ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

ラグビー今昔物語

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2月27日は日本ラグビー界にとって画期的な日となった。

東京・秩父宮ラグビー場スーパーラグビーの公式戦、サンウルブズ×ライオンズが行われたのである。

スーパーラグビーといえば南半球のSANZAR主催の、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカのクラブ・チームが参加する、世界最高峰と言われるクラブ戦だ。

そこに今季から日本チームのサンウルブズと、アルゼンチン・チームのジャガーズが参戦することになり、計18チームで覇権を争うことになったのである。

 

昨年のワールドカップではご存知のとおり、日本代表は世界三強の一つ、南アフリカ代表(スプリングボクス)を破るなど3勝1敗の好成績を残し、日本にラグビー・ブームを巻き起こした。

その余勢を駆ってのスーパーラグビー参戦と思われがちだが、実は違う。

日本チームのスーパーラグビー参戦は、かなり前から構想としてあったのだ。

 

今から9年前の2007年に行われた第6回ワールドカップで、日本代表は3敗1分と世界との差をまざまざと見せ付けられた。

ワールドカップの招致運動を展開していた日本は、このままではいつまで経っても世界の舞台では勝てないと、日本チームのスーパー14(スーパーラグビーの前身)への参加を検討していたのである。

実際にSANZARから誘致は受けていたが、スケジュールや資金面などの問題でなかなか参加できなかった。

それがようやく、去年のワールドカップ前あたりから話が具体化し、今季からの日本チーム・サンウルブズの参戦が決まったのである。

そしてワールドカップでは日本代表が好成績を収めたので、タイミングとしては非常に良かったと言えよう。

開幕戦の秩父宮ラグビー場は前売り券が売り切れ、満員となる約2万人の観衆が集まった。

結果は残念ながら、サンウルブズがライオンズ(南アフリカ)に13-26で敗れたものの、観客を大いに沸かせるプレーが随所にあり、ファンはスーパーラグビーのプレーを堪能した。

 

サンウルブズは当然のことながら日本人選手が中心のチームだが、日本代表とは違う。

サモア代表のトゥシ・ピシをはじめ、日本代表資格がない外国人選手も含まれている。

また、日本代表選手であっても、今季からレッズ(オーストラリア)に加入した五郎丸歩やチーフス(ニュージーランド)に入団した山下裕史、以前からハイランダーズの一員だった田中史朗など、他国のクラブ・チームでプレーする選手もいるのだ。

彼らは外国チームの選手として、日本チームたるサンウルブズの敵となる。

 

スーパーラグビーでは、各チームが15試合ずつ行う。

サンウルブズのメンバーは日本のトップリーグの選手が中心で、日本での試合が終わってからさらにレベルの高いリーグでの戦いとなるため相当な厳しさを強いられるが、この経験を糧にレベルアップして、2019年の日本開催ワールドカップでは日本代表の決勝トーナメント進出に繋げてもらいたいものだ。

 

それにしても、日本チームが海外のクラブ戦に参戦したり、日本人選手が海外のチームでプレーするなど、かつては考えられなかった。

1969年に「空飛ぶウィング」と謳われた坂田好弘(近鉄)がニュージーランドカンタベリー大学に留学、ニュージーランド代表(オールブラックス)候補にもなったが、野球で言えば日本人初のメジャー・リーガーであるマッシーこと村上雅則といったところか。

そう考えると、今の選手たちはラグビー版・野茂英雄以降の存在と言えるかも知れない。

 

