東京ドラゴンズ
東京ドラゴンズ(1969年)~消滅
第二次世界大戦が終わって24年経った1969年(昭和44年)、日本は高度成長期の真っ只中だった。
5年前には東海道新幹線が開通、そして東京オリンピックを成功させ、この年の翌年には大阪万国博覧会が開催されることになる。
この年の夏、アメリカが打ち上げたアポロ11号が月に到着、人類は史上初めて地球以外の天体に足を踏み入れた。
日本のプロ野球では読売ジャイアンツが黄金期を迎え、この年に5年連続日本一を果たすことになる(その後、9連覇まで記録を伸ばす)。
12球団制が確立し、文字通りプロ野球ブームに沸いた反面、黒い霧事件が勃発した。
それでも「巨人、大鵬、卵焼き」と謳われた如く、王貞治、長島茂雄のON砲が火を噴いて読売ジャイアンツが安泰ならプロ野球は未来永劫不滅である、そう信じられていた時代だった。
しかしその前年、長島と同期ながらひっそりと引退した選手がいた。
中日ドラゴンズなどで活躍した森徹である。
森は会社を設立し、第二の人生を歩もうとしていたが、そんな森の元に一本の電話がかかって来た。
「日本チームの一員としてもう一度、野球をやらないか」
と。
電話の主は、日本プロ野球でも活躍した日系人の「カイザー」こと田中義雄だった。
東京オリオンズ時代は首脳陣と反りが合わず引退した森だったが、まだ33歳と若く、持病の腰痛も癒えた森にとって魅力的な話だった。
森はカイザー田中の誘いに乗り、日本チームに参加することとなる。
そればかりか、早稲田大時代は立教大の長島と人気を二分するスターで、プロ野球でもホームラン王に輝いたことのある森の知名度が買われて、監督兼選手に推された。
森が参加した日本チームとはどんなものなのか。
アメリカではメジャー・リーグ(MLB)が、1901年(明治34年)からナショナル・リーグ8球団、アメリカン・リーグ8球団の16球団制でずっと続いていたが、1961年(昭和36年)に初めてエクスパンション(球団拡張)が行われ、ア・リーグが2球団増えて18球団制になった。
森が日本チームに参加した1969年(昭和44年)にはナ、ア両リーグとも12球団の24球団制となり、MLBは二大リーグ制を確固たるものにしていたのである。
そんなMLBに待ったをかけ、「第三のメジャー・リーグ」として名乗りを挙げたのがグローバル・リーグだった。
グローバル・リーグ、即ち「地球リーグ」であり、ナショナル・リーグ(国リーグ)やアメリカン・リーグ(米国リーグ)よりも、名前の上では遥かにスケールが大きい。
実はそれまでにも「第三のメジャー・リーグ」を目指した組織はあり、1914年(大正3年)に発足したフェデラル・リーグがそうだ。
しかし、MLBの牙城は崩せず僅か2年で解散したが、現在では一応メジャー・リーグとして認められている。
他にも、1960年前後にコンチネンタル・リーグという「第三のメジャー・リーグ」を設立しようとする機運が高まったが、結局はMLBのエクスパンション政策によって立ち消えとなった。
ただ、これらのリーグはあくまでもアメリカ国内に留まったが、グローバル・リーグはその名の通り世界的な規模で行うという壮大な計画だった。
発起人はアメリカで不動産業を営んでいるウォルター・ディルベックで、白人、黒人、黄色人、インディアンなどあらゆる人々が垣根を越えて、人種差別をなくした世界的な野球リーグを作る、という理念の元に発足したのである。
初年度に参加するのはアメリカから2チーム、他には日本、プエルトリコ、ベネズエラ、ドミニカ共和国の5ヵ国6チームで、軌道に乗れば他の中南米諸国やカナダ、フィリピン、台湾にも球団を創設する予定だという。
日本チームの監督に就任した森は希望者を募って入団テストを行い、プロ・アマを問わず様々な選手達が参加した。
プロ経験者は実力がないから退団した選手ではなく、首脳陣と衝突して志半ばで野球を諦めた選手がほとんどだった。
もちろん、社会人出身の中にも有望な若手選手が大勢おり、森の目に留まって合格した者もいる。
ならず者集団のように思われたが、その実力は決して「落ちこぼれ軍団」ではなく、思ったより好選手が集まったので森は満足した。
夏以降には日本でも公式戦を行う計画があり、プロ野球との軋轢を生むのではないかと心配されたが、意外にもプロ野球関係者の反応は暖かいものだった。
