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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」に見る、日本の問題点

テレビ東京系「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」という番組がある。

メイン・パーソナリティが太川陽介蛭子能収、そしてマドンナと呼ばれる女性ゲストを加えた3人で路線バスを乗り継いで行くという、一種の旅番組だ。

「土曜日スペシャル」という枠の番組で、毎週放送しているわけではなく、年に数回しかない。

 

筆者が近年で、最も好きなテレビ番組である。

土曜日の新聞テレビ欄で、この番組名を見つけるとワクワクしたものだ。

そして毎回、まずハズレがない。

 

番組の趣旨は、スタッフが示したスタート地点からゴール地点まで、3人が3泊4日で路線バスを乗り継いで行くというものだ。

しかし、そこには基本的なルールがあって、それは以下の通り。

 

●路線バス以外の交通手段、高速バス、鉄道、タクシー、飛行機、船、自転車、ヒッチハイク等は禁止。コミュニティ・バスや送迎バスはOK

スマホなどインターネットでバス路線を調べるのは禁止。紙の地図や時刻表で調べたり、案内所および運転手や一般の人に尋ねるのはOK

●宿泊施設の確保や撮影交渉は、出演者が自ら行わなければならない

 

かなりガチな旅で、路線バスが繋がらない場合は、出演者は歩いての移動を強いられる。

当然、ゴールまで辿り着けずに番組終了となることも多々ある。

また、時間との勝負となるので、せっかくの名所を通り過ぎることも珍しくはない。

ゴールに辿り着けないわ、名所に立ち寄らないわでは、旅番組としては失格だ。

 

ところが、このガチさが視聴者にはウケた。

今やテレ東にとってドル箱番組である。

他局でも類似の路線バス番組があるが、面白さではテレ東のこの番組が圧倒していると言っても過言ではない。

もちろん、成功するかしないかのスリリングな場面もあるが、場合によっては乗り継ぎが予想以上に上手くいって、制限時間よりも遥かに早くゴールしてしまうこともある。

それでも、この番組は面白い。

 

面白いのは、旅のガチさだけではなく、出演者のやり取りにもあるだろう。

常に地図とニラメッコして懸命にルートを探すリーダーの太川陽介と、いつもマイペースの蛭子能収との対比、そしてバス旅の過酷さを知らないマドンナの天然ボケがいい具合に作用している。

さらに、キートン山田の絶妙なナレーションも聴き逃せない。

蛭子能収のあまりの我がままぶりに、太川陽介がマジギレずる場面も何度かあった。

他局のクイズ番組に出演した太川陽介が、司会者から「優勝したら(褒美の)海外旅行は蛭子さんと行きますか?」と訊かれたら「絶対にイヤですよ!」と答えていたぐらいである。

蛭子能収は魚が嫌いで、その土地でしか味わえないせっかくの名物海産料理には目もくれず、トンカツとかオムライスとか(お子ちゃま味覚)、その辺の食堂でも食える物ばかりを注文するなど、これも旅番組では有り得ない。

でも、それもひっくるめて、この番組の魅力だったのだ。

太川陽介蛭子能収のコンビは、まさしく奇跡のコラボである。

 

そして最大のヒットは、路線バスに目を付けたということだ。

鉄道番組ならば、世に鉄ちゃん・鉄子は多いので、鉄道を乗り継ぐ人は珍しくない。

しかし、路線バスを乗り継ぐ人はあまりいないだろう。

普通、路線バスというのは、鉄道駅に行くまで、あるいは鉄道駅から帰るまでの交通機関に過ぎない。

路線バスとは、あくまでも補助的な交通手段だ。

鉄道ならば地図に載っているが、バス路線を地図で探すのは難しい。

しかも、路線バスでは乗り換えができないことが多々ある。

 

路線バスでは、名所に行かないことも多い。

名所ならば、大抵は鉄道で行けるからだ。

むしろ路線バスは、生活のために機能していることが多いのである。

前述したように、この番組では名所を通り過ぎてしまうことも多いが、それ以上に生活感を滲み出す人との触れ合いの方がずっと魅力的だ。

田舎風景はどこでも同じように見えるが、雰囲気はその地域によって絶対に違う。

名所を見て回るよりも、その方が日本の原風景を実感できる。

それが、バスの車窓から伝わってくるのである。

話は変わるが、最近の外国人観光客は、ガイドブックに載っているような名所よりも、日本人が普通に暮らしている街に行きたい人が多いそうだ。

観光地化されている場所よりも、本当の日本を知りたい、というわけである。

 

