(写真と本文は関係ありません)
5月30日、明治神宮球場で行われた東都大学野球の東洋大学×亜細亜大学で、以下のようなプレーがあった。
6回裏、東洋大の攻撃で無死一、二塁、ここで一番の竹原祐太はセンターへ飛球を放った。
浅いフライだったため2人の走者は塁をほとんど離れず、亜大の二塁手・安食幹太は二塁走者にタッチ、さらに二塁ベースを踏んでダブルプレーをアピールした。
しかし、審判の判定は完全捕球で、アウトは一つしか認められなかった。
この判定に亜大の生田勉監督は猛抗議したが判定は覆らず、結局は0-1で亜大は敗れた。
試合後、亜大の生田監督は、
「こっちはルールブックを勉強して、外野手には故意落球がないことを分かっている。その上で、故意落球しろ、という練習を普段からやっている。優勝がかかった試合で、あのジャッジは納得ができない」
と怒りを露わにした。
◎故意落球とは?
このプレーに関し、ネット上でも、
「ルール違反ではないのに、何が悪い!?」
という意見が多かったので驚いた。
何よりも、名門・亜大の監督が、こんな考え方で野球を選手に教えていたなんて、非常に残念である。
生田監督が言うように、外野手には故意落球は適用されない。
ちなみに、故意落球とは無死もしくは一死の状態で走者が一塁にいるときに、打者が飛球を放った場合、内野手がわざと落球してダブルプレーを狙う行為をいう。
この場合、落球とは判定されずに飛球を捕球したとして打者はアウトになり、ボールデッドとなって走者は元の塁に戻される。
つまり、わざと落球してダブルプレーを狙うという卑怯な手を防ぐために生まれたルールだ。
外野フライの場合は、わざと落球しても走者は進塁できるだろうという想定のもとで、故意落球は適用されない。
しかし、今回のように浅い外野フライの場合は、わざと落球することによってダブルプレーが生まれるケースもある。
だからといって、外野手にまで故意落球の適用を認めるようになると、適用範囲が非常に複雑になってしまう。
ルールでは外野手の故意落球が適用されないからと言って、こんなプレーが横行すると、ますます余計な規則が生まれ、野球が無駄にわかりにくくなってしまうのだ。
◎何のためのルール勉強か?
生田監督は「ルールの勉強をしている」と言ったが、それは非常に良いことだ。
野球のルールを知らない野球人が、プロでもいかに多いことか。
プロの監督が審判に抗議をするが、ルールを知らないからトンチンカンなことで文句を言っている。
テレビ解説者もルールを知らないので「審判のミスですねえ」などとしたり顔で言う。
審判の方が遥かにルールには詳しいのに。
その点で言えば、ルールを勉強している生田監督は立派なものだが、問題は勉強の仕方だ。
生田監督がルール勉強をしているのは「ルールの抜け穴」を探すためである。
これではブラック企業や悪徳政治家、あるいは反社会勢力(ヤ●ザなど)と全く同じではないか。
ルールを勉強するということは、野球について正しい知識を得るということである。
しかし、生田監督がやっているのは、それと正反対のことだ。
野球の本質を捻じ曲げ「ルール内だからいいだろ」などと平気でのたまう。
しかも、こういう間違った野球を、未来ある学生に教えているというのだから恐ろしい。
生田監督は、なぜ「故意落球」というルールが野球にあるのか、考えたことがあるのか。
当然、わざとダブルプレーを取るという、汚いプレーを防ぐためである。
ところが、そのルールを逆手にとって、さらに汚いプレーを教え込もうとしているのだ。
さらに問題なのが、こんな野球とかけ離れたプレーを「頭脳プレー」などと持ち上げるファンや、あるいは野球関係者までいるということである。
要するに、生田監督や、こんなプレーを「ルール内なのに何が悪い」などという人は、野球の本質を知らないのだ。
かつて、高校野球の名審判と言われた故・西大立目永さんは、ある県の研修会に呼ばれたとき、ある監督からボークの基準について質問されたそうだ。
「こういう投手の動きはボークになるのか?あるいは、この動きだったら、ルールブックを読むとボークではないでしょう」
などと、その監督はしつこく質問する。
「いや、それもボークです」
と西大立目さんは毅然として答えると、その監督は、
「これがボークになると、走者を騙せない」
と言ったそうだ。
ところが、西大立目さんはピシャリと言った。
「そんなことばかり気にしているから、お宅の県はいつまで経っても甲子園で勝てないんです!」