1961年(昭和36年)に起きた柳川事件(プロ野球の中日ドラゴンズが社会人野球の日本生命の柳川福三を強引に引き抜いた事件)によってプロとアマが断絶状態になり、社会人野球が元プロ選手を受け入れなくなっため、プロ退団選手の受け皿としてグローバル・リーグが期待されたのだ。
3月にはチームが結成され、順風満帆に思えたが、問題はディルベックがなかなか旅費や給与を振り込まないことだった。
そもそも、ディルベックは大富豪という触れ込みだったが、その実態を知っている者は誰もおらず、ひょっとしたら詐欺に遭ったのではと考えて、契約通りの金が支払わなければリーグ脱退も辞さない、と森は通告した。
交渉は難航したが、キャンプ予定日ギリギリで契約通りではないとはいえ渡航可能な金が振り込まれ、何よりもグローバル・リーグを成功させたい森は妥協し、アメリカ・フロリダ州で行われる6球団合同のキャンプに参加することにしたのである。
チーム名は、参加選手の発案で東京ドラゴンズとした。
ドラゴンズとはもちろん、森が全盛期にプレーした中日ドラゴンズから取ったものである。
グローバル・リーグ初年度の参加チームは以下の通り。
東京ドラゴンズ(日本)
ドミニカ・シャークス(ドミニカ共和国)
3月の終わりに東京ドラゴンズはようやく日本を発った。
当時の為替レートは固定相場制の1ドル=360円で、海外旅行はまだまだ高嶺の花だった時代である。
フロリダでキャンプを開始した東京ドラゴンズの連中は、他国の練習を見て「まるで草野球だな」と、粗雑なプレーに呆れていた。
ところが、練習試合を行うとパワーがまるで違う。
また、練習ではいい加減と思えた外国人選手達は、試合になると考えられない集中力を発揮して東京ドラゴンズを圧倒した。
それに、他国のチームにはケンカが三度のメシより好きな荒くれ者が揃っていたので、森はナメられないように練習では柔道、合気道、空手、相撲などを取り入れたのである。
森自身が筋骨隆々、柔道や合気道の有段者なので、格闘技を練習に取り入れたのだろう。
何しろ森と言えば、プロレスラーの力道山が後見人になっていたくらいだ。
森の母親は、朝鮮からやって来た力道山の面倒を見ていたため、傍若無人な力道山にとって唯一頭が上がらなかったのが森の母親と言われている。
野球場で格闘技の練習をして外国人をビビらせるというのは、いかにも森らしい発想だった。
キャンプを終え、グローバル・リーグの各球団はベネズエラやドミニカ共和国に移動した。
4月24日、東京ドラゴンズはベネズエラの首都・カラカスで地元のベネズエラ・オイラーズと開幕戦を行う。
観客は2万5千人を集めるほどの盛況だった。
東京ドラゴンズは悪役とはいえ、ベネズエラ人にとって初めて見る東洋人の野球である。
物珍しさも手伝って、ヤジを飛ばしながら東京ドラゴンズのプレーを見守った。
ただし、ここでは「東京ドラゴンズ」というチーム名ではなくハポン・デ・トキオ(日本の東京)という味気ないものだったが……。
グローバル・リーグは人気獲得のため、様々な試みを行った。
その一つが、DH制(指名打者制)の導入である。
MLBのア・リーグがDH制を採用したのは1973年(昭和48年)なので、それよりも4年も早かったわけだ(日本のパシフィック・リーグが採用したのは1975年)。
しかも、先発ラインアップで指名打者を2名まで認めたのである。
つまり、投手以外での指名打者も認めたということになり、DH制というよりもソフトボールのDP制(指名選手制)に近いかも知れない。
そもそも、当時はまだDH制のルールが整備されていなかったので、実験的なルールを採用しやすかった。
何しろ、DH制だけではなく「指名代走制」まで導入したぐらいである。
即ち、足の遅い打者が出塁したら、ベンチにいる俊足の選手を代わりに塁に立たせてもよい、という制度だ。
ラテン人にとって日本人のプレーは、オリエンタル・ムードに包まれてミステリアスなものだったのだろう。
練習試合では圧倒された東京ドラゴンズも、相手の弱点がわかると互角以上の戦いを見せ、白星を重ねていった。
サムライ魂で大男たちに立ち向かうハポネスのプレーぶりに、また悪役人気が上がる、といった具合である。
さらに主催者は、試合を盛り上げるために乱闘を盛り込んでくれ、と両チームに頼み込んだ。