僕がラグビーを見始めたのは1980年前後だが、当時と今とでは状況が全く違う。

まず、日本にはトップリーグというものが無かった。

さらに、日本はおろか世界でもプロ選手は認められてなかったのである。

それどころか、ワールドカップというものすらなかったのだ。

第1回ワールドカップが行われたのは1987年のことで、それまでは世界一を決める大会なんてなかった。

また、南アフリカアパルトヘイト政策のため各国からボイコットされ、ワールドカップでの第2回大会までは参加できなかったのである。

そのため、日本代表がスプリングボクステストマッチを行ったのは、意外にも去年のワールドカップが初めてだったのだ。

したがって、日本代表×スプリングボクスの対戦成績は日本代表の1勝0敗、勝率10割である。

ちなみに、世界のラグビー(ユニオン)でプロ化が容認されたのは、1995年に南アフリカで行われた第3回ワールドカップ以降で、この大会で日本代表はニュージーランド代表(オールブラックス)に17-145という屈辱的大敗を喫した。

 

80年前後の日本ラグビーは、新日鉄釜石(現:釜石シーウェイブス)の天下だった。

1978年度から84年度まで、前人未到の日本選手権7連覇を達成したのである(後に神戸製鋼も7連覇を達成)。

この頃はまだトップリーグはなかったと言ったが、そのかわりに全国社会人大会が行われていた。

全国各地区の予選やリーグ戦を勝ち抜いた16チームがノックアウト式トーナメント戦を行い、社会人№1を決めたのである。

 

しかし、予選といっても新日鉄釜石の場合は東北地区で、その頃は東日本リーグなんてなかったから、ライバルは秋田市役所ぐらいだった。

しかも当時は、前年度優勝チームは無条件で全国大会出場していたのだから、2連覇以降は予選なしだったのである。

16チーム参加のトーナメント戦ということは、4試合に勝てば優勝だ。

しかも、当時の試合日程が凄い。

1月2日に開幕して1回戦を行い、中1日おいて1月4日に準々決勝、また中1日で1月6日に準決勝、さらに中1日の1月8日に決勝戦を行っていたのである。

社会人№1を決めるのが、休養日を入れて僅か1週間。

そして、当時は成人の日で祝日だった1月15日に、大学日本一のチームと日本選手権を行い、日本一が決まると日本のラグビー・シーズンは終わっていた。

 

つまり、当時の新日鉄釜石は2連覇以降、1月2日にシーズン・インして1月15日にオフ・シーズンを迎えるという、1年の公式戦は僅かに5試合、シーズン中は僅か2週間で1年の全てを終えていたのである。

それ以外の351日間は、田舎の釜石でひたすら練習に明け暮れていたわけだ。

もちろん、練習試合はあっただろうし、公式戦に近い試合としては岩手県チームとして参加していた国民体育大会や、社会人大会前に行われていた社会人対抗ラグビーオープン戦のようなもので、新日鉄釜石の仕上がり具合を試すために関東の社会人チームと対戦していた)などもあったが、やはり新日鉄釜石は試合ではなく練習で実力をアップさせていたのだろう。

地元・東北の高校から選手を集め、バックスの要には松尾雄治や森重隆ら明治大学卒のスター選手を配し、「どんなラグビー好きでも逃げ出したくなる」と言われた冬の釜石でじっくりと鍛え上げられた選手たちが1月の公式戦で爆発する、というのが新日鉄釜石のチームカラーだった。

 

新日鉄釜石が台頭するまでは、社会人と学生の実力は拮抗していたが、釜石7連覇からそのバランス・オブ・パワーが崩れ始めた。

とはいえ、3連覇目の同志社大学との日本選手権では10-3という接戦だったし、7連覇目の同大との一戦でも前半は12-13とリードを許すという展開になっており(結果的には31-17で釜石の勝利)、試合としては成立していた。

今年度の日本選手権は久しぶりに社会人(トップリーグ)×学生の一騎打ちという方式になったが、空前絶後の大学選手権7連覇を達成した帝京大学は、トップリーグ王者のパナソニック・ワールドナイツに15-49と全く歯が立たなかったのである(それでも、善戦したと評価されたぐらいだ)。

そもそも、新日鉄釜石7連覇の次の年は、慶應義塾大学トヨタ自動車(現:トヨタ自動車ヴェルブリッツ)を18-13で下して日本一になったのだから、学生はまだまだ社会人に通用していた。

