2017年7月1日、プロ野球(NPB)の名監督として知られる上田利治が亡くなった。享年80歳だった。
阪急(オリックス)ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)および日本ハム・ファイターズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)の監督を務め、通算勝利数は1322勝で歴代7位(2017年7月1日現在)、リーグ優勝5回、日本一3回という、紛れもない名将である。
◎1時間19分の猛抗議
上田監督といえば、真っ先に思い浮かぶのは1978年の日本シリーズだろう。
この年、4年連続日本一を目指した上田監督率いる阪急は、球団初のリーグ優勝を果たして初の日本一を狙うヤクルト・スワローズ(現:東京ヤクルト・スワローズ)と対戦、3勝3敗で最終の第7戦にもつれ込んだ。
ヤクルトの主管試合だったが、行われたのは読売ジャイアンツの本拠地だった後楽園球場。
このシリーズでは、ヤクルトの本拠地である明治神宮球場が東京六大学野球と日程が重なったため、ヤクルトはライバル球団のホーム・グラウンドを借りたのである。
当時はまだ、大学野球がプロ野球よりも優先される、そんな時代だった(1992年はプロ野球が優先され神宮球場で初めて日本シリーズを行い、東京六大学はナイトゲームとなっている)。
さて、問題となったのが1-0とヤクルトのリードで迎えた6回裏のヤクルトの攻撃、四番打者の大杉勝男内野手が阪急の足立光宏投手からレフトのポール際へ大飛球を放つ。
レフト線審の富澤宏哉は右手をグルグル回し、ホームランとコールした。
三塁側ベンチから上田監督が飛び出し、「ポールの外側を通ったんやからファウルやないか!」と左翼のポール真下まで行って猛抗議。
当然、判定は覆らないが、上田監督は納得できない。
現在のようにビデオ判定も、「抗議は5分以内」というルールも無い時代である。
いたずらに時間だけが過ぎていき、金子鋭コミッショナーまでグラウンドに現れて上田監督を説得するなど、抗議は実に1時間19分にも及んだ。
テレビ局はもちろん、上田監督の自宅にもひっきりなしに抗議の電話がかかってきたという。
ところが、不思議なことにこの一戦の視聴率は平均45.6%、瞬間最高視聴率61.5%という日本シリーズ史上最高の数字を叩き出した(いずれも関東地区)。
当時、巨人戦以外では視聴率なんて稼げなかったのに、この高視聴率。
特に視聴率が高かったのは1時間19分という長い長い抗議の間で、その間は全くプレーは行われず、大のオッサンたちが数人固まって何やら話し込んでいる姿が映し出されていただけなのに、秋晴れの爽やかな日曜日の午後に日本国民の6割がテレビ画面に釘付けとなっていたのである。
面白いシーンだけが視聴率を稼ぐのではなく、止まっている画面でも事と場合によっては高視聴率になることが証明された。
結局、1時間19分後に大杉のホームランが認められて阪急は0-4で敗北、ヤクルトが初の日本一となって上田監督はシリーズ終了後に監督を辞任した。
1978年の日本シリーズ第7戦、上田監督による1時間19分の猛抗議
◎非情のトレード通告
上田監督は日本シリーズのエピソードに事欠かない。
「1時間19分」の2年前、1976年の日本シリーズで上田阪急は第一次長嶋茂雄政権の巨人と対戦した。
巨人のV9時代、阪急は山田久志投手、加藤秀司内野手、福本豊外野手という「3馬鹿トリオ」を揃える充実した布陣で5回も巨人にぶつかったが、いつも厚い壁に跳ね返されてきた。
上田が阪急の監督になって2年目、即ち前年の1975年には古巣の広島東洋カープに4勝0敗2分で勝って阪急は初の日本一となったが、上田監督にとっても阪急ナインにとっても「巨人を破ってこそ真の日本一」という意識が強かったのである。
このシリーズ前、上田監督は後楽園球場にメジャーを持ち込み、ホームからレフトのポールまでの距離を測り、「フェンスには90Mと書かれてるけど87メートルしかあらへん。インチキやがな」と言い放った。
この一言で、巨人コンプレックスを抱いていた阪急ナインも、巨人を上から見下す上田監督の姿を見て「巨人は恐るるに足らず」とリラックスし、シリーズ開幕3連勝に繋がったという。
