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ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

高校野球生誕100年

2015年(平成27年)の今年、高校野球の全国大会が始まってからちょうど100年目を迎えた。

つまり、今から100年前の1915年(大正4年)に、現在の全国高等学校野球選手権大会の前身である全国中等学校優勝野球大会が、大阪朝日新聞社を主催として始まったのである。

 

「中等野球大会を開催する数年前に、朝日新聞社は『野球害毒論』を主張していたのに、これは史上最大の寝返りだ」

などとよく言われ、ロバート・ホワイティングの著書(訳:玉木正之)である「和をもって日本となす」にもそう書かれているが、これは思い違いも甚だしい。

ちなみに「野球害毒論」とは、中等野球大会が開催される4年前の1911年(明治44年)に、新渡戸稲造が東京朝日新聞紙上で「野球は巾着切の如き遊戯」と断罪したものである。

 

しかし、当時は同じ新聞社でも東京と大阪では違っていたのだ。

戦前の東京と大阪では都市の規模としても互角であり、実際に関東大震災が起きた1923年(大正12年)あたりを境に、大阪市の人口は東京市を上回ったのである。

つまり、同じ朝日新聞といっても、大阪朝日新聞社と東京朝日新聞社では別会社と言ってもいい。

従って、大阪朝日新聞は東京朝日新聞とは意見が異なっていたのである。

大阪朝日新聞は、新聞購買拡張にとって野球は申し分ないと考えた。

現在の高校野球全国大会が関西で行われている理由はここにある。

 

さらに、大阪朝日新聞社が中等野球大会を主催するにあたって、慌てたのがライバルの大阪毎日新聞社である。

3年後の1918年(大正7年)からは、大阪毎日新聞社の主催による日本フートボール優勝大会が開催された。

この大会はサッカーとラグビーが合同で行われ、後に両競技は分かれてサッカーは首都圏に移転したが(現在の全国高等学校サッカー選手権大会)、ラグビーはそのまま関西に居座り、現在は東大阪市花園ラグビー場で行われている全国高等学校ラグビーフットボール大会となっている(冬の花園)。

いずれにしても、現在の高校三大スポーツは、関西が発祥の地だったのだ。

もし現在、これらの高校スポーツ大会が発足していたら、全国大会は首都圏が会場となっていたに違いない。

 

中等野球全国大会の第1回大会は、大阪府豊中グラウンドで行われた。

当時はまだ、甲子園球場なんて影も形もなかったのである。

全国の参加校は、僅か73校。

今年(2015年)の全国参加校は3906校だったので、その50分の1以下である。

今年で言えば、ちょうど宮城大会と同じ校数だ。

 

もちろん、現在のような一県一代表ではなく、全国大会に出場したのは僅か10校。

記念すべき第一試合は山陰代表の鳥取中(現:鳥取西)と、中国代表の広島中(現:広島国泰寺)で、鳥取中が14-7で最初の勝利校となっている。

決勝戦は京津代表の京都二中(現:鳥羽)と東北代表の秋田中(現:秋田)の間で行われ、延長13回という熱戦の末、京都二中が栄えある第1回大会優勝校の栄冠を勝ち得た。

京都に凱旋した京都二中は、オープンカーに乗って優勝パレードを行ったと当時の新聞が報じている。

京都二中は戦後の学制改革時に廃校となったが、鳥羽が後継校として1984年(昭和59年)に復活、今年(2015年)の京都大会で優勝して、高校野球生誕100年目に見事甲子園出場を果たした。

なお、この第1回大会で準決勝敗退した早稲田実業は、ラグビートップリーグヤマハ発動機ジュビロの監督を務める清宮克幸を父に持つ一年生・清宮幸太郎の活躍により、今年の甲子園出場を決めている。

こんなところにも、100年の歴史を感じさせる。

 

中等野球は第1回大会から盛況を極めた。

しかし豊中グラウンドは、当時としては立派なグラウンドだったが、野球専用ではなく、また粗末なスタンドしかなかったので、収容人員数はせいぜい400人程度。

しかも、乗客を運ぶ有馬箕面電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚線)は1両編成で単線の田舎電車、「ミミズ電車」などと揶揄されたほどで、午後6時に試合が終わっても全ての客を捌ききるのは午後9時という有様だった。

