「番狂わせ」という言葉を広辞苑で引くと、こう書かれている。
①予想外の出来事で順番のくるうこと。
②勝負事で予想外の結果が出ること。
二つの語義に共通するのは「予想外」というワードだ。
「番狂わせ」という言葉を額面通りに受け取ると①のみになる。
②の場合は、ノックアウト式トーナメントなら本来勝ち上がるはずの者(チーム)が負けると組み合わせが変わるので「番狂わせ」という意味が当てはまるが、総当たりリーグ戦の場合はどちらが勝っても組み合わせは決まっているので、文字通りの「番狂わせ」ではないだろう。
しかし、やはり総当たりリーグ戦でも②のように「番狂わせ」という言葉が使われるのだ。
つまり、戦国時代でいう「下剋上」という意味でもある。
勝負の世界、特にスポーツの世界においては、しばしば「番狂わせ」が起きる。
そして「番狂わせ」が起きた時、例外なく人々の心に残るドラマが生まれるのだ。
そんな「番狂わせ」を10戦、独断と偏見で選んでみた。
もっとも、筆者が忘れている試合があるかも知れないし、順位も筆者が思い付きで付けただけなので、異論があってもそこはご容赦いただきたい。
(日付は全て現地時間)
第10位
岩崎恭子(競泳)
1992年7月27日 バルセロナ・オリンピック 競泳女子200m平泳ぎ決勝
ピコルネル・プール 2分26秒65 金メダル
1992年にスペインで行われたバルセロナ・オリンピックで、全く無名の女の子が日本中の脚光を浴び、世界から注目されることになった。
競泳女子200m平泳ぎで、当時の五輪新記録を叩き出して金メダルを獲得した岩崎恭子は、当時まだ弱冠14歳6日。
五輪まで、世界記録保持者のアニタ・ノール(アメリカ)に6秒近くも差があったのに、ピコルネル・プールでの決勝では残り10mでノールを逆転しての金メダルだった(ノールは銅メダル)。
競泳史上最年少の金メダル獲得であり、日本にとっても史上最年少の五輪メダル獲得。
「今まで生きてきた中で一番幸せです」という言葉は日本中を感動させ、また誰もが心の中で「そらそやろ」とツッコんだ。
第9位
ニューヨーク・メッツ×ボルチモア・オリオールズ(MLB)
1969年10月16日 ワールド・シリーズ 第5戦
シェイ・スタジアム ニューヨーク・メッツ4勝1敗 初の世界一
1962年、メジャー・リーグ(MLB)のエクスパンション(球団拡張)によって、ナショナル・リーグに誕生したのがニューヨーク・メッツだった。
しかし、同じニューヨークにある老舗球団のアメリカン・リーグに所属するニューヨーク・ヤンキースと違い、メッツは「お荷物球団」と呼ばれるほど弱小で、1年目などは40勝120敗、勝率.250というウソみたいな成績でダントツの最下位。
ところが、球団創設8年目の1969年にはペナント・レースから突っ走り初の東地区優勝、そしてこの年から始まったリーグ・チャンピオンシップ・シリーズ(プレーオフ)では西地区優勝のアトランタ・ブレーブスに、全米国民が椅子からすっ転ぶ3連勝(当時は5回戦制)で初のリーグ優勝。
そしてワールド・シリーズでは、圧倒的有利と言われたア・リーグのボルチモア・オリオールズと対戦、初戦を落としたものの、その後は4連勝して4勝1敗により誰も予想しなかった初の世界一を奪還した。
「お荷物球団」からの奇跡の世界一は「ミラクル・メッツ」と呼ばれ、シェイ・スタジアムを埋め尽くしたニューヨークっ子を狂気させたのである。
日本でいえば、球団創設9年目で初の日本一に輝いた東北楽天ゴールデンイーグルスのようなものか。
第8位
1991年5月12日 夏場所 初日
元大関の初代・貴ノ花の次男として、鳴り物入りで角界にデビューした貴花田(後の横綱・貴乃花)。
先場所では平幕ながら11連勝を飾り、夏場所では西前頭筆頭まで番付を上げてきた。
初日では優勝31回を誇る「小さな大横綱」千代の富士との取組。
上手の取り合いから先に左上手を引いた貴花田は千代の富士を寄り切り、世代交代を目の当たりにした両国国技館の観衆から座布団が舞った。
