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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

永眠

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2022年3月3日午前9時33分、ゾロ目が並んだ時に筆者の父親が亡くなった。享年87歳。

 

去年の11月頃、父親は自宅の階段から落ちて(3段ほどだったが)、痛がっていたので筆者の母親が救急車を呼びT病院で診察を受けると、肋骨が折れていたそうだ。

入院するほどではなかったが、家は3人暮らしで、筆者はほとんど日中は不在のため、母親1人で父親の面倒を見るのは無理なので、入院することになった。

 

しかし、その頃は落ち着いてきたとはいえ世はコロナ禍の真っ只中。

面会時間も僅か15分に制限され、父親に会うこともままならない。

これが、父親の衰えに拍車をかけたようだ。

 

入院するまでの父親は、かなり気力を失っていた。

小学校の教諭だった父親は、パズルなどを解くのが好きで、また将棋に関してはアマチュアで初段の認定を受けていたぐらいだ。

そんな父親も、もう考えることが面倒になったのか、それらに興味を示さなくなったのである。

今から2年前、車の運転免許を返納したのが、衰えのきっかけとなった。

もっとも、そのまま車を運転し続けていると、重大な事故を起こしていた可能性があるので、免許返納の判断自体は間違っていない。

だが、近所しか走らないとはいえ車の運転という緊張感から解放されて、何もする気が起こらなくなったらしい。

せめて運動をと、散歩するように促していたが、10分ほど近所を歩いただけで帰ってきてしまう。

 

とはいえ、毎日欠かさず入浴は自分で難なくしていたし、食事の時間も必ず守っていた。

それが、入院すると自分では何もする必要がないため、自分でトイレも行けずおむつを使用するようになり、痴呆も進んだ。

入院すれば、一気に衰えが加速するそうだが、その法則が父親にもピッタリ当てはまった。

 

1週間に1度ぐらい、面会に行っても、たいていは口を大きく開けて寝ていた。

起こして喋りかけても、自分の息子だとは理解できていなかったことも多かったのだ。

声でようやく筆者だと判っても、会話が噛み合わない。

というより、呂律が回らず父親が何を言っているのか判らない。

何とか父親の言葉が聞き取れても、夢の続きなのか「病室のベッドで48万円の領収書を拾った」と意味不明なことを言うばかり。

しかし、今から考えると、たとえ意味不明でも「領収書」という言葉が出てくるだけでもマシだった。

 

1月の下旬、T病院の退院期限が迫り、母親と一緒に療養型の病院を探して、A病院へ転院することになった。

この頃には、父親の食欲も増していて、少し元気を取り戻したように見えた。

転院の日、ベッドから連れ出そうとするときも、

「どこへ行くんや?もう退院できるんか?着替えなアカンのか?何も聞かされてないんや」

と父親は言っており、父親が何も聞かされていないわけがなく、理解できていないだけなのだが、それでも筋の通ったことを言っていた。

A病院はリハビリの施設も整っていたので、これで少しは良くなるのではないかと期待していたぐらいだ。

しかし、そこへオミクロン株が襲ったのである。

 

オミクロン株の蔓延により、A病院では面会が一切禁止になり(これはT病院にそのままいても同じだった)、可能なのはリモート面会だけだったが、自宅からリモート面会できるわけではなく、決められた時間に病院へ行く必要があり、また予約しなければならなかった。

その予約も取れるのは1ヵ月先であり、結論から言えばリモート面会は1回もしていない。

結果的には、転院の時に交わした言葉が父親との最後の会話となった。

 

A病院に転院して、環境が変わったせいか食事もほとんどできず点滴に頼るようになり、父親の病状は悪化したようだ。

その後、40℃ぐらいの熱が出たので特別に面会を許可するとA病院から電話があり、筆者は行けなかったので筆者の姉が京都の亀岡から実家に帰って来て、母親をA病院へ連れて行ってもらった(母親は車の運転ができない)。

ところが、母親と姉がA病院へ行く直前に電話が掛かってきて、コロナに感染したと判ったので病院には来ないでほしい、と言われたそうだ。

 

数日後、コロナの方は収まったものの、T病院に入院していた頃から患っていた肺炎が再発して、病状は良くならない。

2月27日の日曜日、夕方にA病院から電話があって、話し掛けても応答しなくなったからすぐ来て欲しいと言われ、母親を連れて車を飛ばした。

もう収まったとはいえコロナが発生した病室なので、使い捨ての防護服を着せられるという、完全防備である。

父親の姿を見るのは転院して以来だったが、T病院に入院していた頃よりも大きく口を開けて、酸素吸入器が口から外れていた。

目は明いていたが、何も見えていない様子で、話し掛けても何も答えない。

ただ、呼び掛けた時に1度だけ反応して、こちらを見たような気がした。

 

翌2月28日の月曜日、筆者は出社していたが、また自宅に電話があったようで、仕事を定時で終わらせて帰宅し、母親を連れてA病院へ行った。

この時の父親はほとんど目を閉じていた状態で、問い掛けてももちろん何の応答もない。

 

