ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

サービスとピッチ

小学生の頃、ずっと疑問に思っていたことがある。

テニスやバレーボールでサーブが決まると「サービス・エース」というが、相手の選手が取れないのに何故「サービス」なんだろう、と。

サービスといえば商店や飲食店、ホテルなどで、経営者から利用者が受ける恩恵のことではないか。

 

中学生になって英語を習い始めると、どうやら「サーブ」も「サービス」も、元は同じ言葉ではないか、ということがわかる。

そして「サービス・エース」の「サービス」と、店で利用者が得する「サービス」はカタカナで書けば同じだが、英語のスペルは全く違うのではないか、と思い立った。

 

ところが「サービス・エース」の「サービス」も、店で得する「サービス」も、スペルは同じserviceである。

ひょっとすると、スペルは同じでも意味は全く違うのではないか?

そう思った。

現実に英語では、スペルは同じでも意味は全く違う単語はいくらでもある。

 

しかし、「サービス・エース」の「サービス」と、店の特典である「サービス」は、全く同じ意味だったのだ。

でも、勝負を争うスポーツで、なぜ相手に「サービス」する必要がある?

相手に「サービス」すれば、それは八百長ではないか。

 

16世紀頃(日本で言えば戦国時代)、フランスの王室や貴族、僧侶たちの間で「ジュ・ドゥ・ポーム(jeu de paume) 」という、球をラケットで打ち合う球技が流行した。

その際、最初に召使い(サーバント=servant)が、主人に打ちやすいようにコートの外からボールをそっと投げ入れた。

これがサービス、つまりサーブの由来である。

サービス(service)とは「奉仕」のことであり、サーブ(serve)はその動詞形で「奉仕する」という意味だ。

 

この頃のテニスの元祖は、勝敗を競うものではなく、長く打ち合ってラリーを楽しむ、というものだった。

日本で言えば、正月に行う羽根突きのようなものだろう。

勝敗は二の次三の次、楽しむことが何よりも目的だった。

そのため、最初に打つ球は相手に対する「サービス」だったのである。

 

バレーボールの歴史はテニスよりもずっと新しく、1895年(明治28年。日清戦争が終結した年)にアメリカで考案された。

バレーボールが生まれた理由は、女性や老人でも楽しめる、運動量を要しないスポーツ作る、というものだった。

バレーボール(volleyball)の語源は、テニスでノーバウンドで打ち返す「ボレー(volley)」から来ている。

つまり、テニスもバレーボールも、元々は勝敗を競うスポーツではなく、みんなで楽しむレクリエーションだったのだ。

現在でも、学校や会社の昼休みにバレーボールに興じる女性は多いが、いずれもトスを長く続けることを楽しんでいるだけで、そこでジャンプしてスパイクを打ち込めば、その女は間違いなく村八分にされてしまうだろう。

 

テニスもバレーボールも、勝敗など関係なく楽しむスポーツだったのが、いつの間にか勝負論が反映してきて、勝つための戦術が練られることになる。

かつては相手に対する「サービス」だったサーブも、テニスでは200km/hものスピード・ボールを打ち込み、バレーボールではジャンピング・サーブでサービス・エースを狙う。

テニスやバレーボールでは、もはや「サービス」はサービスではなくなったわけだ。

 

実は、勝負を競いながら、テニスやバレーボールのように「サービス」を行うスポーツがあった。

それが他ならぬ野球、英語で言えばベースボール(baseball)である。

 

野球の花形ポジションといえば投手、即ちピッチャー(pitcher)だ。

ピッチャーとは要するにピッチ(pitch)をする人、という意味である。

しかしこれは、いささか奇妙な言葉だ。

 

ピッチとは、「そっと放る」という意味である。

今の野球で「そっと放る」ピッチャーなんて皆無だろう。

どんなピッチャーでも、ビシビシと速球を投げ込み、あるいは速球と見せかけて変化に富んだ球を駆使する。

 

