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ネターランド王国

国王:ハードフォーク安威川トークン

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:ハードフォーク安威川トークン」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

消えた球団(16)~近鉄バファローズ

近鉄バファロー

近鉄パールス(1950年-1958年)~近鉄バファロー(1959年-1961年)~近鉄バファローズ(1962年-1998年)~大阪近鉄バファローズ(1999年-2004年)

オリックス・バファローズオリックス・ブルーウェーブに吸収合併:2005年)~現在>

リーグ優勝:4回(1979年、1980年、1989年、2001年)

 

日本プロ野球(NPB)で現在のところ、最後の「消えた球団」となっている近鉄バファロー

近鉄球団がプロ野球に参入したのは戦後の2リーグ分裂後だが、実は親会社の近畿日本鉄道近鉄は戦時中に一度だけプロ球団を所有したことがある。

 

戦前、近鉄関西急行鉄道(関急)と名乗っていたが、戦時中に国(軍部)からの強い要請により南海鉄道と合併し、近畿日本鉄道と名乗るようになったのだ。

この時、既に南海鉄道南海軍というプロ野球チームを保有しており、近鉄がそれを引き継ぐ形でチーム名も近畿日本軍となったのである。

 

しかし戦争が終わり、近鉄と南海は再び分離するが、近畿日本軍は近畿グレートリングと名称を変えたあと、南海ホークスとして再出発。

当然、戦前から引き続き南海電気鉄道南海鉄道から改称)が球団経営することになったので、近鉄が保有していたとはいえ近畿日本軍は後の近鉄バファローズとは無関係となっている。

なお、南海ホークスが現在の福岡ソフトバンク・ホークスに受け継がれているのは言うまでもない。

 

1950年(昭和25年)、プロ野球は新球団加盟を巡り、セントラル・リーグパシフィック・リーグに分裂した。

それまでは全8球団だったのが、戦後の商売になると目論んだ企業が我も我もと手を挙げ、なんと倍近くの15球団にまで膨れ上がったのである。

その中に近鉄の名もあった。

 

プロ野球創設時から参加していた阪急ブレーブスのオーナーである小林一三は、元々「鉄道リーグ」という構想を持っており、パ・リーグを鉄道リーグにすべく関西を中心とする私鉄各社に声をかけていた。

近鉄京阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)に誘われ、遂にプロ野球参入を決断、パ・リーグに所属することになったのである。

一時的にせよ、戦時中は同じ会社だった南海の後押しもあった。

結局、パ・リーグは7球団が加盟、そのうち5球団が鉄道会社の経営するチームとなったのである。

ただし、阪神電気鉄道が保有する大阪タイガース(現:阪神タイガース)と、国有鉄道(現:JR)が経営母体でこの年に新規参入した国鉄スワローズ(現:東京ヤクルト・スワローズ)はセ・リーグ所属となった。

 

こうしてめでたくプロ野球に参入した近鉄は、沿線の伊勢の名産である真珠をイメージしてチーム名を近鉄パールスとしたが、野球にそぐわない上品な名前のせいか成績は振るわず、初年度からなんと4年連続最下位。

親会社の近鉄は、日本の私鉄でも最長の路線距離を誇るほど強大にもかかわらず、それが全く成績に反映しなかった。

 

1959年(昭和34年)、ぬるま湯体質のチーム再建を図ろうと、プロ野球界の盟主である読売ジャイアンツから「猛牛」の異名を持つ千葉茂を監督に招聘する。

この年、チーム名も荒々しい猛牛にちなんで近鉄バファローに改められた。

しかし、巨人黄金時代を築いた名二塁手千葉茂をもってしても近鉄の強化は実現できず、千葉茂が監督に就任する前年と解任された翌年を合わせて5年連続最下位。

つまり、千葉茂が監督を務めた3年間は、全て最下位だったのだ。

なお、千葉茂が解任された翌1962年からは、チーム名は複数形となった近鉄バファローに変更されている。

所詮、近鉄に猛牛は千葉茂ただ1人だったということか。

 

当時のパ・リーグは、南海ホークス西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)の2強時代だった。

つまり近鉄は、戦時中に一時的に合併したものの、戦後は同じ南大阪を走る鉄道路線のライバルである南海に、全く歯が立たなかったのである。

鉄道会社の規模としては近鉄の方が遥かに上だったが、野球では南海の前にひれ伏すしかなかった。

 

当時の南海は阪神に勝るとも劣らぬ人気球団で、大阪のド真中にある本拠地の大阪球場は満員となり、日本シリーズで東京の巨人を倒すと御堂筋パレードに20万人ものファンが詰め掛けたのである。

阪神や阪急の本拠地は兵庫県にあったので、「大阪の球団は南海」というイメージも付いた。

近鉄だって大阪を本拠地とする球団だったのだが、大阪人はそっぽを向いて南海や阪神を応援し続けたのである。

 

例外といえば、「金田一耕助シリーズ」で有名な推理作家の横溝正史ぐらいだろうか。

横溝正史は筋金入りの近鉄ファンで、毎晩のようにラジオのプロ野球中継にかじりついて聴いていたのだ。

もっとも、弱い近鉄を放送する訳もなく、途中経過を聴くためだったが、その時は3-1ぐらいで近鉄が勝っていても、翌日の新聞を見るとキッチリ逆転負けしていたという。

 

