとなる3ランを放って3点先制。

さらに5回裏には深瀬が今度は流し打ち、右翼線タイムリ二塁打で4-0とリードを広げる。

PL先発の野村は内角速球で高岡商を7回まで無失点に抑えるが、8回表には先頭打者に三塁打を許し、無死三塁の大ピンチ。

ここでPLの中村監督は伝令を送り、「1点取られたら橋本に交代」と野村に告げた。

この通告に野村は発奮、この回を無失点で切り抜け、終わってみれば甲子園初完投、初完封のオマケまで付き、4-0で高岡商を破ってベスト8に駒を進めたのである。

野村のみならず、この年のPLにとって、センバツを含めて甲子園で初めての完投投手となった。

 

準々決勝の相手は、夏の甲子園2度の優勝を誇る公立校の星・習志野(千葉)。

習志野は三回戦で大会屈指の剛腕・佐賀工の江口を3回KOし、12-4で大勝している。

その「速球に強い」習志野打線に対し、PLの中村監督は江口と並ぶ速球派・橋本を先発マウンドに送った。

「投げたくてウズウズしているのがわかった(中村監督)」という甲子園初先発の橋本は、初回から豪快に飛ばした。

一番打者の城友博(元:ヤクルトほか)から3者連続三振のスタート。

その裏、PL打線は習志野のエース綿貫健一の立ち上がりを捉え、いずれも左中間を破る立浪の三塁打と片岡の二塁打で2点先制、左打者の流し打ちがアンダースローを攻略した。

5回裏には、捕手ながらこの試合から二番に上がった好調・伊藤敬司二塁打を足掛かりに1点追加、6回裏にも伊藤のタイムリーで4点目を奪う。

橋本は4回表に1点を失ったものの、11奪三振の力投で甲子園初完投を飾った。

この試合のヒーローは完投勝利の橋本と、女房役の捕手・伊藤のバッテリー。

「PL唯一の弱点は捕手の肩」と言われながら、ベース一周14秒0の城をはじめ、過去3試合で12盗塁と走りまくった習志野を相手に1盗塁を許したものの、1人は刺した。

あまり盗塁を仕掛けなかった習志野について、伊藤は「僕の強肩に恐れをなして走って来なかったのでしょう」といたずらっぽく笑った。

センバツでは打撃不振だったうえにサインの見逃しがあったため、決勝戦は控え捕手の松下仁彦にマスクを譲ったが、夏にその失敗を取り返したと言える。

父親読売ジャイアンツの辣腕スカウトだった伊藤菊雄。

伊藤はPL卒業後も大学、社会人で野球を続けていたが2015年、父の菊雄が亡くなった2ヵ月後に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病により死去。

46歳という若さだった。

 

◎芝草攻略の秘訣

準決勝は、センバツ準々決勝で延長11回サヨナラ勝ちした帝京(東東京)との対戦。

春の雪辱に燃える帝京のエース芝草宇宙(元:日本ハムほか)は二回戦の東北(宮城)戦でノーヒット・ノーランを達成、準々決勝まで3試合連続完封と調子を上げてきている。

この二都決戦が事実上の決勝戦と言われていた。

 

さらに、PLには一抹の不安があった。

これまでファースト片岡、サード深瀬だったのが、この試合ではファースト深瀬、サード片岡と守備変更を行っていた。

実は準々決勝の習志野戦で、一塁走者の深瀬が牽制球で帰塁した時に右肩を脱臼してしまったのである。

だが深瀬は準決勝も五番打者として強行出場、とはいえ一塁送球もままならなかったのでファーストに就いたのだった。

 

1回表、PLは二番の伊藤が右中間へ三塁打を放ち、一死三塁のチャンスで打席には三番のキャプテン立浪。

立浪は甘く入ったカーブを狙い打ち、今大会2号となるライトへの2ランにより、PLが2点先制した。

この試合で中村監督が出した指示は「打順が奇数の打者は変化球、偶数打者はストレートを狙え」という、相手投手に狙い球をわからせない作戦だった。

2回表、さらにPL打線は芝草に襲い掛かり、二死無走者から5連打で一挙3点、芝草をKOし5-0と試合を有利に進める。

3回表には右腕を使えない五番の深瀬が左腕一本でライト前ヒット、七番・長谷川の左越え二塁打で1点追加、そして4回表にも深瀬がスクイズを決めて8-0の一方的リードとなった。

ただし、今秋のドラフト上位指名確実と言われていた深瀬は脱臼のためプロ入りは断念、大学および社会人で野球を続けるも右肩に脱臼癖が付いてしまい、右打者では大会№1の長距離砲もプロ入りすることはなかった。

 