阪急はシーズン中も後楽園球場で試合をしており(当時は日本ハムの本拠地でもあった)、上田監督はこのことを知っていたのだろう。
ただし2年後、90Mと書かれたレフト・フェンスのポール際で、1時間19分も大揉めに揉めることまではわからなかっただろうが……。
シリーズは阪急が3連勝した後に3連敗、最終の第7戦にもつれ込んだ。
勢いから言って巨人有利と思われていたが、2-1と巨人リードで迎えた7回表の阪急の攻撃、森本潔内野手がクライド・ライト投手から「狭い後楽園」のレフトへ逆転2ランを放ち、これが決勝点となり阪急は4-2で勝って4勝3敗と巨人を初めて破り、2年連続日本一となったのである。
ベンチの上田監督は日本一が決まった時ではなく、森本が逆転ホームランを放った時に涙が出そうになった。
それは巨人に勝てそうだったから、ではない。
嬉しさと寂しさと辛さが入り混じった感情に捉われていたのである。
試合終了後、恒例のビールかけも終わり、酒豪の多い阪急ナインは喜び勇んで銀座へ繰り出し、朝までドンチャン騒ぎした。
しかし上田監督はホテルに残り、独りで一晩を過ごす。
気持ちの整理をつけるためである。
上田にはまだ、やらなくてはならない大仕事が残っていた。
それは日本一になったばかりの上田にとっても、気の重い仕事だった。
翌朝6時頃、上田監督が眠る部屋のドアをドンドン叩く者がいた。
どうせ酔っぱらったナインのイタズラだろうと上田監督がドアを開けると、そこ立っていたのは顔見知りのスポーツ新聞記者。
その記者はいきなり質問をぶつける。
「上田さん、森本の中日へのトレードは本当ですか!?」
トレードは、シーズンが終わってから検討しても遅い。
大抵はシーズン中に水面下で話し合われる。
中日ドラゴンズの与那嶺要監督から阪急に戸田善紀投手が欲しいとの申し入れがあり、上田監督は見返りとして中日の強打者である島谷金二内野手を要求した。
両チームの天秤を合わせるためにトレード話は両球団の間でドンドン膨らみ、遂に4対3という大型トレードにまで発展した。
阪急側の4人の中に、森本の名前が入っていたのである。
結局この大型トレードは、日本シリーズ前に阪急と中日との間で合意に達した。
その情報を、かの記者が中日側から嗅ぎ付けたのだ。
「頼む、ワシが本人に通告するまで、記事にはせんといてくれ!」
上田監督は記者に頭を下げた。
今頃、森本は銀座で呑み疲れて、日本一の嬉しさを噛みしめながらいい夢心地になっていることだろう。
なにしろ巨人相手の日本シリーズ最終戦で、日本一を決めるホームランを放ったのだ。
ダイヤモンドを一周し、ナインから手荒な祝福を受ける森本の姿を見て、上田監督は嬉しさと辛さが入り混じる複雑な気持ちになり、涙を必死にこらえていたのである。
そんな森本に、冷水を浴びせるようなことはしたくない。
記者も、普段は頑固な上田監督の熱意に負けて、せっかくのスクープを記事にはしなかった。
後日、上田監督は森本らにトレードを通告した。
「中日に行っても、新しい道で頑張ります」
森本は「潔」という名前の通り、潔く答えた。
とはいえ、日本一を決めたばかりの阪急による4人の選手の大放出に(中日相手以外を含めると7人)、阪急ナインも世間も騒然となったのである。
上田監督は、たとえ優勝しても最強軍団を作るためには血の入れ替えが必要と考えていたのだ。
余談だが、大豊作ドラフトと言われた1968年組で、阪急には山田、加藤秀、福本がおり、後に「史上最高のショート守備」の呼び声高い「いの一番指名」の大橋穣も東映フライヤーズ(現:北海道日本ハム・ファイターズ)から加入、さらに島谷と稲葉光雄が森本らとのトレードで1977年に入団して、1968年組が6人も阪急に集結した(ただし稲葉はこの年のドラフトで広島に指名されたが、入団拒否している)。
ちなみに、1968年のドラフトでは入団拒否されたものの阪急は門田博光を指名しており、もし門田も入団していたら7人もの凄いメンバーが揃っていたいたことになる。
1976年の日本シリーズ第7戦 巨人×阪急(後楽園球場)
◎実績のない名監督
日本プロ野球の監督とメジャー・リーグ(MLB)の監督では、どこが違うか?
