今日(18日)、センター試験が行われた。
受験シーズンたけなわだが、高校受験で面白い話がある。
北陽は現在でこそ名門私大である関西大学の傘下に入って「関西大学北陽高校」となり、男女共学の学校となっているが、前田が受験した頃はヤンチャなヤローばかりが集まる男子校だった。
当然、入学試験に立ち向かう前田の周りは、みなヤンキーばかり。
数学の試験で、「この数式を証明せよ」という問題に出くわした。
受験勉強などしていない前田にとっては何のことかわからない。
やむなく、隣りのヤンキーの答案用紙をカンニングした。
ヤンキーの答案用紙には、こう書いてあった。
「お偉い先生が作られた問題に対して正しいかどうか、私ごときが証明できるはずもありません」
なるほど、それももっともだと思った前田は答案用紙にその通り書いた。
面白いことに、前田もそのヤンキーも、いやどう見ても受験勉強などしてないであろう他のヤンキーも、全員合格していた。
一体、この入学試験は何のために行われたのだろうか?
実は僕も、似たような経験がある。
現在はどうか知らないが、当時の大阪は私立と府立、1校ずつしか受験できなかった。
理由は、当時の京阪神の私立校は一斉入試のため入学試験日が一緒で、複数の私立校の受験ができなかったからである。
当然、府立校も一斉入試であり、府立校を複数受験することは不可能だったので、私立校と府立校は1校ずつしか受験できなかったのだ。
従って、先に行われる私立校が不合格となると、もう後がなくなるのである。
僕は私立と府立の併願だったが、私立を受験したのは大鉄高校である。
現在では阪南大学高校となり男女共学だが、大鉄時代は北陽と同じくヤンチャな男子校だった。
倍率は7.6倍で、要するに8人弱に対して合格者は1人という厳しい難関である。
ちなみに大鉄と言えば、あの世界の盗塁王・福本豊の母校だった。
僕にとっては初めての受験、しかもこれを落とすとあとは府立校のみとなり、府立校の受験を失敗すれば高校浪人となる。
これほど緊張した試験は、後にも先にもなかった。
第1時限目は理科。
僕が最も不得手とする科目である。
なんでわざわざ、一番苦手な科目が来るんだよ!と我が運命を呪った。
化学反応式だのイオン式だの、全くわけがわからない。
いきなり出鼻をくじかれるのかと、恐る恐る答案用紙を見てみた。
そこには、驚くべき内容が書かれていた。
「1リットルは何ccか答えよ」
全く違う意味で出鼻をくじかれた。
まさか高校受験で、こんな小学生レベルの問題が出るとは夢にも思わなったのだ。
こんな問題が出るなんて想像してなかったから、こんな受験勉強もしていない。
あの化学反応式とか、イオン式とかの勉強は、一体なんだったのか!?
慌ててしまったが、なんとか落ち着きを取り戻して「1リットルって……ああ1000ccだな」と答えを書いた。
こうして表の答案用紙を20分くらいで解いて、裏の答案用紙に取り掛かろうと思ったら白紙だった。
「え、ミスプリなの!?」と思ったら、解答用紙はもう埋まっている。
どうやら、答案用紙の表だけで理科の試験は終わったらしい。
一応は解答用紙の添削をしたが、それ以上にやることもないので、あとの30分間は窓の外を走っている近鉄電車を眺める以外にやることはなくなっていた。
他の科目の試験も万事こんな調子で、窓の外の近鉄電車以外の記憶はない。
その翌日、僕は大失態をやらかした。
試験の翌日は面接だったが、その面接に遅刻してしまったのである。
時間的には充分に間に合うと思って出かけたのだが、学校に辿り着く前の踏切が「開かずの踏切」のため何十分も待ちぼうけを食らってしまい、面接に遅刻したのである。
なんとか学校に辿り着き、先生に事情を話して面接だけは受けることができた。
面接は1人1人ではなく、5人一緒に受けるものだった。
しかも運悪く、5人のうち僕が最初に答えなければならない。
遅刻した上、最初に答えなければならない緊張が増長して、面接に対してロクな受け答えが出来なかった。
僕の後の4人は、僕の受け答えを参考にして全く余裕で答えていた。
もう最悪の受験である。
これで大鉄の不合格は決定的、残るは府立校を背水の陣で挑まなければならなかった。
面接で遅刻、しかも質問に対してまともに答えられなかったのである。
專願ならまだしも、併願では圧倒的不利だ。
僕は不合格を確信していた。
ところが、蓋を開けてみると合格だった。
あんなに不利な状況だったのに、なんで?
他の連中に聞いてみると、僕の中学から受験した奴らはみんな合格だった。
あの倍率7.6倍はなんだったの?
早い話、受験した奴はみんな合格させていたということか。
当時の私立高校なんて、所詮そんなものだったのだろう。
ちなみに僕は、府立高校になんとか合格。
授業料が圧倒的に安い府立高校に進学したので、大鉄高校には進学せず、福本の後輩になることはなかった。
福本は、
「1リットルは何ccか答えよ」
という問いに立ち向かったのだろうか?