
今年(2025年)は、東京ドームでメジャー・リーグ(MLB)の開幕シリーズが行われる。
ロサンゼルス・ドジャースとシカゴ・カブスとの対戦だ。
両チームとも日本人選手が多く在籍しているので、商売になると判断されたのだろう。
それにしても、MLBにこれだけ日本人選手が在籍するなんて、少なくとも昭和の時代では考えられなかったことだ。
日本人初のメジャー・リーガーはマッシーこと村上雅則投手で、1964年に南海ホークス(現:福岡ソフトバンク ホークス)の留学生としてサンフランシスコ・ジャイアンツの1Aチームであるフレズノ・ジャイアンツに派遣される。
マイナー・リーグとは言え頭角を現した村上は、その年の9月にセプテンバー・コールアップ(MLBのシステムで、9月1日からベンチ入り人数が25人から40人に拡大されること)により、1Aからメジャーへ異例の3段階飛び級。
その年に日本人として初勝利を挙げ、翌年もMLBでプレーした村上は通算5勝を記録して次の年からは南海へ戻り日本でプレーした。
村上がMLBに在籍して以来、30年間も日本人メジャー・リーガーは現れていない。
それだけ、日米の野球実力差は大きかったのだ。
村上が、高卒2年目の無名選手だったにもかかわらずMLBで通用したのは、村上が当時としては珍しかったリリーフ専門の投手だったことと、左のサイド・スローということで、かなり希少価値が高かったのが理由として挙げられるだろう。
村上が通用したのだから、当時の日本野球でもMLBで活躍できるほどの実力ある選手はいたと思われるが、それでもタイトル・ホルダーになることはできなかったのではないか。
1970年代以前、2年に1度ぐらいの割合でMLBの単独チームが来日して、NPBの各チームと対戦していた。
いわゆる日米野球である。
昭和の日米野球で、MLBチームが負け越したのは1970年のジャイアンツ(3勝6敗)だけで、この時はシーズン前のオープン戦という意味合いが強かったのだ。
それ以外ではMLBチームがNPBチームを圧倒していたが、たとえば村上がメジャー・リーガーとなる6年前の1958年、セントルイス・カージナルスが来日した。
対戦したのは、全て全日本チーム。
この時の全日本には、400勝投手の金田正一(国鉄スワローズ=現:東京ヤクルト スワローズ)、神様仏様と並び称された稲尾和久や怪童の中西太(いずれも西鉄ライオンズ=現:埼玉西武ライオンズ)や、この年は新人ながらホームラン王となった長嶋茂雄、そして杉浦忠や野村克也(いずれも南海)など、錚々たるメンバーが揃っていたのである。
それでも、カージナルスの14勝2敗と、日本のスーパースター連中が束になってかかっても全く歯が立たなかったのだ。
その2年後の1960年には、まだ村上が在籍していなかった頃のジャイアンツが来日。
この時もジャイアンツは11勝4敗1分けとNPBチームを問題にしなかったが、日本側には外国人投手として初めて100勝を達成したジョー・スタンカ(南海)がいた。
大阪球場の試合で、スタンカは全日本の先発として登板したものの、一死も取れずに降板して自責点6という散々な内容。
スタンカは、その4年後には26勝を挙げるなど杉浦に変わる南海のエースとして活躍したものの、MLBでは0勝1敗と鳴かず飛ばずだったのだ。
スタンカと同年代に、やはりNPBで通算100勝を挙げ、1964年には29勝で外国人投手初の沢村賞に輝いたジーン・バッキー(阪神タイガース)にいたっては、MLB経験すらなかった。
当時のNPBのレベルは、3Aはおろか2Aクラスだったと思われる。
その潮目が変わったのは、1980年代に入ってからだろうか。
1981年に来日したカンサスシティー・ロイヤルズは、9勝7敗1分と、あと一歩で負け越すところだった。
ただし、ロイヤルズが対戦したNPBの単独チームは巨人だけで、その他は巨人を中心とした連合軍、あるいは全日本である。
1984年は日米決戦として、前年度ワールドシリーズ優勝チームのボルチモア・オリオールズが来日、その年の日本シリーズ優勝チームである広島東洋カープと対戦した。