野球に詳しいファンなら、誰もがこう答えるだろう。
「日本ではスター選手がそのまま監督になるが、メジャーでは選手としての実績が無くてもマイナー・リーグで指導者としての手腕を認められた人物だけが監督になれる」
と。
話は変わるが、野球の監督についてよく言われるのが「他のスポーツでは、監督はユニフォームを着ないのに、野球だけが監督も選手と同じユニフォームを着る」ということだ。
普通のスポーツでは、監督はスーツかジャージ姿だが、野球ではユニフォームを着ているだけではなく、選手と同じようにちゃんと背番号まで付けている(高校野球には監督の背番号はないが)。
そもそも、日本では野球に限らずどんなスポーツでもチームのボスのことを「監督」と呼ぶが、アメリカでは普通のスポーツは「ヘッドコーチ」と呼ぶのが一般的なのに、野球はなぜか「フィールド・マネージャー(あるいは単にマネージャー)」と呼ばれる。
つまり、英語においても野球の監督はちょっと特殊なわけだ。
その理由として、有力なのが「野球の監督は元々、選手兼任(いわゆるプレーイング・マネージャー)だった」という説だ。
つまり、野球における監督とは専門職ではなかった、ということか。
要するに他のスポーツでの監督とは、最も偉いコーチ(ヘッドコーチ)が務める専門職だったのだろう。
それがやがて野球でも監督は専門職となり、フィールド・マネージャーというポストとなったが、選手と同じようにユニフォームを着るという風習は残った、ということだ。
ちなみに、公認野球規則ではユニフォーム着用を義務付けているのは選手だけで、監督はユニフォームを着る必要はないのである(実際に昔のMLBではスーツ姿の監督もいた)。
MLBでは、1985~86年までシンシナティ・レッズのピート・ローズが選手兼監督を務め、それ以降はMLBに選手兼監督は存在しない。
だが日本では、つい最近の2014年から2年間、中日の谷繁元信が選手兼監督になるなど、未だに前近代的な監督人事がある。
選手兼任監督は日本でも特殊としても、スター選手がそのまま監督になる傾向は相変わらず。
巨人の高橋由伸監督は引退即監督、阪神タイガースの金本知憲監督は二軍監督のみならずコーチ経験すらなく監督に就任しているが、日本では珍しいことではない。
いいか悪いかは別にして、日本では現在でも二軍監督やコーチ経験のない者が一軍の監督に就任することがよくあるのだ。
MLBでは選手としての実績に関係なく、マイナー・リーグで監督やコーチを務め、その手腕を認められた者のみメジャー・リーグでの監督に抜擢されるのが通例になっている。
したがって、MLBでは選手として全く無名でも、メジャー・リーグの監督に就任することは珍しくない。
で、ようやく上田監督の話に戻るのだが、上田監督の場合は日本では珍しいMLB型の監督である。
つまり、選手としての実績がほとんどないのだ。
大学卒業後、広島カープ(現:広島東洋カープ)に捕手として入団するも、僅か3年で現役引退。
通算成績は122試合出場、打率.218、2本塁打。
選手としては、成功したとはとても言えない。
普通なら、この程度の成績では野球界からキッパリ足を洗って第二の人生を歩むか、運良く球界に残れたとしても裏方さんになるのがせいぜいだろう。
ところが上田には、弱冠25歳にして史上最年少となるコーチ要請があったのだ。
これで上田の人生は大きく変わる。
上田はまだ若かったし、野球界でなくても一般社会人として充分に活躍できるだけの人物だったのだが、その件については後に述べよう。
二軍から始まった上田のコーチ人生だったが、翌年には早くも一軍コーチに昇格。
二軍で1年、一軍で7年間、広島でコーチを務めていた上田だったが、その姿を見ていた人物がいた。
野球の話を始めると「やめられない、止まらない」ので「かっぱえびせん」の異名を持つ山内一弘である。
山内は選手生活の晩年を広島でプレーし、年下コーチの上田と共に過ごした。
選手としての実績のない上田が、年長者の選手に向かってズケズケ注文をつける姿を山内は見て、指導者としての資質を見出したのだ。
しかし1969年のシーズン終了後、上田は広島を退団した。
原因は、根本陸夫監督との対立である。
根本といえば後に「球界の寝業師」と呼ばれた男。
10歳以上も歳が離れた辣腕監督に、まだ選手として働いていてもおかしくない32歳の若造コーチが盾突いたのだ。
