日本高等学校野球連盟(高野連)が、高校野球でタイブレーク方式を採用するか否か検討する、というニュースが報じられた。
この件について、賛否両論が渦巻いている。
タイブレーク方式と言っても色々なルールがあるが、簡単に説明すると延長戦になるといつ決着がつくかわからないので、例えば延長10回からは一死満塁から攻撃を始めて点を入りやすくするようにして、延長戦を長引かせないようにする、という制度である。
高校野球でのタイブレーク方式導入賛成派は、この制度によって投手の酷使が防げる、というのを理由に挙げているようだ。
だが、本当にタイブレーク方式で投手の酷使を防げるのだろうか。
延長戦になったらタイブレーク方式になるのだから、監督ならエースをなるべく降板させないように続投を強いるだろう。
何しろ大ピンチからの投球となるのだから、エース以外の投手では荷が重すぎる。
もちろん、エースを温存しておくとその前に負ける可能性が高くなるのだから、却ってエースの連投となるのではないか。
それに、タイブレークで一旦点が入ると、雪崩現象のように攻撃が続く可能性が非常に高い。
特に、精神的にまだ未熟な高校生だとその傾向は顕著だろう。
そうなると、投手は却って球数を投げるようなハメになる。
ハッキリ言って、タイブレーク方式が投手の酷使をなくすというのは幻想に過ぎない。
そもそも、タイブレーク方式は野球の本質からかけ離れているものだ。
サッカーのような時間制で、しかも点が入りにくいスポーツなら延長戦で決着するのは難しいだろうし、そのためにノックアウト式トーナメントではPK戦が導入されているのだが、それでも「PK戦はサッカーの本質とはかけ離れている」と批判を浴びている。
サッカーの場合はPK戦もやむを得ないと思えるが、翻って野球はどうか。
野球はサッカーほど点が入りにくくないし、何よりも時間制ではなくイニング制だ。
変な言い方になるが、野球は延長戦をやりやすいようにできているスポーツなのである。
9回を終わって同点の場合、決着がつくまで表と裏の攻撃を平等に行って勝敗を決める、それが野球だ。
それがタイブレーク方式を採用すると、例えば共に一死満塁から攻撃を始めるとなると一見平等のようにも思えるが、先攻と後攻では全く状況が変わる。
先攻は一気に大量点を取ればほぼ勝ちを手中にするが、点を取れなければ後攻はセコく1点を取りに来るだろう。
サッカーのPK戦ほどではないにせよ、運が大きく関わってくるのだ。
せっかく延長戦をやりやすいスポーツなのに、タイブレーク方式など全くのナンセンスである。
それでも、北京オリンピックやワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではタイブレーク方式を採用しているし、国際化のためにもタイブレーク方式を採用すべきでは?という意見もある。
しかし、元々タイブレークは国際的なルールではなく、日本の社会人野球が始めた制度なのだ。
社会人野球でタイブレーク方式を始めたのは、試合が長引くと応援団が帰れなくなるため、ただそれだけの理由である。
野球の本質云々は全く関係がない。
以前の社会人野球では、金属バットが認められていたため派手な打ち合いとなり、延長戦になってもすぐに決着がつくことが多かった。
だが、金属バットが禁止されて木製バットを使用すると点が入りにくくなり、延長戦になると応援団が帰る予定が立てられなくなるため、やむを得ず導入した制度だ。
それを北京オリンピックやWBCで採用したわけだが、その理由として延長戦が長引くとテレビ中継に収まらなくなる可能性があるからである。
ただそれだけの理由で「タイブレーク方式は国際的なルールだ」と主張するのはいかがなものか。
実際、北京オリンピックではタイブレーク方式が採用されたものの、野球はオリンピック競技から外されている。
つまり、野球がオリンピック競技から外されたのは、延長戦が長引くという理由は全く関係がなかったのだ。
さらに、WBCでタイブレーク方式が採用されたのも、要するにメジャー・リーグ(MLB)のやる気のなさを証明するものだ。
WBCはMLB主導で行われているが、やる気がないからこそタイブレーク方式をアッサリ容認したのである。
タイブレーク方式が国際的なルールだというのも幻想で、MLBはレギュラーシーズン、ポストシーズンともタイブレーク方式など採用しないと断言してもいい。
