1983年に来日し、阪急に入団。
父親は世界初のシーズン100盗塁(104個。この記録は106個の福本豊に破られる)を記録したモーリー・ウィルスで、バンプ自身も快足を売り物にした現役バリバリのメジャーリーガーだった。
当時としては助っ人外人として増え始めていた年俸1億円越えの選手(日本人では一人もいなかった)で、それだけ球団の期待も高かった。
常に優勝争いをしているのに不人気球団の阪急としては、同期入団の身長2m、体重100kgのブーマー・ウエルズと一緒に、大々的に売り出すつもりだった。
しかし、当然のことながらメジャーリーガーのバンプのほうが3Aクラスのブーマーよりも圧倒的に待遇は良かったが、注目されたのはブーマーのほう。
来日早々、ブーマーはフリーバッティングで160m越えを連発し、マスコミはブーマーの元に群がった。
たまにバンプの元に記者が来ても、訊かれることはブーマーのことばかり。
格下で、しかも黒人のブーマーばかりがチヤホヤされるのは、当然面白くない。
日本人はメジャーリーガーの価値がわかっていない、バンプがそう考えても不思議ではないだろう。
フテくされたせいかどうかはわからないが、1年目のバンプの成績は打率.272、本塁打12本と、現役メジャーリーガーとしては物足りないもの。
ただし、盗塁だけは20個決めて、快足の片鱗は見せた。
一方のブーマーは、打率こそ3割を僅かに超えたものの、自慢の長打力は本塁打17本と迫力不足。
それ見たことか、2年目はメジャーとマイナーの違いを見せてやるとバンプが思ったかどうかわからないが、なんとブーマーは2年目で大ブレーク。
打率.355、本塁打37本、打点130で外人初の三冠王に輝いた。
意外にも外人初の三冠王はランディ・バースではなく、ブーマーだったのである。
しかも、この年の阪急のリーグ優勝に大きく貢献、さらに当時はロッテに在籍していた「ミスター三冠王」落合博満の全盛期だっただけに、その価値は計り知れないほど大きかった。
このブーマーの大活躍に嫉妬したのか、バンプは露骨にサボタージュを決め込むこととなり、上田利治監督とも対立。
日本シリーズでも、バンプは登録から外された。
成績も打率.232、本塁打4本、自慢の盗塁は僅かに2つと、まるでクビになるためのような成績で、4年契約にもかかわらず僅か2年で日本を去った。
任意引退の場合は辞めた時点で年俸の支払いが打ち切られるが、自由契約では年俸が契約分丸々支払われるので、バンプはわざとサボってクビになるのを待っていたと思われても仕方がないだろう。
もっとも、バンプにも同情の余地はある。
バンプが日本でもっとも注目を集めたのは野球ではなく、馬との競走。
西宮球場でのアトラクションで、快足を売り物にしていた福本、バンプとサラブレット馬が競走した。
一緒に走ったのが父の記録を抜いた福本というのも因縁めいているが、競走の結果は馬が人工芝に蹄鉄を滑らせてスリップダウン。
こけた馬を尻目にバンプと福本はさっさとゴールを走り抜け、1着がバンプ、2着は福本、馬が3着となった。
つまりバンプは馬混じりの競走で、人類初の優勝を遂げたのである。
とはいえ、なぜメジャーリーガーがわざわざ極東にまで来て、馬と競走せにゃならんのか。
バンプは心の中でこう叫んでいたに違いない。
「日本人はメジャーリーガーの価値がわかっていない!」
しかも、この出来事が語り継がれているのならば多少は救われるのだろうが、決してそうはなっていないのが実情である。
A君「福本は現役時代、馬と競走したんだぜ」
B君「へーえ、よく知ってるな」
C君「いや、福本だけでなく、簑田も一緒に走ったはずだよ」
A君「そーいや、そうだったな」
と、ほとんどの人が、バンプが馬と競走したのを憶えていないのである(ちなみに、簑田は走っていない)。
バンプにとっての日本での生活は「失われた2年間」だったのかも知れない。
日本滞在期間2年。出場203試合。本塁打16本。打点81点。打率.259。盗塁22。