PL先発の野村は4回裏に2点、5回裏に1点を失い橋本と交代。

野村は完投できなかった悔しさをバットにぶつけ、7回表には右中間へ甲子園初ホーマーとなる2ランを叩き込み、強打者ぶりを見せ付けた。

橋本は8回裏にランニング・ホームランを浴びて2点を失うも、大量リードに守られてゆうゆう交代完了。

結局、PLは12-5の完勝で難敵中の難敵・帝京を返り討ちにした。

 

◎因縁の監督対決

勝戦の相手は初出場の新興校・常総学院(茨城)。

常総学院は今春のセンバツにも初出場しているが、実は補欠校で東海大浦安(千葉)の出場辞退による代替出場であり、明石(兵庫)に0-4と全くいいところがなく初戦敗退している。

夏の甲子園でもほとんどノーマークだったが、エースの島田直也(元:日本ハムほか)を中心にあれよあれよと勝ち上がり、遂に決勝まで進出してきた。

しかも、決して相手に恵まれたわけではなく、二回戦では上原を擁する沖縄水産を7-0、三回戦では剛腕・伊良部の尽誠学園を6-0といずれも完勝、準々決勝では名門・中京(現:中京大中京、愛知)に7-4で逆転勝ち、準決勝では大会№1投手の川島を擁する東亜学園に延長10回の末サヨナラ勝ちしての、堂々たる決勝戦進出。

その原動力となったのが、朴訥とした茨城弁で有名だった木内幸男監督である。

 

3年前の1984年夏の甲子園、KKコンビ二年時のPLは決勝に進出し、県立の取手二(茨城)と対戦した。

試合前の予想ではPL有利だったが、延長10回の末に取手二が8-4でPLを下したのである。

その時の、取手二の監督だったのが木内だった。

取手二はノビノビ野球で絶対王者のPLを翻弄、その手腕は「木内マジック」と呼ばれた。

だが、取手二を甲子園初制覇させた直後に「公立校では強力チームを毎年作ることは困難」と新設校の常総学院に転校したのである。

自らを「プロの高校野球監督」と呼び、その野球理論はプロ野球の指導者でも敵わないと言われ、この試合で一年生ながら三番打者の重責を担った仁志敏久(元:巨人ほか)は「プロ、社会人、大学を含めて、木内監督以上に野球を知っている人はいなかった」と語っている。

「戦略の知将」木内監督と、3年前のリベンジを図る「奇策を好まない技術屋」中村監督との、監督対決も注目された。

 

PLは、右肩脱臼の深瀬が遂にスタメンを外れ、代わってサードに入ったのが二年生の宮本慎也(元:ヤクルト)。

1回表、PLは二死一、三塁のチャンスで、この日は深瀬欠場で五番に上がって来た長谷川。

センバツで勝負強い打者に変身した長谷川は中前打を放ち1点先制。

さらに2回表には、深瀬の代役・宮本の三塁打をきっかけに1点追加、そして4回表に夏は九番に下がっていた蔵本新太郎三塁打と一番・尾崎の犠牲フライで4-0とリードを広げる。

 

PLの先発・野村は安打を許すも要所を締め、6回まで無失点ピッチング。

しかし7回裏、尾崎の悪送球により1点を失うと降板、リリーフに出て来たのは橋本ではなく、二回戦以来の登板となる岩崎。

常総打線は上原や伊良部といった剛球投手を打ち崩しており、橋本のような速球には強いと判断したのだろう。

岩崎は後続を断ち、8回裏には1点を失うものの、4-2で2点リードのまま最終回を迎えた。

 

9回表、またもや長谷川の中前適時打で1点を加えたPLは3点リードで優勝に保険を掛けた。

9回裏、常総学院最後の攻撃で、マウンドに立つのは「第三の投手」岩崎。

粘る常総学院は一年生・仁志のバント・ヒットなどで無死一、二塁のチャンスを作る。

「最後はお前に投げさせる」と中村監督は野村に言っていたがそのまま岩崎が続投、四番、五番を連続三振に打ち取った。

そして最後の打者はショート・ゴロ、キャプテン立浪が捕って二塁の尾崎にトス、5-2で常総学院を破った。

PL学園、遂に史上4校目となる春夏連覇の偉業を達成!(2017年春現在では計7校)

 

この試合のヒーローは深瀬の代わりに五番打者となった長谷川であり、深瀬の代役でこれまでほとんど出番がなかった二年生の宮本であり、胴上げ投手となったのは登板機会が少なかった岩崎だった。

「それまではほとんど投げてなかったのに、一番オイシイところを持って行ってしまって……」と岩崎は照れていたが、脇役が活躍した夏の決勝戦こそが、この年のPLを象徴していたと言える。

