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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

NO SIDE

松任谷由実の曲に「ノーサイド」という名曲がある。
言うまでもなくラグビーにおける試合終了を意味する言葉で、ラグビーを知らない女性でもこの曲のおかげで「ノーサイド」というラグビー用語だけは知っている、という人も少なくない。
なぜ試合終了のことを「ノーサイド」というかと言えば、試合が終わると敵味方がなくなるという意味であり、ラグビー精神を現した言葉だと言われる。
なるほど、美しい語源である。


ラグビーマガジン」の1月号に、サントリーサンゴリアス清宮克幸監督と、ジョナ・ロムージョージ・グレーガンエディー・ジョーンズという外国人(元)ラガーメンを迎えた対談が掲載されている。
清宮が「ノーサイドの精神」の話題を振ると、グレーガンとジョーンズが口を揃えて「ノーサイド?聞いたことないですね」と答えていた。


外国人のラガーマンが、日本人のラグビーオンチでも知っている「NO SIDE」というラグビー用語を知らない?
ノーサイドとは日本ではなく、間違いなく海外で生まれた言葉である。
もっとも、ジョーンズとグレーガンはオーストラリア出身であり、イギリスで生まれたはずの「NO SIDE」という言葉は豪州では使われていないかも知れない。
だが、どうやら英国でも「NO SIDE」という言葉は、あまり一般的なラグビー用語ではないようだ。


海外のラグビーの試合をテレビで見ていると、試合終了になると「FULL TIME」というスーパーが出てくる。
決して「NO SIDE」とは書かれていない。
つまり、時間が来たから試合終了、という意味である。
あまりにも味気ない言葉ではないか。
ノーサイド」と言って「ラグビーの試合終了」を意味するのは日本だけなのだろうか。


ここからは、大胆な仮説を立ててみる。
「NO SIDE」という言葉は、海外、特に英国で確かに存在した。
しかしそれは隠語に近い感覚で、「試合が終わった。さあビールでも呑もうぜ」という意味ではないのだろうか。
ラグビーでは試合が終わると、敵味方の区別なく「アフターマッチ・ファンクション」というレセプションが始まるという伝統があった。
つまり、ついさっきまで戦っていた選手同士が酒を酌み交わし、談笑しあう。
このアフターマッチ・ファンクションのことを「NO SIDE」と呼んでいたのではないか。
そこには「お互いの健闘を讃え合う」という意味もあるが、「ビールを呑んで楽しもう」という、ちょっと邪な意味も含まれていたと思われる。


ところが日本にはこの隠語があたかもラグビー精神を表わす言葉として伝えられ、美化されてラグビー用語として定着したのではないか。
というのも、日本のラグビーには他のスポーツとは違うということが過剰に宣伝されて、事実とは異なることが「ラグビー精神」として美化されていることが多いのだ。
例えば、「One for all,all for one」という言葉がそうである。
「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という意味で、ラグビー精神を最も言い表している言葉として、日本のラグビー界では好んで使われている。
ラグビードラマの金字塔と言われる「スクール☆ウォーズ」でも、この言葉が頻繁に出てきた。


だが、残念ながらこの素敵な言葉も、ラグビーとは全く関係ないことから発生したものだ。
これはアレクサンドル・デュマ・ペールの「三銃士」で使われた言葉であり、ラグビーとは無縁である。
もちろん、この言葉が海外のラグビー関係者の間で「ラグビーに適した言葉だ」として使われた可能性があるが、大抵の海外ラガーマンが「その言葉とラグビーに何の関係があるの?」と訝しがるだろう。
しかし、日本では「One for all,all for one」という言葉があたかもラグビーのためにある言葉だと宣伝され、他のスポーツと一線を画しているように思われる。


