ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

掛布vs岡田

今週号(12月7日号)の週刊ベースボールベースボール・マガジン社)、岡田彰布の連載コラム「そらそうよ」は非常に興味深かった。

阪神タイガースの二軍監督に就任した掛布雅之と、岡田自身との関わり合いについて書かれていたからである。

岡田が掛布について詳しく論じたことは、あまりない。

 

掛布と岡田と言えばご存知の通り、共に阪神の中心打者として活躍してきた。

特に1985年には阪神の21年ぶりの優勝、そして初の日本一に大きく貢献したのである。

同年4月17日、阪神甲子園球場での読売ジャイアンツ戦、ランディ・バースと共に3人で放ったバックスクリーン3連発はつとに有名だ。

 

バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発。この年、阪神は21年ぶりの優勝を果たすと共に日本一に輝き、日本中にタイガース・フィーバーを巻き起こした

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今回のコラムでは、岡田が阪神にドラフト1位指名されて入団が決まったとき、既に阪神のスターだった掛布との対談を、某スポーツ紙のトラ番記者東京六大学担当記者が極秘で企画し、それが実現したことが書かれていた。

これが掛布と岡田の、初顔合わせだったという。

しかし時は、アマとプロがいがみ合っていた時代。

トラ番記者は厳重注意を受け、六大学担当記者は大学関係者から取材拒否に遭ったのだという。

今から考えると、実にシュールなエピソードだ。

 

岡田が阪神に入団した後は、二人は仲が悪かったと言われていた。

ただでさえお家騒動が日常茶飯事の阪神、二人のスター選手がいればマスコミはすぐに掛布派、岡田派と分けたがる。

 

だが、今回のコラムで岡田は、それは全然違うと語っていた。

たしかにカケさん(掛布)とは一緒に食事に行ったり呑みに行ったりすることはなかったが、それには別に意味はなかったという。

 

実は掛布も、別のインタビューで同じことを言っていた。

「俺はオカ(岡田)とは試合後の付き合いはしたことはないよ。でもそれは俺のスタイルであって、相手がオカに限ったことではない。お互いにプロなんだから、チームメイトだからと言って、球場を離れても一緒にいる必要はないじゃないか」

というわけだ。

しかし、掛布と岡田と言えば阪神の中でも大酒豪として知られており、そんな二人が一緒に酒を呑みに行かないのはおかしい、と勘繰られたのだろう。

球場外でも共に行動しなければ仲が悪いと言われ、一緒につるんでいると徒党を組んでいると思われる、プロ野球界とは厄介な世界だ。

 

84年のオフ、選手会長だった掛布が、後任に岡田を指名した。

怪我の後遺症によって数年間は満足な成績を残せなかった岡田に対し、掛布が「お前が中心選手にならないと、阪神は強くならない」と諭したのだという。

このあたり、興味のある方は今回のコラムをお読みになるといい。

 

これは今回のコラムには書かれていないが、85年の優勝時、選手会長だった岡田は球団から高額な報奨金(一説には1億円)を受け取っている。

あとは選手会長のお前が使い道を考えろ、というわけだ。

普通、球団から報奨金はこんな渡し方なんてしない。

主力には多めに、その他の一軍選手に少なめの報奨金を渡すか、あるいは一軍選手全員平等に分配するか、である。

 

しかし岡田はいずれの方法も取らなかった。

一軍のみならず二軍選手、いやバッティング投手やマネージャーなどの裏方さんにも平等に分配したのである。

この時、岡田は独断では決めず真っ先に、掛布に了解を求めた。

もちろん、掛布は岡田の意見に賛成したのである。

岡田にとっての掛布は、頼れる兄貴分だったのだ。

 

とはいえ、掛布と岡田は仲よしこよしだったわけではないだろう。

むしろ、お互いに強烈なライバル意識を持っていたに違いない。

チームメイトとはいえプロなのだから、それは当たり前の話である。

何しろ掛布と岡田と言えば、あまりにも好対照なのだ。

プロ入りしたのは掛布の方が岡田よりも6年も早いが、掛布は高卒、岡田は大卒なので、年齢は2つしか違わない。

 

掛布が阪神に入団したのは1973年のオフ。

無名だった掛布は、あらゆるツテを頼ってテストしてくれるプロ球団を探し、何とか阪神の入団テストを受けさせてもらって、「まあ、取っておくか」ぐらいの感覚で阪神はドラフト6位で指名した。