これではとても中等野球の全国大会は行えないと、第2回大会を終えた時点で豊中グラウンドの使用を諦めたのである。

 

大阪府豊中市にある、豊中グラウンド跡地

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1917年(大正6年)の第3回大会からは、阪神電気鉄道沿線の鳴尾球場に会場を移した。

鳴尾球場は広大な鳴尾競馬場の中に造られたため、グラウンドを二面も取れたのである。

しかし、観客席は移動式の木造スタンド、急ごしらえの球場では年々増加する観客に対応できなかった。

満員になったファンがグラウンドに溢れ出し、試合が中断することもしばしばあったのである。

鳴尾球場は1923年(大正12年)の第9回大会まで使用されたが、もはや限界に達していた。

そこで、アメリカの大リーグにも負けない東洋一の大球場を造ろうという機運が高まったのである。

そして、第10回の記念大会に合わせて造られたのが、現在まで続く甲子園球場だ。

 

鳴尾球場の跡地。現在の阪神甲子園球場より南へ約1.5kmの場所にある

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1924年(大正13年)8月1日、甲子園大運動場は竣工した。

ちなみに「甲子園」という名称は、この年が中国十干の最初の年である「甲(きのえ)」と、十二支の最初の年である「子(ね=ねずみ)」が重なっており、60年に1度のめでたい年だということで名付けられた。

 

内野席は鉄筋コンクリートで50段、外野席は土盛で30段、収容5万人を誇る大スタンド。

まさしく東洋一の大球場である。

当時としては驚天動地のスタジアムで「この大スタンドが今後10年、満員になることは有り得ない」とまで言われたが、蓋を開けてみると大会第3日目には地元校が登場するとあって、アッサリ満員札止めとなってしまった。

以来、甲子園は中等野球、そして現在に至る高校野球の代名詞となる。

 

この年の春、即ち甲子園の完成前に、大阪毎日新聞社が第1回選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会=春のセンバツ)を名古屋の山本球場で開催している。

センバツは当初、全国を持ち回りする予定だったが、同年夏に甲子園が完成したことによってこの方針を撤回、第2回大会以降は甲子園で行うことになる。

ここに、春夏の甲子園大会の歴史が始まったわけだ。

 

さらに、外地からも代表校を甲子園に送り込んできた。

外地とは、台湾、朝鮮、満州のことである。

これらの地域は、日本が支配していたので、地方大会を行って代表校を甲子園に送り込んでいたのだ。

選手は、日本人のみのチームもあれば、日本人と現地人の混成チームもあって、国際色は豊かだったようである。

しかし、これらの外地代表は、当時の日本が行ったアジア侵略によるものだったことを忘れてはなるまい。

 

中等野球はますます隆盛を極めたが、戦争の影が忍び寄ってきた。

1937年(昭和12年)からは日中戦争が始まり、日米関係は悪化。

1941年(昭和16年)には、地方大会中に、遂に甲子園大会が中止と発表されたのである。

そして、その年の12月8日には遂に太平洋戦争が勃発。

野球は敵国スポーツとして蔑まれるようになった。

 

それでも1942年(昭和17年)、突如として夏の甲子園大会が開催される。

理由は、戦時下における国威発揚のためだった。

突然の甲子園大会開催に全国の野球少年は喜び、各地の予選を勝ち抜いた学校は颯爽と甲子園に現れた。

この大会で優勝したのは徳島商業だったが、この記録は現在には残されていない。

なぜなら、主催は朝日新聞社ではなく、文部省だったからである。

この大会では特別ルールが施行され、選手の交代は禁止、死球をよけてはならない(ボールから逃げるのは大和男児の恥)などという、おおよそ野球からはかけ離れたものだった。

軍部の横暴により、野球が捻じ曲げられたのである。

 

