よくニュースなどでは「北陸新幹線が開通」と報じているが、これは少々違う。
北陸新幹線は、以前から既に開通しているのだ。
つまり、長野駅まで開通している、いわゆる「長野新幹線」というのは北陸新幹線のことである。
北陸地方まで行っていないのに「北陸新幹線」と呼称すると誤解する客が出るかもしれないので、とりあえず仮称として「長野新幹線」と呼んでいただけだ。
今回、晴れて金沢まで路線が繋がったので「北陸新幹線」と正式名称を使えるようになったわけである。
なお、北陸新幹線は全通にはまだまだ程遠く、最終的には大阪市まで繋がって初めて北陸新幹線が完成するわけだが、大阪までの開通の見通しはまだ立っていない。
さらに、北陸新幹線の正式な起点は東京駅ではなく高崎駅である。
まあ、小難しいウンチクはこれぐらいにして、北陸新幹線の延伸によって石川県や富山県は沸き返っている。
なにしろ、金沢から東京まで2時間半で結ばれるようになり、今までより約1時間20分も短縮されたのだから当然だろう。
新幹線が誕生して半世紀、新幹線を見慣れた現在でもこれほどのフィーバーになるのだから、初めて新幹線が開通した50年前の日本がどれだけ大騒ぎになったか、想像もつかない。
だが、新幹線が登場する6年も前、それまでの常識を覆す画期的な列車が既に誕生していたのだ。
それが日本初の電車特急「こだま」である。
現在「こだま」と言えば、東海道・山陽新幹線を走る各駅停車タイプの新幹線として知られている。
だが、それ以前は東京~大阪(あるいは神戸)間で運行されていた在来線の特急だったのだ。
電車特急「こだま」が登場するのは、まだ戦争の爪痕が残る1958年(昭和33年)11月1日。
とはいえ、その2年前の1956年(昭和31年)には東海道本線が全線電化となり、「もはや戦後ではない」と言われる高度経済成長の始まりだった。
また、この年から寝台特急「あさかぜ」が東京~博多間を走るようになり、これが後にブルートレインと呼ばれるようになる。
その頃の東京~大阪間の花形特急といえば、なんといっても「つばめ」だろう。
姉妹特急として「はと」もあったが、いずれも機関車が客車を引っ張る客車特急だった。
電化地域は電気機関車が客車を引っ張れば良いが、非電化地域は蒸気機関車が客車を牽引しなければならない。
つまり、電化部分から非電化部分に差し掛かれば、いちいち機関車を交換しなければならないわけだ。
「つばめ」と「はと」は1956年の東海道本線全線電化により、それまでの所要時間が東京~大阪間で8時間だったのが7時間半まで短縮された。
機関車の交換が必要なくなったからだ。
だが、交換不要とはいえ電気機関車ではそれが限界だったのである。
そしてその2年後、颯爽とデビューしたのが電車特急「こだま」だった。
それまで、長距離を走る特急には電車は不向きと言われたが、電車の大幅な改良がなされ、遂に電車特急が実現したのである。
「こだま」は「つばめ」「はと」より40分短い、東京~大阪間を6時間50分で駆け抜けた。
現在の新幹線最速タイプ「のぞみ」の東京~新大阪間2時間半に比べると随分遅いように感じるが、当時としては驚天動地のスピードだったのである。
ちなみにこの年、プロ野球界では読売ジャイアンツの長嶋茂雄がデビューした。
この40分という時間短縮は、日本という国を大幅に変えた。
なぜなら、東京~大阪間の日帰りを可能にしたからである。
たとえば、朝7時に下りと上りの「こだま」が、東京駅と大阪駅をそれぞれ出発する。
すると、両「こだま」は昼下がりの13時50分に、大阪駅と東京駅に到着するのだ。
そして、帰りの「こだま」が大阪駅と東京駅を出発するのは夕方の16時。
東京駅と大阪駅に到着するのは夜の22時50分と、日帰りが可能である。
大阪あるいは東京に滞在できるのは2時間強だが、それでも商談や会議は可能で、そのために「こだま」はビジネス特急と呼ばれた。
今の新幹線や飛行機に比べると随分慌ただしいが、それでも2時間ぐらいでとんぼ返りする人はいるだろう。
現在でこそ東京~大阪間を日帰り出張する人は多いだろうが、昭和30年代では考えられなかったことで、それでもその礎を築いたのが電車特急「こだま」だった。
高度成長期時代に、電車特急「こだま」は現代日本を先取りしていたのである。
そして、ボンネット型と呼ばれる「こだま」は斬新なデザインで人気を博し、その後は国鉄(現・JR)の昼間特急の基本的なスタイルとなった。
速度も、それまで「つばめ」が持っていた95km/hの記録を大幅に上回る110km/hを誇ったのである。
翌1959年(昭和34年)、さらなる改良が加えられ、東京~大阪間を6時間40分で駆け抜けるようになった。
さらにその翌年の1960年(昭和35年)には東京~大阪間が6時間30分になる。
そしてこの年、「はと」が「つばめ」に統合され、「つばめ」も「こだま」と同じ電車特急となった。
つまり、東京~大阪間には「こだま」「つばめ」のエース二騎が走るという電車特急時代に突入したのである。
しかし「こだま」「つばめ」時代は、長くは続かなかった。
「こだま」が登場して僅か6年後、1964年(昭和39年)10月1日に東海道新幹線が開通。
電車特急「こだま」の約2倍の200km/h超を誇る新幹線は、東京~新大阪間を4時間(翌年からは3時間10分)で駆け抜けたのである。
ここまで差を付けられると電車特急「こだま」の存在価値はなく、東海道新幹線が開通する前日の同年9月30日を最後に、その使命を終えた。
それでも「こだま」の名称は残り、新幹線の各駅停車タイプに名付けられた。
ただし、最速タイプの「ひかり」(当時はまだ「のぞみ」はなかった)が宇宙最速の光速(秒速およそ30万キロメートル)にちなんだのに対し、それより遥かに遅い音速(秒速およそ340メートル)としての意味があった点は否めない。
とはいえ、新幹線として生まれ変わった「こだま」は、電車特急時代よりも1時間半も短い5時間(翌年からは4時間半)で、東京~新大阪間を駆け抜けたのである。
なお「つばめ」は、新大阪~博多間を走る在来線の電車特急として生き残ったものの、山陽新幹線の全通により遂に「つばめ」の名は消えた。
しかし、かつては国鉄のエース特急だった「つばめ」に愛着を持つ人は多く、現在では九州新幹線の各駅停車タイプに「つばめ」の名称が付けられている。
ちなみに、現在の東京ヤクルト・スワローズは、前身が国鉄スワローズであり、国鉄の花形特急だった「つばめ」にちなんで名付けられた。
「こだま」がデビューした1958年、長嶋がデビュー戦で国鉄スワローズのエースだった金田正一に4打席4三振を食らったというのも、何か因縁めいている。
短命に終わった電車特急「こだま」だったが、決して無駄ではなかっただろう。
「こだま」により電車でも長距離・高速での運転が可能だと確認されたからこそ、後の新幹線開通に大きく役立ったと言える。
電車特急「こだま」は、類人猿(客車特急)と人類(新幹線)を繋ぐ、言わばミッシング・リンクのような存在だったのだ。