「プロレスラーは、リングに上がったら何をしてもいいんだよ」
これは、全日本プロレスの総帥だったジャイアント馬場の言葉である。
かつて、前田日明が長州力の顔面を蹴って重傷を負わせたとき、新日本プロレスの総帥であるアントニオ猪木が「プロレス道にもとる行為」として前田を解雇した。
「過激なプロレス」を標榜し、リング上ではやりたい放題やっていた猪木の裁定には驚かされたが、それ以上にプロレス・ファンが驚いたのは「プロレス内プロレス」と見られていた馬場が猪木裁定に真っ向から反論したことだ。
馬場の方が、猪木よりよほど過激な考え方をしているではないか、と。
そもそも、タイガー・ジェット・シンのサーベル攻撃が許されて、反則ではないキック攻撃で前田日明が解雇されること自体おかしいのだが。
さて、ここからが本題である。
今年(2020年)のM-1はマヂカルラブリーが制したが、彼らのネタが漫才とは呼べない、とネット上で物議を醸した。
マヂカルラブリーのネタは漫才ではなく、ほとんどコントではないか、という意見が多かったのだ。
筆者の見解から言うと、マヂカルラブリーのネタは漫才である。
ジャイアント馬場の言葉を借りるなら「漫才師は、舞台に上がれば何をやってもいい」のだ。
ここが漫才とコントの大きな違いである。
コントの場合、たとえば交番で取り調べを行う警察官と泥棒のネタをやるとすると、交番を思わせるセットを用意し、警察官役の者は制服を着なけらばならない。
ネタが終わるまで、警察官役の者はずっと警察官で、泥棒役の者はずっと泥棒だ。
この原則を破ることは、コントでは許されないのである。
ところが漫才の場合、警察官役だからと言って制服を着る必要はないし、着ているとむしろ不自然だ。
そして、ネタの途中で警察官役と泥棒役が入れ替わることも可能である。
ボケの警察官役がボケ倒し、ツッコミの泥棒役が「お前の警察官は全然アカンやないか!俺が警察官をやる!!」と言って警察官役と泥棒役が入れ替わり、今度は泥棒役がボケ倒す、というのは漫才の常套手段だ。
あるいは笑い飯のように、立場が入れ替わっても警察官役がずっとボケ倒す、という方法もある。
さらに、漫才では途中で警察官と泥棒のネタをやめることも可能だ。
ボケが「やっぱりオレには警察官は無理やわ。今度は教師になりたい」と言い出し、次は先生と生徒のネタに移行する。
こういうことはコントには不可能で、警察官と泥棒のネタなら、最後までそのネタをやり続けなければならない。
漫才はセンター・マイク1本しか舞台装置がないかわりに、自由度が高いのだ。
昔の横山やすし・西川きよしのように、漫才なら飛行機ネタをやろうと思えば、どんなシチュエーションでも飛行機に乗れる。
飛行機に乗る際にも、ボケが「ガラガラ」と引き戸を引く要領で機内に入ろうとして「引き戸の飛行機なんかあるかい!」という笑いも引き出せるのだ。
漫才では飛行機の窓を開けることもできるし(やすきよの漫才では、パワーウィンドウではなく、手でぐるぐると飛行機の窓を開けていた)、飛行機が2つに割れて別々の方向に飛んで行ったって構わない。
つまり、漫才は「客に想像させる笑い」である。
それ故に、漫才では相当な話術が必要だ。
しゃべくり文化が発達している関西では漫才が中心で、関東ではコントが多いのも当然と言える。
コントでは客の想像力は不要で、セットも服装もネタ用に用意しているから、非常に判りやすい。
そのため、話芸はさほど必要ないのだ。
マヂカルラブリーの漫才がコント的だったというのも、彼らが関東芸人だったということと無縁ではない。
M-1の歴史で、関西勢が圧倒的に優位だったのも、しゃべくり文化が発達していたからだ。
マヂカルラブリーがコント的な漫才を披露したことにより、M-1に風穴を開けたことは意義があったと言える。
ただ、筆者の感覚では、マヂカルラブリーの漫才は面白くなかった。
話芸に秀でた見取り図が最も笑えたのである。
これは、個人によって感性が違うのだから仕方がない。
和牛がM-1チャンピオンを逃した時も(優勝はとろサーモン)、「なぜ?」と思ったものだ。
筆者と世間との笑いの感覚がずれているのではないか、とも思ったが、去年のミルクボーイ優勝は納得だったので、ホッとしているが。