大阪球場(行った回数:多数)
南海ホークスの本拠地だった今はなき大阪球場。
僕が最も思い入れのある球場の一つだと言っておこう。
大阪を代表する繁華街・ミナミの難波にあった大阪球場。
しばしば「難波球場」とも称されていた。
一口に難波と言っても結構広いのだが、大阪球場はミナミと称される地区の最も南端にある南海電鉄難波駅のすぐ隣りにあった。
これぞ大阪と言われる場所にあり、南海ホークスによく似合う球場だった。
僕は幼少の頃、南海沿線に住んでおり、大阪球場へは電車一本ですぐ行けたのだが、その頃は野球に興味がなかったので一度も行ったことがない。
だが、近鉄沿線に引っ越した頃から野球に興味を持ち始め、父親に連れられて何度も大阪球場には足を運んだ。
近鉄線にも難波行きの路線はあるのだが、僕が住んでいた近鉄沿線には阿部野橋(天王寺)行きしかなく、近鉄電車で天王寺に行ってから地下鉄に乗り換えて大阪球場まで行ったものだ。
それでも僕の家からは藤井寺球場に次いで近い球場だった。
大阪球場と言ってまず連想されるのが、スタンドの急傾斜。
だが、当時の僕にはその記憶がない。
何しろ子供のことなので、球場とはこんなもんだ、と思っていたのかも知れない。
でも、スタンドの急傾斜というのは大阪球場の代名詞で、都心のド真ん中に造った球場だから、スペースを確保するためにこうせざるを得なかったのだろう。
むしろよく憶えているのがスコアボード。
バックスクリーンの後ろではなく、なぜか右中間方向にあった。
当時の球場では、広島市民球場もこのスタイルだった。
なぜ右中間にあったのかはわからない。
そして手書きスコアボードの文字も独特だった。
得点の数字や選手名は普通のゴシック体だったが、チーム名の文字がちょっと変わっていて、ホークスなら「H」、バファローズなら「Bu」というチーム記号では、四隅にトゲがあるような文字で書いていた。
話はちょっと逸れるが、現在のテレビ中継ではイニングが終わるとスコアがスーパーで表示される。
しかし当時は、球場のスコアボードをそのまま映していた。
なぜスコアをわざわざスーパーで表示する必要があるのか。
昔のように球場のスコアボードを映せばいいだけの話ではないか。
なぜこんなことを言うかと言えば、スコアボードにこそその球場の個性があるからである。
イニングが終わるごとにスコアボードが映し出されると、イヤでもその球場のスコアボードを憶えてしまう。
昔はスコアボードを見ただけでどの球場かすぐわかったものだ。
スーパーでスコアを示すような愚かな真似はやめて、球場のスコアボードを映し出すべきである。
そもそも、スコアをスーパーで示すメリットが全くわからない。
現在でも高校野球中継では、イニング間で甲子園のスコアボードを映し出している。
話を元に戻そう。
他に大阪球場の特徴と言えば、後楽園球場のような左右両翼フェンスが異常に高かったこと。
これは後楽園球場編を参照されたいが、要するに狭い球場によるホームラン対策である。
都心の球場らしく、大阪球場も狭いというのが決まり文句で、最初は両翼84m程度しかなかったそうだ。
とてもプロが行う球場とは思えないが、その後は改修されて、僕が見た頃の大阪球場は両翼91.4mになっていた。
それでも現在の球場から見ればかなり狭いという印象だが、当時はこれが平均的な広さだったのだ。
両翼が拡がったうえに高いフェンスだったのだから、僕は大阪球場での両翼際のホームランはあまり見たことがない。
ネット裏のスタンドに座ると、レフト方向に通天閣が見えていた。
そしてその手前には、南海電車が走っていた。
ちょうどナゴヤ球場のレフト側に、新幹線が走っていたようなものである。
ナゴヤ球場の新幹線伝説は、阪神ファンおよび巨人ファンに知らぬ人はいないが(なぜか中日ファンは知らない人が多い)、ここでは割愛する。
大阪球場と言えば閑古鳥の巣というイメージが強いが、僕は平日のナイターに行ったことはなくて、大抵は日曜日のデーゲームだったのだが、結構お客さんは入っていた。
しかもガラの悪いオッサンがほとんどで、ガラガラ声のヤジがしょっちゅう飛んでいた。
ちょうど、マンガ「あぶさん」に登場するアンチ・ホークスのオッサンのようなものだが(知らない人は「あぶさん」の初期作品をサクッと読もう)、実際にヤジを飛ばしているオッサンは間違いなく南海ファンだった。
そして、僕が大阪球場に行くと、必ず乱闘が起きた。
当然、誰かが退場になるわけだが、退場者を出したチームが必ず勝っていた。
僕にはこんな不思議なジンクスがあったのだ。
そして乱闘があるたびに、オッサンどもはダミ声でヤンヤとヤジを飛ばしていた。
僕はこのオッサンどもを喜ばせるために、大阪球場に行っていたのだろうか。
そんな大阪球場が最大のスポットライトを浴びたのが、伝説の「江夏の21球」である。
1979年の日本シリーズ第7戦、9回裏1点リードで迎えた広島東洋カープの江夏豊が無死満塁の大ピンチを無失点で切り抜け、広島を初優勝に導いたという、プロ野球史上最高の名場面だ。
ところが、この伝説的名勝負が行われた大阪球場に、南海ホークスの選手はいなかった。
大阪球場は南海の本拠地のはずなのに、なぜ?
