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ネターランド王国

国王:ハードフォーク安威川トークン

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:ハードフォーク安威川トークン」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

毎日新聞と朝日新聞のプロレス報道

2011年(平成23年)に発行された「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか増田俊也:著、新潮社)」をお読みになった方も多いだろう。

言うまでもなく、1954年(昭和29年)12月22日に東京・蔵前国技館(現在は取り壊され、両国国技館に移転)で行われた、力道山×木村政彦に関することや、木村の半生についてかなり詳細に書かれている。

詳しいことは同書を読んでいただくとして、当時のプロレス界について見てみよう。

 

日本に「西洋相撲」たるプロフェッショナル・レスリング(プロレス)が本格的に行われたのは、戦後まもない1954年(昭和29年)2月19日に蔵前国技館での力道山木村政彦×シャープ兄弟のタッグマッチである。

それ以前にも日本でプロレス興行は行われていたが、「本格的な」プロレスはこの時が日本初上陸と言っていい。

なにしろ、日本で登場したばかりのテレビジョンなるものが、この歴史的なプロレス試合を生中継したのだから。

この頃はまだ、テレビ局はNHKと日本テレビの2局しかなく、その両局がプロレス中継したのだ。

公共放送たるNHKがプロレス中継なんて、現在では考えられない。

 

もちろん、当時は一般家庭にテレビなんて普及していなかったから、街頭テレビに大勢の人が群がり、初めて見るプロレスに日本人は熱狂した。

力道山が繰り出す空手チョップに、大男のくせに反則を繰り返すシャープ兄弟はリングにのたうち回り、蔵前国技館や街頭テレビの大観衆は「日本万歳!」と涙を流したのである。

太平洋戦争での惨めな大敗後、あらゆる面でアメリカには敵わないと打ちひしがれていた敗戦国の日本国民は、プロレスなら日本は勝てるとようやく希望を持ったのだった。

もっともこの頃、日本の輝く星である力道山が朝鮮出身だったことは、ほとんどの日本人は知らなかったのだが。

 

その僅か10ヵ月後、力道山と木村は袂を分かち、「昭和の巌流島決戦」とも呼ばれた日本人同士(もちろん力道山は日本人扱い)の対決が行われた。

本来なら日本人×外国人による闘いで、最終的には日本人が勝つ、という興行になるはずだったプロレスが、日本一を決める試合になってしまったのだ。

二人とも日本人なのだから、両方が善玉で、ベビーフェイス×ヒールというプロレスの基本的な構造はない。

その経緯には、力道山がいつも勝ち役で木村が負け役、という扱いが木村には不満で、木村が力道山に挑戦状を叩き付けた、ということになっている。

力道山と木村がシャープ兄弟と戦った僅か2ヵ月後、木村は熊本に国際プロレス団を設立、力道山を頂点とする日本プロレス協会と対立することになった。

そして木村は力道山と日本選手権を争うことになったが、このあたりのことを書くのが本稿の趣旨ではない(というより、複雑すぎてとても書ききれない)。

 

で、ようやく本題に戻るのだが、国立国会図書館毎日新聞縮刷版の力道山×木村政彦の記事を見つけたのである。

実は、全く別のことを調べていたのだが、この記事を見つけると無視はできまい。

国立国会図書館ではこんなことがあるから、本来のことがはかどらなくなってしまう。

 

当時のプロレスは、三大全国紙(毎日、朝日、読売)と呼ばれた一般紙の毎日新聞が後援していたのだ。

「主催」ではないので金は出さないが、「後援」なので宣伝のための記事は大いに書く、というスタンスである。

現在では、一般紙がプロレス報道をするなんて考えられないだろう。

 

時代はグーンと下って、力道山×木村戦から約30年後の1983年(昭和58年)、世界一強いプロレスラーを決める第1回IWGP決勝戦が新日本プロレスで行われた。

完全無欠のエースだったアントニオ猪木の優勝が予想されたが、なんとハルク・ホーガンの必殺技であるアックス・ボンバーによってKO負けし、病院送りになってしまった。

このことを、翌日の朝日新聞が報じている。

一説には、猪木が勝って優勝するはずだったのだが、猪木の自作自演で失神したというのだ。

猪木の狙いは、このまま「予定調和」で自分が勝ってもプロレス・ファン以外には注目されないが、アントニオ猪木が病院送りになったとなれば、世間の目はプロレスに集まるだろうというものだったと言われる。