近鉄が大阪の球団としてなかなか認めてもらえなかった理由として、パ・リーグのお荷物球団だったというだけでなく、本拠地球場の問題もあっただろう。

近鉄が本拠地としていたのは藤井寺球場だった。

その名の通り大阪府南部の藤井寺市にあり、当然のことながら大阪市内にはない。

私鉄が電車収入を計算して建造した、典型的な郊外球場だが、これが近鉄球団に災いした。

当時のプロ野球ナイトゲーム時代に入っており、夜間照明のある球場は不可欠だったのである。

しかし、藤井寺球場の周辺は親会社の近鉄が宅地開発を進めており、近隣住民が藤井寺球場の夜間照明施設建設に大反対したのだ。

せっかくのベッドタウンなのに、ナイトゲームの騒音でゆっくり寝られないと反対運動を起こしたのである。

この住民運動は裁判に持ち込まれ、近鉄側は敗訴して藤井寺球場になかなか夜間照明施設建設の許可が降りなかったのだ。

このため、藤井寺球場では長い間ナイトゲームを行うことはできず、事実上は準本拠地という扱いだったのである。

 

また、藤井寺という土地は、南河内の住民以外では交通の便が悪かった。

難波にある大阪球場はもちろん、兵庫県阪神甲子園球場阪急西宮球場の方が、大阪府民にとっては行きやすかったのである。

「大阪の球団」という意義が、近鉄には薄かった。

 

そのため、近鉄は事実上の本拠地を、大阪市内にあって夜間照明施設も完備している日本生命球場日生球場とせざるを得なかったのだ。

何しろ日生球場は、国鉄(現:JR)の大阪環状線および大阪市営地下鉄中央線森ノ宮駅から徒歩数分の場所にあり、交通の便も申し分ない。

 

それでも、日生球場には問題も多かった。

まず、社会人野球の強豪である日本生命の球場を借りているので、アマチュア仕様とあって球場設備もプロとしてはあまりにも貧弱だ。

なにしろ、ビジター用のロッカールームすらなかったほどである。

また、土地が少ない都会のド真中にある球場のためグラウンドが狭く、ホームランは連発する。

収容人員数も2万5百人と少なく、日本シリーズやオールスター戦も行えない。

それに、森ノ宮という土地は、大阪市内にあるもののビジネス街で、大阪球場があるミナミのような繁華街ではないのだ。

つまり、イメージ的に大阪球場より遥かに地味である。

 

それに、近鉄沿線にはない球場なので、運賃収入も計算できないときている。

近鉄としては、早く藤井寺球場に夜間照明施設を造って、名実ともに近鉄のホームグラウンドとしたいところだった。

そうなると、近鉄は「大阪の球団」というより「河内の球団」というイメージになるが……。

 

弱小だった近鉄の風向きが変わり始めたのは、1968年(昭和43年)に「魔術師」こと三原脩を監督に招聘してからだ。

この年は4位で5年ぶりに最下位を脱出、さらに翌1969年(昭和44年)にはなんと阪急と最後まで優勝争いを演じ、最終的には2位に甘んじたものの球団創設以来最高の順位で、15年ぶり2度目のAクラス入りでもあった。

ちなみに、この年の南海は2リーグ分裂後初の最下位で、近鉄にとって初めて南海より順位が上回ったのである。

 

それより前、1965年(昭和40年)から始まったドラフト会議も近鉄にとって追い風となった。

この第1回ドラフト会議で2位指名した育英高校の鈴木啓示がエースに成長、パ・リーグを代表するサウスポーになったのである。

三原采配と鈴木の加入によって近鉄はお荷物球団から脱し、パ・リーグの有力球団となった。

しかし、三原マジックをもってしても、優勝には届かなかった。

昭和40年代のパ・リーグは、阪急の天下だったのである。

 

だが、その阪急でも日本シリーズでは巨人に負け続けた。

折しもこの時代は、巨人V9の真っ只中だったのだ。

また、この頃にはテレビが普及し、日本テレビを持つ読売新聞グループがその強みを最大限に活用して巨人戦ばかりが全国中継されたため、セ・リーグパ・リーグとの人気の差は開く一方だったのである。

パ・リーグの球団は身売りが相次ぎ、1973年(昭和48年)には球団削減が真剣に検討されたほどだ。

そんな状況では、近鉄の躍進に注目する者は極少数だったのだ。

 

しかし近鉄も、あっと驚くウルトラCをやってのける。

1974年(昭和49年)、ライバル阪急をパ・リーグ最強軍団に仕立て上げた西本幸雄を監督として迎えたのだ。

三原監督が蒔いた種を、西本監督で実らせようとしたのである。

西本監督は猛練習で選手を鍛え上げ、さらに実力をアップさせた。

 

そして翌1975年(昭和50年)、遂に大輪の花を咲かせる時が来た。

パ・リーグで前後期制が採用されていた当時、近鉄は後期優勝を果たしたのだ。

近鉄にとって初めて味わう勝利の美酒と監督の胴上げ。

だが、5試合制のプレーオフでは阪急に1勝3敗で敗れ、初のリーグ優勝はお預けとなった。

西本監督にとって、教え子たちが主力選手となった阪急に敗れ去ったのである。

近鉄にとって惜しむらくは前後期制になったことで、1年間を通しての勝率は1位だったので1シーズン制ならば優勝していたのだ。

この後の阪急はリーグ4連覇、日本シリーズ3連覇(内2回が巨人相手)の金字塔をうち建て、まさしく無敵軍団となった。

 

