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ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

ラガーマンからヒットマンへ①(ラグビー編)

今年4月28日、阿修羅・原が68歳で亡くなった。

本名・原進(はら・すすむ)。

戦後まもない1947年1月8日、長崎県生まれ。

阿修羅のごとく生き抜いた男の、波乱に満ちた人生だった。

 

プロレスラーとして有名な原だが、元々はラグビー選手。

と言ってもラグビー少年だったわけではなく、ラグビーを始めたのは高校二年の時だ。

中学時代は柔道部、諫早農高では相撲部に入部して、長崎県内では無敵の存在だったが、二年時に体育の授業でやったラグビーを「こっちの方が面白そうだ」と感じ、ラグビーをやろうと決心する。

ちょうどタイミングよく、ラグビー部から助っ人依頼があって、待ってましたとばかりに原はラグビー部に入部した。

 

原は高校卒業後、ラグビーでは強豪とは言えない東洋大に入学するも、その後は社会人ラグビーの名門・近畿日本鉄道(現:近鉄ライナーズ)に入社した。

原は近鉄でも頭角を表し、強豪・近鉄の中でナンバーエイト(№8)の地位を不動のものにする。

格闘技が根っから好きな原は、水を得た魚のように強烈なタックルを連発し、遂に日本代表に選ばれた。

近鉄や日本代表では原の先輩で、ラグビー最強国のニュージーランドでもプレーした坂田好弘は、

「凄い突進力で、相手タックラーを相撲のすくい投げのように転がして突き進んだ」

と原のことを評している。

1970年3月15日、原は近鉄花園ラグビー場(現:東大阪市花園ラグビー場)でのニュージーランド学生選抜戦でジャパン・デビュー。

そして、日本代表で原は大きな転機を迎えることになったのである。

 

当時の日本代表の監督は「展開・接近・連続」という、日本ラグビー史上最高の理論と謳われる戦法を構築した大西鐡之祐だった。

ラグビー母国イングランドとのテストマッチを前に、大西監督はプロップ(PR)への転向を原に命じる。

理由は、日本代表の弱点とされたスクラム対策だった。

フォワード(FW)第一列を任されるPRは、スクラムの強さを大きく左右する。

イングランドの大男たちにスクラムで対抗するには、柔道と相撲で鍛え上げた原の肉体がどうしても必要だった。

 

やったことのないプロップを、原は日本代表の菅平(ラグビー夏合宿のメッカ)合宿で、極限まで鍛えられた。

肉体はボロボロになった原を支えていたのは、大西監督が言った、

「信じてるよ」

の一言だったという。

原にとって、「信は力なり」を実践する大西監督は、信頼に応えるべき存在だった。

 

1971年9月24日、花園ラグビー場で行われたイングランドとのテストマッチで、日本代表は19-27で敗れたものの大善戦。

そしてその4日後の9月28日には、秩父宮ラグビー場で3-6という大接戦を演じた。

原を核とする日本代表のスクラムは、イングランドのFWをグイグイ押して、かつてない光景により大男たちを慌てさせたのだ。

敗れたとはいえ、日本代表がイングランドをあと一歩まで追い詰めた伝説の試合として知られており、ドラマ「スクール☆ウォーズ」でもこの試合での映像が何度も使われている。

 

原は秩父宮でのイングランド戦のことを、

「80分間、頭を無にしてガムシャラに戦ったのは、この試合だけだったような気がする。惜しくも負けたけど、悔しいとも思わず、疲れも全くなかった。試合中ずっと、空中をフワリフワリと浮いているような、そして爽やかな気分だった」

と述懐している。

 

182cm、87kgと、この頃の日本のPRとしては大きな体、それでいて100m12秒台の走力は当時としては珍しかった「走れるプロップ」の先駆け的存在であり、強力スクラムとハード・タックルは大西ジャパンにとって欠かせない存在となった。

そして5年後の1976年には、日本人として初めて世界選抜のメンバーに選ばれたのである。

9月26日、原はウェールズ代表の本拠地であるアームズ・パークで、100周年を迎える地元名門クラブの「カーディフ」に対し、世界選抜の一員として戦った。

ラガーマンとして最高の栄誉。

歴史的な一戦を終えたあと、原はちょうど英国遠征してきた日本代表と合流し、桜のジャージを着て戦った。

しかし、ラグビーの聖地であり、原が心酔して戦ったイングランド代表の本拠地でもあるトゥイッケナム・スタジアムが、ラガーマンとして最後の場所となったのである。

 

英国から帰国した原は引退を発表し、11月4日には近鉄も退社。

まだ29歳で、世界でも認められた男の、突然の引退発表にラグビー界は騒然となった。

引退には色々理由があっただろう。

一つには、高校時代に痛めた膝の状態が悪化した、という点がある。

世界の一流選手たちと一緒に戦ったアームズ・パークや、最後の桜のジャージとなったトゥイッケナム・スタジアムでは、もはや満足のいくプレーができなかったのだ。

 

他にも、ラグビー選手の待遇が悪かったことが挙げられる。

当時のラグビー・ユニオンは世界的にもアマチュアのみで、現在のようなプロ契約などなく、しかも原はいわゆるスポーツ社員でもなかった。

特別待遇など認められておらず、他の一般社員と共に仕事をこなしたあとに練習し、日本代表の遠征ともなると休暇扱いとなったのだ。

そのため、給料をもらえる期間は1年で10ヵ月程度だったという。

ラグビーでいくら名声を得ても、生活は却って苦しくなるだけだった。

 

さらに「無我夢中になったのは、あのイングランド戦だけだった」と語っていたように、イングランド戦以降の5年間は、日本代表の中心選手だったにもかかわらず惰性でやっていたようなものだ、と原は回想する。

イングランド戦で燃え尽きてしまったのだ。

 

こうして、原は表舞台から忽然と姿を消した。

1年間の空白を経て、再び原の名前が世間を騒がせたのは1977年11月29日のことだった。

ラグビー元日本代表の原進がプロレスラーに転向、国際プロレス入団」

と、東京スポーツのみならず、一般紙も大きく書き立てた。

高校二年の途中まで行っていた、格闘技の世界に舞い戻ったのである。

 

つづく

■文中敬称略