2014年8月1日で90歳を迎えた阪神甲子園球場。
今年も8月9日から第96回全国高等学校野球選手権大会が開催される。
90年間、甲子園はずっと高校野球の名勝負を見続けて来た。
その中で、名勝負ベストテンの試合を、筆者の独断と偏見で紹介しよう。
①1933年(昭和8年)夏 第19回全国中等学校優勝野球大会 準決勝
中京商(愛知)×明石中(兵庫)
明石中
000 000 000 000 000 000 000 000 0=0
000 000 000 000 000 000 000 000 1x=1
中京商
(延長25回)
高校野球がまだ中等野球と呼ばれていた戦前、中京商(現:中京大中京)は夏3連覇の大偉業に挑戦していたが、そこに立ちはだかる巨大な壁が明石中(現:明石)だった。
この年のセンバツでも両雄が激突、この時は明石中が1-0で中京商を下している。
明石中には「沢村栄治以上」と他校から恐れられていた剛球投手の楠本保が君臨しており、「打倒、楠本」が中京商の合言葉だった。
しかし、夏の準決勝直前に楠本は心臓脚気を起こし先発を回避、左腕の中田武雄が先発したため、中京商打線が面食らった。
楠本とは全くタイプの違う中田と、中京商の絶対的エースである吉田正男との息詰まる投手戦が展開され、スコアボードには「0」以外の数字が刻まれない。
当時のスコアボードは16回までしかなく、延長17回からは臨時大工がスコアの板を継ぎ足してペンキで「0」と書いていったものだから、当時の写真を見ると17回以降の「0」の形はバラバラである。
延長25回裏、中京商は無死満塁からセカンドゴロで三塁走者が生還、4時間55分の熱戦に終止符を打った。
中京商は決勝でも平安中(現:龍谷大平安)を2-1で破り、空前絶後の夏3連覇を成し遂げることとなる。
春夏を問わず3連覇を達成した学校は未だになく、延長戦も現在は15回打ち切りで、引き分けだと再試合になるため、規定が変わらない限り延長25回の記録が今後破られることはない。
②1979年(昭和54年)夏 第61回全国高等学校野球選手権大会 三回戦
箕島(和歌山)×星稜(石川)
星稜
000 100 000 001 000 100=3
000 100 000 001 000 101x=4
箕島
(延長18回)
この年の春、箕島は3度目のセンバツ制覇を成し遂げて、春夏連覇を目指し夏の甲子園に乗り込んだ。
しかし、北陸の雄・星稜が真っ向勝負を挑み、1-1でお互いに譲らぬまま延長戦に突入。
延長12回表、星稜が1点を奪い、その裏の箕島の攻撃も二死無走者で絶体絶命となった。
ここで打者の嶋田宗彦は監督の尾藤公に「ホームランを狙っていいですか?」と言い、尾藤は「よーし、打ってこい!」と送り出して、嶋田は本当に同点アーチをかけてしまった。
延長16回表、星稜が1点を奪い再びリードすると、その裏の箕島の攻撃はまたもや二死無走者。
二度続けての奇跡はないだろうと思われ、森川康弘が放った打球は力ないファースト・ファウルフライ。
「箕島、春夏連覇ならず!」と誰もが思った瞬間、星稜の一塁手・加藤直樹はこの年から敷かれたファウルゾーンの人工芝に足を引っ掛け、転倒してしまった。
九死に一生を得た森川は、レフトラッキーゾーンへまさかまさかの同点ホームラン。
本当に奇跡が二度起こったのだ。
延長18回裏、引き分け寸前で箕島は上野敬三の左前サヨナラヒットにより激闘を制した。
箕島はその後も勝ち進み、史上3校目の春夏連覇を成し遂げている。
③1998年(平成10年)夏 第80回全国高等学校野球選手権記念大会 準々決勝
横浜(神奈川)×PL学園(大阪)
横浜
000 220 010 010 000 12=9
030 100 100 010 000 10=7
PL学園
(延長17回)
「平成の怪物」松坂大輔を擁して春夏連覇を狙う横浜と、大阪の名門・PL学園が準々決勝で激突。
