ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

高校野球国際大会

第97回全国高等学校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園も終盤に入ったが、それが終わると第27回WBSC U-18ワールドカップが大阪府および兵庫県で行われる。

文字通り18歳以下、即ち高校世代での国際試合だが、13ヵ国(地域を含む)が参加して、決勝戦は日本高校野球の聖地・阪神甲子園球場で行う予定だ。

こんな大会が27回も行われていたというのは驚きだが、以前はAAA世界野球選手権大会などという呼び方をしていて、また開催時期が夏の甲子園真っ只中とあって、日本はなかなか参加できなかったようだ。

 

かつては日本が参加する高校野球の国際試合と言えば、こんな多数の国が集まる大会ではなく、日韓高校野球などが中心だった。

特に決まっていたわけではないが、1年ごとに日本と韓国で交互開催していたものだ。

 

特に憶えているのが1981年。

この年は夏の甲子園報徳学園が優勝したが、エースで四番打者の金村義明が大活躍した。

金村は在日韓国人だったため、韓国の新聞は金村の活躍を一面トップで報じていた。

また、準優勝した京都商業(現・京都学園)にも在日韓国人の選手が多かったため、この年の甲子園大会は韓国でもかなりの関心を持たれていたのである。

 

この頃の韓国にはまだプロ野球がなく、高校野球が日本以上の人気を誇っていた。

特に夏休みに行われる鳳凰大旗全国高等学校野球大会は、夏の甲子園のような雰囲気で行われていたのである。

この大会は、韓国の全高校が参加する、最も盛り上がる大会だ。

全高校と言っても、韓国では野球部がある高校は60校もないのだが(これは現在もほとんど変わらない)。

しかも、日本から夏の甲子園に出場しない在日韓国人の選手を集め「在日同胞チーム」を結成して、同大会に参加していた。

日本の甲子園で活躍する在日韓国人は韓国では英雄だが、韓国での試合となると在日同胞チームは悪役となる。

そんな風に発展した韓国の高校野球だが、在日同胞チームは廃止され、プロ野球が完全に根付いた現在では風前の灯で、学校の応援団以外にはほとんど客は集まらない。

 

1981年、金村を中心とした高校日本代表が韓国に到着すると、熱狂的な歓迎を受けた。

日韓高校野球が同地で3試合行われたが、この年の韓国は強く、3勝0敗で日本を圧倒したのである。

「日本に追い付け追い越せ」がスローガンだった韓国が、熱狂しないわけがない。

 

だが、中には冷静な韓国野球関係者もいて、

「韓国はベストチームを結成することができるが、60校に満たないので選手層が薄く、二番手以下のチームではレベルがガクンと落ちる。3000校以上ある日本ではベストチームを作りづらいが、同じレベルのチームを五つは作れる」

と語っていた。

 

この頃の高校日本代表チームは、夏の甲子園に出場した高校から選んでいた。

それも、ベスト4以上に進んだ高校からが中心である。

一回戦や二回戦で敗れた高校から選ばれるのは稀で、ましてや地方大会で敗れた高校から選ばれることは絶対にない。

 

たとえば、この年の春のセンバツで優勝したPL学園には、エースの西川佳明や中心打者の吉村禎章若井基安ら後にプロで活躍する人材が揃っていたが、夏は大阪大会で敗退したため甲子園には出場できず、彼らが高校日本代表に選ばれることはなかった。

地方大会で敗れた高校からも選手を集めれば違った結果になったかも知れないが、当時は夏の甲子園に出場しなければ、高校日本代表に選ばれることは有り得なかったのである。

ちなみに現在では、地方大会で敗れた高校からでも、実力がある選手は選ばれるようになっている。

 

翌1982年は、夏の甲子園では池田のパワー野球が花開いて初優勝を果たした。

大会終了後の日韓高校野球大阪球場で行われたが、池田からはなんとレギュラー・メンバーの9人全員が選ばれたのである。

また、準々決勝で池田に2-14と粉砕された早稲田実業からは、一年時から甲子園で活躍していた荒木大輔小沢章一も代表メンバーに選ばれている。

それでも、韓国には1勝2敗とまた負け越した。

ちなみに、この年から韓国でもプロ野球が始まったが、まだまだ高校野球の人気は高かったのである。

 

荒木大輔、日韓高校野球で熱投を見せる

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翌1983年は池田の史上初・夏春夏の三連覇が注目された大会だったが、桑田真澄清原和博のKK一年生コンビを擁するPL学園に準決勝で0-7と大敗、甲子園の主役が池田からPLに代わった大会でもあった。

同時に「池田のパワー野球を上回るPLの一年生KKパワー」とも言われたのである。

 

しかし、この年の週刊誌にはこんな見出しが躍っていた。

「池田もPLも敵わない!?韓国高校野球の恐るべきパワー!」

日本の高校野球に革命を起こしたと言われる池田のパワー野球、それ以上のパワーが韓国にあるとは、どんな野球をするのだろう、と関心を持った。

実際に、ここ2年間では、日本の高校野球は韓国に勝てていない。

 

しかし、この年は日韓高校野球は行われなかった。

高校日本代表は、アメリカに遠征したのである。

アメリカ本土でカリフォルニア州高校選抜と4試合、ハワイでハワイ島選抜およびオアフ島選抜と計2試合行われた。

高校日本代表は、カリフォルニア州高校選抜に2勝2敗、ハワイでは1勝1敗、計3勝3敗のイーブンだった。

パワーで言えば、カリフォルニア州高校選抜の方が韓国高校野球よりも遥かに上だったに違いない。

実際に、日本のエース格だった水野雄仁、三浦将明、野中徹博といった三年生投手を、カリフォルニア州高校選抜打線は面白いように打ちまくった。

それでも、一年生の桑田真澄が登板するとカリフォルニア打線は沈黙してしまったのだから、当時から桑田のポテンシャルは相当に高かったに違いない。

この年も夏の甲子園ベスト4進出校を中心に選ばれ、センバツで3本塁打を放った藤王康晴や、甲子園には出場できずに全く無名だった古田敦也などは選ばれなかった。

 

実はこの年、韓国高校選抜は来日し、関東の各都県選抜チームと対戦している。

結果は、韓国チームの1勝3敗だった。

日本以上のパワー野球という触れ込みだったが、結果的には高校日本代表には遥かに劣る県選抜チームにも勝てなかったのである。

 

翌1984年は、2年ぶりの日韓高校野球が開催され、韓国で行われた。

高校日本代表の選考基準は以前と変わりなく、夏の甲子園ベスト4の高校から中心に選ばれている。

一方、韓国の打者のパワーと、投手のスピードボールは相変わらず凄い。

にもかかわらず、日本は敵地で2勝1敗と勝ち越した。

日本代表が韓国代表に勝ち越したのは、この年が初めてだったらしい。

この時、二年生だった桑田が投打に大活躍した。

ただし、四番を任された清原は異国の地で遊び呆けてしまいノーヒット、代表チームを率いていたPLの中村順司監督から大目玉を食らったらしいが……。

 

いずれにしても、高校生が異国の野球文化に触れるのはまたとないチャンスだ。

今回、高校日本代表に選ばれた選手には「世界にはこんな野球があるんだ」ということを感じてもらいたい。