もちろん「NO SIDE」も「One for all,all for one」も素敵な言葉だし、ラグビーというスポーツを言い表しているとは思うが、事実を捻じ曲げてラグビーを美化するのはいかがなものか。
そこには「ラグビーは他のスポーツとは違う」という、ラグビー関係者による一種の驕りが見て取れる。
考えてみれば「NO SIDE」も「One for all,all for one」も、いずれもどんなスポーツにも当てはまる言葉ではないか。
どんなスポーツでも試合が終われば敵味方が無くなるし、団体競技なら「一人はみんなのために、みんなは一人のために」というのは当たり前のことだ。
それをことさらラグビーだけを美化するのは、却ってラグビーを閉鎖的な世界へ追いやる気がする。
むしろ、ラグビー精神で素晴らしいのは前述した「アフターマッチ・ファンクション」で、これを日本でも大いに広めるべきだった。
しかし、日本ではこの素晴らしいレセプションはあまり定着せず、精神性だけが独り歩きした感がある。


ラグビーは元々、優勝チームを決める大会を持たずに発展してきた。
例えば、イングランドのオックスフォード大学とケンブリッジ大学の定期戦のように、選手権ではなく対抗戦で1対1の勝負をしていた。
それは国と国との戦いでも同じで、国の代表チーム同士が戦うテストマッチに出場することが選手として最高の名誉とされ、その選手にはキャップという称号を得ることができる。
それはリーグ戦でもトーナメント戦でもなく、当然のことながら優勝などというものはない。
唯一、ヨーロッパの五カ国対抗(現在の六カ国対抗)が、年に五つの国が総当たりするのでリーグ戦のように扱われてきたが、実際には五つの国がそれぞれテストマッチを行っていただけで、「五カ国対抗」なるリーグ戦は元々なかったのである。
よく、同点でもラグビーに延長戦がないのは、延長戦までして勝敗を決するのはラグビー精神に反するから、などと言われていたが、実際には優勝を決める大会などないから延長戦の必要がなかったからにすぎない。


ところが、日本にラグビーが輸入されると、定期戦とは別に優勝を決める選手権大会を導入した。
それが、社会人、大学、高校の各種全国大会や、各地域で行われているリーグ戦である。
現在でも続いている関東大学対抗戦グループは、定期戦を年度の成績に加えて上位校を全国大会に進出させるという、いわばラグビーにおける定期戦の伝統の名残を一つの大会のように運営している。
でも、優勝を決める大会のトーナメント戦なら当然の如く勝敗の決着を最後までつけることが必要だが、日本ラグビー界はそれを拒否した。
同点引き分けの場合は、抽選によって勝者を決めるという愚かな方法をとったのである。
理由は、海外でもラグビーでは延長戦は行わないから、というものであった。
ちなみに、昔の日本のラグビー入門書にはこう書かれていた。


「ラグビーでは延長戦は行われません。なぜなら、勝敗を決することが目的ではないからです。上位進出がかかった試合では抽選で勝敗を決めますが、たとえ抽選負けしても選手は満足するはずです。それを不公平と思うのはラグビー精神に反しています」


こんな詭弁もないだろう。
ラグビーに延長戦がなかったのは前述したとおりにその必要がなかったからであり、むしろ「ラグビーの伝統を破って選手権試合を開催した」日本では、真っ先にラグビーにおける延長戦を導入するべきだった。
その証拠に、1987年にワールドカップが始まってからはラグビーにおける定期戦の伝統が崩れ、延長戦が導入されている。
こんな当たり前のことが、日本では「ラグビー精神」とやらのお題目で阻止されてきたのである。