走者を騙そうとするのがボーク、それが野球の基本だ。
それを、
「これがボークだと、走者を騙せない」
では、本末転倒である。
野球の本質を知らず、ルールの抜け穴ばかり探すから、肝心の野球の実力は身に付かない。
◎「日本野球にインフィールド・フライは不要」
野球ファンの誰もが知っている、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)という人物がいる。
明治時代、「baseball」という英語を「野球」と和訳した人だ。
野球という米国産スポーツを日本に広めた大功労者である。
その中馬庚が、こう言い放ったことがある。
「日本野球に、インフィールド・フライなどというルールは不要だ」
と。
インフィールド・フライは、故意落球と似たルールである。
違うのは、インフィールド・フライが適用されるのは無死または一死で走者が一、二塁もしくは満塁のときにのみ適用される点だ。
この状態のとき、打者が高い内野フライを放つと、審判は「インフィールド・フライ」を宣告する(ファウルになった場合は無効)。
そうすると、打者は自動的にアウトとなって、わざと落としてのダブルプレーを防ぐというルールである。
故意落球ともうひとつ違う点は、インフィールド・フライではインプレーとなることだ。
故意落球の場合はボールデッドとなるが、インフィールド・フライの場合の走者はアウトを賭して走っても構わない。
共通しているのは、卑怯なダブルプレーを防ぐという目的だが、中馬庚はこのルールを「日本野球には必要ない」と断言した。
要するに、そんな汚いプレーをする日本人などいない、ということである。
そうでなくても、日本に輸入された頃のベースボールは「米国人が行う、巾着切りのようなもの」などと揶揄された。
そこで中馬庚は野球に単なる勝ち負けではなく精神性を求め、フェアプレーを説いたのだ。
ルールでわざわざ縛らなくても、卑怯な真似をして併殺を取ろうとする者など日本にはいない、と。
もし中馬庚が生田監督の指導方針を知ったら、草葉の陰で泣いたことだろう。
◎無意味な”故意落球”の練習
生田監督の「ルールの抜け穴を探すためのルール勉強」も呆れるが、もっと呆れるのが「故意落球しろ、という練習を普段からやっている」ということだ。
こんなバカげた練習を真剣に取り組んでいたなんて、バカバカしさを通り越して可愛さ百倍である。
たしかに、この試合の状況で、仮に”外野手の故意落球”によるダブルプレーが完成していれば、いかに汚い作戦とは言え成功と言えるだろう。
しかし、こんな場面が何試合あるというのか。
こんなシチュエーションは、滅多にないだろう。
そんな滅多に起きないことを想定して、貴重な練習時間を割いていたのである。
こんな下らない練習をやる時間があるのなら、野球にはもっと鍛えなければならないことがいくらでもあるはずだ。
ボールをわざと落とす練習をするぐらいなら、ボールを絶対に落とさない練習をした方が遥かにいい。
そもそも、故意落球の練習をして、ボールを落とす癖でも付いたらどうするのか。
しかも、このバカバカしい練習をしているのは、将来ある大学生である。
こんな故意落球が、その後の野球人生で活かされることは、まずない。
「アイツは外野手なのに故意落球が上手いな。よし、アイツをレギュラーにしよう」
などと言う監督が、プロ野球や社会人野球に1人でもいるというのか。
今後の野球人生で最も必要となるのは、野球の実力である。
故意落球などというセコイ技が、よりレベルの高い野球で評価されるはずがない。
それならば、野球の実力を高める練習をやらせておく方が、学生にとってはずっと必要だ。
早い話、故意落球の練習など百害あって一利なし、全くの時間の無駄である。
最近では日本大学アメリカン・フットボール部の選手による悪質タックルが社会問題にまで発展しており、この故意落球は相手を怪我させるプレーではないし一応はルール違反でもないのだからまだマシだが、根っこにあるものは同じである。
要するに「勝つためには何でもやる、勝ちゃあええ」という考え方だ。
最近では「ルールさえ守れば何をやっても構わない」と考える輩が多すぎる。
こういう指導は、学生の将来にとって役に立たないばかりか害になるばかりである。
さすがに悪質タックルを称賛する人はいないが、この無意味な故意落球を容認する人は、野球のみならずスポーツの本質がわかっていないのである。