契約金は500万円、年俸は当時の二軍最低年俸である84万円という超安値。

月額にすると僅か7万円である。

当時の掛布は、アドバイザリー契約も無かったのだからグラブやバットは全て自前、さらに給料から寮費を差し引かれるため金はほとんど手元に残らず、着る服すらままならなかったため、スーパーマーケットのバーゲンセールを狙って服を買い込んだのだという。

それでもアシが出たので、実家に「カネオクレ」とSOSを出さざるを得なかったのである。

この下積みから掛布は、一気にスターダムへ駆け上がった。

 

一方の岡田は、1979年オフに阪神からドラフト1位指名を受けて入団。

名門・早稲田大学時代には三冠王に輝いた岡田は、この年のドラフトで超目玉となり、当時史上最多の6球団が競合し、岡田にとって意中の球団だった阪神が当たりクジを引き当てたのである。

契約金も当時としては破格の6千万円(掛布の12倍)、年俸420万円(月額35万円。掛布の新人年の5倍)という鳴り物入りで阪神に入団した。

阪神にとって1968年の田淵幸一以来となる東京六大学の大スター入団により、大阪の街は沸き上がった。

当時の東京六大学のステータスは、今よりもずっと高かったのである。

 

テスト生同然の無名で叩き上げの高卒・掛布と、アマの大スターで超エリートだった大卒・岡田。

千葉県出身で同郷の長嶋茂雄を尊敬する掛布と、大阪出身で生粋の阪神ファンであり「長嶋さんなんて嫌いや。なんで阪神の選手が、巨人の人間を好きにならなアカンねん」と公言してはばからない岡田。

プロに入れるのならどの球団でも良かった掛布と、大ファンだった阪神への入団を熱望した岡田。

これほど見事に対照的な二人も珍しい。

ジャイアント馬場アントニオ猪木だって、ここまで極端には違わない。

 

しかし掛布と岡田には、たった一つだけ共通するものがあった。

ポジションである。

二人とも同じサードだった。

同じポジションだったが故に、二人のライバル関係が一層浮き出たとも言える。

当時の掛布は既に阪神不動のサードであり、しかも岡田がドラフト指名された年には当時の球団新記録となる48本塁打を放って、初のホームラン王に輝いていた。

いかに岡田が六大学の三冠王だろうと、プロではレベルが違う。

 

しかし、岡田は自信を持っていた。

東京六大学では、江川卓鹿取義隆山倉和博袴田英利、高代延博といった、後にプロで活躍するメンバーに揉まれて戦っていたからだ。

だが、初めての阪神キャンプで岡田は愕然とする。

掛布はもちろん、小林繁江本孟紀山本和行若菜嘉晴藤田平真弓明信佐野仙好マイク・ラインバックといった、大学とは比較にならない連中が同じチームにゴロゴロしていたのだ。

キャンプの段階で岡田は、既にプロのレベルを思い知ったのである。

サードにはホームラン王の掛布、ショートは長距離核弾頭の真弓、ファーストには天才打者の藤田がいたため、岡田はセカンドへのコンバートを余儀なくされた。

 

しかも、当時の監督だったドン・ブレイザー(ドナルド・ブラシンゲーム)は、岡田を二軍で育てる方針だった。

そのため、ヤクルト・スワローズ(現:東京ヤクルト・スワローズ)からデーブ・ヒルトンを獲得し、セカンドとして起用したのである。

これはアメリカでは当たり前のことで、いくらアマチュアで実績があってもいきなりメジャー・リーグでデビューさせようとはせず、マイナー・リーグでじっくり育てるのが普通だったからだ。

 

しかし日本では、アメリカの常識は通用しなかった。

アマ野球が発達した日本では、アマのスター選手がプロでどこまで通用するか、ファンは見たがったのである。

そのため、シーズンに入っても岡田を起用しようとしないブレイザー監督に対し、阪神ファンの怒りが爆発した。

やがてはブレイザー監督の自宅にカミソリが送られるようになり、身の危険を感じたブレイザーはサッサと辞任し、アメリカへ帰国したのである。

と同時に、成績が低迷したヒルトンも退団した。

 

開幕早々での監督の辞任劇に、監督代行として打撃コーチだった中西太が就任した。

中西監督代行は球団の意向もあり、岡田を起用するようになったのである。

何のことはない、球団だってファンと同じく、岡田を使って欲しかったのだ。

 