真相はわからないが、実際に朝日新聞ではこの一戦を報じて、さらにテレビのワイドショーでも取り上げられたのだ。

その点では、猪木の狙いは的中したとも言える。

 

しかし問題は、一般メディアの取り上げられ方である。

朝日新聞が報じたと言っても、スポーツ面ではなく社会面だった。

しかも、その内容は、

「プロレスラーのアントニオ猪木さんが、外人レスラーの”首折り技”によって入院した」

と猪木は「さん付け」で書かれており、要するにスポーツ選手として扱われなかったのである。

外人レスラーだの首折り技だの、選手名や技の名前すらまともに書かれていない。

新日本プロレステレビ朝日が中継しており、当時は高視聴率を誇るプロレス黄金時代だったが、それでも系列紙の朝日新聞ですらこの程度の扱いだったのだ。

 

ところが、日本のプロレス黎明期は、一般紙もプロレスをちゃんとスポーツとして認めていたのである。

特に毎日新聞では、力道山木村政彦×シャープ兄弟はもちろん、力道山×木村政彦に関しても詳しく報じている。

力道山といえば大相撲で関脇まで行った力士で、木村政彦は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」とまで言われた柔道の猛者。

単なる日本一決定戦というだけでなく「相撲と柔道、どちらが強いか?」という興味を持って迎えられた一戦だったのだ。

ちなみに木村政彦とは、1990年代に「格闘技最強」として猛威を奮ったグレイシー柔術の祖であるエリオ・グレイシーを破った柔道家として知られている。

 

木村が力道山に挑戦した理由として、

「アメリカ流のプロレスでは力道山の下として扱われたが、日本流なら負けない」

と語っていた。

アメリカ流と日本流、という分け方も不思議だが、要するに「アメリカのプロレスはショーであり、日本流は真剣勝負」という意味だろう。

 

巌流島決戦の、前日の毎日新聞夕刊には半面近くを使って、力道山×木村戦の予想記事を載せている。

それ以前の記事では、ルール面で力道山と木村が揉めている、ということまで報じていた。

たとえば、力道山の空手打ちは反則ではないのか、など。

それまでのプロレスは、力道山が外人レスラー相手に空手チョップを振るっていたのに。

今のプロレスから考えると不思議な議論だが、日本にプロレスが本格的に紹介されてから、まだ1年も経っていない時期だったのだ。

結局、国際ルールで日本選手権を行うということになった、と書かれている。

 

ちなみに、毎日新聞縮刷版を見ると、目次ではスポーツ欄にプロレスはレスリングの項に含まれている。

今ではアマチュア・レスリングとプロレスは全く別物とされているが、当時は同じ競技として扱われていたのだ。

野球の項で言えば、アマ野球とプロ野球の違い程度である。

 

1954年(昭和29年)12月22日、蔵前国技館で行われた初の日本選手権は、61分3本勝負の1本目、15分49秒でドクター・ストップにより、2本目以降は続行不可能、力道山が勝って初の日本王者となった。

この時の模様も、毎日新聞ではスポーツ欄のほとんどを使って詳しく報じている。

当時の新聞は、スポーツ欄は1ページだけ、しかも半分は広告だったのだ。

さらに、社会面でもこの試合を取り上げていた。

「昭和の巌流島決戦」がいかに注目されていたかがわかる。

 

試合内容は、当時の毎日新聞によると、

「(前略)15分、力道の攻撃はいよいよ急、空手打ちと足蹴りのコンビネーションで次々と攻めればもはや木村には戦う意志なく口中から鮮血がほとばしって15分49秒マットにうつ伏したまま起きず、期待の一戦も最後の幕切れはあっけないものとなってしまった(後略)」

と書かれている。

小見出しには「争われぬ実力の差」とまで書いていた。

 