投げる、という意味ならスロー(throw)の方がふさわしい。

現実にオーバー・スローやアンダー・スローという言葉がある。

しかし、これは和製英語だ。

公認野球規則2.77にはこう書かれている。

 

THROW「スロー」―ある目標に向かって、手および腕でボールを送る行為をいい、常に投手の打者への投球(ピッチ)と区別される。

 

つまり、スロー(送球)とピッチ(投球)は別物、というわけだ。

野球中継で、アナウンサーや解説者がよく、

三塁手が一塁へ暴投」

という言い方をするが、これは明らかな間違いである。

暴投とはワイルド・ピッチのことであり、即ち投球の際に起こることで、上記のケースでは「悪送球」と言わなければならない。

「ピッチ」ができるのは投手だけだからだ。

 

では、なぜ投球が「ピッチ」と呼ばれるようになったのか。

それを探るためには、野球の起源まで遡らなければならない。

 

1492年(日本では室町時代後期)、クリストファー・コロンブス西インド諸島を発見して以来、ヨーロッパ各国は「新大陸」たる北アメリカ大陸にどっと進出した。

中でもイギリスは当時、大英帝国を築いて繁栄しており、北アメリカ東海岸を制圧。

当時、イギリスで行われていた「ラウンダーズ」も、移民者たちによってアメリカにもたらされた。

ラウンダーズとは現在でもイギリスでは子供達の間で行われていて、投手がボールを投げて打者がバットで打ち返すという、まさしく野球の原型とも言えるゲームだ。

 

1776年(日本では江戸時代後期)、イギリスとの独立戦争の末にアメリカ独立宣言、7月4日にアメリカ合衆国が建国された。

と言っても当時はまだ、東海岸のみの僅か13州という狭い地域だった(現在は50州)。

独立したアメリカでは、ラウンダーズはやがて「タウンボール」として発展していく。

ラウンダーズとタウンボールとの最大の違いは、タウンボールでは「ヒットを打っても打者が交代する」という点にある。

ラウンダーズではアウトにならない限り、打者はずっと打ち続けられる。

現在でもイギリス連邦を中心に盛んに行われているクリケット(競技人口では野球以上)のルールもまさしくこれである。

しかしタウンボールではこれを採用せず、誰でも平等に打てるようにしたのは、いかにも多民族国家のアメリカらしい。

 

アメリカ独立から60年以上経った頃、ニューヨークでは火災が悩みの種だった。

市の予算では防火対策もままならなかったため、自警の消防団を設立した男がいた。

その人物こそ、野球の基礎を作り上げたアレクサンダー・カートライトである。

この消防団に参加した人達はホワイトカラーが多かったので、運動不足を解消するいいスポーツはないかと考えた。

そこでカートライトが目を付けたのがタウンボールである。

タウンボールなら大勢で楽しめる上、運動不足の解消にもなるし、団体スポーツなので結束も図れる。

そして1842年(日本では江戸時代後期、天保の改革が行われた頃)、消防団を母体としてタウンボールを行うチーム「ニッカーボッカーズ」が結成された。

 

しかし、タウンボールというのはあくまでも子供の遊びである。

大の男が興じる「大人のスポーツ」とは言い難かった。

そこでカートライトは、タウンボールにルールを設けた。

1845年のことである。

 

●1チーム9人ずつで、守備側は各ポジションに散らばる。

●菱形に4つのベースを置き、それぞれの塁間は42ペイス(90フィート=27.431m)。

●打者が3球空振りするか、打球を野手がノーバウンドもしくはワンバウンドで捕球するか、打者走者が一塁に達するまでにボールを持った野手が一塁を踏むか、走者が塁を踏んでいない時にタッチするとアウト。タウンボールのように、走者に投げ当ててのアウトは廃止。

●3アウトで攻守交替。タウンボールでは1アウトで攻守交替だった。

●ファウルラインを引き、そこから外に打球が出た場合は打ち直し。

●21点先取したチームが勝ち。

 

