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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

東洋の神秘

「”東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ自伝(ザ・グレート・カブキ:著、辰巳出版)」という本が上梓された。

ザ・グレート・カブキと言えば、1980年代に大ブームを巻き起こしたレスラーである。

 

当然のことながら、不朽の名作プロレス漫画プロレススーパースター列伝(少年サンデー・コミックス):以下『列伝』」でもザ・グレート・カブキ編があった。

では、「列伝」と自伝の内容を比べてみよう。

 

★プロレス入りの経緯

【列伝】

ザ・グレート・カブキ(本名:米良明久)は1948年(昭和23年)に宮崎県延岡市で生まれ、力道山に憧れてプロレスラーになろうとする。

しかし、ヤセッポチでヒョロヒョロだったカブキは「モヤシがプロレスラー志望だとよ!」と友人に笑われ、両親からもプロレス入りを猛反対されるが、中学卒業後にその反対を押し切って上京、日本プロレスの門を叩いた。

【真相】

ウソ。

カブキは中学時代には水泳部と柔道部を掛け持ちして、柔道では初段の黒帯、ケンカに明け暮れる腕白坊主で柔道部ではいつもプロレスごっこをしていた。

そんな男が「モヤシ」などと呼ばれるわけがない。

中学を卒業する頃、父親は既に他界していて「両親」がプロレス入りを猛反対できるわけもなく、この頃は母親と一緒に愛知県知立市に引っ越していた。

片親のため高校進学を諦め、就職口としてプロレスラーになろうとしたが、母親は「やりたいことをやりなさい」と言われた。

つまり、親からはプロレス入りを反対されなかったのである。

 

日本プロレス入門当初

【列伝】

単身上京する直前に力道山は事故死していたが、日本プロレスの門を叩いたとき、最初に応対したのは上田馬之助で、上田には「お前みたいなモヤシにプロレスは無理だから帰ったほうがいい」と諭されるも、カブキは「帰れと言われても汽車賃もないんです」と答え、上田からは「無茶なやっちゃなあ。仕方ないから、体ができるまで雑用や使い走りでいいなら置いてやる」と言われて、なんとか入門を許された。

【真相】

ウソ。

カブキが日本プロレスの門を叩いたとき、上田馬之助は「今日は日曜日だから力道山先生はいない。今晩は合宿所に泊まればいい。明日は力道山先生に会える」と言った。

しかし、実は上京する際に列車事故に遭って、カブキは無事だったものの母親が心配するといけないと考え、一旦は知立に帰ることにする。

1ヵ月後、再び上京したカブキだったが、この時には力道山が事故死して日本プロレスは大混乱。

それでも二代目社長の豊登に会うと「じゃあ中学を卒業したら来な」とアッサリ入門を認められた。

 

★初の海外遠征・東南アジア

【列伝】

小柄な体ながら人一倍の練習量で実力を着実に身に付けたカブキ。

しかし、その後は柔道日本一の坂口征二坂口憲二のパパ)、レスリン東京オリンピック日本代表のマサ斉藤、大相撲からはラッシャー木村などの大型新人が続々と入門してきて、日本プロレスの幹部連中は小型のカブキ(当時のリングネームは高千穂明久)に冷たくなった。

そんなカブキに初の海外遠征の命令が下る。

しかし、行き先はスター候補生のアメリカではなく東南アジアだった。

カブキは「ジャイアント馬場アントニオ猪木坂口征二などのスターが揃い、しかも大型新人が顔を並べたので、俺のような小型レスラーは東南アジアに追放って肚か!」と絶望する。

【真相】

ウソ。

東南アジアに遠征したのはカブキ個人ではなく、日本プロレス全体。

ただし、日本プロレス本体が帰国したあとも、カブキは残ってシンガポール、タイ、香港をサーキットした。

 

東南アジア遠征でカブキのプロレスが開眼

【列伝】

レベルの低いシンガポールのプロレスに辟易していたカブキだったが、あるとき対戦したカンフーレスラーのウォン・チュン・キムに完全KOされて、キムにカンフーを教わろうと弟子入りを志願する。

キムの元で地獄の修行を積んだカブキはメキメキ実力を伸ばし、カンフーを使ったプロレスで連戦連勝、シンガポールでは「ジャパニーズ・デビル(日本鬼)」と呼ばれるほどのレスラーになった。