3月2日の水曜日、筆者は出社したものの昼頃に母親から電話が掛かってきて、すぐにA病院へ連れて行ってくれと言われたので、早退してA病院へ行った。

大きく開いた口からはまたもや酸素吸入器が外れていて、かなり呼吸が苦しそうだった。

前日は、こんなに苦しそうではなかった。

心拍数は、平均よりもかなり低下していると先生から説明された。

高血圧だった父親も、この頃は降圧剤を服用しなくても血圧がかなり低下している。

 

翌3月3日の木曜日、A病院からの連絡がなかったのでいつも通り出社したが、始業前に母親から電話があり、もう間に合わないかも知れないとA病院から連絡があったとのことだった。

すぐに帰宅し母親を車に乗せてA病院へ飛ばし、防護服を着て病室へ駆け込むと、心拍数は0になっている。

苦しそうだった前日と違い、ハァハァという息遣いも聞こえない。

おそらく、この時点で死んでいたのだろう。

その後、先生が入って来て父親を確認し、

「心臓も脳も止まっている状態です。よろしいですか?」

と言った。

何が「よろしいですか?」なのか意味が判らなかったが、延命措置を取れば生き延びれるという意味だったのかも知れない。

元々父は延命措置を望んでいなかったので、母親は「はい、結構です」と言った。

改めて先生は、午前9時33分に父親の死を告げた。

 

親戚に、家族葬専門の葬儀会社を起業した者がいるので、彼に告別式等は全て依頼した。

彼は、1年半前に起業して最初の客が自分自身だった。

起業して間もなく、自分の母親(筆者にとって叔母で、母親の妹)が亡くなったのである。

 

aigawa2007.hatenablog.com

 

3月4日の金曜日、お通夜として湯灌の議を行った。

出席したのは筆者と母親、姉の3人のみ。

完全な家族葬である。

どうやら、父親の顎が外れていたらしい。

それで、あんなに大きな口を開けていたのか。

なぜ病院側が顎が外れていることに気付かなかったのか不思議だった。

湯灌師(2人とも若い女性だった。この仕事が好きで、葬儀会社から湯灌師として独立したとのこと)にそのことを訊くと、歯が生え揃った患者は、吸引機や舌を噛む可能性があるので、わざと顎を外すこともあるらしい。

それにしても、顎が外れた状態で父親は苦しくなかったのだろうか。

 

3月5日の土曜日、告別式の日。

奇しくも、この日は姉の誕生日である。

姉の旦那(筆者にとっての義兄)とその一人娘(筆者にとっての姪)も集まって、告別式場へ向かった。

式場へ行ってみると、葬儀会社を起業した親戚の父親および奥様も来てくれていた。

火葬場は、コロナ扱いになるため、一般の客とは別にしなければならないということで、午後6時頃に出棺という異例の遅さである。

しかも、家族が出棺時に火葬場まで行くことも許されず、お骨拾いに行けるのは2人のみ。

死因はコロナではなく、コロナが収まってから既に20日以上も経っており、しかも湯灌の時には遺体には何度も触っているのだから、一般客と時間を分ける意味が判らない。

そもそも、たとえ死因がコロナだったとしても遺体は焼くのだから、感染するわけがない。

さらに、お骨拾いが2人に制限なんて、無意味もいいところだ。

このお役所対応には腹が立った。

 

しかし、葬儀の方は参列者がたった7人の小ぢんまりしたものとはいえ、親戚が色々工夫してくれたおかげで、父親を気持ちよく送ることができた。

今回、初の試みということで、遺影の代わりにこちらで用意した写真をスライドショーとして見せてくれるなど、父親の想い出を綴ってくれた。

 

tenshow73.jp

 

葬儀と初七日が終わり、いったん帰宅した後、午後7時半頃に母親と2人でお骨拾いに火葬場へ行った。

1年半前の叔母の姿を見て慣れていたとはいえ、骨だけになった父親の姿を見るのは辛かった。

 

 

父親の想い出と言えば、小学生の頃によく野球を観に連れて行ってもらったこと。

初めて野球を観に行ったのは小学三年生の時、家族4人で観戦した日本生命球場でのナイト・ゲーム、近鉄バファローズ×ロッテ オリオンズである。

その後も、父親は教師だったため春休みや夏休みには、よく高校野球を観に阪神甲子園球場へ連れて行ってもらっていた。

だが、阪神タイガースの試合で甲子園に連れて行ってもらったことはない。

理由は、甲子園までは遠いためナイト・ゲームは帰りが遅くなってしまう、ということもあったのだろう。

しかし、それ以外にも理由があったと思う。

父親の知人がパシフィック・リーグの会員証を持っていて、父親はそれをよく借りていた。

会員証を見せればパ・リーグの試合は無料で観戦できるので、要するに入場料は子供料金となる筆者の分だけでよかったのである。

したがって、プロ野球観戦と言えば専らパ・リーグ日生球場藤井寺球場大阪球場に限られていた(阪急西宮球場は遠かったため行ったことがない)。

高校野球では地元・富田林にあるPL学園の試合がほとんどで、PLの試合になると甲子園の内野席やアルプス席は超満員でチケットは売り切れのため、無料の外野席に入るしかなかった。