完全に差を付けられたのは、神戸製鋼(現:神戸製鋼コベルコスティーラーズ)の7連覇からである。

さらに、トップリーグの発足によってその差は決定的となった。

 

今年度のトップリーグはワールドカップのためにシーズンが短縮されたが、昨年度の場合は各チームがレギュラー・シーズンだけで14試合を戦った。

さらに、プレーオフに進出したり、日本選手権で戦ったりするチームもあるので、1年で約18試合、8月の終わりから2月の終わりまで7ヵ月間も公式戦が行われたことになる。

新日鉄釜石の「1年で2週間、公式戦5試合」とは大きな違いだ。

そして今年からは、スーパーラグビーでの戦いが加わることになる。

 

新日鉄釜石の黄金期は、社会人チームにも外国人助っ人のいなかった時代。

最近のトップリーガーはほとんど大卒だが、当時の社会人ラグビーは高卒選手もまだまだ幅を利かせていた。

前述したようにプロは認められておらず、ワールドカップすらない。

各国はテストマッチの戦績により「この国が世界最強とちゃうか?」と想像するしかなかった。

IRFB(現在のワールド・ラグビー=WRの前身)加盟国は8ヵ国しかなく(イングランドスコットランドウェールズアイルランド、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ)、日本は準加盟国で、IRFB8ヵ国との代表戦はほとんどテストマッチと認められてなかったのである(日本協会はテストマッチ扱いとし、日本代表の出場選手にはキャップを与えていた)。

 

新日鉄釜石が7連覇する年の1984年のシーズン前、「シャンパン・ラグビー」と呼ばれたフランス代表が来日した。

前年の日本代表はウェールズ遠征で、「赤い恐竜」ウェールズ代表に24-29で敗れたものの大善戦したために期待されたが、この年のフランス代表には0-52、12-40の連敗で全く歯が立たなかったのである。

 

このテストマッチ前(もちろん、フランスはテストマッチ扱いしなかったが)、新日鉄釜石はフランス代表と国立競技場で対戦している。

フランス代表のジャック・フルー監督は「カマイシはジャポンで一番強いクラブと聞いているし、どんなラグビーをするのか楽しみだ」と試合前にコメントしていたが、結果は6-65で新日鉄釜石はノートライの大敗。

この6年間は「強い釜石」しか見たことのない日本のファンにとってショッキングな試合だった。

この試合、関西ではサンテレビで放送され(テレビ神奈川が制作)、僕も見ていたが、こんなにフルボッコされた新日鉄釜石を見たのは初めてである。

しかもフランス代表は「代表戦ではない」という理由からか、背番号がポジションに関係なくバラバラだったのを憶えている。

選手もベストメンバーからは程遠く若手中心で、おそらくフランス代表にとってお遊びみたいな試合だったのだろう。

日本代表史上最高の司令塔と謳われ、新日鉄釜石の監督兼選手としてこの試合に出場していたスタンドオフ松尾雄治でさえ「試合の終盤には、早く終わってくれと思っていた」と試合後に語ったぐらいである。

それでもこのシーズン、翌年1月に行われた社会人大会と日本選手権では優勝して、新日鉄釜石は7連覇を達成した。

日本選手権7連覇を決めた1月15日の国立競技場、振り袖姿の女性や大漁旗を振っていた満員の観衆の前で、松尾雄治は引退の花道を飾ったのである。

 

翌1985年秋、松尾雄治がいなくなった日本代表はフランスに遠征した。

同地でフランス代表とのテストマッチを2試合行い、結果は0-50、0-52という、いずれも大惨敗の2連敗。

フランス代表のダントラン主将は「代表チームがなぜこんな無気力な試合をするのかわからない」と日本代表を酷評した。 

日本代表がスプリングボクスを破る30年前のことである。