 

キャプテンの立浪は「僕たちの代の三年生は春と夏、どちらかの優勝メダルを全員が持っている。それが一番嬉しい」と語っていた。

春夏連覇を達成したPL学園の33期生は17名が全員、春と夏の甲子園でどちらかに必ずベンチ入りしているのだ。

しかも全員が、何らかの形で試合に出ているのである。

春のセンバツではベンチ入りメンバーから漏れた中西聡は、夏の甲子園では6試合中4試合にレフトとして先発出場していた。

やはり春にはベンチ入りしていなかった住野弘亘は、33期生の中では珍しい近畿以外(香川)の出身で、夏の甲子園では九州学院戦で代打出場、1打数1安打と10割の打率を残している。

逆に、センバツ決勝では先発マスクを被り「優勝キャッチャー」となった松下は、夏の大阪大会直前で盲腸になってしまい、夏はベンチ入りから外れた。

同じくセンバツではレフトのレギュラー、セカンドも経験した西本篤史も、大阪大会決勝で右手人差し指を負傷し、夏の甲子園を諦めている。

成松紀彦センバツでは代打と代走で2試合に出場、死球を浴びただけで打数は無し、夏は大阪大会からメンバーを外れた。

センバツでは代走のみで1試合に出場した吉本守も夏の大阪大会でベンチ入りから外れ、甲子園に出場しない選手を集めた在日韓国人チームのキャプテンに就任し、夏休みには韓国に遠征して「韓国版・夏の甲子園」こと鳳凰大旗全国高等学校野球大会に出場している。

残念だったのは、二年夏に急死した南雄介が甲子園の土を踏めなかったことだ。

 

夏の甲子園の閉会式後、ベンチ入りした15人のメンバーは深紅の大優勝旗を持った立浪主将を先頭に、優勝行進で甲子園を一周した。

センバツには出場しながら、夏の甲子園ではベンチ入りから外れた三年生たちがいる一塁側のアルプス・スタンドでは、PLにとって初めてとなる「春夏V」の人文字が躍った。

 

◎KK世代と連覇世代、どっちが強い?

苦戦続きだった春と違い、夏のPLは盤石の優勝だった。

6試合でリードを奪われたのは中央戦の1試合、しかも1イニングだけ。

さらに6試合全てで初回に点を奪うという、常に先手を取る楽な試合運び。

エース級3人を持つ贅沢な投手陣、上位から下位まで全くムラが無く一発あり小技ありの打線、水も漏らさぬ堅い守備は「総合力野球」「鉄壁野球」と呼ばれた。

春は「逆転のPL」を再現する粘りの野球、夏は選手層の厚さを利し安定した強さを見せ付けた野球。

 

ここで疑問となるのが「桑田、清原のKK世代と春夏連覇世代、どちらが強いのか?」ということだ。

キャプテンの立浪らは口を揃えてこう言う。

「僕らの世代は全然大したことない。そりゃ桑田さんや清原さんらの方がずっと強いですよ」

一方の清原はどうか。

「10試合すれば6勝4敗でアイツらが勝ち越すやろ。でも、甲子園での一発勝負やったら俺らが勝つ」

中村監督はこう答える。

「そんなこと、監督の私からはよう言いません。でも、どうしても答えろと言うのなら……。ここは先輩を立てて桑田、清原らということにしときましょか」

 

プロ(NPB)入りの人数で言えば、KK世代は桑田、清原、松山秀明内匠政博今久留主成幸の5人。

一方の連覇世代は野村、橋本、立浪、片岡の4人(二年生の宮本は除く)でKK世代の勝ち。

ただ、連覇世代では深瀬が右肩脱臼さえなければプロ入りは間違いなかったと思われ、さらに岩崎もプロ入り寸前まで行っていた。

KK世代では、前述の5人の他にプロ入りの可能性があったのは、将来性を買って身長192cmの控え投手・田口権一ぐらいではないか。

しかも、連覇世代の4人は全員がプロで活躍したが、KK世代で実績を残したのは桑田と清原の2人だけだった。

 

桑田真澄実弟で連覇世代の桑田泉は中学時代、エースで四番として活躍し「兄の真澄より上ではないか」と言われて鳴り物入りでPLに入学した。

その桑田泉が入学直後のインタビューで「投げる方では橋本、打つ方では深瀬が凄いんです」と、自分の実力は一年生の中でも全然、と答えていた。

実際、桑田泉は怪我もあって実力を発揮することはできず野手に転向、三年時に外野の控えとしてベンチ入りするも、春夏の甲子園での先発出場は3試合に留まった。

つまり、連覇世代にもKK世代に決して劣らない選手が集まっていたのである。

ただそれでも、KK世代が三年生となった1985年、一年生だった連覇世代でベンチ入りした選手は1人もいなかった。

さすがにそこは「戦後最強」と謳われたKK世代の実力が圧倒的だったということか。

 