カンフーの本場・香港に戦いの場を移したカブキだったが、プロモーターからカンフー兼映画俳優のレスラーにわざと負けるように指示される。

日本に戻っても前座レスラーの座が待っているだけなので、八百長指令に従うつもりだったが、相手レスラーのキザな態度に激怒して、プロモーター命令に反抗しノシてしまう。

怒ったプロモーターは無法地帯の九龍街で2m10cm以上の化物カンフーレスラーをカブキにぶつけ、九龍街でカブキを消してしまおうとするが、カブキは反則技でなんとか化物レスラーを潰した。

収まらないのがプロモーターと観客で、反則したカブキを葬り去ろうとするが、キムの計らいでカブキは一命を取り留めたのである。

キムはカブキが八百長命令を無視したと知って、カブキの身が危ないと思い、香港のプロモーターやレスラーに働きかけて抑えたのだった。

香港のプロモーターやレスラーはみんなキムの息がかかっていたので、キムには逆らえなかったのである。

【真相】

大ウソ。

そもそもウォン・チュン・キムなる人物なんて実在しないというのが定説。

カブキが東南アジアでカンフーの修行をしたなんて、カブキ本人は語ったことがない。

従って、東南アジアでのカンフー修行が後年の「ザ・グレート・カブキ」に変身した時に役立ったというのも大ウソである。

しかし、「列伝」のカブキ編では、この東南アジアでのカンフー修行が最大のクライマックスであり、当時の読者は誰もがこのエピソードを信じていた。

これぞ「列伝」の真骨頂だったと言えよう。

 

日本プロレス時代は猪木派だったカブキ

【列伝】

カブキは大型レスラーではなく、また他の格闘技で実績もなかっただけに、日本プロレスの幹部からは大きな期待をかけられてなかった。

そんな中でアントニオ猪木だけはカブキを目をかけて、ガンガン鍛えた。

なぜなら猪木も、ジャイアント馬場のような体格や実績(馬場は巨人軍の投手だった)もなかったので、叩き上げのカブキを可愛がったのである。

カブキもそんな猪木に惚れ込み、猪木と一緒に激しいトレーニングに励んだ。

だが、そんなカブキを、日本プロレスの社長である芳の里は銀座の高級クラブに飲みに誘う。

社長の誘いを断れないカブキは芳の里に付き合うが、心の中では叫んでいた。

「酒は好きだけど、それ以上にトレーニングの鬼・猪木さんと汗を流している方がもっと好きなんだ!」

と。

【真相】

大ウソ。

日本プロレス当時のカブキは猪木派ではなく、完全な芳の里派だった。

「列伝」では芳の里を腐りきった悪人として描いているが、カブキは芳の里のことを「オヤジ」と呼んで慕っていたのである。

カブキは日本プロレスに入門を許されたが、その後に人員整理があってカブキもその整理対象になっていた。

だが、芳の里が「お前、いくつだ?15歳か。こいつを帰すのはもったいないよ。お前、残れ」と言ったおかげで、カブキはプロレスラーになれたのである。

しかも、日本プロレスが崩壊した時も、芳の里はレスラーたちの身の振り方を真剣に考えて、路頭に迷わないように馬場の全日本プロレスへの斡旋をしたのだ。

カブキは「芳の里さんが俺にとっての大恩人」と語る。

「列伝」では猪木と敵対した人物を悪人にするため、芳の里など(ある意味、馬場もそう)が不当に扱われたのだ。

ちなみに、猪木が師と仰いだカール・ゴッチのことを、カブキは全く認めていない。

ゴッチが日本で「プロレスの神様」などと崇め奉られているのは「猪木さんによるイメージ戦略の賜物」と言い切っている。

 

★アメリカでザ・グレート・カブキへの大変身

【列伝】

アメリカでは悪役として人気を馳せていたカブキ。

だが、ただの悪役ではせっかくのカンフーの技が活かせないのでもったいないと考えたプロモーターが、覆面レスラーになって過去のイメージを払拭しないかと提案したが、カブキはこれを却下。

ありふれた覆面レスラーになるのは嫌だという。

そこで思い付いたのが、歌舞伎で使われるメイキャップだった。

今でこそペイントレスラーは珍しくないが、当時としては初の試み。

マネージャーのゲーリー・ハートも賛成して、世界初のペイントレスラーであるザ・グレート・カブキが誕生したのだった。

【真相】

ウソ。

歌舞伎のギミックを考えたのはカブキではなく、マネージャーのゲーリー・ハートだった。

「歌舞伎のような覆面レスラーになればいい」とハートは提案したが、カブキは「歌舞伎は覆面じゃなくて化粧だよ」と言ったという。

じゃあ、メイクしてみようとカブキが決断して、世紀のペイントレスラー:ザ・グレート・カブキが誕生したのだった。