センバツでも両校は準決勝で戦い、横浜が3-2の大接戦でPLを下していたため、この試合が事実上の決勝戦と呼ばれた。
その予想に違わず、PL打線は難攻不落と言われた松坂の立ち上がりを攻め、2回裏に3点先制。
しかし横浜打線もジワリと追い上げ、5-5で延長戦へ。
延長11回表に横浜が1点を奪ってこの試合初めて勝ち越すも、その裏にPLが粘って同点に追い付く。
延長16回表にも横浜が1点を奪い、勝負あったかと思われたが、諦めないPLは松坂から1点をもぎ取り「箕島×星稜戦」を彷彿させる試合となった。
しかし延長17回表、横浜は途中出場の常盤良太がPLのエース・二番手の上重聡から決勝2ランを放ち、大熱戦にけりをつけた。
横浜は準決勝で明徳義塾に6点差をひっくり返す大逆転勝ち、決勝では松坂が京都斉唱をノーヒット・ノーランに抑える快投で史上5校目の春夏連覇を達成。
しかも前年秋の明治神宮大会とこの年の国民体育大会でも優勝し、史上唯一の「年間四冠」を成し遂げている。
④1969年(昭和44年)夏 第51回全国高等学校野球選手権大会 決勝戦
松山商(愛媛)×三沢(青森)
000 000 000 000 000 000=0
000 000 000 000 000 000=0
三沢
(延長18回)
「夏将軍」の異名をとる四国の名門・松山商と、東北の無名校・三沢という対照的な南北対決となった。
しかし三沢のエース・太田幸司は大会を代表する本格派で、その甘いマスクと共に人気沸騰、初代甲子園アイドルとして日本中に「コーちゃんフィーバー」を巻き起こしていた。
快速球の太田と、松山商の技巧派エース・井上明との息詰まる投手戦が続く。
延長15回裏、三沢は一死満塁というサヨナラの絶好のチャンスを迎える。
カウントは3-0まで行ったが、井上が踏ん張り3-2まで持って行って、ショートゴロに打ち取り絶体絶命のピンチを脱した。
結局、延長18回が終わっても0-0のまま決着がつかず、決勝戦初の引き分け再試合となった。
再試合では松山商が4-2で三沢を破り、4度目の夏制覇を成し遂げた。
三沢はあと一歩のところで東北勢初優勝を逃し、未だに東北勢の甲子園制覇は達成されていない。
⑤2006年(平成18年)夏 第88回全国高等学校野球選手権大会 決勝戦
000 000 100 000 000=1
000 000 100 000 000=1
(延長15回)
早稲田実の「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹と、駒大苫小牧の「マー君」こと田中将大という超人気者エースが激突し、全国が注目する対決となった。
2年前の夏は駒大苫小牧が北海道勢として初の甲子園制覇を達成し、前年夏は二年生の田中がエースとなって夏2連覇。
「北海道は弱い」という下馬評を覆し、1933年の中京商(現:中京大中京)以来の73年ぶりという夏3連覇を目指す駒大苫小牧に対し、春は王貞治を擁して優勝経験があるものの、夏は未だに優勝がないという早実が挑戦者となった。
田中と斎藤の投げ合いは一歩も譲らず、延長15回でも1-1で決着がつかずに史上二度目の決勝戦引き分け再試合となった。
駒大苫小牧の夏3連覇は夢と潰えた。
⑥1958年(昭和33年)夏 第40回全国高等学校野球選手権記念大会 準々決勝
徳島商(徳島)×魚津(富山)
000 000 000 000 000 000=0
000 000 000 000 000 000=0
魚津
(延長18回)
今やお笑いタレントとなっている板東英二も、かつては日本全国を涙の渦に巻き込んだ高校球児だった。
徳島商のエースとして甲子園に登場した板東は剛速球でバッタバッタと三振を奪い、準々決勝に進出。
対戦相手の魚津のエース・村椿輝雄は対照的な技巧派投手だった。