ちょうどその頃、掛布が怪我で欠場していた。

掛布もヒルトンもいない状態では、岡田を使わざるを得ない。

ここから岡田の快進撃が始まった。

元々は東京六大学三冠王を獲った男、プロの水に慣れるとたちまち実力を発揮する。

結局この年、岡田は打率.290、18本塁打で見事新人王に輝いた。

 

一方の掛布は、前年の本塁打王から一転、怪我と戦うシーズンになってしまった。

怪我をして二軍落ち、怪我が治り切らないうちに無理して一軍に上がっても、また怪我をしてしまうという悪循環。

この年の掛布は出場70試合、打率.229、11本塁打という、新人年を除いてプロ入り後で最低の成績だった。

 

怪我による不振で掛布はファンから罵声を浴びせられ、いたずら電話や愛車が傷つけられるという被害にも遭ったのである。

前年のホームラン王という天国から、一気に地獄へと奈落の底に落とされた。

そして自分が浴びるべきスポットライトは完全に、岡田に奪われてしまったのである。

オフ・シーズンには、南海ホークス(現:福岡ソフトバンク・ホークス)との間にトレード話が出たぐらいだ。

この新聞記事を見た掛布は、もしトレード通告されたら引退しようと覚悟したという。

結局、このトレード話は未遂に終わったが。

 

この年のトラ番記者たちは、みんな岡田の元へ駆け付けた。

かつては記者で賑わっていた掛布の周りには誰もいない。

室内練習場で掛布が独りでリハビリ練習していると、ある若いトラ番記者がやって来た。

「岡田の取材はいいのか?」と掛布が訊くと「俺は掛布番だから」と記者は答え、掛布は嬉しそうに笑ったという。

 

79年にホームラン王になって、慢心があったのかも知れない、と掛布は振り返る。

81年は、そんな慢心を振り払うかのように、怪我をしない体作りに専念した。

そんな掛布の努力が実を結び、この年の掛布はプロ入りして初めて全試合出場(当時は130試合)を達成する。

プロ入り以来、掛布は毎年のように怪我に泣かされてきたが、初めて怪我に打ち勝ったシーズン、全試合出場はホームラン王よりも嬉しい、と当時の掛布は語った。

以降、掛布は全試合出場が毎年のノルマとなったのである。

打率もプロ入り以来最高の.341をマークした(ベストテン4位。首位打者はチームメイトの藤田)。

 

しかし、ファンはそれでは満足しなかった。

この年のホームランは、79年の半分以下である23本。

やはりタイガースの四番はホームランを打たなアカン、というわけだ。

そこで掛布は、打撃フォームを変えた。

それまでは「ヒットの延長がホームラン」だったのが、「ホームランの打ち損ないがヒット」という具合に、ホームランを追い求めるようになったのである。

その甲斐あって翌82年にはホームラン王と打点王の二冠王、84年にはホームラン王を奪い取った。

そして、名実ともにミスター・タイガースと呼ばれるようになったのである。

しかし、身長175cmと小柄な掛布にとって、ホームランを要求する打法は確実に体を蝕んでいく……。

 

だが掛布は、それでも全試合出場にこだわった。

小指を骨折してもそれを隠し、平然と試合に出場したのである。

なぜなら、掛布はタイガースの四番だったからだ。

「四番打者が出場しない試合なんて面白いか?ファンをガッカリさせるだけだ。もし打てなければ、ファンは俺に罵声を浴びせて鬱憤を晴らせばいい。その方が欠場するよりマシだ」

というのが掛布の信念だったのである。

その後の掛布は、優勝する85年までの5年間、ずっと全試合出場を続けた。

 

一方の岡田は、掛布とは逆にこの後は怪我に悩まされるようになった。

2年目の81年(即ち、掛布が初めて全試合出場した年)、岡田は早くも全試合出場を果たし、3年目の82年にはプロ入り初の3割に到達するも、83年は足を肉離れしてしまって、残りのシーズンを棒に振ってしまった。

84年もその影響が残り、セカンドから外野へコンバートされる。

理詰めで野球をやる岡田にとって外野手はつまらないポジションであり、打撃成績も打率.297、15本塁打、51打点と、主力打者としては物足りないものだった。

そして、鳴り物入りで阪神に入団した岡田も既に5年目、未だに無冠だったのである。

一方の掛布は、この年までにホームラン王3度、打点王1度の栄冠に輝いた。

しかし、二人ともまだ手にしていないものがあった。

優勝である。

 