KK世代の特徴は、良くも悪くも桑田、清原の2人が抜きん出ていたことだ。

もちろん、他のメンバーも実力者が揃っていたが、KKがマークされると途端に機能しなくなる。

その典型となったのが1985年春のセンバツ準決勝、伊野商(高知)戦だ。

清原は伊野商エースの渡辺智男(元:西武ほか)に3三振と完璧に抑え込まれ、桑田も伊野商打線に捕まり、1-3で苦杯を舐めた。

KK世代は、勝つ時には同年夏の東海大山形(山形)戦のように29-7という豪快な勝ち方をするが、反面もろさも併せ持つ。

 

一方の連覇世代は、春にはチーム力が完成してなかったものの伝統の粘りで優勝し、夏は完璧なチームとなって連覇を果たした。

投手陣は、野村が打たれたら橋本、それがヤバいとなると岩崎をすぐに投入するという、タイプの異なる3投手を揃えている。

打線では、立浪がダメでも片岡がおり、片岡がダメなら深瀬、3人ともダメなら脇役がカバーするという選手層の厚さを見せ付けた。

特に夏の連覇世代は、KK世代にはなかった安定した戦いぶりだったのである。

 

「立浪らのチームは、私は何も指示する必要はなかった。私が何かを言う前に、キャプテンの立浪がナインに指示してくれたから」

中村監督はそう語る。

つまり監督の考えていることを、キャプテンは全て理解していたのだ。

こういうチームは強い。

KK世代と連覇世代、どちらが強いか?

その答えは出ない。

条件が違うので、どちらが強いかなんてことは軽々には言えないからだ。

ただ、これだけは言える。

連覇世代の、PLの伝統である粘りの野球と、選手層が厚くスケールの大きな野球がミックスされ、そこに立浪のキャプテンシーが加わった、全くスキがないまさしく「鉄壁野球」。

連覇世代はやはり、中村監督が作り上げた最高傑作のチームだったと言えよう。

 

◎永遠の学園

80年代の高校野球ファンなら誰もが、PLの校歌を口ずさめるだろう。

おそらく、高校では日本で一番有名な校歌だ。

実はこの校歌、硬式野球部のために作られたものである。

1962年、PLは春のセンバツに選ばれ、甲子園初出場を果たした。

ところが、当時のPLには校歌が無かったのだ。

甲子園で勝利すると校歌を歌う決まりがあるので、これは大変だとばかりに慌てて校歌を作ったというわけだ。

そんな「急造校歌」の割には、長年ファンから愛される名曲となったのである。

 

PL学園校歌 
作詞:湯浅竜起 作曲:東信太郎

燃ゆる希望に いのち生き
高き理想を 胸に抱く
若人のゆめ 羽曳野の
聖丘清く 育みて
PL学園 永久(とこしえ)に
向上の道 進むなり
ああ PL PL
永遠(とわ)の学園 永遠の学園

 

www.youtube.com

 

合計96回、この校歌が甲子園の銀傘にこだました。

しかし100回目まであと4勝として、2009年夏を最後に、この校歌は甲子園に流れていない。

2016年、夏の大阪大会で敗退し、部員がいなくなったPL学園高等学校硬式野球部は休部。

そして2017年3月29日、同部は大阪府高等学校野球連盟を脱退した。

 

学校そのものは存続するが、硬式野球部復活の目途は立っていないという。

つまり「永遠の野球部」ではなかったということか。

もしPL学園硬式野球部が活動を再開しなければ、1987年夏が最後の甲子園優勝ということになる。

そして、PL学園の選手がアミュレットの入った胸に手を当てる仕草も、甲子園のアルプス・スタンドを彩る人文字応援も、何よりも全国の人々を感動させた「PL奇跡の逆転劇」も、もう見ることはできない。

 

【完】

 

①野村 弘  三年
②伊藤敬司  三年
片岡篤史  三年
④尾崎晃久  三年
⑤深瀬 猛  三年
立浪和義  三年 主将
⑦岩崎充宏  三年
⑧蔵本新太郎 三年
⑨長谷川将樹 三年
⑩橋本 清  三年
⑪住野弘亘  三年
⑫中西 聡  三年
⑬桑田 泉  三年
宮本慎也  二年
⑮黒木隆司  二年

 

1978年夏

1981年春

1982年春

1983年夏

1985年夏

1987年春

1987年夏