この新ルールに、団員たちはたちまちタウンボールにのめり込んだ。

ノーバウンドだけでなくワンバウンドでもキャッチするとアウトという、現在から見れば奇妙なルールもあるが、最大の変化はファウルラインを引いたこと、そして「走者に球を投げ当てるとアウト」のルールを廃止したことだろう。

ファウルラインを引いたことにより、アウト・オブ・バウンズ(OB)が発生した。

つまり「場外」という概念ができたわけで、ファウルラインが見物客を生んだのである。

つまりタウンボールは「やるだけのスポーツ」から、「やって、見せるスポーツ」へ転換したのだ。

さらに「走者に球を投げ当ててアウト」のルールを廃止して、野蛮性を取り除いた。

代わりに「打者走者が一塁に到達する前に送球すればアウト」というルールに変えたのである。

ラウンダーズやタウンボールで使用していたボールは柔らかかったが、この新ルールにより、ボールは硬く、小さな物に変化していった。

やがてタウンボールは、ベースボール(baseball)と呼ばれるようになる―。

 

ただ、ラウンダーズやタウンボールの頃と、変わらないことがあった。

それは投手の投げ方である。

タウンボールから進化したベースボールでも、下手投げであることに変わりなかった。

つまり、打者に向かって「そっと放る」即ちピッチである。

この頃のベースボールでは「打たれるのが名投手」だった。

「ベースボールは打ち合わないと面白くない。打たれない投手は邪道」

という考え方である。

これぞまさしく、テニスの原型であるジュ・ドゥ・ポームと同じ精神ではないか。

 

現在、野球好きのミュージシャンとして知られるハマショーこと浜田省吾は「俺は草野球では最高の投手だ」と豪語する。

つまり、ハマショーは草野球レベルでは打たれない球を投げる、という意味なのか?

そうではない。

ハマショーは、

「俺の球は速くない。でもコントロールがいい。これは草野球では理想の投手」

というのである。

つまり、コントロールがいいから四球を連発して試合が間延びするようなことはないし、球が遅いので打者は打ちやすく、従って打球が多く飛ぶので野手も退屈しない。

要するに、相手打者にとっても、味方の守備陣にとっても、存分に野球を楽しめるのである。

 

ニッカーボッカーズも、勝敗を競うのではなく、あくまで社交クラブという側面が強かった。

仲間内でベースボールを楽しみ、試合が終わったあとはパーティーが開かられる。

試合そのものよりも、このパーティーの方が重要だった。

なぜなら、親睦こそが第一義だったからである。

また、女性たちもゲームには参加しないとはいえ、重要な存在だった。

男とは下等な生き物で、ヤローしかいない場所では野卑な言葉を発するが、女性がいると下品な行動は慎むものである。

女性の観客は、選手達のマナー向上に一役買った。

もちろん、試合終了後のパーティーに女性がいなければ、実に味気ないものになっただろう。

まさしく、当時のベースボールは試合そのものではなく、試合後のパーティーにこそ意義があったのだ。

ラグビーでは試合終了後に「アフターマッチ・ファンクション」というパーティーが開かれるが(これが「ノーサイド」という言葉の語源であり、現在では「ノーサイド」が試合終了を意味するのは日本だけで、外国人には何のことかわからない)、この頃のベースボールでもそれがあった。

つまり、スポーツとは元々社交場だったのである。

 

ベースボールがアメリカ東海岸に広がるにつれて、各地でベースボールのクラブチームが結成された。

1846年、ニュージャージー州ホーボーケンでニッカーボッカーズとニューヨーク・ナインによる初の対外試合が行われ(結果はニューヨーク・ナインが23-1で大勝)、勝敗が重要視されるようになる。

対外試合をして、勝敗を競い合うようになると、それに刺激されて単なる親睦ゲームではスリルがなくなってしまったのだ。

「楽しむスポーツ」から「勝敗を競うスポーツ」への転換である。

だがそれでも、投手が下から投げるルールは変わらず「打たれる名投手」は健在だった。

 