結果は、4勝1敗でオリオールズが圧倒したが、それ以外の試合ではやはり巨人および巨人を中心とした連合軍、全日本と対戦して結果は8勝5敗1分。
つまり、広島以外との対戦では4勝4敗1分と五分だったのだ。
この頃になると、全日本クラスならMLB単独チームに勝つのは当たり前とさえ言われるようになり、日米オールスター戦の機運が高まったのである。
そして、その2年後の1986年には、遂にMLBとNPBのオールスター・チームによる日米野球が開催された。
全日本の四番打者は、この年2年連続3回目の三冠王を獲得した落合博満(ロッテ・オリオンズ=現:千葉ロッテ マリーンズ)。
第1戦で、落合はマイク・スコットの速球を叩き、センターやや左へホームラン性の打球を放った。
ホームランは間違いないと確信歩きを始めた落合だったが、打球は失速してフェンス直撃、センター・オーバーのシングル・ヒットとなる。
落合のパワーをもってしても、MLBの速球の前には狭い後楽園球場でもオーバー・フェンスはできなかったのだ。
ちなみに、この頃の日本の球場は両翼91mぐらいで(後楽園は両翼90mという公称だったが、もっと狭かったという説もある)、平均が両翼100mのMLB球場よりも遥かに狭かった。
さらに落合は、第3戦での西武ライオンズ球場(現:ペルーナドーム)では、ジャック・モリスに対して完璧な当たりを放ったものの、やはり打球は失速して平凡なセンター・フライに終わった。
ホームランを確信していた落合はショックのあまり、このシリーズを境に打撃がくるってしまったと述懐している。
逆に、第1戦でMLB選抜のライン・サンドバーグが江川卓から放った一打は、ショート・ライナーと思われた打球がそのままスタンド・イン。
日本ではポパイと呼ばれていた落合の怪力は、MLBの二番打者(当時はMLBでも四番打者が最強だった)にも劣っていたのである。
結局、このシリーズは6勝1敗でMLB選抜の圧勝だったが、それ以上にホームラン数はMLB選抜の19本に対し、全日本は僅かに2本。
落合は「日本はアメリカには半永久的に勝てない」と脱帽し、他の日本人選手も「肉を食ってる彼らには、米を食ってる我々はパワーでは敵いませんね」と敗北宣言した。
この年、落合と同じく2年連続三冠王を獲得したランディ・バース(阪神)は、MLBでは通算9本塁打で、格としては3Aの選手に過ぎない。
2年前に外国人初の三冠王に輝いたブーマー・ウェルズも、MLBでは0本塁打と、やはり実質マイナー・リーガーだった。
アメリカでは3Aクラスの選手でも、NPBでは三冠王を獲れるぐらい、MLBとの差は大きかったのである。
そして、日米野球で全日本が惨敗した翌年の1987年、遂に本物のメジャー・リーガーがNPB球団入りした。
アトランタ・ブレーブスからヤクルト スワローズ(現:東京ヤクルト スワローズ)に移籍したボブ・ホーナーである。
ホーナーは、それまでNPBにやって来た外国人選手とは次元が違っていた。
それ以前の助っ人外国人と言えばバースのような3Aクラスか、大物メジャー・リーガーと言ってもレジー・スミス(巨人)のような、既に盛りを過ぎたロートルばかりだったのである。
しかしホーナーは、前年までブレーブスの四番を担っていた、しかもまだ30歳という若さの、現役バリバリのメジャー・リーガーだった。
そんなホーナーがNPB入りを果たした理由は、当時のMLBのオーナーたちが行った、フリー・エージェント(FA)選手に対する、締め出し作戦のためである。
この頃、FA制度を導入したため選手の年俸が高騰し、MLB各球団は赤字に喘いでいた。
そこで、オーナー連中はFA選手を買い漁らないようにしたため、FA宣言をしていたホーナーは買い手がつかず、どの球団とも契約できない状態になったのである。
逆に、日本はバブル景気の真っ只中。
親会社の業績が好調だったヤクルトは、MLBから干されたホーナーに目を付け、当時としては破格の年俸2億8千万円で契約したのである。