田舎に行くと、バスが繋がらない。

特に県境近くになると山がそびえているうえ、県によってバス会社が変わってしまうので、県を跨ぐ路線バスは稀なのである。

バスが繋がらなければ、出演者たちは何kmもの道のりを次の県のバス停まで歩かなければならない。

しかも、そのほとんどが峠越えだ。

ここに、この番組の過酷さがある。

 

案内所に行くと、バス路線について詳しく教えてくれたり、他社のバス路線まで電話で尋ねたりしてくれるが、案内所があるのは大きな鉄道駅か、バス・ターミナルぐらい。

田舎に行くと、地元の人に尋ねるしかない。

地元の人は、あやふやな情報ながらも親切に教えてくれる。

その人情に触れるのも、この番組の魅力だ。

 

さらに、田舎の路線バスは1日に数本しか走っていないことも珍しくはない。

乗り継ぎ時間が上手くいかなければ、店もない場所で何時間も待ちぼうけなんてこともある。

そういうこともあるから、1本のバスを逃してしまうと命取りになるのだ。

時間に余裕があれば名所に行くこともあるが、そうでなければバスの時間を優先する理由がわかるだろう。

逆に都会では、バスの本数こそ多いものの、鉄道網が発達しているので長距離バスはなかなかなくて、細切れの移動となってしまう。

 

この番組が始まったのは2007年。

つまり、今年(2017年)で10年目を迎えたわけだ。

そして、この番組を通して日本の問題点が浮かび上がってくる。

 

田舎に行って、土地の人にバス路線を尋ねると、

「あそこまで行けばバスが通ってるよ」

と教えてくれる。

ところが、そこまで行くとバス路線は既に廃止となっているのだ。

そういうケースが多くなってきた。

 

太川陽介は、バス路線に困った時のコツとして、

「病院を探せばいい」

と語っている。

病院には大抵コミュニティ・バスが通っているので、そこからバス路線が繋がる可能性が高い、というわけだ。

 

10年前に比べて廃止路線が多くなった現実と、病院がコミュニティの場になった現実。

これは、日本の過疎化および高齢化以外の何物でもない。

もはや日本は、田舎では暮らしていくことは困難になり、唯一の公共機関は病院となってしまっているのだ。

路線バスに代わって登場したコミュニティ・バスも、マイクロバスというよりは単なるワゴン車になっていることも珍しくはない。

それでも、ワゴン車があるだけでもマシだ。

日常の食料品だって、田舎からは商店が無くなり、大手スーパーがある市街地に行かなければ買い物すらできない。

元々は鉄道路線が無い田舎、路線バスも無くなって、マイカーがある人なら何とかなるが、そうでない人はどうする?

しかも現代では、高齢者のドライバーによる事故が多発しているので、高齢者に車の運転をさせるな!なんて運動も起こっている。

過疎化・高齢化した田舎は、路線バスが廃止になり、車の運転すらままならず、ますます暮らしにくくなっているのだ。

生き延びたければ、便利だが物価の高い都会に出て来い、ということなのだろうか。

こうして一極集中化が加速するという、負のスパイラルだ。

それが、この番組を通してよく見えてくるのである。

 

2017年1月2日の放送をもって、太川陽介蛭子能収は卒業した。

この二人の迷コンビが見られなくなるのは残念だが、次のパーソナリティは路線バスでどんなドラマを魅せてくれるのだろうか。

 

第21弾のバス・ターミナルとなった、南海高野線堺東駅

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アドバンテージ・オーバー

週刊ベースボールの1月30日号「ルール教室」のコーナーで、こんな質問が載っていた。

 

二死一、二塁で、投手がセットポジションから静止せずに投球したため球審がボークを宣告、しかし打者はその球を打って外野を抜ける長打となった。

打者走者は二塁に達し、二塁走者と一塁走者はホームインしたが、守備側が「一塁走者は二塁ベースを踏んでいなかった」とアピールした。

この場合、得点は認められるか?

 

あなたが球審なら、どう判定するだろうか。

①元々はボークだったので、打者が打った行為は無効になり、ボークを優先して二死二、三塁で再開、打者は打ち直し。

②ボークの球を打ったのはいいが、攻撃側に利益が無かったので、ボークを優先して二死二、三塁で再開、打者は打ち直し。

③ボークの球を打っても、安打となったのでボークは無効、一塁走者はアピールアウトとなるが二塁走者は生還しているので、1点が認められて3アウトでチェンジ。

④ボークの球を打っても、安打となったのでボークは無効、二塁走者が生還しても一塁走者が二塁でアピールアウトだったので、無得点となり3アウトでチェンジ。

⑤元々はボークだったため、塁にいる走者は安全進塁権を得たのでアピールアウトは成立せず、2点入って二死二塁で次打者の打順。

⑥ボークを優先するか、打者が打った結果を優先するか、攻撃側が選択できる。

 

さあ、あなたの判定は?