徳島商有利という下馬評の中、村椿は懸命に徳島商打線を抑え、板東とのガップリ四つの投げ合いとなる。
しかし、延長18回で0-0のまま決着がつかず、引き分け再試合。
延長18回で打ち切りの規定はこの大会から採用されたが、そのきっかけを作ったのは他ならぬ板東だった。
4ヵ月前の春季四国大会で板東が延長16回および延長25回を投げ切ったため、事態を重く見た日本高校野球連盟が延長18回で打ち切りという規定を作ったのである(現在は延長15回打ち切り)。
新ルール制定後、その適用第1号が板東となったのだ。
試合終了後、宿舎に帰ってへたり込んだ村椿に対し、板東は報道陣に向かって「いやー、みなさん。お疲れ様でした」と愛想を振りまいた。
このあたり、当時から芸人としての素養があったと思えるが、この時点で翌日の結果は決まっていたのだろう。
再試合では魚津は村椿の先発を回避、一方の板東はまた完投して、3-1で徳島商が準決勝に進出した。
徳島商は決勝戦で柳井に0-7で敗れ準優勝に終わったものの、板東がこの大会で記録した83奪三振は未だに甲子園のレコードとして残っている。
⑦1978年(昭和53年)夏 第60回全国高等学校野球選手権記念大会 決勝戦
PL学園(大阪)×高知商(高知)
002 000 000=2
000 000 003x=3
PL学園
過去2度の夏準優勝経験があるPLにとって、甲子園制覇は悲願だった。
前日の準決勝での中京(現:中京大中京)戦、9回表まで0-4と劣勢でまたもや悲願ならずと思われたが、9回裏に4点を奪って同点に追い付き、延長12回でサヨナラ勝ちという奇跡を起こした。
南海ホークスの名監督だった鶴岡一人を父に持つPL監督の鶴岡泰(現姓:山本)は「こんな試合を一生に一度でも味わえただけで幸せだ」と語っていたが、まさか二日続けて「こんな試合」を味わえるとは思っていなかっただろう。
高知商の二年生左腕・森浩二に全く手も足も出なかったPLは0-2とリードを許し、9回裏の最後の攻撃を迎えた。
しかし、好投を続けていた森から1点を返し、なおも二死二塁と一打同点のチャンスでPLの四番でエースの西田真次(現:真二)が一塁線を破る二塁打を放ち同点に成功。
そして五番・柳川明弘の左越え二塁打で西田が生還、2試合続けての逆転サヨナラ勝ちで悲願の甲子園初制覇を成し遂げた。
この年以来、PLは「逆転のPL」「奇跡のPL」と呼ばれるようになる。
⑧1989年(平成元年)春 第61回選抜高等学校野球大会 決勝戦
東邦(愛知)×上宮(大阪)
上宮
000 010 000 1=2
000 010 000 2x=3
東邦
(延長10回)
かつて3回のセンバツ優勝を誇り「春の東邦」の異名をとる愛知の古豪・東邦と、近年力を付けてきて甲子園初制覇を狙う大阪の新強豪・上宮の激突。
前回準優勝の東邦は前年からの左腕エース・山田喜久夫を擁し、上宮は元木大介、種田仁を中心とした打線が売り物だった。
一進一退の攻防となった決勝戦は1-1のまま延長戦に突入、延長10回に上宮が1点を奪って優勝に王手をかけた。
10回裏の東邦は先頭打者が出塁するも、強攻策が裏目に出て併殺、一気に二死無走者となる。
後がなくなった東邦は何とか粘って二死一、二塁と最後の望みを託した。
ここで三番の原浩高が中前安打、センターからいい送球が返ってきたが、二塁走者の山中竜美がタッチを上手くかいくぐり、東邦は土壇場で同点に追い付く。
しかし、本当のドラマはここからの十数秒間に起こった。
打者走者の原は二塁を狙ったものの、一塁走者の高木幸雄は二塁に止まったままで、二人の走者が二塁付近で立ち往生となる。
しめたとばかりに上宮の捕手・塩路厚が三塁手の種田へ送球、さらに種田は二塁へ送球するがワンバウンドとなり、ボールは右翼方向へ。