1978年(昭和53年)には前期こそ阪急に優勝を譲ったものの、後期の近鉄は阪急と激しいデッドヒートを繰り広げ、最終戦を残してマジック1とした。

藤井寺球場での最終戦の相手は宿敵・阪急。

この藤井寺決戦は、まだ小学生だった筆者も家族やご近所さんらと一緒に観に行った。

当時の藤井寺球場にはまだナイター設備がなかったので当然デーゲームだったが、今までの藤井寺球場では見たことがないほどの凄い人だかりだったことを憶えている。

なにしろ、球場外では大勢のダフ屋がたむろし、安くても2倍の値でチケットを売っていたのだ。

こんな光景はパ・リーグの球場では見たことがなかった。

内野席は満員札止めだったので外野席に回り、スタンドを見渡すとほとんど近鉄ファン一色。

当時はまだトランペット応援はなく、私設応援団はホイッスルでリードしていたが、こんなド迫力応援はかつて体験したことがなかった。

プロ野球で「○○倒せー、オー!」という高校野球でお馴染みの応援を、この試合で初めて耳にした(この頃のプロ野球の応援は、ホイッスルによる三三七拍子が主流だった)。

しかし、試合の方は近鉄鈴木啓示、阪急は山田久志という両エースを立てたものの、終始阪急ペースで近鉄は敗れ、その後の阪急の試合の結果により、近鉄は惜しくも後期優勝を逃したのである。

 

だが、雪辱の機会は翌1979年(昭和54年)にやってきた。

ヤクルトから大砲のチャーリー・マニエルを獲得し、猛牛打線を形成した近鉄は前期を独走した。

しかし、ホームランを打ちまくっていたマニエルが顎に死球を食らって長期離脱、近鉄は失速して阪急の激しい追い上げに遭ったのである。

それでも残りのメンバーで首位戦線を死守し、前半戦の貯金がモノを言って遂に前期優勝を果たした。

 

マニエルのいない後期は阪急に突っ走られたものの、マニエルが驚異の回復力で復帰、アメリカン・フットボールのようなフェイスガードを付けたヘルメットを被って打席に立つと、スタンドから大歓声が上がった。

後期優勝は阪急に譲ったが、マニエルが復帰した近鉄に怖いものはなく、プレーオフでは阪急に3タテを食らわせて、遂に初のリーグ優勝を果たした。

球団創設以来29年目、初めてチャンピオン・フラッグを手にしたのである。

それは、当時存在したセ・パ12球団の中で最も遅いリーグ優勝だった。

 

初めて挑む日本シリーズ、相手のセ・リーグ覇者はかつて近鉄と同じようにお荷物球団と呼ばれた広島東洋カープだった。

打の近鉄、投の広島という激突となった日本シリーズは、近鉄が最初に2連勝したものの、広島が3連勝で巻き返しリーチを掛けられ、それでも近鉄は踏ん張って3勝3敗のタイとした。

そして迎えた日本シリーズ最終戦となる第7戦、近鉄は3-4と1点ビハインドで迎えた9回裏の攻撃で、広島のクローザーだった江夏豊を無死満塁と攻め立てる。

球場のムードは「近鉄の逆転日本一は決まった!」となったが、江夏は冷静な投球術でこの大ピンチを切り抜け広島初の日本一、近鉄の日本一はならなかった。

この試合は「江夏の21球」として語り継がれ、未だに日本シリーズ最高の名勝負と呼ばれている。

 

翌1980年(昭和55年)もリーグ優勝を果たした近鉄は、2年連続で広島と日本シリーズで激突。

このシリーズでも最終戦までもつれ込んだが、最終戦と同じ3勝4敗で広島の軍門に下り、近鉄にとって悲願の初日本一はならなかった。

近鉄にとって惜しむらくは、当時の日本シリーズ規定ではDH制が採用されておらず、守備の下手なマニエルに守らせざるを得なかったことだろう。

守備の不安は、近鉄投手陣にとって大きな負担となった。

2年連続ホームラン王のマニエルをベンチに置いておくことはできず、かと言ってライトを守らせると徹底的に狙われる。

もし現在の日本シリーズのように、パ・リーグ本拠地球場でDH制を採用していたら、少なくとも2年の内1回は近鉄が日本一になっていただろう。

 

また、近鉄にとって不幸だったのは、日本シリーズでは本拠地球場を使えなかったことだ。

当時の日本シリーズはデーゲームだったとはいえ、開催時期が秋なので日暮れが早く、ナイター設備が完備した球場が絶対条件だった。

藤井寺球場は当時、ナイター設備を持っていなかったため、日本シリーズは開催できない。

準本拠地である日生球場も、前述した通り日本シリーズ規定の3万人収容人員に遠く及ばない2万5百人というキャパシティだったため、南海の本拠地である大阪球場を借りざるを得なかったのだ。

野球のみならず、鉄道会社としてもライバルであり、しかも規模としては近鉄より遥かに小さい南海に頼らなければならない屈辱。

なお、日本シリーズ最高の名シーンと言われる「江夏の21球」も、舞台は大阪球場だった。

 