1857年、ベースボールは大きな転機を迎えた。

新聞記者のヘンリー・チャドウィックを中心に規則委員会が設けられ、ベースボールの基盤がさらに整ったのである。

この頃の日本では、4年前にペリーが浦賀に来航して日本人が初めてアメリカ人と遭遇、翌年に日米和親条約を締結し、江戸幕府がずっと続けてきた鎖国が解かれ、開国したのだった。

チャドウィックはそれまでの21点先取制から現在と同じ9イニング制へ移行、試合がスピードアップされることになった。

さらに記者だったチャドウィックは新聞でベースボール記事を大いに書き、ベースボールの普及に努めた。

その中の一つに、ボックス・スコアの考案がある。

つまり、ベースボールを数値化することで、さらに大人のスポーツへと昇華させたのであった。

またチャドウィックは、勝敗論が行き過ぎたベースボールを嘆き、賭博や八百長が行われるゲームに警鐘を鳴らしたのである。

この功績が称えられて、後にチャドウィックは「ベースボールの父」と呼ばれ、野球殿堂入りしている。

 

当時はまだ、ストライク・ゾーンというものがなかった。

空振りを3回すればアウト(即ち三振)、というルールはあったが、実際には打ちやすい球ばかりだったので、三振する打者などほとんどいなかったのである。

ストライク・ゾーンがないのだから、見逃しの三振というものもなかった。

ベースボールは打つのが楽しいスポーツだから、いい球が来ればドンドン打っていったのである。

 

ところが、勝敗が重要な要素になってくると、打者は自分が打ちやすい球が来るまでずっと待つようになった。

そうすると投手は、何球も投げ続けなければならない。

そこで「ストライク」のコールが生まれた。

と言っても、全ての球に「ストライク」コールがあったわけではなく、この頃はまだ「ボール」のコールもなかった。

「ストライク(strike)」とは「打つ」という動詞で、主語がないのだから「打て」という命令形である。

実はこの頃、「ストライク」の前に「グッド・ボール」と審判は叫んでいて、即ち「Good ball,strike!(いい球じゃないか、打てよ!)」という意味だったのだ。

ここが重要なポイントで、「ストライク」とは投手にとっての「いい球」ではなく、打者が「打つべき球」だったのである。

何球も見逃してなかなか打とうとしない打者に対して、業を煮やした審判が「グッド・ボール、ストライク!」と言ったわけだ。

ボクシングで言えば、なかなか打ち合おうとしない選手に対して、レフェリーが「ファイト!」と言うようなものである。

 

「ストライク」コールが生まれたのは1858年。

日米修好通商条約という不平等条約が日本とアメリカの間に交わされた年である。

この年、アメリカでは初の野球組織「ナショナル・アソシエーション・オブ・ベースボール・プレーヤーズ(NABBP)」が発足した。
今でいうリーグ戦の始まりである。
かつての親睦ムードはなくなり、どのチームも勝敗にこだわるようになった。
NABBPはアマチュア組織だったが、どのチームも選手から会費を徴収することはなくなり、観客から入場料を取って運営費を賄った。
それどころか、優秀な選手には報酬を与えたり、就職を斡旋するチームも現れた。
プロ化の始まりである。

 

そんな中、遂にオール・プロのチームが現れた。
史上初のプロ球団、シンシナティ・レッドストッキングスである。
1969年のことだ。
この頃、日本では前年に江戸幕府が倒れ、明治新政府が誕生していた。
しかし、ベースボールは勝敗論が加熱して、客はベースボールを賭博の対象とし、八百長も横行した。
もはや健全なスポーツではなくなったベースボールはアマチュアリズムも守れず、プロ化問題も災いして、翌1970年に崩壊する。
その翌年、1871年に今度はレッキとしたプロ野球組織「ナショナル・アソシエーション・オブ・プロフェッショナル・ベースボール・プレーヤーズ(NAPBBP)」が発足した。
しかし、賭博スポーツに成り下がったベースボールは不正が横行し、NAPBBPも僅か5年で破綻してしまう。

 