しかも、悪送球に備えてカバーに入った右翼手の岩崎勝己をあざ笑うかのようにイレギュラーバウンドして、白球は無人の野を転がった。
サードを廻った高木がホームプレート踏んだ瞬間、東邦にとって同県のライバル・中京(現:中京大中京)と並ぶ4度目のセンバツ制覇が決まった。
ホーム付近で喜びを爆発させる東邦ナインに対し、守備位置でうずくまったまま動けなくなった上宮ナインとのコントラストが、勝負の無情さを物語っていた。
⑨1978年(昭和53年)春 第50回記念選抜高等学校野球大会 一回戦
前橋(群馬)×比叡山(滋賀)
000 000 000=0
000 100 00X=1
前橋
進学校ながらセンバツ出場した前橋は、大会前の下馬評は高くなかったが、この一戦後に日本中が注目する高校となった。
球が速いわけでもなく、全くノーマークの投手だったのに、ひょうひょうと投げ抜いて打者27人を手玉に取り、投球数は僅か78球での偉業達成だった。
私事で恐縮だが、当時小学生だった筆者は偶然にもこの試合をスコアブックに付けており、松本が1イニングを3人で片付けるごとに興奮していたのを憶えている。
なぜ注目もされていなかったこの試合を、スコアブックに付けよう思ったのか全くわからない。
ただ、スコアを付けるのにこれほど楽だった試合はなかった。
一躍時の人となった松本だったが、騒がれ過ぎたのが祟ったのか、二回戦では福井商に0-14という大敗を喫している。
その後、春のセンバツでは1994年(平成6年)に金沢の中野真博が江の川(現:石見智翠館)相手に完全試合を達成しているが、夏の甲子園では未だに記録されていない。
⑩1983年(昭和58年)夏 第65回全国高等学校野球選手権記念大会 準決勝
PL学園(大阪)×池田(徳島)
池田
000 000 000=0
041 100 10X=7
PL学園
普通、名勝負というのは1点を争う大接戦の試合だが、この一戦に関しては違う。
大差の試合ながら、歴史を塗り替えたという点でこの試合を入れてみた。
打って打って打ちまくる「やまびこ打線」で「高校野球を変えた」と言われた池田は、前年夏、この年のセンバツと夏春連覇を達成し、史上初の夏春夏3連覇を目指して夏の甲子園に乗り込んだ。
予想通り池田は圧倒的な強さで勝ち進み、「事実上の決勝戦」と言われた準々決勝で中京(現:中京大中京)を破った時は、史上初の3連覇を疑う者はいなかった。
準決勝の相手・PL学園は前年春に優勝したものの、この年は三年生に軸となる選手がおらず、大阪大会を勝ち抜くことさえ危ぶまれていたのである。
そこでPLはやむなく一年生の桑田真澄をエース、そしてやはり一年生の清原和博を四番打者に起用して何とか甲子園に出場したが「エースと四番を一年生に頼るようでは、池田に勝てっこない」と思われていた。
ところが蓋を開けてみると、剛球で他校の強打者を寄せ付けなかった池田のエース・水野雄仁から、桑田がレフトへ超特大の2ランを放ち、甲子園の大観衆の度肝を抜いた。
某公共放送の番組風に言えば「その時、歴史が動いた」瞬間である。
その後もPL打線は水野を攻略し、投げては一年生の桑田が、豪打を欲しいままにしていた池田の「やまびこ打線」を見事にシャットアウト。
一年生中心のPLが、強豪校が束になってかかっても敵わなかった池田に7-0で圧勝した。
PLは決勝戦でも横浜商を3-0で下し2度目の夏制覇、池田時代(やまびこ時代)からPL時代(KK時代)へと甲子園の主役が転換したのである。
以上、ベストテンを選んでみた。
もちろん、このベストテンには異論があるだろうし「なぜ、あの試合が入っていない!?」と憤慨する人も多いだろうが、ここは最初に述べたように筆者の独断と偏見なので許されたい。
いずれにしても、春夏合わせて182大会もの中から10試合を選び出すのは苦労した。
みなさんも、自分の心の中に残る名勝負ベストテンを作成してみてはいかがだろうか。