しかも、何度も言うように上田には選手としての実績は全くと言っていいほどない。
後の1時間19分抗議からわかるように、上田は相手が誰であろうと自説を曲げない性格だったのである。
上田は1年間、中国放送で解説者を務めた後、山内の推薦を受けて阪急にコーチとして入団する。
ここで、上田は名将・西本幸雄監督と出会ったのだ。
上田はヘッドコーチとして西本監督を補佐しながら、監督業のエッセンスをしっかり吸収した。
1974年、西本監督がライバル球団の近鉄バファローズ(現:オリックス・バファローズに吸収合併)に引き抜かれると、上田は内部昇格の形で阪急の監督に就任。
選手として実績のない上田が、37歳の若さで一軍監督に登り詰めたのだ。
二軍監督の経験がないとはいえ、10年以上のコーチ業にプラスして一軍のヘッドコーチ経験をみっちり積んだのだから、MLBに近い人事と言えるだろう。
1975年、監督として2年目の上田阪急は、当時は2シーズン制だったパシフィック・リーグの前期優勝を果たし、プレーオフでは後期優勝の西本近鉄を破り、恩師に恩返しをした形でパ・リーグ制覇を果たした。
その年には日本シリーズで古巣の広島を破って、西本監督が成し得なかった阪急初の日本一に導き、翌76年は西本阪急が果たせなかった打倒・巨人を達成した。
そして上田監督はリーグ4連覇、3年連続日本一と阪急黄金時代を築いたのである。
「名選手、必ずしも名監督ならず」という言葉があるが、上田監督は「名監督は名選手とは限らない」ことを証明したのだ。
◎伝説の398点
時計の針をさらに戻して、上田監督のルーツを探ってみよう。
この時の入学試験が、半ば伝説になっている。
上田が入試で獲得した点数は、
「400満点中、398点」
というものだ。
もちろん全受験生の中で断然トップ、正解率は実に99.5%である。
といっても、これには少々カラクリがあって、上田は野球部のスポーツ推薦があったため、100点を上乗せした点数だった。
つまり、実際は400満点中298点ということである。
しかし、100点の下駄を履かせなくても驚異的な点数であることには変わりなく、298点でも約75%の正解率だったのだ。
もし上田があと3点取っていれば、400満点中401点という、実に奇妙なことになる。
今でこそスポーツ推薦といえどもある程度の点数を稼がなければならないが、当時の野球部推薦といえば試験用紙にダルマの絵を描いただけで合格、なんていう時代。
ダルマの絵というのはオーバーとしても、野球部推薦Aランクの者は白紙答案でさえなければ合格だったのは事実のようで、上田と同世代の長嶋が立教大学を受験した時、野球部監督の砂押邦信に「白紙答案だけは提出するな。もし答えがわからなければ自分の住所、本籍、出身地、両親や兄弟の名前を漢字で書いておけ」と言われたという。
そんな時代に「アホな野球部員」がガチで298点とは、試験問題が漏洩しているのではないか、と関大の教授会で問題となった。
さっそく教授会は野球部のマネージャーを呼び出したが、マネージャーはこう答えた。
「上田は野球部主将を務めながら生徒会長もこなし、睡眠時間は3,4時間であとはずっと勉強していたから、実力で298点を取っても不思議ではないと思います」
この言葉で教授会も納得、上田の関大入学が認められて、野球部に入部した。
野球部では、後に阪神の大エースとなる村山実とバッテリーを組み、大学選手権を制して関西勢として初めて大学日本一の栄冠に輝いた。
なお、上田が入ったのは関大の法学部。
上田の叔父が徳島県弁護士会の副会長だったため、上田自身も弁護士を目指していたのだ。
そのため、プロ入りしてからも上田は六法全書を読みふけっていたという。
選手を引退した後、まだ若かったのだから、もしコーチ要請がなければ頑固な上田は弁護士を目指していたかも知れない。
仮に弁護士にはなれなかったとしても、上田の頭脳なら一般社会でもエリートとして出世街道を歩んでいただろう。
晩年の上田監督は、選手を褒める時に「ええで、ええで」を連発する好々爺というイメージだったが、実際には文武両道で名門大学にトップ入学を果たす天才的頭脳の持ち主であり、1時間19分の抗議も辞さない無類の頑固者だったのだ。
【文中敬称略】
2006年に撮影した阪急西宮球場の跡地。現在は大型商業施設の阪急西宮ガーデンズ