なぜなら、タイブレーク方式はベースボールの本質からかけ離れているからだ。
野球を国際的なスポーツにするためには、試合中のダラダラとした作戦会議やサイン交換、投手や打者がいちいちプレートやボックスを離れるような遅延行為を改めることが先であって、タイブレーク方式など小手先の制度でどうこうなるものではない。
「では、投手の酷使問題はこのままでいいのか」という人もいるだろう。
もちろん、このままでいいわけがない。
すると、1試合の球数を制限するべきだ、という意見が必ず聞かれる。
だが、これをルール化するのも良くない。
なぜなら、強豪校ならそれでもいいが、無名校はそれでは大会に参加できないからだ。
そうなると、ただでさえ少子化なのに野球の底辺は狭まるばかりである。
高校野球の素晴らしさは、甲子園や全国優勝を狙う選手も、素質や環境には恵まれない選手でも同じ土俵で、同じ目標に向かって挑戦できることだ。
これこそが他国にはない、日本の野球文化である。
高校野球の底辺の広さが、日本の高い野球レベルを支えているのだ。
1984年、ロサンゼルス・オリンピックで野球が公開競技になり、その後は正式種目になって北京までの全てのオリンピック、さらに3回開かれたWBCで計10回、全ての大会でベスト4に進出したのは日本だけである。
野球の母国アメリカも、アマチュア最強のキューバも、アジアのライバル韓国や台湾も、その他中南米の野球強国も、全ての大会で地区予選を勝ち抜くことすら難しいのだ。
そんな中で、日本は全ての大会で過酷なアジア予選を勝ち抜き、全ての本大会でベスト4に進出しているのである。
その原点となっているのは、紛れもなく高校野球だ。
日本野球の強さの秘密は、何よりも投手力にあり、それは高校時代の甲子園を目標としたレベルの高い一発勝負で鍛えられている。
コントロールの良さや変化球を駆使した投球術はもちろん、現在ではトレーニングも進歩したので速球でも他国に引けを取らない。
さらに、投手の守備力は特筆すべきものだ。
投手以外でも、野手の連係プレーは高校時代に基本を叩き込まれているので、異なるチームの選手が集まる日本代表でも、一回の練習でバシッと決まる。
このディフェンス面でのレベルの高さが、パワーや体格で劣る日本が安定した成績を国際舞台で残している要因なのだ。
そして、プロや日本代表で活躍する選手には、高校時代は全くの無名だった選手も少なからずいるのである。
その代表が、野茂英雄だろう。
何かと批判を浴びる高野連とて、投手の酷使に手をこまねいていたわけではない。
数年前からは甲子園での準々決勝を2回に分けて投手が連投しないように工夫をしたし、去年の夏の甲子園からは一歩進んで準々決勝と準決勝の間に1日休養日を設けた。
さらに、投手に対してはメディカルチェックも行っている。
しかし、これをもう一歩進めて欲しいのだ。
例えば、夏の大会では10日目と11日目に3回戦(ベスト16)が行われるが、準々決勝を以前のように2日に分けて10日目に戦った高校を12日目、11日目に戦った高校を13日目に試合させるようにする。
これで1日休養ができるわけだ。
さらに準々決勝と準決勝の間に1日、そして準決勝と決勝の間に1日、それぞれ休養日を設ければ、投手の連投はなくなる。
今年のセンバツでは、雨天順延の影響で準々決勝後の休養日がなくなったが、雨天順延に関係なく休養日は厳守すべきだ。
そうなると、大会日程が延びて「死のロード」を旅する阪神タイガースに負担を強いることになるが、今では京セラドーム大阪やほっともっとフィールド神戸を使えるので、そちらを使用してもらいたい。
そもそも甲子園球場はタイガースのためではなく高校野球(完成した当時は中等野球)のために建てられた球場だし、タイガースはホームゲーム72試合のうち甲子園で行うのは60試合と決められているので、残り12試合のうち8月のゲームを京セラドーム大阪やほっともっとフィールド神戸で行うのは造作のないことだ。
そして、以前から筆者が何度も言っている、サスペンデッド・ゲーム制度を採用するべきである。
サスペンデッド・ゲームとは、延長戦に期限を設けて、それでも決着がつかなければ後日改めて延長戦の続きを行うという制度だ。
現在の高校野球では、延長15回を終わると引き分けになり、翌日に再試合となる。