千代の富士は2日後「体力の限界!」という言葉を残して引退した。
父の初代・貴ノ花に敗れた優勝32回の大横綱・大鵬もその一番によって引退しており、親子二代にわたり大横綱に引導を渡したことになる。
第7位
1985年11月2日 日本シリーズ 第6戦
西武ライオンズ球場 阪神タイガース4勝2敗 初の日本一(2リーグ分裂後)
1936年に始まった日本プロ野球(NPB)で最古参メンバーの阪神タイガース。
しかし、1950年に2リーグ分裂してからはセントラル・リーグ優勝が僅かに2度、1964年を最後に20年間も優勝していなかったため「ダメ虎」と呼ばれていた。
だが1985年のペナント・レースでは、宿敵の読売ジャイアンツ戦でのランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布によるバックスクリーン3連発など打線が爆発、21年ぶりのリーグ優勝を果たした。
迎えた日本シリーズ、パシフィック・リーグの覇者は当時最強と言われた西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)。
下馬評では投手力に勝る西武が絶対的有利だったが、阪神は一発攻勢で西武を圧倒、4勝2敗で2リーグ分裂後初の日本一となったのである。
敵地・西武ライオンズ球場では吉田義男監督が胴上げで宙に舞い、500km以上離れた大阪では大熱狂の渦となった。
第6位
ジェームス・ダグラス×マイク・タイソン(ボクシング)
1990年2月11日 WBA・WBC・IBF世界ヘビー級タイトルマッチ12回戦
東京ドーム 〇ジェームス・ダグラス(10回KO)マイク・タイソン● 王座移動
1980年代後半から無敵を誇っていたヘビー級プロボクサーのマイク・タイソン。
WBA・WBC・IBFの三冠王者として来日、1990年2月11日に東京ドームでジェームス・ダグラスの挑戦を受ける。
この日まで37戦全勝(33KO)の成績と23歳という若さが溢れるタイソンと、世界王座の経験が無くて29歳という下り坂のダグラスとの対戦。
当然、試合前の予想ではタイソンが圧倒的に有利、アメリカのオッズでは42対1と賭けが成立しない比率だった。
もはや、どちらが勝つかではなく、タイソンが何ラウンドでKOするかという一点のみに焦点が絞られていた。
ところが、試合が始まるとタイソンの動きにいつものキレがなく、ダグラスは8ラウンドの最後にダウンを奪われたものの、10ラウンドには遂にタイソンを捉え、左ストレートで見事にKO勝ちした。
タイソンはプロ入り後初の敗戦、以降は転落の人生を歩むことになる。
一方のダグラスも、8ラウンドでの自身のダウンは10秒以上倒れていたという「疑惑のロング・カウント説」が囁かれ、10ヵ月後の初防衛戦ではイベンダー・ホリフィールドに3回KOで敗れて100日天下に終わり、ボクサー人生としては短いものとなった。
しかしダグラスは「タイソンに初めて勝った男」として、ファンにその名前を刻みつけたのである。
余談ながらこの日の前日、東京ドームでは元横綱・双羽黒の北尾光司がプロレス・デビューし、クラッシャー・バンバン・ビガロにピン・フォール勝ちした。
第5位
日本×ブラジル(サッカー)
1996年7月22日 アトランタ・オリンピック グループ・リーグ
マイアミ・オレンジボウル 〇日本1-0ブラジル●
サッカー世界最強国のブラジル。
このアメリカでのアトランタ・オリンピックから男子サッカー競技は23歳以下という縛り以外にオーバーエイジ枠が設けられ、ブラジル五輪代表は3人のオーバーエイジによるA代表選手を加えた。
一方の日本五輪代表はオーバーエイジ枠を使わず文字通り23歳以下代表、A代表経験者は僅かに2名という布陣だった。
予想では当然、A代表に劣らぬスター軍団のブラジルが圧倒的に上、日本の西野朗監督は選手が自信を無くすことを恐れて、ブラジルの試合ビデオは見せなかったという。
グループ・リーグ第1戦、アトランタから遠く離れたフロリダ州のマイアミ・オレンジボウルで行われた日本×ブラジルは予想通り、ブラジルが一方的に攻める。