力道山木村政彦との間には、本当にそれほどまで実力差があったのかについては、別の書物で検証していただきたいが、問題は同じ紙面に載っていた力道山の談話である。

試合後、力道山はインタビューでこのように語ったというのだ。

「リングに登ってから二度も木村は引き分けで行こうと言った。自分から挑戦しておきながら、とんでもないことだと思った(後略)」

 

それに対し、木村政彦はこう語っている。

「(前略)力道山は僕が引き分けようと言ったという話だが、そのようなことを彼が言ったとしたら彼の心理状態を疑いたい。(中略)私としては引き分けにしてくれなどスポーツマンシップに反することは絶対に言わない」

 

事の真相はともかくとして、毎日新聞八百長を匂わせるような談話記事が載ったのだ。

しかも試合が行われた翌日である。

現在の一般紙では、とても考えられないことだろう。

 

さらに、試合から3日後の12月25日の毎日新聞スポーツ欄には、「プロ・レスのあり方」と題して、大きな記事が載っている。

「先月半ば本社岐阜局から、プロ・レスラーの木村七段が岐阜の興行先で『力道のレス(筆者注:プロレスの意味)は八百長で、本当のレスではない(後略)』と言ったという記事を送ってきた」

今の感覚では完全なオフレコ、というか、東京スポーツでも書かないような記事だが(というより、東スポはプロレスに関してはこんな記事は書かない)、毎日新聞はバラしてしまっていたのである。

 

さらに、同じページでは、

「ショーの線はずすな」

「レフェリーの演出も大切」

という見出しまで打っているのだ。

 

この試合を見た人の感想について、

「こんな果し合いになるんでは二度とプロ・レスを見たくない」

「真剣勝負もよいがプロ・レスのショー的面を取り入れた今までのレスの方がよい」

などの意見が紹介されている。

この件に関して、記事では、

「(前略)ショー的な要素を含んだレスが一番無難ではなかろうか。これにはあくまでレフェリーの演出が大切である(後略)」

と、当時としてはかなりプロレスの本質を突いた記事となっていた。

ちなみに、この頃の毎日新聞でプロレス記事を書いていたのは伊集院浩

後に割腹自殺を遂げ、その原因は力道山の裏切りとも言われているが、真相は定かではない。

 

なお、ライバル紙の朝日新聞でも、当時はプロレス記事をスポーツ欄に載せていた。

興味深いのは、力道山×木村政彦に関する、大西鐡之祐が寄稿した文章である。

大西鐡之祐といえば、早稲田大学ラグビー部の監督を何度も経験した、ラグビー界の重鎮だ。

そんな大西が、プロレスに関して言及したのは面白い。

野獣の闘争」と題された記事には、こう書かれていた。

「(前略)それは既にショウでもなく、スポーツでもなく、血に飢えた野獣の本能そのものであった。(中略)職業と結ばれたプロ・スポーツをショウとして価値づけていた私には、こうした光景は想像すら出来なかった。(中略)スポーツであるならスポーツマンシップか、職業であるならビジネスマンシップがその根底をなすべきではないだろうか(後略)」

いかにも、当時はアマチュアリズムを頑なに守り続けていたラグビー・ユニオンの重鎮らしい言葉である。

いずれにしても、大西のような人物ですら、力道山×木村政彦の一戦に注目していたのだ。

 

しかし、いつの間にかプロレスは一般紙から姿を消してしまった。

直木賞作家の村松友視は、自著の「私、プロレスの味方です(角川文庫)」の中で、

毎日新聞は、『プロレスはスポーツかショーか』という論議に関して『プロレスは八百長』という世論が一般化して『そういう世論に負けた』というより『そういう世論の側に与した』のである」

と書いている。

でも、それが正しいのかどうかはわからない。

そもそも、ショーと八百長は全くの別物なのだが、プロレスが一般紙に載らなくなったのは、決して不幸ではなかったのだろう。

 

ショーだからこそ、夢のある世界を表現できたのだから。

そのことを、昭和20年代に報じていた一般紙は、今よりも進んでいたのかも知れない。