正解は、④の無得点となり3アウトでチェンジ、である。

 

公認野球規則には、

「ボークにもかかわらず、打者が安打、失策、四球、死球、その他で一塁に達し、かつ、他のすべての走者が少なくても1個の塁を進んだときには、このペナルティの前段を適用しないで、プレイはボークと関係なく続けられる」

と書かれている。

さらに、

「(a)項ペナルティを適用するに際して、走者が進塁しようとする最初の塁を空過し、アピールによってアウトを宣告されても、1個の塁を進んだものと解する」

とあるのだ。

 

つまり、上記の場合では、ベースの空過は「進塁」となるので安打となりボークは無効、3アウト目がフォースアウト扱いとなるので二塁走者の得点も無効ということになる。

守備側のアピールが無ければベースの空過は不問になるので、進塁となるのは当然であろう。

もちろん、これが一死の場合だったら、一塁走者のアピールアウトは2アウト目になるので、二塁走者の生還は認められて1点は入る。

さらに、二死の場合でも、一塁走者の空過が三塁ベースだったら、フォースアウトではなくなるので、先に生還した二塁走者の得点は認められ、1点入ってチェンジということだ。

 

これはちょっと、ラグビーアドバンテージ・ルールに似ている。

ラグビーでは、反則があってもレフリーは直ちに笛は吹かず、しばらく試合の成り行きを見て、そのままプレーを続けさせる。

これをアドバンテージ・ルールという。

アドバンテージを見ていて、反則された側に利益がないとレフリーが判断すれば、そこで初めて反則の笛を吹くわけである。

もし、反則された側が不利益を被らなかったとレフリーが判断すれば、その時点でレフリーは「アドバンテージ・オーバー!」と叫び、前の反則はチャラとなる。

 

つまり野球で言えば、ボークにもかかわらず打者走者が一塁に達し、他の走者が1個以上の塁に進んだ場合はアドバンテージ・オーバーとなるわけだ。

つまり、この時点でボークは解消、走者が塁を空過したのは攻撃側の責任となる。

もちろん、打者がボークの球を打ってアウトになれば、ボークが優先されるのは当然だ。

 

このあたり、野球とラグビー(あるいは他のスポーツも)は似ている部分はあるが、根本的に違うこともある。

それは、審判の役割だ。

 

野球のアンパイアは、反則があった場合はそれを取り締まる役目がある。

しかしそれは、反則をさせない、ということではない。

たとえば、先述した走者による塁の空過であっても、守備側のアピールが無ければアウトとはならない。

アンパイアがたとえ塁の空過に気付いていても、それを言ってはいけないのだ。

逆に言えば、守備側が気付いていなければ、走者は塁を空過してもいいということになる。

これはタッグアップについても同じで、塁にリタッチしていなくても(離塁が早い)アピールが無ければ、アウトにはならない。

 

もっと極端な例を言えば、打順を間違えていた場合でも、アンパイアはそれを言ってはならないのである。

打順間違いの訂正は、アンパイアではなく守備側のアピールによって成立するのだ。

「おいおい、キミは四番打者だろ。今は三番の打順だぞ」などとは、アンパイアは口が裂けても言ってはいけないのである。

野球では基本的に、アンパイアであっても私語は禁止だ(もっとも、それが守られていない場面が多々あるが)。

 

それに対し、ラグビーではレフリーが絶えず選手に話しかけている。

「4番、前に出過ぎ。オフサイド(の反則)を取るよ」

「(タックルが成立して)ボールを離せ!(ボールを離さないと反則)そう、それでいいよ」

「3番の頭が下がり気味だから、頭を上げてしっかりとスクラムを組みましょう。その前のスクラムは良かったよ」

などと、スクラムの組み方まで指導するのだ。

 

また、反則が続いたりすると、レフリーがそのチームのキャプテンを呼んで、

「こういう反則が続いているから、気を付けてプレーしてください。それを選手たちにも説明して」

と言って、レフリー本人ではなくキャプテンに注意させるのである。

 

最近のラグビー中継ではレフリーにマイクを付けているので、何を喋っているのかテレビ視聴者にもわかるようになっているが、たまたまラグビー中継を見ていたプロ野球の審判員である平林岳はビックリしたそうだ。

審判がこれだけ選手に語り掛けるなんて、野球では有り得ない、と。

フルコンタクト球技では、これが当たり前なのだろうか、と平林は感想を漏らしていた。

(どうでもいいことだが、ラグビーには平林泰三というレフリーがいる。「平林」という苗字は”審判の姓”なのだろうか?)

