「プロレスとはプロのレスリングではない」
かつて、作家の村松友視は自著「私、プロレスの味方です(角川文庫)」でそう書いていた。
プロレスとは「プロレス」としか呼びようのないジャンルの鬼っ子であり、喧嘩にルールを作る過程でプロレスが発生した、というのが村松友視の主張である。
では、実際にはどうなのか。
上記の「レスリング」とはもちろん、オリンピックでお馴染みの俗にいうアマレスのことだ。
プロレスを英語で略さずに書くと「professional wrestling」であり、アマレスは「amateur wrestling」となっている。
ただし、現在のアマレスではプロ選手の参加も容認しているので、「アマチュア」が取れて単に「レスリング」と呼んでいるが、本稿では便宜上「アマレス」と呼称する。
いずれにせよ、言葉の上では「プロレスとはプロのレスリング」ということになる。
次にルールを見てみよう。
試合に勝つためには、相手選手の両肩をマットに着ける(ピン・フォール)、という点では、プロレスとアマレスは共通している。
ところが、両肩を着ける時間はプロレスが3秒、アマレスでは1秒と、3倍も違う。
野球でいえば、プロ野球では3アウトで攻守交代なのに対し、アマ野球(高校野球、大学野球、社会人野球など)は1アウト交代のようなものだ。
これはもう、全く違う競技と言ってよい。
プロレスでは「カウント2.99秒の攻防」なんていうのが最も熱戦となるが、アマレスでそんな悠長なことをしていたら負けてしまうのだ。
たとえば、プロレスラーのスタン・ハンセンがピン・フォール勝ちするときは、大抵の場合は体固めの技が決まったわけではなく、体固めの前に放つウエスタン・ラリアットによって相手をノシてしまってから3カウントを奪う。
要するに、ハンセンが勝つのはウエスタン・ラリアットのおかげで、体固めには大した意味がない。
しかしアマレスの場合は、プロレスに比べて1/3の1秒だけでいいにもかかわらず、ピン・フォールを奪うには相当な技量が必要だ。
もちろん、相手をノシてからピン・フォールを奪うなんてことは、アマレスではできない。
他にも、アマレスでは打撃技が一切禁止されているが、プロレスはハンセンのウエスタン・ラリアットのように、ナックル・パンチ(グー・パンチ)やトー・キック(爪先蹴り)以外の打撃は認められている(危険個所以外)。
いや、実際にはプロレスではナックル・パンチやトー・キックは平然と行われているのだ。
それどころか、凶器まで持ち出して攻撃することがある。
なぜなら、プロレスでは5秒以外の反則は認められているからだ。
なにしろ、反則を売り物にするプロレスラー(ヒール=悪役)が大勢いるぐらいである。
こんなこと、アマレス(というよりプロレス以外のスポーツ)では考えられない。
普通なら、即反則負けになるだけではなく、出場停止処分(場合によっては永久追放)になるだろう。
それ以外でも、アマレスはポイント制となっており、ピン・フォールを奪えない場合はポイント数で勝敗が決まる。
しかし、プロレスにはポイントなどなく、ピン・フォールで決着がつかない場合はリングアウトや反則など、実に曖昧なことが多い。
試合時間も、アマレスでは6分間の短期決戦だが、プロレスは色々あるが長い試合形式でその10倍の60分間、場合によっては時間無制限なんてものもあるのだ。
そもそも、試合場が全く違う。
プロレスのリングは約6m四方の正方形(団体によって大きさは違う)を3本のロープで囲み、フロアよりかなり高くなっているという、ボクシングに似た形状だ。
それに対しアマレスのマットは直径9mの円形で、フロアと同一の高さであり、ロープなど張られていない。
なるほど、これだけ違えば「プロレスとはプロのレスリングではない」という村松友視の主張も頷ける。