そのため、藤井寺球場のナイター化は近鉄にとって悲願となった。

そして、藤井寺球場の住民とは「応援の鳴り物禁止、外野スタンドには防音壁を造る」という条件で合意、遂に1984年(昭和59年)に藤井寺球場のナイター設備が完成する。

それは、藤井寺球場が平日でもナイトゲームを行えることであり、名実ともに藤井寺球場近鉄のホームグラウンドになったことを意味した。

この時の、近鉄関係者や選手たちの喜びはいかほどだっただろう。

 

ところが、皮肉にもこの年に新たな問題が発生した。

近鉄に入団した現役メジャー・リーガーのドン・マネーが、開幕早々に帰国してしまったのである。

理由は、藤井寺球場日生球場のロッカールームがあまりにも汚い、というものだった。

他にも、近鉄球団が用意した住居にゴキブリが出たとか、家族がホームシックにかかったとか、理由は色々あったが、要するに近鉄の環境が、大物メジャー・リーガーには耐えられなかったのである。

これは日本最大の私鉄である近鉄にとっても、大いなる屈辱だった。

 

借り物の日生球場は仕方ないが、自前の藤井寺球場は早急に改善しなければならない。

翌1985年(昭和60年)には、藤井寺球場のロッカールームと風呂が改善され、外野には人工芝が敷かれた。

そして、この年には初めて、藤井寺球場でオールスター戦が開催されたのである。

近鉄の本拠地球場としては初の出来事だった。

その一方で、日生球場の使用頻度は激減していく。

 

1988年(昭和63年)には、近鉄にとって8年ぶり優勝の絶好のチャンスが訪れていた。

この頃のパ・リーグは既に1シーズン制に戻っていたが、序盤から当時最強の西武ライオンズが独走していたものの、シーズン中盤から近鉄が驚異の追い上げを見せて、西武を射程圏内に捉えていた。

だがその反面、パ・リーグにはきな臭い噂が立ち込めていたのである。

 

この頃、近鉄のライバルだった南海が経営困難になり、大手流通業者のダイエーに買収されるのでは?と囁かれていた。

シーズン終盤、それが現実のものとなり、南海球団がダイエーに身売り、さらに福岡へ移転となって、大阪からホークスが消えることが決定的になったのである(翌年からは福岡ダイエー・ホークスとなった)。 

南海にとって最後の大阪球場での試合は近鉄戦だった。

激しい闘志を奮い立たせた南海ナインは近鉄に抵抗し、本拠地最後の試合を勝利で飾ったのである。

優勝争いをする近鉄にとっては、あまりにも痛い1敗だった。

思えば、かつての近鉄は南海に全く歯が立たなかったものの、昭和50年代にはその力関係は完全に逆転し、近鉄は完全に優位に立ったが、南海は最後に名門球団としての意地を見せたのだった。

しかし、近鉄の悲劇はそれだけに留まらなかった。

 

西武を最後まで追い詰め、最終戦の川崎球場でのロッテ・オリオンズ(現:千葉ロッテ・マリーンズ)とのダブルヘッダーに全てを賭けたのである。

このダブルヘッダー近鉄が優勝する条件は2連勝のみ。

2試合中1試合でも負けるか引き分けるかすれば、西武の優勝が決まる。

1988年10月19日、まさしく日本中が注目するこのダブルヘッダー、その直前にとんでもないニュースが飛び込んできた。

それが、阪急の身売りである。

 

既に弱体していた南海の身売りは何度も囁かれていたが、阪急の身売りなど、誰も予想していなかった。

当時の阪急はパ・リーグでも有力球団であり、経営母体の阪急電鉄も純利益では関西№1を誇る大手私鉄である。

しかし阪急球団は、オリエント・リース(現:オリックス)に経営権を譲渡した。

翌年から、プロ野球創設時よりずっと続いていた阪急の名前が消え、オリックス・ブレーブス(後にオリックス・ブルーウェーブに改称)となったのだ。

近鉄は、南海と阪急という関西大手私鉄が保有する球団に叩かれ、成長してきた球団である。

在阪パ・リーグ3球団の中では最も遅れを取っていたが、この頃は人気球団になりつつあった。

老舗球団の南海と阪急が身売りされ、その年に後発の近鉄が優勝争いに加わろうとは、なんという皮肉だろう。

 

ダブルヘッダーの第1試合は、午後3時の試合開始となった。

もちろん、関西ではABCテレビがローカル放送をしている。

優勝がかかっている近鉄と、既に最下位が決まっているロッテ。

普通なら近鉄の楽勝となるような試合だが、ロッテが闘志を剥き出しに抵抗をしてきた。

 

一進一退の攻防となり、勝負の行方は全くわからない。

9回表で3-3の同点、近鉄の攻撃は二死二塁でバッターはこの年に引退を決めていたベテランの梨田昌孝

当時の規定では、ダブルヘッダーの第1試合は延長戦が行われないことになっており、もしこの回に近鉄が点を取れないと良くても引き分けとなり、近鉄は優勝を逃してしまう。

しかし梨田はセンター前にヒットを放ち、二塁走者の鈴木貴久がホームインして奇跡の決勝点を挙げた。

9回裏、エースの阿波野秀幸がピンチでリリーフに立ったものの、冷静な投球で後続を断ち切り、近鉄が勝利して第二試合に望みを繋げたのだ。

 