実はこの年のパ・リーグ覇者は近鉄バファローズで、近鉄の本拠地球場である藤井寺球場にはナイター設備がなく、もう一つの日生球場にはナイター設備はあったものの観客収容人数が少なすぎて、日本シリーズ開催能力がなかったのだ。
そこで、日本シリーズでは同じ大阪にある大阪球場を近鉄の本拠地として使用したわけだ。
近鉄と言えば、南海にとってプロ球団のライバルというだけではなく、親会社の鉄道会社としても南大阪地方に根を張るライバル会社である。
そんな不倶戴天の敵に対し、日本シリーズ用に我がフランチャイズを貸し出すというのは、いかほどの屈辱だったのだろう。
ちなみに大阪球場を保有していたのは、大阪スタヂアム興業(株)という南海電鉄グループの関連会社である。
大阪球場はプロ野球だけではなく、夏の高校野球大阪大会でも使用されていた。
大阪におけるアマ野球のメッカは日生球場で、高校野球のメイン球場も日生球場だったが、大阪球場は補佐的な立場で使用されていたわけだ。
高校野球大阪大会が行われていた大阪球場で、僕はとんでもない光景を目の当たりにした。
1983年7月、高校野球大阪大会四回戦のPL学園×吹田戦。
格で言えばPLの楽勝だが、この年のPLは前評判が悪く、特に投手陣が不安定だったので、打線の調子が上がってきた吹田に足元をすくわれるのではないか、と言われていた。
そんな窮地のPLのマウンドに立ったのが背番号17の小柄な投手。
ちなみに当時の大阪大会のベンチ入りメンバーは17名で、背番号17の選手はドン尻だということになる。
ところが、小柄な背番号17の投手は凄い球を投げていた。
次から次へと三振を奪い、6回途中までノーヒットピッチング。
終わってみれば、2安打完封の完璧なピッチングだった。
翌日の新聞で、この投手が一年生だったことを知った。
背番号17の投手の名は、桑田真澄。
この日が公式戦初登板だった。
そして、背番号17の投手を援護射撃した男がいた。
背番号14ながら、PLの四番を打つ男。
背番号14の大柄な男は、大阪球場のレフトスタンドに先制ホームランを叩きこんだ。
そう、背番号14の大柄な男とは、これも一年生の清原和博のことである。
清原は初戦から四番を担ってきたが、ホームランはこの日が初めてだった。
つまり僕は、桑田の初登板初勝利初完封と、清原の初ホームランを同じ日の大阪球場で見たのである。
プロ野球と高校野球で数々のドラマを演じてきた大阪球場。
しかしその終焉は突然現れた。
1988年のシーズンを最後に、南海ホークスはダイエーに譲渡され、福岡移転が決まった。
主を失った大阪球場は、ライバル球団の近鉄バファローズが主催試合を行うなどして細々と生き延びたが、もう球場としての価値はなくなってしまった。
やがてスタンドだけを残しグラウンド部分は取り壊され、住宅展示場へその姿を変えた。
だが、大阪ド真ん中の一等地を住宅展示場にしておくほど無駄なことはない。
当然の如く、1998年にスタンドを含む大阪球場そのものが取り壊されてしまった。
こうして、浪花の球場として親しまれてきた大阪球場はその歴史の幕を閉じた。
元々、大阪球場は都心にあったので、野球だけではなく複合娯楽施設としての役割も担ってきた。
それがスタンド下にあった卓球場やアイススケートリンクである。
最近では複合娯楽施設は当たり前だが、大阪球場は時代の先取りをしていたわけだ。
僕は卓球場には行ったことはないが、スケートリンクには甘酸っぱい想い出がある。
そして現在は、大阪球場跡地は「なんばパークス」という大型商業施設に生まれ変わった。
球場跡の広い敷地にビルが建ち、数々の店舗が軒を連ねて多くの人で賑わっている。
「なんばパークス」には南海ホークスギャラリーがあり、歴史を感じさせる物が展示されている。
野球ファンならぜひ足を踏み入れたい場所だが、改修工事に伴いそのスペースが半減しているのが実に残念である。
また有名な話だが、南海ホークスの偉大な功労者である野村克也氏の記載が一切ないというのも寂しい。
これは野村氏側の意向だという話だが、退団に関していさかいがあったとはいえ、もう少し「大人の対応」というのが出来ないものだろうか。
野村克也氏を影で操っている人物は、その点を考えていただきたい。
そんな「なんばパークス」には、かつて大阪球場に存在したピッチャープレートとホームプレートが刻まれている。
ここを訪れた人は、ぜひ見つけて欲しい。
大阪球場物語