 

しかしこれは、フルコンタクト球技の特徴ではないだろう。

たとえば、ラグビーと同じくフルコンタクト球技のアメリカン・フットボールでは、審判がラグビーのように選手には話し掛けない。

むしろ、野球と同じようなスタンスである。

反則があった場合には、直ちにイエローフラッグが飛び、プレーが止まると審判団が協議して罰則を決める。

その反則に関して、選手に説明したりはしない。

 

これは、フルコンタクト球技か否かではなく、アメリカとイギリスの違いが大きいと思う。

アメリカはご存知のように新興国家であり、移民から成り立っている多民族国家である。

つまり、アメリカは異なる価値観や宗教観を持った人たちが集まった国家なので、平等な社会を作るために確固たる法律を作る必要があった。

そのため、あらゆる場面を想定して細かい法律を作り、それに反した場合はそれ相応の罰則を与えたのである。

そのかわり、罰を受ければ後は問わない、というのがアメリカ社会だ。

それが、アメリカ生まれのスポーツである野球やアメフト、そしてバスケットボールに反映されている。

 

野球は元々反則の少ないスポーツだが、アメフトやバスケットは反則だって立派な戦術の一つだ。

バスケットでは、試合終盤に負けているチームがわざと反則して、相手にフリースローさせ、失敗すればリバウンドを獲って逆転を狙う。

アメフトでも、わざと反則して時計を進めたりするのは常套手段である。

多少の罰則を受けても、その方が有利だからだ。

反則しても、それ相応の罰を受ければ文句はないでしょ、というのがアメリカの考え方である。

 

一方、イギリスは歴史の古い貴族社会だ。

基本的に、イギリスでは常識から外れたことをするのは恥ずかしい行為であり、そのためイギリスの法律は細かいことを規定せず、慣習法と呼ばれる。

つまり、法律は常識に則ればいいという考え方だ。

それがイギリス生まれのラグビーにも、よく反映されている。

ラグビーでは、反則とは汚い行為ではなく、ゲームの面白さを奪う行為である、とされるのだ。

反則をその都度とっているとゲームがブツ切れになり、面白くなくなるということで採用されたのがアドバンテージ・ルールである。

これは、同じイギリス生まれのサッカーにもあり、プレーを継続させるのが目的だ。

アドバンテージ・ルールというのはレフリーの裁量に任されており、ある意味曖昧である。

その曖昧さが、アメリカ人には納得できない。

 

ラグビーでは、ノックオンという軽微な反則がある。

ボールを前に落としてしまうというミスプレーに近い反則であり、相手ボールのスクラムになるという、さほど重大な反則ではない。

ところが、相手の攻撃を妨げるためにわざとノックオンすると、これはインテンショナルノックオン(故意のノックオン)という、極めて重大な反則となる。

相手にペナルティ・キックを与えるという重い罰則になるのは当然だが、場合によってはペナルティ・トライ(反則が無ければトライとなっていたと判定される認定トライ)になったり、あるいはシンビン(10分間の一時的退場)になったりするのだ。

ラグビーでは、わざと反則するのは最低の行為とされる。

「同じノックオンなのだから、軽微な罰を受ければいいんでしょ」なんて考え方は通用しない。

そして、反則をさせないようにレフリーが試合をコントロールする、というのがラグビーである。

反則が無ければ、それだけプレーが動いて、ゲームが面白くなるのだから。

 

つまり、アメリカ生まれのスポーツでは、反則は取り締まるべきもの、という考え方である。

しかし、イギリス生まれのスポーツでは、反則はさせないようにする、という考え方だ。

そのため、アメリカ生まれの野球では、アンパイアは反則があってもアピールがあるまで何も言わないし、イギリス生まれのラグビーでは、レフリーは反則をさせないように選手に対して絶えず語り掛ける。

 

ある意味、アメリカではスポーツとは勝つためにやるもの、イギリスではスポーツとは楽しむためにやるもの、というスタンスなのかも知れない。