第一試合終了の僅か23分後、午後6時44分に第二試合が開始された。

そしてこの試合も、第一試合に勝るとも劣らぬシーソーゲームとなり、関西ローカルだった試合中継も遂に全国ネットとなった。

ゲームは延長戦となり、午後10時には中継終了となるはずだったが、あまりの熱戦に人気報道番組だった「ニュースステーション」でもこの試合を生中継し続けたのだ。

結果は、4時間を超えるゲームとなったため、当時の規定により延長10回で打ち切り、4-4の引き分けとなって西武の4連覇が決まったのである。

しかし、この試合は視聴率46%を叩き出し、「10・19」として未だにプロ野球史上最高の名勝負として語り継がれている。

 

この頃の近鉄の監督は仰木彬だった。

野武士軍団と呼ばれた西鉄ライオンズの末裔で、選手時代の監督は三原脩

つまり、近鉄の基礎を築いた三原の弟子だったのだ。

そんな仰木が、近鉄で三原野球の再現を図ろうとしている。

それが実を結んだのが、翌年のことだった。

 

1989年(平成元年)のパ・リーグは史上希に見る大混戦で、近鉄オリックス、西武の三つ巴による優勝争いは大いにファンを湧かせ「熱パ」と呼ばれた。

近鉄にとって象徴的だったのが10月12日、天王山と言われた西武球場(現:西武プリンスドーム)での西武とのダブルヘッダー

既にマジック3を点灯させていた西武に対し、前年の「10.19」のように連勝しなければ近鉄の優勝はほぼ絶望となり、オリックスの試合結果いかんでは西武の5連覇も決まってしまう。

 

第一試合、近鉄はいきなり0-4とリードを奪われ、西武球場を埋め尽くした西武ファンはお祭りムードとなるが、ここで反撃の狼煙を上げたのがラルフ・ブライアントである。

4回表に郭泰源からソロホームランを放って3点差、その後西武に1点を取られたものの、6回表には郭から満塁ホームランを打って奇跡の同点に追い付く。

さらに8回表、リリーフの渡辺久信から右翼席上段への超特大勝ち越しホームランを放ち、遂に西武を突き放した。

ブライアントはチーム全得点の6点を一人で叩き出し、近鉄は6-5で勝って首の皮一枚つながったのである。

続く第二試合でも、ブライアントは第一打席が四球、そして第二打席で高山郁夫から勝ち越しのソロホームランを放ち、その後は近鉄打線が爆発して14-4で大勝した。

西武はブライアント一人に息の根を止められたのである。

中日ドラゴンズでは二軍に甘んじていた助っ人にとって、一世一代の大舞台だった。

 

そして10月14日、遂にその日がやってきた。

藤井寺球場でのナイトゲーム近鉄ダイエーを5-2で破り、9年ぶり3度目のリーグ優勝を果たしたのである。

近鉄が終始リードを保った試合中、藤井寺球場のスタンドではウェーブが巻き起こっていた。

藤井寺球場にナイター設備がなかった頃、誰がこんな光景を想像しただろう。

ブライアントを中心とした近鉄の強力打線はいてまえ打線と呼ばれた。

近鉄は名実ともに河内の、そして大阪の球団として認められたのである。

 

日本シリーズで戦う相手は、セ・リーグを制した「球界の盟主」巨人。

アンチ巨人の浪花のファンも、この年ばかりは巨人にセ・リーグ優勝して欲しかっただろう。

巨人を倒して球団初の日本一なんて、舞台としては絶好だ。

 

日本シリーズ第1戦、行われたのは藤井寺球場だった。

近鉄関係者の誰もが、この時を待ち焦がれただろう。

もはや藤井寺球場には、日本プロ野球最高の大舞台を妨げるものは何もない。

それに呼応するように、近鉄ナインは我が庭で大暴れした。

1、2戦を連勝して、日本一へ好スタートを切ったのである。

 

そして第3戦、舞台を巨人の本拠地である東京ドームに移したが、藤井寺での勢いは止まらず3連勝、近鉄は初の日本一へリーチをかけた。

ところが、ここで大事件が起こった。

完投勝利を果たした加藤哲郎がインタビューで、

「巨人は(この年最下位だった)ロッテよりも弱い」

というニュアンスのことを言ってしまったのである。

実際にはそんなことは言っていないのだが、加藤は巨人をナメていたわけではなく、セ・リーグのチームに負けるわけがない、と思っていたのだろう。

シーズン中は西武やオリックスとデッドヒートを繰り広げたのに、日本シリーズで負けたら彼らに申し訳ない、と思っていたのである。

当時は西武が日本最強を誇っており、近鉄オリックスは切磋琢磨されてパ・リーグのレベルが上がったので「熱パ」と呼ばれるようになった。

それが加藤に限らず、ずっと「人気のセ、実力のパ」と言われ続けてきたパ・リーグ戦士たちの心意気だったに違いない。

 

しかし、この加藤発言が、盟主巨人にとって格好の発奮材料となった。

怒りに燃える巨人ナインは怒涛の如く3連勝し、3勝3敗で最終の藤井寺決戦を迎えたのである。

勢いが止まらない巨人は、問題発言をした(とされる)加藤をKO、3連敗4連勝で日本一となり、近鉄初の日本一は夢となった。

地元・藤井寺での日本一とはならなかったのである。

結局、これが藤井寺球場での最初で最後の日本シリーズとなった。

 