何しろ、3度の三冠王に輝いた落合ですら、中日ドラゴンズに移籍したこの年にようやく日本人初の年俸1億円に届いた程度だったのだから、いかにホーナーの待遇が法外だったのか判るだろう。
MLBが開幕しても宙ぶらりん状態だったため、春季キャンプも行わず5月に来日したホーナーは、NPBデビュー2戦目でいきなり3ホーマーを放ち、日本人の度肝を抜いた。
それ以降もホーナーは打ちまくり、日本中にホーナー旋風を巻き起こしたのだ。
大袈裟ではなく、この頃のホーナーは、今の大谷翔平(ドジャース)以上に注目されたのである。
ただ、ホーナーと言えども、アメリカではスターというわけではなかった。
新人王以外のタイトルは獲得せず、オールスター戦に選ばれたのは僅かに1回だけ、地元のアトランタでは人気があったものの、同僚のスーパースターであるデール・マーフィーの陰に隠れていた。
MLBではその程度の選手でも、日本では神様扱いされていたのだ。
そんなホーナーでも、さすがに5月からのデビューではホームラン王は獲得できなかった。
それでも、僅か93試合の出場で31本塁打と、3試合で1本塁打というハイペースでホームランを量産し続けたのだ。
ちなみに、この年のセントラル・リーグのホームラン王は、ホーナー、バース、落合を抑えてリチャード・ランス(広島東洋カープ)が獲得した。
ランスもMLBでは通算2本塁打と、実質マイナー・リーガーだったのである。
ホーナーは翌年「日本のベースボールは野球という名の別のスポーツだ」という言葉を残し、MLBに復帰。
セントルイス・カージナルスの四番打者として期待されたが、僅か3本塁打に終わりMLBでは通用せず、この年限りで引退した。
当時は、日本の球団に在籍した外国人選手は欠陥商品となり、MLBに出戻っても通用する選手ではなくなるケースがほとんどだった。
まだ30歳代前半と若かったホーナーも例外ではなく、レベルの低いNPBに慣れてしまったため、MLBには付いていけなくなったのである。
そんな状況を変え、アメリカでNPBの存在を認識させたのは、皮肉にも日本人選手ではなくアメリカ人選手だった。
1990年、デトロイト・タイガースに入団したセシル・フィルダーである。
その前年の1989年、阪神に入団したフィルダーは来日当初こそ欠陥の多過ぎるスイングのため三振の山を築くも、フォーム改造してからはホームランを打ちまくり、故障があったためタイトルは逃したものの38本塁打を記録した。
翌年、阪神との契約がこじれ、同じタイガースでもデトロイトに移籍すると、日本にいた頃以上に打ちまくり、ホームラン王と打点王の二冠王に輝いたのだ。
日本帰りは欠陥品、という定説を打ち破り、日本で成長してMLBのスターになるという、かつてない前例を作り出したのである。
そして、その5年後の1995年には、野茂英雄が近鉄バファローズからドジャースに移籍、新人王と奪三振王を獲得して、NPBのレベルの高さを見せ付けた。
その10年前の1985年、日本を代表するクローザーだった江夏豊は西武を退団後、翌春にミルウォーキー・ブルワーズのスプリング・トレーニングに招待選手として参加したものの、開幕ロースターには入れず引退したのだ。
江夏は、野茂の凄さを「メジャーのマウンドに立っていること自体が凄い。自分はキャンプの段階で斬られたんやから」と語っていた。
野茂以降は、日本人選手がこぞってMLBを目指すようになる。
そして、落合ですら「パワーではアメリカには絶対に勝てない」とシャッポを脱いだMLBの舞台で、大谷はホームラン王に輝いた。
そして、2006年から始まったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、アメリカが1回の優勝に対し、日本は最多の3度の優勝を飾っている。
WBCでの日本×アメリカは、第5回までで2勝2敗のタイだ。
全日本チームがMLB単独チームに歯が立たなかった頃から見れば、信じられない光景だろう。
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