翌85年、前述したように掛布から選手会長に指名された岡田は、復活に向けて並々ならぬ思いがあった。

その一つが、吉田義男の監督就任である。

2度目の阪神監督就任となる吉田は、就任記者会見で開口一番に、岡田をセカンドに再コンバートさせる、と言い放った。

岡田の肉離れはセカンドの守備中に起きたので、下手な二塁手と思われていたから、この言葉には誰もが驚いたのである。

「岡田は地肩が強く、二塁手としての一塁送球はピカイチなんですわ。鍛えたらダブルプレーを量産できる、日本一のセカンドになれると思う」

と吉田が言うと、記者からクスクス笑い声が聞こえて来た。

すると、吉田はその記者を指差し、

「アンタ今、笑いなはったな。私の言うことがウソや思てるんでっしゃろ。今シーズン、岡田のプレーをよう見ときなはれ。アンタの顔は忘れまへんで!」

と京都弁でまくしたてた。

こう言ってくれる監督に、岡田が応えようと思ったのは想像に難くない。

こうして岡田は、念願の内野手に復帰した。

代わってセカンドの真弓は、慣れない外野にコンバートされることになったが、真弓は「試合に出られるんやったら、ポジションはどこでもエエですよ」と快諾したのである。

阪神の優勝への陣容が整った。

 

85年のシーズンが始まると、上記のバックスクリーン3連発をはじめ、打線が大爆発。

一番:真弓、三番:バース、四番:掛布、五番:岡田の猛打カルテットが火を噴き、遂に21年ぶりの優勝を果たしたのである。

バースが三冠王の大活躍、真弓は一番打者ながら34本塁打と、この2人だけでも凄いが、掛布と岡田の成績を見れば、

 

掛布=打率.300、40本塁打、108打点

岡田=打率.342、35本塁打、101打点

 

と、もしバースの三冠王が無ければ掛布はホームラン王、岡田は首位打者になっていた数字である。

掛布と岡田は、生まれて初めて頭からかぶるビールで優勝の美酒を味わった。

二人が酒を酌み交わしたのも、この時が初めてだったのだろうか。

 

日本シリーズでは当時最強と謳われた西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)を4勝2敗で破り、初の日本一に輝いた阪神だったが、ここから苦難の道が始まった。

連覇を目指した翌86年、開幕早々に掛布は死球により手首を骨折。

いかに掛布が「四番の責任」を果たそうとしても、手首を骨折したらどうしようもない。

しかも、5年間は必至で抑えて来た故障が、一気に吹き出て来た。

小柄な体に、ホームランを要求し続けて来たツケが回ってきたのである。

その後は、毎年襲ってくる怪我に悩まされた掛布は満足にプレーできず、88年を最後に33歳の若さで現役引退。

昭和と共に、掛布はグラウンドを去った。

 

掛布がレギュラーとして機能しなくなった86年は、阪神暗黒時代の始まりだった。

87年には、2年前の日本一がウソのようにダントツの最下位。

88年の途中でバースが阪神を去り、真弓も力が衰えて代打に回ってからは、岡田が阪神の一枚看板となった。

しかし、名門球団を一人で背負うのはあまりにも厳しい。

個人成績としては3割、30ホーマーからは程遠く、最下位に低迷する阪神を救うことはできなかった。

 

しかし、阪神が一瞬だけ輝いた年があった。

92年のことである。

暗黒時代に突入していた阪神だったが、この年はヤクルトと最後まで優勝を争い、結局は2位に終わったものの、85年のタイガース・フィーバーに劣らない熱気を大阪にもたらしたのだった。

だが、この年は岡田にとって、最も苦渋に満ちた年でもあったのである。

 

シーズン当初から不振だった岡田は、4月の試合での打席で、二軍上がりの亀山努に代打を出されてしまったのだ。

中村勝広監督による「監督生命を賭けた」代打起用により、亀山はスター街道を歩き始め、岡田は勝利の輪から外れて行った。

もはや監督からも信頼されなくなってしまった岡田。

チームは2位に浮上しながら、プロ入り以来最低の成績に終わった岡田は、翌93年もかつての輝きを取り戻すことができず、阪神自由契約になってオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)に移籍することとなる。

オリックスでも満足な成績をあげられなかった岡田は、95年に引退。

無冠のままプロ生活を終えた岡田は結局、掛布の跡を継ぐミスター・タイガースと呼ばれることはなかった。

 

掛布は引退後、解説者を務める傍ら、タレント活動も行っていた。

かねてから親交があったタレントの島田紳助が司会を務める「紳助の人間マンダラ関西テレビ)」という関西ローカルのテレビ番組にレギュラー出演し、紳助にたびたび岡田との仲をからかわれていたのである。