そして1876年(明治9年)、不正をなくすべく、新たなプロ・ベースボール・リーグが発足した。
それが現在も続くナショナル・リーグである。
アメリカ合衆国建国からちょうど100年目に、ナショナル・リーグが誕生したのだ。
ナショナル・リーグ東海岸や中部のシカゴ、セントルイスといった大都市に本拠地を置き、8球団でスタートした。
ナショナル・リーグの実力と権威は他のリーグを引き離し、やがてはビッグ・リーグ、あるいはメジャー・リーグと呼ばれるようになった。
取り残された他のリーグは、マイナー・リーグの元祖となる。
まだこの頃は、アメリカン・リーグは影も形もない。
面白いのは、メジャー・リーグが始まった当初、ベースボールの投手はまだ下手投げだったことだ。

 

それより前。
1863年に、初めて「ボール」のコールがされるようになった。
「ストライク」コールが生まれた5年後のことが。
日本で言えば幕末、尊王攘夷運動が激化した時代である。
「いい球」しか打とうとしない打者に対して、投手の逆襲が始まったのだ。
即ち、投手たちは「打ちにくい球」を投げるようになったのである。
今度は投手に対し「アンフェア・ボール!(Unfair ball)」と審判がコールするようになった。
アンフェアな球、即ち不正球である。
投手だったら、打者が打てる球を投げろ、というわけだ。
「アンフェア・ボール」では長すぎるため、やがて「ボール」とコールされるようになる。
「ストライク(打て)」と、「ボール(不正球)」のルーツが、これでわかるだろう。
つまり、「ストライク」とは「打つべき球」であり、「ボール」とは「投げてはいけない球」なのだ。
そう考えると、ベースボールというスポーツの本質が見えてくる。

 

そして1871年(明治4年)、打者が投手に対して好みの球を要求できるルールができた。
高・中・低と高さに関して3種類だったが、投手はそこに投げなければならなかったのである。
そこに投げなければ、当然「(アンフェア)ボール」だ。
まだまだ投手は「打たれるための存在」だった。
しかし、このルールが誕生した背景には「打たれない投手」が誕生していたことがあった。
ジミー・クレイトンという投手である。
クレイトンは下手投げにもかかわらず、ただ打たれるためのボールを投げるのではなくて、スナップを効かせ速くてスピンがかかる球を投げ込んだ。
このクレイトンの投法が合法は違法か物議を醸し、ようやくスナップ投法が認められたのが1972年(明治5年)、即ち打者が投手に高低を要求できるようになった翌年だ。
「打たれない投手」と、「コースを投げなければならない投手」の誕生である。

 

この1872年(明治5年)という年を覚えておいて欲しい。
明治維新から僅か5年後、初めて日本にベースボールというスポーツが伝えられたのだ。
まさしくその年は、ベースボールの転換期であり、「打たれるのが名投手」から「打たれないのが名投手」に変わりつつあった。
日本にベースボールをもたらしたのは、東京開成学校予科(現在の東京大学)のアメリカ人教師、ホーレス・ウィルソンだと伝えられている。
学生たちはたちまち、異国から来たベースボールの虜になった。

 

ナショナル・リーグが創設された1876年(明治9年)、画期的なルールが書き加えられた。
ベース・オン・ボールズの誕生である。
ベース・オン・ボールズと言ってもピンと来ないかも知れないが、現在で言うフォア・ボール(四球)のことだ。
アンフェア・ボールを投げ続ける投手に対し、罰則として1個の塁を与えたのである。
ただし、当時はフォア・ボールではなく、ナイン・ボールだった。
即ち、9個のアンフェア・ボールで打者は一塁に出塁できたのである。
この頃はまだ、1球1球に「(アンフェア)ボール」をコールされていたわけではなかった。
3球に1度「(アンフェア)ボール」をコールし、それが3度重なると(即ちナイン・ボール)一塁へ出塁できたわけだ。
よく野球は「3」を基準にしたスポーツと言われる。
スリーアウトや三振もそうだし、選手の人数も3の倍数である9人、イニングは9回だ(それ以前のルールである21点先取も3の倍数である)。
ところがフォア・ボールだけ「3」とは縁もゆかりもない数字だが、元々はナイン・ボールという、やはり3の倍数だったのだ。