翌1990年(平成2年)、近鉄に新たなスターが誕生した。

社会人時代、日本代表のエースとしてオリンピックで大活躍した野茂英雄を、近鉄がドラフト1位で獲得したのである。

この年の野茂は、新人王はもちろん最多勝利、最優秀防御率最多奪三振、最高勝率の投手四冠に輝き、パ・リーグ初の沢村賞にも選出され(それまでの同賞はセ・リーグ投手のみの対象だった)、さらにはMVPにも選ばれた。

しかし、チーム自体は野茂の活躍のみが目立っただけで、3位に甘んじてしまう。

 

名実ともに近鉄のみならずパ・リーグのスーパースターになった野茂だったが、新たな火種が生まれた。

1993年(平成5年)、かつての近鉄の大エースだった鈴木啓示が監督に就任したものの、野茂と練習方法を巡って対立した。

鈴木は野茂に対し、自身が現役時代に行ってきた「走り込む、投げ込む」の練習を野茂に強要したが、野茂は既に科学的なトレーニングによる調整法を確立していたので、激しく反発したのである。

 

さらに野茂は、近鉄球団に対しても不満を抱いていた。

エースでいる間はチヤホヤするものの、故障して監督と対立すれば手のひらを返すように冷遇するフロントに嫌気が差していたのである。

そこで野茂は、代理人の団野村野村克也の継子)と組んで、かねてから夢だったメジャー・リーグへの挑戦の道筋を考えた。

野茂は契約更改での席で、球団首脳にまんまと任意引退を認めさせ、メジャー・リーグ球団との契約を可能にしたのだ。

野球協約の不備を突いた野茂&野村コンビのファインプレーだったが、近鉄フロントが野球協約についてあまりにも無知だったのが災いした。

当時は日本人選手がメジャー・リーグに挑戦するなど考えられなかったので、近鉄側は甘く見たのである。

結局、野茂は近鉄からの呪縛から逃れてメジャー・リーグのロサンゼルス・ドジャースに入団、日本人2人目のメジャー・リーガーとして大活躍した。

野茂が先鞭をつけたメジャーへの道は、その後も日本人メジャー・リーガーを産み続けたのは周知の通りである。

この時の、近鉄球団の対応の甘さが、後の大騒動を生んだのであろう。

要するに、球団経営に関してはド素人だったのである。

 

1997年(平成9年)、近鉄は完成したばかりの大阪ドーム(現:京セラドーム大阪)にホームグラウンドを移転する。

と言っても、保護地域は大阪府内に変わりなかったので本拠地移転というわけでもないのだが、近鉄にとっては待望久しいドーム球場、さらに集客の望める大阪市内への進出だった。

それも今度は、日生球場のようなアマチュアから借りた球場ではなく、どこへ出しても恥ずかしくない堂々たるドーム球場である。

だがこれが、近鉄球団を苦しめることになった。

 

大阪ドーム第三セクターが造った球場ゆえ、使用料がベラボーに高い。

藤井寺球場は自前の球場だったので、球場使用料は事実上ないにも等しかったのだが、大阪ドームは借り物なので自由に商売もできない。

おまけに、近鉄沿線から外れているので、近鉄本社にとっては電車収入すら期待できないのだ。

現在でこそ阪神なんば線が開通して京セラドーム大阪の近くに駅ができ、近鉄阪神電鉄が直通運転をしているが、その頃は直通運転など10年以上も先の話だったのである。

 

1999年(平成11年)、近鉄は地域密着を目指してチーム名を大阪近鉄バファローズと改称、ビジター用ユニフォームの胸文字も「Osaka」とした。

しかし、成績は振るわず最下位、佐々木恭介監督が辞任に追い込まれる。

ミレニアム・イヤーの翌2000年(平成12年)には梨田昌孝が 監督に就任したものの、2年連続最下位。

大阪ドーム移転以来、近鉄にとって暗黒時代の再来と思われた。

 

ところが21世紀になった2001年(平成13年)、近鉄火山は再び噴火した。

中村紀洋タフィ・ローズを中心とした「いてまえ打線」が復活、見事にリーグ優勝を果たしたのである。

特にローズの活躍ぶりは凄まじく、王貞治が保持していた当時の日本記録に並ぶシーズン55本塁打をマークした。

さらに、劇的だったのが優勝決定試合。

西武、ダイエーと三つ巴の混戦となったペナントレースだったものの、マジック1で迎えた9月26日の大阪ドーム、対オリックス戦で近鉄は2-5の3点ビハインドで9回裏の最後の攻撃を迎えた。

近鉄は無死満塁のチャンスを迎え、代打で登場したのが北川博敏

ここで北川は史上初の「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」を「釣り銭なし」で放ったのである。

まさしく「いてまえ打線」旋風で、前年の最下位から優勝に登り詰めたのは、いかにも近鉄らしい「いてまえ魂」だった。

梨田監督は、これ以上ない形で前年のリベンジを果たした。

しかしこれが近鉄にとって最後の花火、最後の優勝だったのだ。

日本シリーズではヤクルトに1勝4敗で完敗、初の日本一には遠く及ばなかった。

結局、近鉄プロ野球参入以来、一度も日本一にはなれなかったのである。

 