プロレスではお馴染みの光景だが、アマレスでこんなシーンは有り得ない
そのせいか、プロレスラーにはアマレス出身者が少ないのも特徴だ。
プロ野球選手で、野球未経験からプロ野球の世界に飛び込んで来る者はほとんどいない。
ソフトボール出身の大嶋匠(北海道日本ハム・ファイターズ)という選手もいるが、大嶋の場合は異例中の異例で、それでもソフトボールと野球は似た球技であり、一応小学校時代は軟式野球をしていたのである。
その大嶋も、現在のところはプロ野球で成功しているとはとても言えない。
「日本プロレス界の父」と呼ばれる力道山は相撲出身、その下の世代となるジャイアント馬場はプロ野球出身、アントニオ猪木は陸上競技(投擲競技)をやっていた。
つまり、日本のプロレスラー3巨頭は、いずれもアマレス未経験者だったのだ。
大相撲で関脇まで行った力道山はともかく、馬場と猪木に至っては格闘技の経験すらほとんどない(猪木は兄に空手を習っていたようだが)。
それでも、下の世代になるとジャンボ鶴田(鶴田友美)や長州力(吉田光雄)など、アマレス出身のプロレスラーも増えてくる。
全く違う競技と言っても、やはりプロレスの基本的な技はアマレスにあるのだ。
寝技に持ち込むために重要となるタックルはアマレスの基本であり、後ろへの反り投げ、即ちスープレックスも、やはりアマレスの技術である。
柔道や相撲には後ろへの投げはないので、これらの格闘技出身者がプロレスラーになったときは受け身が難しいが、アマレス出身者は既に基本が出来ているので上達が早い。
ましてや、空手やボクシングなどの打撃系格闘技出身者が、レスリングの受け身を完璧にマスターするのは困難だろう。
もちろん、アマレス経験がなくてもプロレスで練習を積めば、ある程度のタックルやスープレックス、そして受け身を習得できるが、若い頃からアマレスをしている選手に比べれば、やはり技術的に粗いという。
「プロレスの芸術品」と呼ばれるジャーマン・スープレックス・ホールドでピン・フォールを奪う藤波辰巳(現:辰爾)。ジャーマン・スープレックスはアマレス発祥の技だが、藤波にはアマレス経験はない
アマレスのフリー・スタイルでのジャーマン・スープレックス。プロレスのようにブリッジしてそのままピン・フォール、というのはなかなか難しい。なお、スープレックスはフリー・スタイルよりもグレコローマン・スタイルの方に多く見られる
1997年、当時「格闘技最強」と謳っていたプロレスラーの高田延彦が、あらゆる格闘技を取り込んだグレイシー柔術のヒクソン・グレイシーに惨敗した時、ヒクソンはアマレス流のタックルで高田を苦も無く捻ったので、日本の格闘技ファンはアマレス技術の凄さを認識した。
高田は従来のプロレスとは一線を画した「真剣勝負」を標榜するUWF系団体で活躍していたが(もっとも、UWF系団体も真剣勝負ではなかった)、高田自身にアマレスの経験はなく、またUWF系レスラーにもアマレス経験者はほとんどいなかったので、本格的なタックルには全く対応できなかったのである。
とはいえ、プロレスラーにとってアマレス出身者が必ずしもいいとは限らない。
川田利明は高校時代、レスリングで国体優勝を果たし、卒業後に全日本プロレスに入団したが、なかなか試合に出させてもらえず7ヵ月後にようやくデビューしたものの、前座でなんと205連敗もしてしまった。
野球でいえば、甲子園で優勝し鳴り物入りでプロ野球入りしたが、新人時代は怪我もないのに二軍戦すら出してもらえず、2年目にようやく二軍戦デビューしたものの全く打てないようなものだ。
元横綱:双羽黒の北尾光司は、大相撲を廃業した2年後にプロレスラーとなり、レスリング経験は全くなかったにもかかわらず、デビュー戦は東京ドームでのセミ・ファイナルという破格の扱いで、しかも一流日本人レスラーですらなかなか勝てなかったクラッシャー・バンバン・ビガロにピン・フォール勝ちしてしまった。