ゲストが掛布に対し、「阪神の監督はしないんですか?」と訊いたところ、紳助は、

「岡田が阪神を辞めたら監督をするんですって」

と冗談を飛ばしていた。

もちろん、掛布は笑うだけで相手にしなかった。

 

ある時には、完成したばかりの福岡ドームが話題になって、当時はホークスに在籍していた阪神V1メンバーの池田親興の話になり、掛布が、

「チカ(池田)がダメですね~」

と言うと、紳助が、

「そんなこと言うていいんですか?池田とは仲が悪いんですか?」

と訊いた。

掛布は、

「いやいや、仲がいいから言えるんですよ」

と答えると、紳助は、

「そらそうですよね。仲がいいから言いたいことが言えるんですよね。同じような調子で、岡田にも言いたいことを言うてください

と掛布に要請した。

掛布は、

「岡田!……ガンバリなさい」

と苦笑いしながら、不振の岡田にエール(?)を贈っていた。

ほとんど紳助の思うツボである。

 

関西ローカルの特番で、読売テレビ阪神V1メンバーを集めて座談会を開いた。

もちろん、掛布と岡田も出席し、和気あいあいと優勝当時の思い出話を語り合ったのである。

この放送の後日、「人間マンダラ」でもこの特番が話題になり、掛布は紳助に対し、

「ね、あの番組を見て、僕と岡田は仲が悪くないことがわかったでしょう?」

と得意気に語っていた。

この日、ゲストに来ていたV1メンバーである福間納は、

「カケはオカに対し、対抗心はあまり持ってなかったんじゃないですかね。むしろオカの方が、カケを意識していたように思います」

と語っていた。

つまり、岡田にとっての掛布は、越えなければならない高い壁だったのかも知れない。

 

引退後の二人の生き様も好対照だった。

すぐに解説者になってタレント活動まで始めた掛布に対し、岡田はユニフォームを脱ぐことなくコーチとなり、さらに二軍監督を経て、2004年からは阪神の監督に就任した。

そして05年には阪神をリーグ優勝に導いたのである。

岡田は選手として、コーチとして、監督として優勝の美酒を味わったのだ。

それに対し掛布は、選手でしか優勝経験はない。

 

岡田がユニフォームを脱いで現場を離れたのは、プロ入りしてから30年後の09年のことである。

しかも、岡田にとっての評論家生活は僅か1年間だけで、10年からはオリックスの監督に就任した。

現役時代は叩き上げの掛布に対し、エリートの岡田という構図だったが、引退後は逆になったと言ってよい。

 

そして現在、12年を最後にオリックスの監督を退いてからの岡田は再びネット裏から野球を見ているが、掛布は15年のオフ、阪神の二軍監督として27年ぶりにユニフォームを着た。

13年に阪神の打撃コーディネーターという役職に就いたものの、正式に球団のコーチング・スタッフに名を連ねるのは、現役引退以来初めてである。

しかも、自分より遥か後輩の金本知憲一軍監督を補佐する立場というのは、叩き上げの掛布らしいと言えるかも知れない。

 

今後、掛布と岡田が同じベンチに座ることがあるのだろうか。

個人的には、甲子園の一塁側ダッグアウトに掛布監督がふんぞり返り、岡田ヘッドコーチが作戦を授ける姿を見てみたい。

掛布vs岡田が真のライバルとして火花を散らすのは、この時だろう。

 

高卒で無名の存在だった掛布は、その後スターにのし上がった真のプロだと言われる。

一匹狼、いや一頭で行動する虎として、紛れもないプロ野球道を示したのが掛布である。

 

一方の岡田は、名門:早稲田大の主将を務め、アマ野球の頂点を極めたと言っていい。

そして大学独特の体育会系気質を経験したため、チームをまとめる能力に長けていたのだ。

 

プロのリーダーたる掛布と、アマのキャプテンを務めた岡田、全く異質の両者が指導者として融合すればどんな化学反応を起こすのか、実に興味がある。

 

 

掛布や岡田が怪我をしてファームで調整していた頃の、阪神の二軍本拠地だった阪神浜田球場。現在は草野球場になっている。今にして思えば、こんな貧弱な球場で、掛布や岡田といったスーパースターが練習や試合をしていたのが信じられない

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現在の阪神二軍本拠地である阪神鳴尾浜球場。上記の浜田球場に比べれば、施設は遥かに充実している。来季から掛布はこの球場で指揮を執る

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