2004年(平成16年)、いよいよその時がやってきた。

観客動員数は伸びないのに選手の年俸は高騰し、大阪ドームの使用料はかさむ一方、近鉄本社もバブル時代の施策が大失敗で多額の負債を抱えたため、赤字続きのバファローズはまたしても「お荷物」となったのである。

親会社の都合によりプロ野球に参入した頃はパ・リーグからお荷物扱いされ、バブルが弾けたら今度は親会社からお荷物扱いされる――。

 

どうしようもなくなった近鉄は、ネーミングライツによりチーム名を売って窮地をしのごうとするが、当時巨人のオーナーだった渡邉恒雄が、

「そんな話は聞いておらん!」

と一喝したため、この話はお流れになる。

だいたい、コミッショナーでもない一球団のオーナーの承認がなぜ必要なのか理解に苦しむが、要するにNPBとはそういう所だ。

特に当時は、巨人の力が圧倒的だったから、誰も渡邉に逆らえなかったのだ。

 

八方塞がりになった近鉄は遂に、オリックスから勧められていた同球団との合併を決意する。

だがこの時、近鉄球団の買収を名乗り出た者がいた。

それがライブドアの社長だった堀江貴文である。

しかしこれは、全く相手にされなかった。

なぜなら、巨人の渡邉オーナーが、

「俺の知らん会社の参入は許さない!」

と吠えたからである。

当時のNPBは、渡邉がルールだったのだろう。

 

そしてもう一つ、当時のNPBには「1リーグ制8球団」という機運が高まっていた。

つまり、赤字続きのパ・リーグは解体してしまえ!という論理である。

そしてこの論理に、多くのオーナーが同調していた。

要するに、近鉄オリックスに合併を持ちかけたのを見て、これが球団削減への絶好のチャンスと捉えていたのである。

 

渡邉オーナーは、

パ・リーグが潰れても構わん。12球団なら6球団が赤字になる。8球団なら全て黒字になる。こんな計算は小学生でも出来る」

と言い放った。

 

どうやらこの御仁、

「球団が2/3に減れば、ファンも2/3に減る」

という、小学生にでも出来る計算が出来なかったらしい。

しかも、球団が削減されれば多くの子供たちはプロ野球選手という夢を諦めるだろう。

つまり、日本の野球人口は確実に減る。

そして、一部の才能ある子供たちは、日本プロ野球など目もくれずにメジャー・リーグを目指すに違いない。

あるいは、他のスポーツに転向することも考えられる。

こうして、日本野球は衰退するのは明白だ。

 

それでもオーナー連中は、近鉄オリックスの合併を待ってましたと歓迎して、今度は西武とロッテを合併するなどの「球団削減、1リーグ制移行」に拍車をかけた。

近鉄ネーミングライツ問題にはまともに議論しなかったにもかかわらず、こと合併となるといきなり走り出したのである。

選手やファンを無視した合併騒動に、選手会は待ったをかけた。

しかし渡邉オーナーは、こう言い放った。

たかが選手が」。

 

渡邉オーナーはどうやら、プロ野球には選手なんて必要ないと思っていたようだ。

でもなければたかが選手が」なんて発言ができるはずもない。

これは経営者特有の発言かと思っていたが、どうやらそうでもないようで、日曜日の朝にやたら「喝!」を入れまくっている安打製造機と呼ばれた元プロ野球選手は、

プロ野球選手は誰から金を貰ってるんですか!?親会社からですよ!」

と吠えていた。

どうやらこの「安打製造機」は現役時代、ファンからではなく親会社から金を貰っていたようだ。

要するに「ファンあってのプロ野球」なんて言葉は、この「安打製造機」の辞書には全くないのである。

 

プロ野球がファンからそっぽを向かれたら、立ちいかなくなることを理解していないらしい。

プロ野球が人々から全く見向きもされない競技になれば、企業にとっても宣伝効果がなくなるので、撤退するだろう。

入場料はもちろん、スポンサー収入やテレビ放映収入だって、ファンがいなければ成り立たないのだ。

渡邉オーナーや安打製造機は、ファンに面白いゲームを提供して、ファンからお金を戴く、という、プロスポーツの根本原理を理解していない、と言える。

 

そしてたかが選手たちが反乱を起こした。

日本プロ野球史上初のストライキである。

メジャー・リーグで選手会がストを起こしたときは、ファンから非難轟々を浴びたものだ。

ところが日本では、ストをした選手会をファンが支持した。

こんなこと、普通では考えられないことである。

この時、オーナー連中は初めてファンの恐ろしさを知ったのだ。

プロ野球は、ファンなしでは成立しないという、当たり前のことを。

 

しかし、そのファンをもってしても、近鉄オリックスの合併は止められなかった。

球団削減はしないという折衷案として、仙台に楽天がスポンサーとなった東北楽天ゴールデンイーグルスという新球団が誕生することになる。

そして近鉄オリックスと合併して、オリックス・バファローズとして再出発することとなった。

12球団制は維持されたが、近鉄という球団は事実上消滅したのである。

 

しかし、それなら最初から近鉄の身売りを承認すれば良かっただけの話ではないか。

楽天大阪近鉄バファローズを買収していれば、こんなみっともない騒動にはなってはいまい。

 

二つの球団が合併すれば、観客動員数は2倍にならなければおかしい。

おかしい、というより、合併した意味がないだろう。

では、両球団が合併する前の2004年と、合併したあとの2005年の、ホームゲームでの観客動員数を見てみよう。

 