本田圭佑がサッカー界を引退してその2年後にプロ野球選手となり、新人として一軍開幕戦でいきなりホームランを連発するようなものだが、そんなことは有り得ないだろう。
いくらレスリング経験があっても、高校で全国優勝した程度では鼻クソ扱いで、逆にレスリング経験がなくても他の格闘技で充分な実績を誇る有名人ならばいきなりメイン・エベンターになれる、それがプロレス界だ。
では、そんな特殊なスポーツであるプロレスは、日本にどのようにして紹介されたのだろう。
昔の日本人はまだ「プロレス」なんて見たこともなかったのだから、ある意味非常識なプロレスを伝えるのは難しかったに違いない。
日本のプロレスが本格的に始まったのは戦後間もない1954年(昭和29年)、力道山によって広められたのは周知のとおり。
ちょうどこの頃、日本でもテレビ放送が始まり、その電波に乗って大プロレス・ブームが巻き起こった。
当時、プロレス興行を後援していたのは毎日新聞。
現在の一般紙ではプロレスは無視されているのに、隔世の感がある。
要するに、この頃はプロレスをレッキとしたスポーツと認められていたのだ。
後援している新聞としては当然、プロレスとはどんな競技が、説明しなければならない。
当時の毎日新聞縮刷版を読んでみると、目次ではプロレスもアマレスも「レスリング」の項目で一括りにされている。
ちょうどこの頃、日本レスリング協会は大揉めに揉めており、「日本レスリング界の父」と呼ばれた八田一朗の排斥事件が新聞紙上を賑わせていた。
この2年前、フリー・スタイルのバンタム級だった石井庄八がヘルシンキ・オリンピックで戦後初の日本人金メダリストに輝いており、日本にアマレスが認識され始めていたものの、人気面ではまだまだといった状態である。
そんな時に、日本にプロレスが紹介されたのだ。
毎日新聞では連日のようにプロレスを解説していたが、当然のことながらルール説明も書かれている。
やはりわかりやすいのはプロレスとアマレスの比較だろう。
当時の日本人は、プロレスとアマレスなんて同じレスリングなのだから、大した違いはないのでは?と思っていたに違いない。
野球のルールは、プロもアマも基本的には一緒だ。
ボクシングはアマに色々細かい規定があるが、それ以外では両手にグラブを着けて殴り合うこと、それ以外の攻撃は禁じられていること、それらのことにプロとアマの違いはない。
だが、プロレスとアマレスのルールは、前述したように全く違う。
紙面では、アマレスでは相手の両肩を一瞬でもマットに着けるとフォール勝ちとなるオリンピック・ルールと、2秒間着けなければならないアメリカン・スタイルがあるが、プロレスでは3秒間着けなければならない、と説明している。
オリンピック・ルールでは、両肩が一瞬でも着くとフォール?
アメリカン・スタイルでは2秒間??
そもそも、アメリカン・スタイルってなんだ???
今の日本人がこの記事を読めば、混乱してしまうだろう。
この謎を解くには、レスリングの歴史を知らなければならない。
現在のアマレスでは、フリー・スタイルとグレコローマン・スタイルの2種類があり、いずれも両肩がマットに1秒間着いたらピン・フォールとなるのは前述したとおり。
フリー・スタイルとグレコローマン・スタイルの違いは、フリーはその名の通り相手の全身どこでも自由に攻めてもいいのに対し、グレコローマンでは攻撃は相手の上半身のみに限られ、下半身への攻撃は禁止される。
そのため、フリーは下半身へのタックルで相手の体勢を崩す戦術が基本とされ、グレコローマンではスープレックスが重要な戦法となる。
ではなぜ、フリー・スタイルとグレコローマン・スタイルの2種類があるのか?
そもそも、歴史的にはどちらが古いのか?