以前は延長18回で打ち切り、翌日に再試合という制度だったが、1998年夏の横浜×PL学園が延長17回の死闘となって、以降は延長15回に短縮された。
だが、延長戦が18回から15回に短縮されるということは、再試合の可能性が増えるということであって、実際にこの制度に改められた後は引き分け再試合が激増した。
つまり、延長15回の翌日にはまた最低9イニングも戦わなければならなくなったので、却って選手の負担が増えたのである。
こんな改悪的な制度は即刻やめて、サスペンデッド・ゲームを採用すべきだ。
そうすれば、延長15回を戦った後でも場合によっては1イニングで済むかも知れないのである。
少なくとも、最低9イニングも戦う必要はない。
こんな単純な制度を採用しないのが不思議なぐらいだ。
ハッキリ言って、タイブレーク方式よりも遥かにいい。
その他でも、高校野球改革案ではよく「甲子園のみで高校野球を開催するのではなく、他の球場にも分散するべきだ」などという意見があるが、本末転倒も甚だしい。
球場を分散して試合日程が縮まれば、試合間隔が短くなるではないか。
現在の夏の甲子園なら、第1日を勝った高校は二回戦は第7日、即ち中5日の休養が与えられる。
球場を分散すれば、却って過密日程になるのは自明の理だ。
ただし、地方大会に関してはもう少し開幕日を早めて、日程には余裕を持ってもらいたい。
梅雨の影響もあるだろうが、最近では球場の質やグラウンド整備も進歩しているので、余裕ある日程が組めるはずだ。
そして、メディカルチェックも毎試合の前に行うようにして、異常がある投手には登板させないという断固たる処置を取ってもらいたい。
工夫次第では、投手の酷使を守ることができるのである。
その工夫も考えずに、タイブレークだの投球制限だの小手先なことをすぐに言い出すのは、要するに知恵がないのか、野球を知らないだけだ。
その知恵のなさを自称”進歩的な”ライターは自覚せず、小手先のことばかり言うのである。
困ったことに、自称”進歩的な”ライターが書くことはもっともらしいので、多くの純真無垢な読者は信じ込んでしまうのだが――。
投手の酷使を防止するために必要なのは、小手先の制度改革ではなく、むしろ指導者の意識改革だ。
例えば、プロ野球ではかつて「権藤、権藤、雨、権藤」などと謳われて酷使された権藤博や、「神様、仏様」と並び称されて鉄腕と言われながら短命に終わった稲尾和久などの投手がいたが、現在では中6日のローテーションがキッチリ守られ、先発―中継ぎ―抑えの分業制が確立されている。
だからと言って、プロ野球で球数制限や登板回数制限がルール化されたわけではない。
投手を酷使しない方が、投手にとってもチームにとっても有益だということがわかったので、自制が働いたのだ。
それに比べると、高校野球でも複数投手制を採る高校が増えたとはいえ、まだ浸透しきれていないような気がする。
高校野球が一発勝負のノックアウト式トーナメントだということも影響しているが、やはり指導者にはエースに頼り切る意識が抜けていないのが原因と思われる。
確かに一発勝負でエース以外の投手を投げさせるのには勇気がいるが、それが成功した時には何倍ものメリットがあることを指導者には知って欲しいのだ。
エース以外の投手がナイスピッチングすれば、その投手は大きな自信を付けるし、その後の戦いでもエースの負担が減って有利な試合プランが立てられる。
それが失敗しても、その時は後悔するだろうが、それだって素晴らしい経験となるのだ。
だが、残念ながら一筋縄でいかない連中もいる。
それが後援会とかOB会という組織だ。
名門校であればあるほど、こういう組織のプレッシャーが強く、甲子園出場や全国制覇を義務付ける傾向にある。
しかし、監督の采配ごときで甲子園出場や全国制覇を成し遂げられるほど、高校野球は甘くはない。
そんな根本的なことがわかっていない後援会やOB会がやいのやいのというから、選手達が犠牲になるのだ。
やれ監督の采配がなってないだの、やれウチの息子をレギュラーとして使わないのはなぜかだの、何をかいわんやである。
もちろん、後援会やOB会の協力は必要だが、明らかな越権行為は却って害だ。
だから監督や指導者は、無責任な連中の意見など断ち切って、選手達を指導してもらいたい。
甲子園出場や全国制覇に向かって努力することは素晴らしいことだが、それが全てではないこともまた確かである。