しかし、ブラジルの猛攻を日本のGK川口能活がゴールを死守、0-0のまま試合は進み後半27分に日本はワンチャンスを活かし、MF伊東輝悦がゴールを決め、1-0でブラジルを振り切った。
シュートはブラジルの28本に対し日本は僅か4本、試合前の予想と相まってこの試合は「マイアミの奇跡」と呼ばれる。
ただ、日本は2勝1敗ながら得失点差によりグループ・リーグ突破はならず、ブラジルは決勝トーナメントに進出し銅メダルを獲得した。
第4位
オグリキャップ(競馬)
1990年12月23日 第35回有馬記念
中山競馬場 2分34秒2(2着に3/4馬身) 1着
地方の笠松競馬場から中央競馬に進出、圧倒的な力を見せ付けた「芦毛の怪物」オグリキャップ。
しかし、6歳(当時は数え年)を迎え、さすがの怪物も衰えを見せていた。
直前の天皇賞(秋)やジャパンカップでは惨敗を喫し、暮れの有馬記念が引退レースになることが決まっていたのである。
単勝オッズでも4番人気、それもどちらかといえば同情票のようなもので、オグリキャップの復活を信じている者は少なかった。
オグリキャップには、それまでは敵となることが多かった武豊が騎乗、最後の直線から一気に抜け出し、メジロライアンをかわして奇跡の復活優勝を遂げた。
中山競馬場には、競馬では異例となる「オグリ・コール」の大合唱(オグリキャップには意味がわかってたのだろうか?)、ラストランでの1着は「オッサンのバクチ」というイメージが強かった競馬が一気に社会的地位を上げることになり、イメージ・アップに計り知れない貢献をしたと言えよう。
第3位
1990年6月8日 三冠統一ヘビー級挑戦者決定戦 60分1本勝負
日本武道館 〇三沢光晴(24分8秒 片エビ固め)ジャンボ鶴田●
昭和の終わりから平成に年号が移る頃、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスは、ジャンボ鶴田と天龍源一郎という二大エースによるライバル関係が人気を博していた。
ところが1990年4月、大企業のメガネスーパーが新団体SWSを設立、そのエースとして天龍を引き抜かれ、全日本プロレスは大ダメージを受けたのである。
しかも、天龍一派と目されるほとんどのレスラーはSWSに移籍し、全日本プロレスは選手層が薄くなって、年内には崩壊するだろうとさえ言われた。
何よりも、鶴田のライバルがいなくなったことが大打撃となったのである。
しかし、ニュースターは突然現れた。
それまで2代目タイガーマスクを名乗っていた三沢光晴がマスクを脱ぎ捨て、鶴田に牙を剝いたのである。
素顔時代の三沢は知名度がなく、また軽量でヘビー級としての実力も疑問符が付いていたため、鶴田への挑戦は無謀と思われた。
なにしろ鶴田は日本最強と言われた完全無欠のエース、本気で怒らせたら敵うレスラーなど1人もいないと思われていたのである。
1990年6月8日の日本武道館、誰もが鶴田の圧勝を信じて疑わなかったが、鶴田の猛攻を必死で耐える三沢の姿を見て勝負の行方はわからなくなり、そして遂に一瞬の返し技により鶴田からピン・フォールを奪ったのだった。
この一戦は全日本プロレスを窮地から救った試合と言われ、実際にこの試合を境にして一気に全日本プロレス・ブームとなったのである。
三沢は、それまで虎の仮面を被ったアイドル・レスラー、あるいは単なるテクニシャン程度の評価でしかなかったが、鶴田を破ったことにより全日本プロレスのエースとしての道を歩み出した。
その三沢と鶴田、2人とももう既にこの世にはいない。
第2位
PL学園×池田(高校野球)
1983年8月20日 第65回全国高等学校野球選手権記念大会 準決勝
阪神甲子園球場 〇PL学園7-0池田●
1982年夏、83年春と史上4校目の夏春連覇を果たした池田(徳島)。
83年夏も史上初の夏春夏3連覇を目指し、阪神甲子園球場に乗り込んで来たのである。
池田は圧倒的な力で準決勝まで進出、3連覇は間違いなしとさえ言われた。