普通に考えれば、フリー・スタイルの方が古いと思うだろう。
だが意外なことに、先に生まれたのはグレコローマン・スタイルの方だった。
レスリングが生まれたのは紀元前三千年、即ち今から約5千年前の西アジアからヨーロッパ大陸辺りで発生したと考えられている。
もっとも、この頃はスポーツではなく、戦争における戦闘用の武術として発達した。
それが今から約三千年前、紀元前9世紀頃に古代ギリシャで始まった古代オリンピックで、レスリングは人気競技となった。
時代はドーンと下って、今から119年前の1896年、近代オリンピックの第1回大会がギリシャのアテネで開催されたが、この時にレスリング競技としてグレコローマン・スタイルが採用された。
当時の考えとして、元々は戦闘用の武術だったレスリングをオリンピックで行うのはふさわしくないと思われていたが、古代オリンピックではレスリングが行われていたので、近代オリンピックでも採用せざるを得なかったのである。
実はこの頃、グレコローマン・スタイルはヨーロッパで爆発的な人気を誇っていた。
レスリングというと地味な印象があるが、この頃のグレコローマンは派手な演出で観客を魅了したショーだったのである。
もちろん、勝敗はあらかじめ決められていた。
そう、グレコローマン・スタイルは元々、現在でいうプロレスだったのである。
もちろん観客は金銭を払い、レスラーは報酬を受け取っていた。
レスリングはかつての戦闘用武術から、ヨーロッパの産業革命によってスポーツ化するにあたり、ショービジネスとして発展したのだ。
古代オリンピックでレスリングは裸で行われていたので、下半身への攻撃が禁じられていたと考えられていて(実際には、古代オリンピックでのレスリングは下半身への攻撃は認められていた)、グレコローマン・スタイルでは上半身しか攻撃できなかったのである。
ちなみにグレコローマンとは「ギリシャとローマの」という意味だ。
しかし第1回近代オリンピックでは、レスリングの選手は5名しかいなかった。
なぜなら、グレコローマンの選手のほとんどがプロで、当時のオリンピックはプロ選手の出場が禁じられていたからである。
オリンピックは20世紀末までプロ選手は出場できなかったが、その理由はオリンピックとは貴族が楽しむための祭典だったからだ。
金銭を得るためにスポーツを行うなど、下賤のやることだと考えられていたのである。
アマチュアリズムとは、貴族のためにあった言葉だったのだ。
ハッキリ言えば、労働者は高尚なオリンピックに参加するな、と。
しかし、近代オリンピックの種目になったことで、グレコローマン・スタイルはヨーロッパでアマチュアにも広がって行った。
これがアマレスの元である。
いずれにしても、グレコローマン・スタイルはプロレスが発祥だったのだ。
一方のフリー・スタイルはどうか。
フリー・スタイルはヨーロッパ大陸から離れたイギリスのランカシャー地方で、18世紀後半から発達した。
もっとも、当時はフリー・スタイルという名称ではなく、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンと呼ばれていたのである。
「キャッチ」とは全身を掴むという意味だ。
この言葉を聞いて、ピンとくるプロレス・ファンもいるだろう。
そう、アントニオ猪木のレスリング・スタイルが、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンの継承者と言われていた。
このスタイルは、猪木がカール・ゴッチから伝授されたものとされている。
カール・ゴッチと言えば、ランカシャーのビリー・ライレー・ジムでレスリングを習得したことで有名だ。
ビリー・ライレー・ジム、通称「蛇の穴(The Snake Pit)」である。
もっとも、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンはサブミッション(関節技)も認められており、現在のフリー・スタイルとは若干違う。
しかし、フリー・スタイルの源流はランカシャーにあると言ってもよい。