というよりも、それ以上に素晴らしいことを選手達に味あわせるのが指導者の務めだ。
選手達には、みんな将来がある。
場合によっては、故障している選手は絶対に使わない勇気も必要だ。
気の強い投手は腕に痛みがあっても「投げさせてください」と直訴するだろう。
そこで、キッパリと「ダメだ」と言い切る勇気が指導者には問われる。
たとえ負けても、将来ある選手を守る勇気の方がずっと素晴らしい。
甲子園で投球制限のルールを設けても、練習で過剰な投げ込みをしていたら、規制の意味などない。
ノースロー期間を設けることも、指導者の役目だろう。
過去に「甲子園での投げ過ぎで大成しなかった」と言われる投手がいたが、むしろ多かったのは甲子園での投げ過ぎではなく、その後の招待試合での投げ過ぎだ。
特に、二年生時の甲子園や三年生時のセンバツで活躍した投手は、春の招待試合で引っ張りダコになるケースが多い。
ここで「顔見世だから」とばかりに、登板過多になったりするのだ。
こういう時、監督は「みんなお前を見に来たんだから、登板しなければ相手にも客にも失礼だ」という理由でエースに登板を促したりする。
最近ではこういうケースも少ないだろうが、もしそういう場面があったとしても監督は勇気を持ってエースの登板過多をやめさせ、むしろ二番手投手を育成するぐらいの気持ちで招待試合を利用して欲しいものだ。
これは決して「相手に失礼なこと」ではない。
もちろん、招待試合ではなくても練習試合でも同じことである。
一番の問題は、甲子園という短期間の酷使ではなく、勤続疲労の方だ。
短期間の酷使よりも、1年単位の酷使の方が遥かに故障しやすいのである。
アメリカ野球信望の自称”進歩的”ライターは、投球数を制限するMLBの投手起用を絶賛するが、実際には肩や肘を故障する投手が後を絶たない。
ところが、田中将大が長期離脱すると「それ見たことか!甲子園での投げ過ぎが原因なんだよ」などとのたまう。
おいおい、マー君の高校時代は8年前だよ?
それよりも、甲子園など経験していないはずのアメリカ人投手が故障している方が問題だろう。
投手の酷使に過敏なはずのアメリカ球界が、中4日のローテーションに疑問符が付けられたのである。
特に最近目立つのは、「投手の酷使はケシカラン」という論理に乗じた高校野球批判である。
それがタイブレーク方式を導入する主張であり、投手の投球数制限主張だ。
これらを主張する自称”進歩的”ライターの共通点はただ一つ。
アンチ高校野球である。
もっと言えば、アンチ高野連である。
別に高野連の肩を持つつもりはないし、問題もあると思うが、それでも高校野球の指導者によれば、高野連ほど選手達を守ってくれる組織はないという。
予算が少ない高校野球部でも、僅かな参加費で甲子園を目指す大会に出場できるのは大きな魅力だ。
全国高等学校体育連盟(高体連)が主催する他のスポーツ部の大会では、参加費が大きな負担になるらしい。
だが、そういうことを報じるマスコミはない。
ある記者から聞いた話だが、高野連ほどしっかりした組織はないのだそうだ。
選手に関する個人情報は絶対に漏らさないし、選手を守る意識は徹底している。
最近の、営利目的で個人情報を売る組織とは大違いだ。
選手が辛い目に遭ったとすると、真っ先に庇うのが高野連だという。
たとえば、夏の全国大会を、酷暑の阪神地方で真昼間に行うのは虐殺以外の何物でもない、という極論がある。
このことは自称”進歩的”ライターが何度も言ってきたことだし、それ故に信憑性があって、最近ではとあるお笑い兼世界的映画監督も提唱している。
お笑い兼世界的映画監督がそう言うのは素人なので仕方がないが、自称”進歩的”ライターが言うのは明らかに問題だ。
中には「夏に全国大会を行う必要はなく、秋に開催すればいい」なんて言うライターもいる。
おいおい、秋には「明治神宮大会 高校の部」という名の全国規模の大会が行われているのを知らないのかよ。
こんな無知なライターが書くことなど、無視した方がいい。
甲子園は別格という意識があるのかも知れないが、全国大会を真夏の昼間に行うのは虐殺だ、などというのなら、その期間に行う猛練習はどう説明するのか。
仮に全国大会を秋に行ったり、あるいは夏に行うにしてもナイターだったりするのであれば、それ以外は規制しないのだろうか?