つまり、プロ野球観戦だろうが高校野球観戦だろうが父親の入場料はタダ、父親は酒好きだったが球場でビールを買うと高くつくため日本酒をポットに入れて持って行っていたので飲食費もタダ、筆者にはジュースかかち割りを買い与えるだけで、要するに電車賃ぐらいしか費用が掛からなかったのである。

筆者はなんと安上がりな子供だったのだろう。

 

▼家族4人で初めて野球観戦に行った日本生命球場は、現在では「もりのみやキューズモールBASE」になっている

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父親はよく野球を観に連れて行ってくれたとはいえ、特に熱心な野球ファンだったわけではなく、野球経験者でもない(近所の草野球チームには所属していた)。

ところが、不思議なことにスコアブックの付け方は知っていたのだ。

最近では、野球ファンを名乗る連中ですらスコアブックの付け方はおろか読み方すら知らない奴が多いのに、なぜ父親が知っていたのか、今となっては知る由もない。

しかし、父親からスコアブックの付け方を教えてもらったので、筆者にとって大きな財産となった。

スコアブックの付け方を知ったおかげで、野球をより深く判るようになっただけではなく、トラ番記者関西独立リーグの公式記録員まで務めるようになったのである。

この点に関しては、父親には感謝しかない。

 

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盆や正月になると、毎年のように我が家には親戚が集まっていた。

と言っても、末っ子だった父親方の親戚ではなく、長女だった母親方の親戚である。

葬儀会社の彼およびその両親をはじめ、盆や正月になると我が家に大勢やって来るので、いつも賑わっていた。

親戚と一緒にいつも麻雀していたので、筆者もいつしか麻雀を覚えてしまったのだ。

葬儀会社の彼など、小学生以下の子供たちはほったらかしだ。

そして、麻雀のメンバーから外れた者は、盆の時には高校野球、正月になるとラグビーをテレビ観戦していたのである。

父親は、ラグビーもテレビでよく観戦していた。

しかし、生でのラグビー観戦はしたことがなかったはずだ。

心残りは、成人した筆者が父親を花園ラグビー場へ連れて行けなかったことである。

もっとも、父親は面倒くさがって一緒には行かなかったかも知れないが……。

 

▼ナイター照明の杮落としとなった花園ラグビー場

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麻雀好きだった父親は、教師仲間もよく自宅に呼んで麻雀をしていた。

もちろん麻雀と言っても、いやしくも教師が賭け麻雀なんてムニャムニャ……。

当時の小学校は土曜日が半ドンだったので、土曜日の午後になると父親はしょっちゅう後輩の教師仲間を呼ぶ。

ところが、中には土曜の午後になっても児童を残して勉強を教えている熱心な先生もいた。

すると父親は、

「アイツ、何してんねん。(後輩の教師に)学校に電話せい。何?まだ居残り勉強をさせとる!?アホか、麻雀の約束をしてるのに、居残り勉強をさせるとは、なんちゅうやっちゃ」

と、児童よりも麻雀を優先していた。

そして、まだ高校生だった筆者に、

「アイツが来るまで、お前が入れ」

と、筆者も教師たちと賭け麻雀をやる羽目になっていたのだ。

俺はフリー雀荘のメンバーかっての。

 

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前述のように、父親は教師だったため、春・夏・冬休みがタップリ取れたので、筆者と姉が子供の頃はよく旅行にも行っていたように思う。

家族4人での旅行もあれば、近所の家族も一緒に大勢での旅行もあった。

特に、東京をはじめとする関東方面へはよく行ったものだ。

姉や筆者が高校生以上になってからは家族旅行をすることもなくなったが、姉が結婚すると向こうの家族とも旅行へ行くようになった。

 

だが、近年ではそれもなくなり、正月などに姉が実家に帰って来て、初詣などに行こうとしても父親だけは「めんどくさい」と行かなかった。

それが、3年前の正月に、筆者と母と姉で住吉大社へ行こうとすると、「たまには行ってみるか」と父親が自ら初詣に行くと言い出した。

父親がなぜ、突然行く気になったのかは判らないが、家族で出掛けることはもうないと思ったのかも知れない。

そして実際に、住吉大社での初詣が、家族4人での最後の外出となってしまった。

 

▼2019年1月4日、この日の住吉大社が家族4人での最後の外出となった

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父親は前述のとおり酒が大好きで、若い頃より量はかなり減っていたとはいえ、入院する直前までよくビールや焼酎を呑んでいた。

入院した父親が一番辛かったのは、酒を吞めなかったことではないか。

治る見込みがあったからこそ緩和ケアにも入らなかったのだが、入院してから僅か3ヵ月半で逝ってしまうのなら、自由に酒を呑ませてあげたかった、とも思う。

 

俺もそっちへ行ったら、心行くまで酒を呑もう!

と言いたいところだが、まだまだ親父の元へ行くつもりはない。

 

▼父親は2月生まれ。花札では梅の月であり、奇しくも梅の季節に旅立った(ネオ一眼でボカシ撮影に成功)

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