早い話が、プロレスのようにショーとして演出された乱闘である。
ところが、日本では荒くれ者だった東京ドラゴンズの選手達は、キャンプで鍛えた格闘技の練習も手伝って血の気が多く、些細なプレーを巡ってベネズエラの大男たちとガチの乱闘になってしまった。
ならず者集団にとって、乱闘の演出など何の意味もなかったのである。
ベネズエラでは多くの観客を集めた東京ドラゴンズだったが、他国のチームはそうでもなかった。
ドミニカ共和国でのドミニカ・シャークスとニュージャージー・タイタンズの試合では観客が1000人も入らなかったという。
何よりも、グローバル・リーグがMLBから全く協力を得られなかったのが痛かった。
MLBからドン・ドライスデールやサンディ・コーファックスなどのスター選手を引き抜こうとしたために、MLB側が激怒したのである。
スポンサーも次々と撤退し、グローバル・リーグの資金繰りは早くも苦境に陥った。
給料の遅配も当たり前のようになった。
森がディルベックと交渉しようとしても、金策に走り回っているとかでなかなか捕まらない。
ディルベックも決して騙そうとしているわけではなく、悪徳興行師による詐欺に遭ったらしい。
ある試合では、興行師が入場料をネコババしているのがわかったので、森は試合開始前に入場ゲートまで行って入場料を強奪し、試合後に相手チームと山分けした。
相手チームも給料を貰ってなかったので大喜びである。
こんな状態ではもはやグローバル・リーグも終わりかと思われたが、ディルベックは巨大な宗教団体であるバプテスト教会がスポンサーに付くと言ってリーグの存続を訴えた。
さらに森に対しては、夏には日本で興行を行いたいので、日本に帰って球場を押さえるように要請する。
日本なら人気を博すだろうから、興行収入も確保できるだろう、というわけだ。
やむなく森は日本に戻り、球場確保と金策に走り回った。
しかし、ベネズエラに取り残された東京ドラゴンズの状態は悪化の一途を辿り、約束の給料も支払われず、ホテルに軟禁状態となった。
他国のチームではグローバル・リーグに見切りをつけた選手達が続出し、試合も行えない。
何よりも、食う金もなかった。
金を稼ごうにも、ビザの関係で皿洗いのバイトすらできない。
やむなく選手達は、身に着けた高価な腕時計やアクセサリーを質屋に預けて飢えをしのいでいた。
また野球ができると思ってはるばる中米まで来たのに、この有様である。
その頃、森は日本のみならず、ハワイに飛んでグレート東郷に協力を求めたりしていた。
グレート東郷とは、力道山が日本プロレスを取り仕切っていた頃、外人係を担当していた日系人レスラーである。
だが、味方と信じていたグレート東郷は、実はディルベック側の人物とツーカーの仲で、森の行動はディルベックに全て筒抜けだった。
そのためディルベックは、口うるさく交渉して来る森を監督から解任しようと画策していた。
そこで、ベネズエラにいる東京ドラゴンズには「森はハワイで呑んだくれている」と嘘の情報を流したのである。
ベネズエラで極限状態になっていた東京ドラゴンズの選手達はこの情報を鵜呑みにし、森の解任を決定した。
森は私財を切り崩し、何とかしてベネズエラに送金していたが、その金がどこから出ているか選手達は知らなかったのである。
森はディルベックと交渉し、契約内容には程遠いとはいえ上手く金を引き出すことに成功させ、東京ドラゴンズをベネズエラから脱出させた。
その頃にはもう8月になっていたが、グローバル・リーグは「第三のメジャー・リーグ」どころではなく、もはやリーグの体を成していなかった。
こうして、グローバル・リーグも東京ドラゴンズも、1年も経たないうちに消滅してしまったのである。
2006年(平成18年)、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が始まり、プロ・アマを問わない野球世界一決定戦が実現した。
グローバル・リーグが発足した頃は、今よりも世界の野球はずっと閉鎖的だったのである。
そんな時代に、世界に股をかけた野球リーグを創設させたのは、失敗したとはいえ凄い行動力だったと言えよう。
ただ、時代が早すぎたのかも知れない。
(森徹さんは2014年2月6日、肝細胞癌のため78歳で永眠されました。謹んでご冥福をお祈りいたします)