2004年(合併前)

大阪近鉄バファローズ:1,338,000人

オリックス・ブルーウェーブ:1,415,000人

2005年(合併後)

オリックス・バファローズ:1,356,088人

 

なんと、倍どころかブルーウェーブ時代からは観客動員数を下げているのである。

ただし、2004年までは主催者発表、即ち水増しが行われていた可能性が高いので一概には言えないが(2005年からは実数発表)、2004年はストの影響で試合数が少なくなっているので、良くてもトントンといったところだろう。

楽天へファンが流出したことを考慮しても、せめて1.5倍の観客数を動員しなければ、球団合併した意味なんてないのではないか。

近鉄オリックスのオーナーは、球団合併すればファンが倍になると思っていたのだろうか。

それこそ「12球団なら6球団が赤字になる。8球団なら全て黒字になる。こんな計算は小学生でも出来る」などとのたまっていた某盟主球団オーナーと同じ思考である。

 

日本中にNPBの大恥を晒した球団削減騒動だったが、いい面もあった。

一つは東北(仙台)に球団が誕生したことと、もう一つは各球団(特にパ・リーグ)が球団経営に本腰を入れたことである。

楽天が仙台に本拠地を置いたことにより、パ・リーグの球団は北海道、東北、関東(2球団)、関西、九州と日本全国に散らばり、実にバランスのいい配置となったのだ。

ちなみに、セ・リーグとの格差が拡がった80年代のパ・リーグは、関東3球団、関西3球団というアンバランスな構成だった。

 

また、球団合併という安直な方法は通用しないと悟った各球団は、地域性を活かした球団経営を施すことになり、観客動員数は大幅にアップし、人気面でセ・リーグと肩を並べるようになった。

さらに、新体制となった2005年(平成17年)から始まったセ・パ交流戦では、去年までの10年間でパ・リーグが9回も勝ち越しとセ・リーグを圧倒し「人気は互角、実力はパ」と言われるようになったのである。

 

しかし、パ・リーグでもたった一つだけ経営努力を怠っていた球団があった。

他ならぬオリックスである。

 

オリックスも阪急ブレーブスを買収した当初は球団経営に力を入れていた。

西宮から神戸に本拠地を移し、市民球団と銘打って神戸市民に愛される球団になった。

阪神淡路大震災が起きた1995年(平成7年)は「がんばろう神戸」を合言葉にオリックスとしてパ・リーグ初制覇、翌1996年(平成8年)には日本一に輝いている。

さらにイチロー鈴木一朗)というスーパースターを育て、人気・実力ともにパ・リーグを代表する球団となった。

球団買収した頃に親会社がオリエント・リースからオリックスに社名変更したが、プロ球団を持つことは新社名が世間に浸透するのに絶大な効果があったのである。

 

しかしイチローがメジャー・リーグに移籍したこともあって人気と実力は低下、オリックスの球団経営が疎かになってきた。

そして近鉄を吸収合併するという愚かな方法を採ったのである。

 

だが、やる気のない球団経営と反比例して、親会社のオリックスの方は大きくなる一方だった。

2006年(平成18年)には事実上、倒産していた三セク大阪ドームオリックスが買収し、自前の球場としたのである(野球とは関係ないが、大阪におけるコンサート・ホールのメッカだった大阪厚生年金会館も買収してオリックス劇場となった)。

しかし、これにより2008年(平成20年)からはオリックスの本拠地(保護地域)は完全に大阪になり、かつての神戸市民球団としてのオリックスは完全に消滅した。

 

関西の球団はオリックス阪神の2球団だけになったものの、人気の面では阪神に大きく水を開けられた。

かつての近鉄ファンからはそっぽを向かれ、神戸のファンも失い、パ・リーグの球団でただ一つ人気面で頭打ちとなったのである。

 

戦力面でも本気で強化を図っているとは言えず、他球団のお古を獲得するだけという印象だった。

NPB新規参入初年度は97敗してダントツの最下位だった楽天でさえ、球団創設9年目の2013年(平成25年)には見事日本一に輝いた。

なお、球団削減騒動があった2005年以来、パ・リーグ優勝したことがないのはオリックスだけである。

2球団が合併してこの体たらくなのだから、あまりにも情けない。

 

ただ、近年はようやく球団経営にも努力するようになった。

2014年(平成26年)は最後まで優勝争いをして2位に終わったものの、京セラドーム大阪を大いに湧かせた。

優勝候補に挙げられた2015年(平成27年)は怪我人続出で序盤戦から下位に低迷しているが、観客動員数では大幅にアップさせている。

オリックスはNPB唯一の大阪の球団(阪神の保護地域は兵庫県)なのだから、人口に比例した人気を獲得しないと、吸収合併された近鉄が浮かばれない。

 

NPBは二度と、球団削減騒動のような悲劇を繰り返してはならないだろう。

大阪近鉄バファローズを、最後の「消えた球団」にしてもらいたいものだ。

 

球団合併のため主(あるじ)を失い、解体される藤井寺球場(写真上)。現在は四天王寺学園となっている(写真下)

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大阪ドームが完成したために役目を終え、解体後しばらくは駐車場として利用されていた日本生命球場(写真上)。現在は商業&スポーツ施設「もりのみやキューズモールBASE」に生まれ変わった(写真下)

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消えた球団シリーズ