だが、太平洋戦争中に甲子園大会が行われたのは、後にも先にもこの年の「幻の甲子園」だけであった。

それ以降は戦争が激化して、とても中等野球どころではなかったのである。

職業野球(プロ野球)は細々と続けられたが、やがて甲子園は軍管轄となり、内野は芋畑、外野は軍用トラック置き場となって、スタンド下は軍需工場となったのだ。

そして、内野席を覆う大鉄傘も、「軍艦を造る」という海軍の名目により供出された。

甲子園は理不尽な「お国のため」丸裸にされたのだった。

 

大阪に程近い、こんな軍需工場を、アメリカ軍が見逃すはずがない。

広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日、甲子園も米軍に襲われた。

アメリカ軍航空機は甲子園におびただしい焼夷弾を落とし続け、甲子園は3日3晩燃え続けたという。

それでも、甲子園は米軍の猛攻に耐え抜いた。

 

日本は連合軍に敗れて占領されたものの、日本人は真っ先に野球を復活させた。

中等野球も、終戦1年後には再開したのである。

しかし、甲子園は連合軍に接収されたままだったので、1946年(昭和21年)の大会は西宮球場で行われた。

だが、翌1947年(昭和22年)のセンバツには、ぜひ甲子園で開催させて欲しいと関係者は連合軍に頼み込み、ようやく甲子園を借りることができたという。

 

その後、日本人の野球熱を知ったアメリカ軍は、むしろアメリカ生まれの野球を利用しようと思ったのか、甲子園を気前よく貸し出すことになった。

よって、以降の中等野球、そして学制改革により高校野球になってからも、全国大会は甲子園で行われるようになったのである。

 

1952年(昭和27年)、サンフランシスコ講和条約によって日本は独立国となり、もちろん甲子園も連合国の接収から完全に解放された。

1958年(昭和33年)の第40回全国高校野球選手権記念大会には、初めて一県一代表が全国大会に参加した。

そして、史上初めて沖縄代表校として首里が甲子園の土を踏んだのである。

ただし、この時はまだ沖縄は米軍の占領下だった。

 

その2年前の1956年(昭和31年)、「もはや戦後ではない」と日本の経済企画庁は経済白書に記述したが、沖縄にはまだまだ戦後は残っていたのである。

初戦で敗れた首里ナインは、甲子園の土を沖縄に持ち帰ろうとしたが、植物検疫法に引っかかり、甲子園の土は泣く泣く海に捨てられた。

この時の首里は「沖縄県代表」ではなく「アメリカ領沖縄代表」だったのである。

 

なお、この年は史上最多の47代表による全国大会ということで、日程を考慮して甲子園だけでなく、西宮球場も使用している。

これは、5年後の45回記念大会である1961年(昭和36年)でも西宮球場を使用したが(この年は北海道が南北に分かれたため48代表)、甲子園で試合ができなかった高校から不評を買い、それ以降は春夏ともに甲子園以外での全国大会は行われていない。

従って、前身の中等野球から現在の高校野球において、春夏の全国大会が行われたのは甲子園球場以外では、豊中グラウンド、鳴尾球場、山本球場西宮球場の4球場だけである。

そして、現存しているのは甲子園球場だけだ。

甲子園は、1995年(平成7年)に勃発した阪神淡路大震災にも耐え、現在に至っている。

戦争による空爆や未曾有の大地震に耐え抜いたスタジアムが、世界中で甲子園以外にあるだろうか?

そして、甲子園は数々の名勝負を生んできた。

 

京商×明石中 延長25回の激闘(1933年夏・準決勝)

松山商×三沢 延長18回再試合、息詰まる投手戦(1969年夏・決勝)

箕島×星稜 延長18回、奇跡は二度起きた(1979年夏・三回戦)

東邦×上宮 延長10回、涙のサヨナラエラー(1989年春・決勝)

横浜×PL学園 延長17回、松坂の快投とPLの粘り(1998年夏・準々決勝)

早稲田実業×駒大苫小牧 延長15回再試合、ハンカチ王子vsマー君(2006年夏・決勝)

 

この歴史の重さを背負い、万人から愛されるスポーツ大会は、高校野球以外にはないだろう。

 

現在の阪神甲子園球場

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