普通の高校の野球部であれば、夏休みになれば毎日のように真昼間に練習を行うだろうし、高校によっては夏合宿もある。
そんな高校がナイター練習のみを行って昼間は寝ているとは考えにくいし、昼間だとしてもドーム球場で練習をしているとは思えない。
野球の経験者ならわかるだろうが、試合と練習では、どちらがキツいだろうか?
間違いなく、練習の方が苦しいに違いない。
高野連が選手の体調を考えて夏の甲子園を廃止するなら、真夏の練習は全て禁止にしなければならないだろう。
でも、そんなことが可能だろうか?
そもそも、野球は夏のスポーツだ。
アメリカでベースボールが誕生した時からの、不変の真理である。
そして、野球は太陽の下でやるスポーツだ。
だが、興行面の事情があって、ナイトゲームが行われるようになったのである。
実際に、ファームでは真夏にもかかわらずデーゲームを行っている。
これを「虐殺だ」と批判するメディアはない。
そもそも、ファームとはいえシニアレベルで真夏の昼間でも試合を行うのに、高校時代に「虐殺だ」と言って試合を行わなければ、真夏の太陽に打ち勝てない選手を生み出すだけではないか?
実際に、北京オリンピックで日本代表がメダルを獲れなかったのは、ナイターに慣れたプロ野球の一流選手が、真夏のデーゲームに負けてしまったのが原因と筆者は思っている。
それでも、高校生に真夏の試合を強要するべきではない、という人もいるだろう。
では、全国高等学校総合体育大会(高校総体=インターハイ)でのサッカー競技をどう説明するのだろうか。
今年の高校総体での男子サッカー競技は、8月2日から8月8日まで行われる。
この僅か7日間の間に、決勝進出すれば6試合もしなければならないのだ。
つまり、8月2日から4日まで3試合を行い、1日休みがあって6日から8日まで準々決勝、準決勝、決勝を行う。
行われるのは盆地の山梨県で、甲子園に勝るとも劣らぬ猛暑であることは間違いない。
野球より遥かに激しいスポーツであるサッカーで、真夏の酷暑の中7日間で6試合である。
だが、この狂った日程とも思える高校総体でのサッカー競技を批判する記事を見たことがない(サッカーライターなら書いているかも知れないが)。
自称”進歩的”ライターなら、真っ先に高校総体でのサッカー競技の「虐殺」を批判するべきだろう。
ちなみに、夏の甲子園ではそれより遥かに日程が緩やかな、15日間中で6試合である。
なぜ、真夏の高校野球は批判されて、それより遥かに過酷な高校サッカーは批判されないのだろうか。
まさか、スポーツライターと名乗りながら、この事実を知らないわけではあるまいね?
そうだとすれば、スポーツライターとしては大恥である。
あるいは「もちろん知ってるよ」などとのたまうのならば、要するに高校野球(高野連)批判をするとメシの種になるという、あさましい根性のなせる業だろう。
ハッキリ言って、これが自称”進歩的”ライターの正体である。
ちょっと話は逸れてしまったが、タイブレーク方式が投手の酷使を守るというのも、それが国際化に繋がるというのも、全くの幻想である。
いい加減なことをのたまう連中に左右される必要はない。
むしろ、そんな小手先のことではなく、本質的な意識改革が必要だろう。