阪神タイガースの絶対的守護神、藤川球児投手が今年からメジャーリーグ(MLB)のシカゴ・カブスに入団した。
藤川はプロ入り後ずっと大阪で暮らしてきたが、これから住むことになるシカゴと大阪は何かと似ている。
シカゴは五大湖の一つ、ミシガン湖の南西岸に位置しており、市内には川や橋が多いが、大阪も「水の都」で川も多く、「○○橋」という地名が多い。
またシカゴはニューヨークに次ぐ「セカンド・シティ」と呼ばれていたが、ニューヨークに対する対抗意識が強く、この点でも大阪人の東京に対するライバル心とよく似ている。
さらに、シカゴといえばアル・カポネが暗躍したギャング街としても有名だが、大阪だってジャパニーズ・マフィア(ヤクザ)のメッカ(?)だ。
また、阪神とカブスという球団にも共通点が多い。
カブスが誕生したのは、ナショナル・リーグが発足する以前の1871年であり(ナ・リーグ発足は1876年)、要するにMLBよりも歴史が古い老舗球団なのだ(当時の球団名はシカゴ・ホワイトストッキングス)。
一方、阪神の誕生年はカブスよりもずっと新しい1935年(昭和10年)だが、それでも職業野球リーグ(現在の日本プロ野球=NPB)が始まる前年のことである(当時の球団名は大阪タイガース)。
従って、1950年(昭和25年)発足のセントラル・リーグよりも遥かに古く、現存するNPB球団では読売ジャイアンツに次いで2番目に歴史が長い。
阪神とカブスは、NPBとMLBを代表する老舗球団なのである。
さらにMLBは、第二次世界大戦以前にはアメリカ西海岸に球団はなく、シカゴにあったカブスはセントルイスに次ぐ西の球団だった。
現在のアメリカ地図を見ると、シカゴは合衆国の東側に位置するが、戦前の感覚ではシカゴはアメリカ西部だっただろう。
戦後、MLBは東西2地区制となるが、カブスはナ・リーグの東地区だったとは言え、同じシカゴにあるホワイトソックスはアメリカン・リーグの西地区だったのである(3地区制の現在では両チームとも中地区)。
少なくとも戦前のカブスは東のニューヨークに対抗する西のチームであり、この点でも東日本(東京)の巨人に対する西の阪神という図式と似ている。
日本でも職業野球発足時、大阪より西の広島や九州にはプロ球団がなかったのだ。
つまり、阪神はカブスと同じく、西の代表球団だったのである。
それだけでなく、両チームとも老舗球団ながら戦後はなかなか優勝できず、ダメ球団と罵られながらも、地元ファンの熱烈な応援があったのもソックリだ。
似ているのは、都市やチームカラーだけではない。
本拠地球場だって似ているのだ。
阪神の本拠地はご存知のとおり阪神甲子園球場。
開場は1924年(大正13年)で、現存する日本の球場では最も古い。
一方、カブスの本拠地であるリグレー・フィールドは、甲子園より10年早い1914年の開場で、現存するMLB使用球場ではボストンのフェンウェイ・パークに次いで2番目の歴史を誇る。
日米ともに戦前に建てられた球場が現在でも使用されているのは希で、甲子園もリグレー・フィールドも野球史の生き証人と言えよう。
甲子園の名物といえば、球場の外壁を覆っていた蔦。
現在は改装工事のために伐採されてしまったが、また蔦は植えられており、少しずつだが再び外壁を覆い始めている。
僕が初めて甲子園に行ったのは小学校三年生の時だったが、球場全体を包んでいた蔦に圧倒され、歴史の深さを実感したものだ。
蔦といえば、リグレー・フィールドも蔦が名物だ。
と言っても、甲子園のように外壁を覆うのではなく、なんと外野フェンスを覆っているのである。
外野フェンスに蔦が絡んでいたら、そこに打球が迷い込むとどうするの?