準決勝の相手、PL学園(大阪)はエースの桑田真澄と四番打者の清原和博がいずれも一年生で、一年坊主が中心のチームに戦後最強の池田が負けるわけがないと思われていた。
しかし、池田のエース水野雄仁から桑田が超特大のホームランを放ち、投げても桑田が池田の強力な「やまびこ打線」を完封するなど、PLが7-0で圧勝。
勢いに乗ったPLは決勝でも横浜商(神奈川)を破り、5年ぶり2度目(春夏通算4度目)の優勝を果たした。
この瞬間から甲子園の主役は池田からPLに移り、桑田・清原のKKコンビによるPL時代に突入したのである。
第1位
2015年9月19日 第8回ワールドカップ プール・ステージ
ブライトン・コミュニティ・スタジアム 〇日本34-32南アフリカ●
過去7回のワールドカップに全て出場していた日本代表の戦績は、1勝21敗2分という惨憺たるもの。
そんなジャパンにとって、2015年ワールドカップのプール戦での初戦の相手は、過去2回のワールドカップ優勝を誇る南アフリカ代表(スプリングボクス)。
当然、この大会でも優勝候補の一角に挙げられていた
試合前の予想も何も、少しでもラグビーを知っているなら、ジャパンがスプリングボクスに勝つと思っていた人なんて1人もいなかっただろう(内緒だが、筆者はネタランで「ジャパンはスプリングボクスには絶対に勝てない」と断言していた)。
いや、エディ・ジョーンズ:ヘッドコーチに鍛えられたジャパンの31人の精鋭以外は。
イングランドのブライトン・コミュニティ・スタジアムで行われた試合は、ジャパンのタックルが次々にスプリングボクスの大男に突き刺さり、予想に反して一進一退の攻防。
29-32でジャパンの3点ビハインドで迎えた試合終了間際の後半40分、ジャパンは敵陣5mまで攻め込んで相手反則によりペナルティ・キックを得た。
しかしジャパンは同点確実のペナルティ・ゴール(3点)を狙わずに、あくまで逆転に拘ってスクラムを選択。
ジャパンはスクラムから出たボールを左右オープンに振り回して相手ディフェンスを翻弄し、最後はWTBカーン・ヘスケスが逆転トライを決めた。
「最も番狂わせが起きにくいスポーツ」と呼ばれるラグビーで、スプリングボクスに34-32で逆転勝ちしたこの試合は「ブライトンの奇跡」と呼ばれ、史上最大のジャイアント・キリングと世界各国からも賞賛の嵐、「ハリー・ポッター」の作者であるJ・K・ローリングは「こんな物語はとても書けない」とまで言ったのである。
だが、ジャパンは3勝1敗ながら勝ち点により予選プール敗退、「最強の敗者」と言われ、スプリングボクスは決勝トーナメントに進出して3位となった。
以上、いわゆるアップセットと呼ばれる勝負を10試合選んだが、共通しているのはいずれも「その時、歴史が動いた」ものである、ということだ。
そのほとんどが、新鋭(14歳の岩崎恭子など)が当時最強と謳われた者(チーム)を破ったものだが、中にはオグリキャップのように引退を決める勝負で鮮やかに勝った場合もある。
そして「番狂わせ」とは単なるスポーツ界の出来事に留まらず、社会現象ともなるのだ。
番外編
1967年4月9日 ゼットン星人による地球襲来
科学特捜隊日本支部基地付近 〇ゼットン(波状光線)ウルトラマン●
地球侵略を企む数々の怪獣を倒してきたウルトラマン。
しかし、ウルトラマンの必殺技スペシウム光線も、宇宙恐竜ゼットンの前には通用しなかった。
逆にゼットンは波状光線によりウルトラマンのカラータイマーを直撃、遂にウルトラマンは初敗北を喫した。
地球を守る絶対的ヒーローが悪の怪獣に敗れる、これ以上の番狂わせはあるまい。
だが、ウルトラマンの死後に科学特捜隊の岩本博士が開発したペンシル爆弾により、ゼットンは一発でアッサリ破壊された。
ウルトラマンですら勝てなかったゼットンに、いつも怪獣に歯が立たなかった科特隊が圧勝したというは、史上最大の番狂わせと言えるだろう。
そして、ウルトラマンが負けるシーンを目の当たりにした子供の頃の前田日明は、ゼットンを倒すべく格闘家への道を歩むのだった。