ただし、その起源を辿ると隣りのアイルランド島にあると言われているが、いずれにしてもヨーロッパ大陸で発展したグレコローマン・スタイルとは全く違う進化を遂げたと言える。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンがイギリスで始まったのも、産業革命が真っ只中の頃。
ランカシャーと言えば炭鉱の地区で、肉体労働者が溢れていた。
彼らブルー・カラーの人たちにとって最高の娯楽がレスリングだったのである。
それは、イギリスの貴族社会とは無縁だった。
当然のことながら、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンも、ヨーロッパ大陸のグレコローマン・スタイルと同じ運命を辿る。
つまり、イギリスのレスリングもショービジネスとして発達したのだ。
もちろん、勝敗はあらかじめ決められ、レスラーたちの演出によって労働者階級の観客が熱狂する。
要するに、フリー・スタイルもプロレスから発展したのだ。
やがて、アイルランドからイギリスのランカシャーへ出稼ぎに来ていた労働者たちは、さらなる新天地を求めてアメリカ大陸へ移住する。
アメリカに伝えられたレスリングは当然、グレコローマン・スタイルではなく、フリー・スタイルの原型となったキャッチ・アズ・キャッチ・キャンだ。
アメリカでもやはり、レスリングは大衆娯楽として迎えられた。
つまり、現在のWWEに繋がるレッキとしたプロレスである。
そして、ヨーロッパ同様にプロレスからアマレスへ発展して行った。
ヨーロッパ(イギリスを含む)と違ったのは、アマレスは大学スポーツとして迎えられたことだ。
アメリカのアマレスはカレッジ・レスリング(フォーク・レスリング)と呼ばれるようになるのである。
1904年の第3回オリンピックはアメリカのセントルイスで行われたが、この時のレスリング競技はグレコローマン・スタイルではなくキャッチ・アズ・キャッチ・キャンだった。
ヨーロッパのレスリング選手はグレコローマン・スタイルしかいなかったので、わざわざアメリカくんだりまで遠征するのを嫌がったのである。
そのため、この大会でのレスリング競技は、アメリカの選手がメダルを独占した。
しかし、第二次大戦後のオリンピックは、その様相を激変させた。
二度の大戦によって疲弊したヨーロッパはもはや世界の盟主ではなくなり、アメリカとソビエト連邦(現:ロシア)が東西の超大国として君臨したからである。
オリンピックは、ヨーロッパ貴族が行う祭典ではなくなったのだ。
そんな中、レスリング競技はグレコローマン・スタイルと、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンから名称を変えたフリー・スタイルの2種目となる。
しかし、西側諸国の王者となったアメリカはレスリング競技でメダルを奪えない。
逆に、アメリカのライバルである東側諸国の君主・ソ連はレスリングで金メダルを獲りまくった。
スポーツ大国のアメリカとしては、面目丸潰れである。
そこでアメリカは、FILA(国際レスリング連盟)に、ルールを変更せよ、と迫った。
「西側諸国のジャイアン」ならではのゴリ押しである。
アメリカがレスリング競技で勝てなかった理由は、カレッジ・レスリングとオリンピックでのレスリングとのルールが大幅に違ったからだ。
アメリカで独自の発展をしたカレッジ・レスリングは、フォールは2秒間というルールである。
一方のオリンピックでのレスリングは、グレコローマン・スタイルとフリー・スタイルを問わず、一瞬でも肩を着けばフォールとなる、タッチ・フォールを採用していた。
ここで、前述の毎日新聞記事を思い出して欲しい。
「紙面では、アマレスでは相手の両肩を一瞬でもマットに着けるとフォール勝ちとなるオリンピック・ルールと、2秒間着けなければならないアメリカン・スタイルがあるが、プロレスでは3秒間着けなければならない、と説明している。」
そう、ここでこの文章の謎が解けるのである。
かつてのレスリングは、オリンピックでは一瞬でも両肩が着けばフォールとなったのだ。
しかし、独自の発展をしたアメリカのカレッジ・レスリングでは、なぜか2秒間も両肩を着けなければフォールと認めないルールを採用している。
なぜそうなったのかはわからないが、プロレスの「3秒間でピン・フォール」から発生したのかも知れない。