公認野球規則(Official Baseball Rules)には、こんな一文がある。
6.09(f)
フェアボール(地面に触れたものでも、地面に触れないものでも)が、フェンス、スコアボード、灌木およびフェンス上のつる草を抜けるか、その下をくぐった場合、フェンスまたはスコアボードの隙間を抜けた場合、あるいはフェンス、スコアボード、灌木およびフェンスのつる草に挟まって止まった場合には、打者、走者ともに2個の進塁権が与えられる。
この条文のうち、赤字で書かれた部分は、リグレー・フィールドのために作られたと言われている。
同じような文言が6.09(e)にもあり、いわばリグレー・フィールドの蔦は野球規則まで作ってしまったのだ。
実際に、1982年にはカブスのビル・バックナーが放った打球が外野フェンスの蔦に絡まり、エンタイトル・ツーベースになったことがある。
このとき、相手チームだったニューヨーク・メッツの外野手2人と、審判でボールを一生懸命探したそうだ。
余談ながら、この打球を放ったバックナーは、その後ボストン・レッドソックスに移籍し、1986年のワールドシリーズでは「世紀の大エラー」を犯している。
ちなみに、バックナーの大エラーのおかげでワールドシリーズを制したのは、リグレー・フィールドで蔦の中のボールを探していたメッツ。
不思議な因縁もあったものだ。
不思議といえば、1959年のリグレー・フィールドでは、試合中になぜか二塁手の元にボールが2個も飛んでくるという事件があったという。
その原因が外野フェンスの蔦にあったのかどうかはわからない。
蔦以外にもう一つ、リグレー・フィールドには名物があった。
それは、照明塔がなかったことである。
「なかったことである」と過去形になっているからには、現在は照明塔はあるわけで、リグレー・フィールドに照明塔が設置されたのは1988年。
日本で言えば、平成が始まる前年である。
日本でも藤井寺球場が長いあいだ照明塔がなかった球場として有名だったが(藤井寺球場に照明塔が設置されたのは1984年)、藤井寺球場も大阪府にあり、ここでもシカゴと大阪の共通点があった。
リグレー・フィールドに照明塔がなかった理由は、藤井寺球場と同じく、ナイトゲームが行われた際の騒音公害を、近隣住民が反対したからだ。
そしてもう一つ、リグレー・フィールドに照明塔が設置されなかった理由がある。
それは、かつての球団オーナーだったフィリップ・リグレー(もちろんリグレー・フィールドの球場名は彼の名から取っている)の、
「野球は太陽の下でやるものだ」
という言葉だった。
このMLB史上に残る名言により、「リグレー・フィールドはデーゲーム」という伝統が守られてきた。
ところが、照明塔が設置される40年以上も前の1941年に、リグレー・フィールドに照明塔が設置されようとしていた。
照明塔の設置を企てたのは、
「野球は太陽の下でやるものだ」
と言い放った、他ならぬオーナーのリグレーである。
だが、照明塔の設置寸前で、日本による真珠湾攻撃が勃発、太平洋戦争が始まった。
日米開戦のため、リグレーは照明塔の鉄材を合衆国政府に供出し、軍艦を造るために造船所行きとなったのである。
つまり、リグレーはリグレー・フィールドでもナイトゲームを行いたいと思っていたのだが、戦争によってそれが阻まれたわけだ。
そして、リグレー・フィールドに照明設備を設置できなかった言い訳として、
「野球は太陽の下でやるものだ」
という名言が生まれたのである。
もし、日本が真珠湾攻撃を仕掛けなければ、リグレー・フィールドは「普通に」ナイトゲームが行われる球場になっていたはずだ。
そして、甲子園のことをよく知る人は、ここでも甲子園とリグレー・フィールドの共通点を発見できるだろう。
そう、甲子園も戰爭協力として、軍に鉄材を供出していたのだ。
甲子園の名物だった内野スタンドを覆う大鉄傘、これに目を付けた日本軍は阪神電鉄に対し鉄材の供出を強要、大鉄傘は「軍艦を造るため」という名目で神戸製鋼に9万円という超安値で買い取られた。
もっとも、大鉄傘の鉄材は軍艦製造には向かず、そのまま放置されたということである。
そのため大鉄傘の供出は、甲子園でも戦争協力をしているというデモンストレーションに利用されただけ、という説もあるほどだ。
この軍部の横暴によって、甲子園のスタンドは丸裸になった。
戦後、甲子園の大屋根はジュラルミン製の大銀傘として復活している。
いずれにしても、リグレー・フィールドと甲子園は、戰爭協力として鉄材を軍に提供していたわけだ。
両球場とも激動の時代を生き抜いただけに、悲しい歴史も背負っている。
それから遥か時を超えて21世紀の今日、藤川はリグレー・フィールドのマウンドに立つ。
照明塔ができたとはいえ、「野球は太陽の下でやるものだ」の伝統があるリグレー・フィールドでのナイトゲームは未だに少なく、速球派の藤川にとっては不利な面もあるだろう。
それでも、大阪と似た雰囲気があるシカゴで、甲子園とよく似たリグレー・フィールドのマウンドから、火の玉ストレートを投げ込んでもらいたい。