8月30日から韓国で第29回WBSC U-18ベースボール・ワールドカップが開催される。
もちろん日本も参加し、18歳以下日本代表、いわゆる「高校侍ジャパン」が結成された。
最も注目を浴びるのは、最速163km/hをマークした大船渡(岩手)の佐々木朗希(三年)だろう。
佐々木は甲子園には出場していないが、高校侍ジャパンに選ばれた。
その反面、今夏の甲子園で優勝した履正社(大阪)からは、1人も高校侍ジャパンに選ばれていないのは象徴的と言える。
かつては、こんなことは有り得なかった。
もちろん「高校侍ジャパン」が常設する前の話だが、高校日本代表(かつては日本選抜あるいは全日本などと呼称していた)は夏の甲子園に出場していた選手から選んでいたのである。
それもベスト4以上に勝ち進んだ高校から中心に選んでいた。
たとえば1982年には、夏の甲子園で優勝した池田(徳島)から先発メンバーの9人全員が日本選抜に選ばれていたのだ。
この頃は高校の世界大会などもなく、韓国選抜と対抗戦を行っていた。
年によって交互にお互いの国で3試合ほど対戦していたのである。
この前年の1981年は韓国で行われ、日本選抜は韓国選抜に0勝3敗と完敗していた。
この年の日本選抜の中心選手は在日韓国人の金村義明(報徳学園、後の近鉄他)で、韓国では大人気を博していたのだ。
翌82年は日本で開催されたが、やはり1勝2敗で負け越し。
この頃の池田はパワー野球で高校野球に革命を起こしたと言われていたが、韓国野球のパワーは池田以上だった。
ちなみに、日本選抜に選ばれた池田の選手の中で、プロ入りしたのはエースの畠山準(後の南海他)と、当時は二年生外野手だった水野雄仁(後の巨人)の2人だけだったのである。
つまり、当時の日本選抜は実力よりも、夏の甲子園での活躍度が重視されていた。
翌1983年は日韓高校野球が行われず(韓国選抜は来日し、関東の各県選抜チームと対戦した)、日本選抜はアメリカに遠征した。
アメリカ本土でカリフォルニア州選抜と4試合、ハワイで現地の選抜チームと2試合、というスケジュールだったのだ。
当時はまだ、高校アメリカ代表なんてチームは組まなかった。
結果は、カリフォルニア州選抜とは2勝2敗、ハワイの選抜チームとは1勝1敗だったのである。
この年の日本選抜も、夏の甲子園ベスト4が中心のメンバーだった。
優勝したのはPL学園(大阪)で、KKコンビが一年生の年である。
一年生優勝投手の桑田真澄(後の巨人他)は選ばれたが、一年生四番打者の清原和博(後の西武他)は打撃が粗いと思われたのか選ばれなかった。
この年、最も注目された選手と言えば、春のセンバツで3ホーマー、11打席連続出塁などの記録を打ち立てた享栄(愛知)の藤王康晴(後の中日他)だったが、日本選抜には選ばれていない。
なぜなら、夏は愛知大会で敗れて、甲子園に出場できなかったからである。
当時は、いくら春のセンバツで活躍しようが、夏の甲子園に出場できなければ日本選抜に選ばれることはなかったのだ。
ちなみに、このときの日本選抜メンバーは、全員が夏の甲子園ベスト16以上の高校から選ばれている。
その中に、意外な選手がいた。
その選手は、夏の甲子園では三回戦敗退で、さほど注目されてなかったのに、日本選抜に選ばれたのである。
その高校は二回戦から登場、三回戦で敗れたから1勝1敗だ。
その選手は2試合で9打数4安打と、たしかによく打っているが、ホームランはなく特に騒がれたわけでもない。
三回戦で敗れた高校の選手としては、異例の選出だ。
しかも、日本選抜を率いたPLの中村順司監督は、この選手を四番打者に抜擢。
この選手は2ホーマーを放つなど、日本選抜の四番打者としての重責を見事に果たした。
その選手とは、後にヤクルト・スワローズで「ブンブン丸」として大活躍した市尼崎(兵庫)の池山隆寛。
高野連の目は正しかったのだ。
日米親善高校野球での活躍が目に留まったのか、その年のドラフトで池山はヤクルトから2位指名を受けている。
一方の藤王は中日ドラゴンズにドラフト1位で入団したが、プロに入ってからは鳴かず飛ばず。
高校時代の実績は、あまりアテにならないという結果になった。
時代は下って2002年にも、高校日本選抜はアメリカに遠征して親善試合を行った。
このとき、日本選抜を率いたのは明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督。
馬淵監督は、アメリカの高校選手たちを捕まえて言った。
「ジャパニーズ・ピッチャー、……(スタッフに『145km/hって何マイルや!?』と尋ねて『90マイルです』と返事を聞くと)ナインティー・マイル!ジャパニーズ・オール・ピッチャー!」
すると、アメリカの選手たちは「Really!?」と目を丸くしてビックリしていた。
当時はアメリカの高校生でも145km/hを投げるピッチャーは珍しかったようだ。
馬淵監督は「ウソこいたった!」と大笑いだったが、現在ではそれも強ち大ボラではない。
佐々木の163km/hは別格としても、星稜(石川)の奥川恭伸(三年)は最速154km/hで、今では高校生でも150km/hは珍しくなくなった。
高校侍ジャパンに選ばれる投手は、みんな145km/hぐらいは投げるだろう。
1983年のアメリカ遠征で、アメリカの選手から「You are №1 fast pitcher」と言われた水野も、当時はせいぜい142,3km/h。
当時は140km/hも投げる投手は「大会№1の剛腕」などと呼ばれ、高校生が150km/hなんて夢また夢だった。
投手の球速ひとつを取ってみても、隔世の感がある。