日本では「ラグビーの特殊性」をあまりにも強調し過ぎたのではないか。
ラグビーは19世紀の英国の貴族によって発展したスポーツである。
そのため、食うに困らない人たちがこのスポーツを楽しみ、アマチュアリズムを育んできた。
一方、フットボールに選手権制度を取り入れようとした一派がアソシエーション・フットボール(サッカー)を生み、いち早くプロ化を実現して世界に広まった。
イングランドのパブリック・スクールであるラグビー校のウィリアム・ウェッブ・エリス少年が、サッカーの試合中に突然ボールを持って走りだし、この「見事なルール無視」がラグビー発祥の起源だと信じている人が未だにいるが、もちろんこれは単なる伝説であり、現在ではこの説は完全に否定されている。(注1)
また、伝統的なラグビー・フットボールを楽しみたいが、金銭的に余裕のない北部イングランドの労働者層によって、貴族たちが行うラグビー・ユニオン(現在でも日本で行われているラグビー)とはルールの違うラグビー・リーグが生まれ、やはりこちらもサッカーと同様プロ化した。
つまり、ラグビー・ユニオンをプレーしている貴族から見れば、ラグビー・リーグやサッカーをしている連中は「スポーツで金を得ている貧乏人」であり、「俺たちはあんな浅ましい連中とは身分が違う」という、言ってみれば貴族による鼻持ちならないプライドから生まれたのが「ラグビー(ユニオン)精神」と言えなくもない。


ラグビー・ユニオンのワールドカップが始まったのは前述したとおり1987年。
サッカーに比べると歴史は遥かに浅い。
理由は、「ラグビー(ユニオン)に選手権制度はふさわしくない」と、英国ホームユニオン四カ国(イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド)が強硬に反対したからだ。
反対理由は、ワールドカップが行われるとアマチュアリズムが崩壊しラグビーのプロ化が進む、と英国の四カ国が危惧したからに他ならない。
しかし、ラグビー・ユニオンのレベルはアマチュアで行うには限界に達し、プロ化は避けられない状況になった。
そこで、貴族社会とは無縁であり、ラグビーレベルでは既に英国ホームユニオンを上回った南半球の国(ニュージーランド、オーストラリア)がワールドカップ開催を主張し、ホームユニオンもそれに従わざるを得なくなったのである。
かくして、ワールドカップが行われるようになったラグビー・ユニオンも、英国ホームユニオンが危惧したとおりプロ化が一気に進んでしまった。


日本でもようやくアマチュアリズムから脱し、本格的なプロリーグを目指してトップリーグが生まれた。
だが、まだ本当のプロリーグと呼ぶには隔たりがある。
その足かせになっているのが、前述したように日本ラグビー関係者が未だにこだわっている「ラグビーの特殊性」ではないだろうか。
もちろん、良い伝統は残すべきだろうし語り継がれることはやぶさかではないが、事実を捻じ曲げて「他のスポーツとは違う」と主張するのは感心しない。
「NO SIDE」も「One for all,all for one」も、あらゆるスポーツに共通する言葉であり、ラグビーの専売特許ではない。
むしろ、プロ化によってなくなりつつあるアフターマッチ・ファンクションの伝統を復活させ、これを伝承する方がよほど「ラグビー精神」に準ずることではあるまいか。


我々がラグビーを観る理由は唯一つ、面白いからである。
観て面白くなければ、観る必要などない。
だったら、ラグビー関係者は「ラグビーの面白さ」を宣伝するのがいの一番にするべき事柄だろう。
それを、時代錯誤のアマチュアリズムや明らかに誤った「ラグビー精神」を振りかざして、他のスポーツとの差別化を図るべきではない。
ラグビーというスポーツに対して誇りを持つことは大変重要なことだが、「ラグビーだけが特殊なスポーツ」という考え方は捨てるべきである。


今こそ、「ラグビーは数あるスポーツの中でも面白い競技」という視野に立って、不毛な「ラグビー精神」に対しては「NO SIDE」を宣言するときと言える。


(注1)
2008年度版「競技規則RUGBY UNION(IRB国際ラグビーボード発行・日本語版)」の「行動」にはこう書かれている。


フットボールの試合中にボールを最初に拾い上げ走ったと信じられている、かのウィリアム・ウェッブ・エリスの伝説は、ラグビー校でそれが起きたと言われる1823年のその日以来、これを否定しようとする数え切れない人々の反論に対抗して強固に生き延びてきた。ラグビーという競技が、スピリットあふれるひとつの挑戦行動にその起源をもっていたに違いないと考えることは、ある意味適切である。