豊中ローズ球場、豊中グラウンド跡地(行った回数:ローズ0回、跡地1回)
大阪北西部に位置する豊中市は、ベッドタウンとして大阪府でも要所と言える都市だ。
豊中の空には低空飛行する旅客機が多数飛んでおり、空港が近いことを実感させられる。
大阪国際空港は伊丹空港とも呼ばれ、兵庫県伊丹市のイメージが強いが、実際には伊丹市と豊中市、さらには大阪府池田市の3市に跨っている。
特に空港ターミナルビルの入口は豊中市にあり、空港に行くには伊丹市側よりも豊中市側からの方が便利だ。
そんな空港のお膝元に豊中ローズ球場がある。
豊中ローズ球場の正式名称は「豊島公園野球場」と言い、開場は1967年と結構古い球場だが、1996年にリニューアルオープンして現在の愛称が付いた。
ただ、改装した割には両翼95m、中堅115mとやや狭く、収容人員は1,182人と非常に少ない。
とはいえスコアボードは磁気反転式でナイター設備もあり、小さなスタンドの割りには大きな屋根で覆われているという点では恵まれている。
フィールドは内野が土、外野は天然芝で、夏の高校野球大阪大会では主に北地区で使用されている。
大阪の高校野球では80回記念大会だった1998年に南地区と北地区に分かれて代表を出したが、それ以来代表枠は南北に分かれていない年でも、3回戦までは南北に分けて抽選している。
場所は阪急電鉄宝塚本線の曽根駅から徒歩約6分と便利な所にある。
駐車場も備えているが、台数は少ないので電車を利用した方がいいだろう。
曽根駅から2駅北に行ったところに、豊中市の中心駅である豊中駅がある。
ここには実に由緒正しき場所があるのだ。
それが豊中グラウンド跡地で、高校野球が産声をあげた所である。
高校野球の第1回大会が開催されたのは1915年(大正4年)で、旧学制のため当時は「全国中等学校優勝野球大会」という名称だった。
その頃はまだ阪神甲子園球場は存在せず、全国大会はここにあった豊中グラウンドで行われたのである。
現在は取り壊されて住宅地になっているが、高校野球(中等野球)発祥の地として記念公園が造られている。
第1回大会で優勝した京都二中のメンバー。補欠が1人しかいない。
そしてこの頃すでに、現在のポジション用語が使われていたことがわかる。
写真で見ると目立つ場所にあるように思えるが、実際には見つけるのに一苦労するだろう。
何しろ行き先の看板など全くなく、この記念公園も道の角にひっそりとあるだけで、面積も非常に狭い。
場所としては豊中駅から西へ徒歩5分ぐらいのところだが、行くときには近所の人に訊いた方がいいかも知れない。
中等野球での、この豊中グラウンドは僅か2年間の使用に留まった。
なにしろグラウンドと言っても草っ原に縄を一本張ってあっただけの粗末な代物で、史上第1号のホームランは外野に飛んだボールが草むらの中を転々とし、外野手が必死でボールを探していたらカエルやヘビが飛び出してきてビックリ仰天している間に、打者走者がホームインしてしまったものだったという。
また、中等野球の人気は想像以上で、大勢の客が押し寄せてきても400人ぐらいしか収容できない豊中グラウンドでは対応しきれなかった。
おまけに沿線の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚本線)は単線で一両編成、午後6時に試合が終わっても大勢の乗客をさばききるのは午後9時頃という有様だったらしい。
そのため、第3回大会からは現在の兵庫県西宮市にあった阪神沿線の鳴尾球場で開催されるようになったのである。
豊中グラウンドは高校野球のみならず、高校ラグビーや高校サッカーの発祥の地でもあった。
1918年(大正7年)に「第1回日本フートボール優勝大会」が開催され、当時はラグビーとサッカーの共催だった。
頭に「中等学校」と付いていないのは、当時は大学も参加していたからである。
1922年(大正11年)には新しく完成した宝塚球場に場所を移し、1913年(大正2年)に造られた豊中グラウンドは僅か9年でお役御免となった。
豊中グラウンドは当時としても決して立派な競技場ではなかったと思われるが、それでも豊中グラウンドがあったからこそ現在に続く高校野球や高校ラグビー、高校サッカーが生まれたのである。
そう考えると、豊中グラウンドこそ日本スポーツの礎を作ったと言えるのではないだろうか。
第1回全国中等野球大会の開幕戦で豊中グラウンドに登場した鳥取中(現・鳥取西高)