いずれにせよ、オリンピック式のタッチ・フォールでは、アメリカの選手にとって不利だった。
なにしろ、アメリカ式のカレッジ・レスリングでは両肩を着いても2秒間の猶予があるのだから、癖でどうしても一瞬だけ両肩が着いてからの反撃、という戦法が身に付いている。
だが、オリンピックでは一瞬でも両肩が着けばタッチ・フォールで負けとなるのだから、アメリカの選手が勝てないのは当然だ。
そこでアメリカは、2秒間のフォール・ルールを採用せよ、とFILAに迫ったのである。
さらに、レスリング競技でのメダル数は多すぎる、現状の16個から半分の8個に減らすべきだ、と主張した。
当時のオリンピックにおけるレスリング競技は、フリー・スタイルとグレコローマン・スタイルがそれぞれ体重別・8階級に分かれていた。
つまり、フリーとグレコローマンを合わせて計16個のメダルがあったのだ。
だが、体重別の階級を8階級から4階級に減らすのは現実的ではないので、要するにフリー・スタイルを廃止し、グレコローマン・スタイルのみにしてフォールは2秒間にせよ、というわけである。
グレコローマンは、上半身が強いアメリカ選手に有利だ。
どうやらアメリカには、無理が通れば道理が引っ込む、という諺がないらしい。
しかし、本当に無理が通って道理が引っ込んだのだ。
さすがアメリカ、金と権力にモノを言わせて自国に有利となるやり方は、昔も今も変わらない。
ただし、FILAもアメリカの要求を全て呑んだわけではなく、折衷案として肩が一瞬でも着くとフォールになるタッチ・フォールを廃止して、1秒間でフォールとなるピン・フォールを、1960年のローマ・オリンピック終了後に採用したのだ。
これが現在まで続く、グレコローマン・スタイルとフリー・スタイルに共通するアマレスの1秒間ピン・フォールである。
この新ルールにより、アメリカ選手は弱点を克服することができた。
そして、有利になったアメリカにメダル数を減らす理由が無くなったため、オリンピックでもフリー・スタイルとグレコローマン・スタイルが共存したのである。
では、日本のアマレスはどのように発展したのか。
明治時代から、日本の多くの柔道家や柔術家たちがアメリカに渡って、現地のレスラーたちと対戦した。
ここでいうレスラーとはもちろん、プロレスラーのことである。
もちろん彼らは、食わんがためにショー的なレスリングをやっていたと思われる。
要するに、日本人初のレスラーもやはり、プロレスをやっていたのだ。
では、日本で初めてプロレスをやったのはいつのことか。
多くの人は力道山が行った1954年(昭和29年)と答えるだろうが、それは本格的なプロレスであって、実は戦前でも日本でプロレスは行われていたのだ。
それは1921年(大正10年)のことで、柔道三段の永田礼次郎が、アメリカのプロレスラーだったアド・サンテルと靖国神社相撲場で対戦したのが日本初のプロレス興行とされている。
そしてこの時、最も注目を集めたのは、やはり柔道三段の庄司彦雄だった。
この異種格闘技戦は大評判となり、1万人もの観衆が押し寄せたそうだ。
試合はアマレス用のマットではなく、プロレスと同じく3本ロープを張った正方形のリングで行われている。
この時点で、日本人のアマチュア・レスラーは一人もいない。
つまり、日本初のレスリング試合も、アマレスではなくプロレスだったということになる。
その後、日本でのアマレスは前述した「日本レスリング界の父」八田一郎の尽力により、目覚ましい発展を遂げた。
オリンピックでは金メダルを稼ぎまくり、レスリングは「日本のお家芸」とまで言われるようになる。
一方で、プロレスでも力道山で爆発的なブームを呼び、その後のジャイアント馬場やアントニオ猪木によって盤石の地位を築いた。
その一方でプロレスは「単なるショー」と蔑まれながらも、八田一朗は「プロが栄えればアマも栄える」という信念から、アマ・レスラーをプロレス界に送り込んだのである。
その最初のスターがジャンボ鶴田(鶴田友美)だった。
グレコローマン・スタイルの最重量級選手としてミュンヘン・オリンピックに出場した鶴田は、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの入団記者会見で「全日本プロレスに就職します」と言い放った。
