
一昨日の週刊ファイトでも書いたが、今日2024年8月1日に阪神甲子園球場が100歳を迎えた(プロレス誌で甲子園について書く大胆さ)。
甲子園の歴史については週刊ファイトを読んでいただくとして、今日のネタランでは筆者にとっての甲子園初体験を書いてみよう。
筆者が野球に興味を持ったのは小学三年生の時、1976年のことだった。
初めて行った球場は甲子園ではなく、大阪市内にあった今はなき日本生命球場(日生球場)。
プロ野球のナイトゲーム、近鉄バファローズ(現在はオリックス・バファローズに合併)×ロッテ・オリオンズ(現:千葉ロッテ マリーンズ)だ。
夏休みに家族4人で出掛けたのである。
この試合はレディース・デーで、母親が半額だったか割引だったか無料だったか、たしかそんな日だった。
生まれて初めての生野球観戦は、試合内容までは覚えていないが(たしかロッテが勝ったと思う)、夜風が心地よかった記憶がある。
▼現在はもりのみやキューズモールBASEとなった日本生命球場の正面玄関跡

その数週間後、初めて甲子園へ行った。
この時は筆者と母と姉の3人で、何故か父親は行かなかったが、その理由は憶えていない。
夏の高校野球、地元のPL学園が出場するということで、その応援バスに3人で乗り込んだ。
しかし、当時の筆者は車酔いが酷く、特に観光バスが苦手だったので、バスの中ではずっと苦しんでおり、道中は全く憶えていない。
だが、バスから降りて、目の前に巨大な甲子園球場の外壁が聳え立っていた光景はハッキリ憶えている。
もう、ビックリしたなんてものではなかった。
同じ野球場にもかかわらず、日生球場と甲子園球場では全く雰囲気が違ったのである。
無機質なコンクリートが丸出しだった日生球場とは異なり、甲子園の外壁には緑の蔦が覆われていた。
また、球場の規模も全く違う。
アルプス・スタンドに足を踏み入れると、さらに驚いた。
ガラガラだった夜の日生球場に対し、甲子園は大観衆を飲み込んだ灼熱の大スタンド。
日生球場とは全く異なる光景だ。
また、当時のプロ野球にはトランペットの応援がなく、ホイッスルでの三三七拍子が主流だったが、甲子園の高校野球ではブラスバンドによる大音量の応援は今と変わらず、バス酔いに苦しむ筆者を襲った。
ちなみに、スタンドの壁にはファンが書いたであろう「江夏」という落書きがあり、南海ホークスの投手の名前をなぜ書いているのだろうと不思議だったが、当時の筆者は江夏豊が前年まで阪神タイガースのエースだったことを知らなかったのだ。
ついでに言えば、この頃に甲子園球場の正式名称が「阪神甲子園球場」であることを知ったが、読売ジャイアンツの本拠地だった後楽園球場は「巨人後楽園球場」が正しい呼び方だと思っていた。
つまり、日本ハム ファイターズ(現:北海道日本ハム ファイターズ)も後楽園球場を本拠地としていたことを知らなかったわけだ。
なお、試合の方はPLと中京(現:中京大中京)の準々決勝で、PLのエース中村がホームランを放ち、またPLが9回表に一挙5点を挙げて9-3で快勝した。
この2年後の1978年夏、両校は準決勝で再度ぶつかり、この時はPLが4点ビハインドをひっくり返して「逆転のPL」と呼ばれるようになった最初の試合となる。
試合後、応援バスは試合のチケット代を含んだ往復料金だったが、筆者はバス酔いが嫌でギブアップ。
電車で帰ることになり、阿倍野でハンバーグを食べたのを憶えている。
何もかもが圧倒された甲子園初体験だったが、球場の古さも目に付いた。
ところが、3年後の1979年には内装が一新され、綺麗になっていたのに驚いたものだ。
その後の甲子園はリニューアルを繰り返し、伝統は残しつつも古さを感じさせない球場となっている。
設備は48年前から劇的に進化したが、雰囲気は全く変わっていない。
▼1924年(大正13年)、完成当時の甲子園球場
