大阪市立桜宮高校で痛ましい事件が起きた。
男子バスケット部主将の生徒が顧問教師の体罰に耐えかねて、自殺したのである。
この教師による体罰は日常的に行われており、自殺した生徒は3~40発も殴られていたという。
しかも、桜宮高校には以前にもこの教師の体罰が報告されていたが、学校側は一応アンケートはとったものの、なんの事後対策もしなかった。
学校の隠蔽体質がまた浮き彫りになったのである。
「煮えたぎった鍋に蓋をすれば、かえって吹きこぼれる」
という大原則を知らなかったのだろう。
臭いものに蓋をしたばかりに、若くて尊い命を失った。
この体罰教師は熱心な指導者として知られており、殴られはしたが今では感謝している、と言っている生徒やOB(OG)も多い。
そのため、この教師を擁護する声も多く聞かれる。
おそらく、悪い先生ではなかったのだろう。
だが、この教師の体罰によって一人の生徒が死を選んだのだ。
そもそも、体罰ってなんなのだろう。
教育現場では「体罰禁止」ということになっている。
その反面、生徒を殴るような熱血教師の方が望ましい、という意見もある。
むしろ生徒の親が、我が子を殴れる先生に教わってもらいたい、と考えている人も多い。
生徒を殴れるのは愛情の証だ、と。
だが、本当にそうだろうか。
おそらくこの教師は、自殺した生徒を憎くて殴っていたわけではなく、愛情と期待を持っていたのだろう。
しかし、だからといって生徒を殴っていい、というわけではない。
生徒(あるいは部員)を殴らなくても、愛情を持ってちゃんと指導できる教師はいくらでもいる。
要するに、生徒を殴らなければ指導できない教師は、指導力不足なのだ。
普通に考えればわかることである。
一般社会で他人を殴ったらどうなるか。
答えは簡単、暴行罪でしょっぴかれる。
これは学校内、あるいはクラブ活動でも同じである。
先生が生徒を殴れば、暴行罪という立派な罪になるのだ。
暴行罪が成立するのは、暴行行為を行った時点、となっている。
これは刑法208条に書かれており、この罪を犯したものは「2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料」となる。
暴行罪は親告罪ではないので、被害者が名乗り出なくても立派な犯罪になるのだ。
つまり、教師の暴力行為が発覚した時点でお縄頂戴となる。
さらに、暴行によって被害者が怪我を負ったりすると傷害罪となり、さらに罪は重くなるのだ。
刑法204条では、傷害罪は「15年以下の懲役又は50万円以下の罰金」と、暴行罪に比べてかなり重い。
場合によっては実刑になることもあるだろう。
要するに、体罰とは犯罪なのである。
ところが、学校という閉鎖的な社会では、暴力が容認されている。
明らかな暴力行為なのに、なぜか日本の学校では教師が生徒に暴力を振るうと「体罰」という言い方に変えられてしまう。
今回、生徒を自殺に追いやった教師は「体罰教師」というレッテルを貼られるだろうが、正確には「暴力教師」である。
これは、この暴力教師によって救われた生徒がいようが、あるいはクラブで立派な成績を挙げようが、この事実は変わらない。
この教師の暴力によって成長した生徒も多いかも知れないが、潰された生徒はそれ以上なのかも知れないのである。
ましてや、この教師によって生徒が一人、命を失ったのだ。
いわば、体罰という言葉が教師を甘えさせているのである。
こういう体罰教師、いや暴力教師にとって都合のいい言葉が「愛のムチ」である。
お前たちを愛しているから殴るんだ、なんて言い訳を付けて。
そんなことは絶対にあり得ない。
僕の父親は小学校の教師だったが、児童を殴ったことが何度もあったという。
ある日、テレビで体罰について語り合う番組があって、その中である教師が「生徒を殴るのは愛のムチだから……」と言っていた。
テレビを見ながら、僕は父親に、
「愛のムチってホンマにあるんか?腹が立ってないと、人は殴れんやろう?」
と聞いた。
父親は、
「ホンマにそのとおりや。俺も児童を何度も殴ったことがあるけど、ホンマに腹が立った時でないと殴れん。『愛のムチ』なんて思ったことは一度もない」
と言っていた。
別に憎くて殴るわけではないが、腹が立たないと他人なんて殴れないものである。
もし、腹も立たないのに他人を殴ることができるとすれば、その人は他人を殴るのが楽しいのだろう。
こんなのは人間のクズだが、体育会には多いような気がする。
僕も子供の頃は父親にはよく殴られもしたが、別にそのことによって成長したとは思っていない。
ハッキリ言って、殴られなければ成長できないヤツなんて、元々はダメなヤツなのである。
もし殴られて成長したと思ったのであれば、それは殴られたから成長したのではなく、何か別の要素があったのだろう。
逆に言えば、生徒を殴らなければ指導できない教師は、ダメな教師ということだ。
「体罰」や「愛のムチ」なんて便利な言葉で言い繕っているが、早い話が「暴力」という名のレッキとした犯罪である。
もし教育現場や体育会の連中が、
「いや、この厳しさこそが日本の文化である」
などと言い張るのなら日本は即刻、法治国家というレッテルをかなぐり捨てるべきである。
犯罪を文化などという国など、存在しないほうがいい。
そして刑法から「暴行罪」という項目を削除すべきである。
この暴力教師(あえてこう言う)は、職は失うだろうが罪に問われることはないだろう。
仮に罪に問われても暴行罪で(いくら生徒が死んだといっても、殺人罪や傷害致死罪になることは有り得ない)、最大でも2年以下の懲役だから執行猶予が付くと思われる。
したがって、刑務所にぶち込まれることはないだろうが、かえってその方が辛いかも知れない。
何しろ、自分の教え子を死に至らしめたのだ。
そう考えると、一生刑務所で過ごした方がどれだけ楽かわからない。
この暴力教師は、自分で良心の呵責に耐えるしかないのだ。
法によって裁かれる方が、ずっと楽だろう。
この暴力教師がどんな信念を持っていたかは知らないが、自らの暴力行為によって生徒の尊い命を奪い、一生十字架を背負っていかなければならなくなったのである。