八田一朗は、アマレスラーの就職先としてプロレス入りを勧めることによって、アマレス人口を増やそうとしたのである。
普通なら、プロレスに人材を獲られるとして、アマレスの立場ならプロレス入りを妨害しそうなものだ。
なにしろ、ガチンコ(真剣勝負)のアマレスとは対照的に、プロレスはショービジネスであり、根本的に違う。
だが、八田一朗はそうはしなかった。
プロレスに人材を送り込むことにより、レスリングを志す者に夢を与え、より多くの若い人材を集めようとしたのである。
八田一朗の功績は、それだけではない。
現在、アマレスのマットは直径9mの円形だということは既に書いたが、それを考案したのも八田一郎である。
元々、アマレスのマットは四角形だったが、それでは距離に不公平があるとして、八田一朗がFILAに円形リングを提案したのだ。
そして1971年、現在でもお馴染みとなっている円形リングがアマレスで採用されたのである。
八田一朗は日本のみならず、世界のレスリング界に強い発言力を持っていたのだ。
1980年、モスクワ・オリンピックで谷津嘉章は金メダル確実と言われていたが、東西冷戦下により日本がボイコットしたために、谷津は幻の金メダリストと言われた。
その後、谷津はアントニオ猪木率いる新日本プロレスに入団したが、ジャパン・プロレス時代の1986年に日本レスリング協会の福田富昭から「全日本レスリング選手権に出場しないか」と誘われた。
その頃は既に八田一朗は他界していたが、福田富昭にも「日本のアマレスはプロレスから発展した」という認識があったのだ。
谷津は福田富昭の申し入れを受諾し、プロとして絶対に負けられないプレッシャーと戦いながら、見事にフリー・スタイルの130kgで優勝した。
なにしろこの頃は「プロレスは最強の格闘技」と謳っていたのだから、谷津の重圧は計り知れなかっただろう。
しかも、いつもやっている予定調和のプロレスではなく、勝ち負けが全くわからないガチンコのアマレスである。
そのために、当時は人気絶頂だった全日本女子プロレス(現在は崩壊)にも協力を要請している。
山本美憂も全女からアマレスに転向した。
プロからアマへの転向というのも、普通なら都落ちのように感じるが、レスリングの世界では決してそんなことはない。
そして、元プロレスラーのアニマル浜口の娘である浜口京子がレスリングを始めたら、福田富昭はアニマル浜口に対してコーチになるように要請した。
アニマル浜口は元プロレスラーと言っても、ボディビルダー出身であってアマレスの経験はなく、当然のことながらレスリングのコーチなどできない。
それでも福田富昭は話題性を重視して、アニマル浜口を説得したのである。
「私にそんなことできるんですか?」と固辞していたアニマル浜口も、あまりにしつこい要請にとうとう根負けした。
さらに福田富昭は、試合中の娘に向かってガーガー吠えろ、とまで言った。
いや、そればかりでなく、娘に限らず全選手に向かって騒ぎ立てろとまで言う。
さすがにそんなことをすれば、真面目にレスリングに取り組んでいる選手たちに失礼だし、ファンに対して顰蹙を買う、とアニマル浜口は躊躇したが、福田富昭は「いいからやれ!」と命じた。
そして生まれたのが、あの、
「気合いだ!気合いだ!気合いだぁー!!」
である。
意外にもあの咆哮はアニマル浜口のオリジナルではなく、単に命じられてやっただけのことだ。
さらに意外なことは、テレビ画面で見せるのはあくまでも演技であって、アニマル浜口は極めて常識人だということである。
むしろ自らバカになって、レスリング界を盛り上げようとする姿勢は、称賛に価すると言えよう。
いずれにしてもハッキリしたのは、イギリスを含むヨーロッパでも、アメリカでも、日本でも、アマレスの源はプロレスだ、ということだ。
ルールも競技思想も全く違うのに、これだけ繋がりがあるのは意外である。
村松友視の主張とは異なり、やはり「プロレスとはプロのレスリング」なのか?
近年ではオリンピックからレスリングが無くなると懸念されているが、この危機にプロとアマが協力すれば、レスリング競技が存続するばかりか、オリンピック種目でプロレスが採用されるかも知れない?