 

そして1879年(明治12年)、見逃した球の全てに「ボール」か「ストライク」のコールがされるようになる。
ここからほぼ1年ごとに、ベース・オン・ボールズにおける「ボール」が減っていくのである。

 

1880年(明治13年):8ボールで一塁に出塁。
1882年(明治15年):7ボールで一塁に出塁。この年から横手投げが解禁される。
1884年(明治17年):6ボールで一塁に出塁。上手投げが解禁される。さらにヒット・バイ・ピッチ(死球)の誕生。
1886年(明治19年):7ボールで一塁に出塁というルールに戻る。
1887年(明治20年):5ボールで一塁に出塁。打者による投球の高低の指定を廃止。この年のみ、4ストライクでアウト。
1889年(明治22年):4ボールで一塁に出塁という、現在のルールになる。

 

ストライク・ゾーン発生の経緯が、これでわかるだろう。
ベースボールは「打つべきスポーツ」から、勝敗を競う競技性を高めるためにストライク・ゾーンが発生したのだ。
そしてベース・オン・ボールズにおける「(アンフェア)ボール」の数が少なくなるにつれて、上手投げが解禁されたのにも目を惹く。
そして、打者による「高低の要求」がなくなったのだ。
つまりベースボールは、「打つだけのスポーツ」から「投手と打者の対決を軸にした、勝敗を競うスポーツ」となったのである。
そしてこの年に限り、ストライク4つでアウト、となっているのも面白い。
審判が「ストライク!」と叫ぶのは「打て!」という意味だから、3回言って従わなければ次のボールでアウトにすべきだ、という理屈である。
この4ストライク・ルールは1年で廃止、タウンボール時代からある「三振」に戻ったが、要するに「ストライク」とは警告だったことがわかる。
つまり、「ストライク」は打者に対する警告、「(アンフェア)ボール」は投手に対する警告と考えれば、ストライク・ゾーンの本質が見えてくるだろう。
あと、ストライク・ゾーンとは関係ないが、ワンバウンド・キャッチでアウトというルールは1864年にフェアの打球に関しては廃止となり、1883年(明治16年)にファウル・ボールも含めて完全になくなった。

 

そして1901年(明治34年)新たなルール改正があった。
2ストライクまでのファウルを、ストライクと数えるようになったのである。
それまでの打者は、苦手なコースはファウルで逃げていればよかったが、ファウルを2回打っただけで2ストライクと追い込まれるようになった。
ベースボールはますますスピードアップされたのである。
この年、アメリカン・リーグが誕生し、二大リーグ時代の幕開けとなった。
1903年(明治36年。日露戦争の前年)にはナショナル・コミッションができ、ナショナル・リーグアメリカン・リーグのルールが統一され、初めてのワールド・シリーズが開催されたのである。
この年以降、ベースボールに大幅なルール改正は全くない。
あるとすればDH(指名打者)制度ぐらいだが、未だに9人制のベースボールも生き続けている。
1880年代からほぼ1年ごとにルール改正があったのに、1903年以降は100年以上も経っているのにもかかわらず、全くと言っていいほど大幅なルール変更はないのだ。
こんなスポーツはベースボール以外にないと言ってもいい。

 

それともう一つ、言っておきたいのはベースボールが日本に伝わった頃、ベースボールは既に勝敗を競うスポーツになっていた、という点だ。
つまり、ベースボールは元々親睦を図るためのスポーツだったということを知らずに、日本人はベースボールを受け入れたわけだ。
明治時代における、ほぼ1年ごとに変わるルールも逐一アメリカから情報が入ってきていたが、「アメリカでルール変更になったから」ということで、ルール変更の理由も考えずに無条件で受け入れていたのである。

 

そういう歴史も知らずに、ただうわべだけのルールだけを知ったつもりでいるから、例えば高校野球で5打席連続敬遠なんていう馬鹿げた作戦が生まれるのである。
あの作戦を支持する人は、
「ルール違反をしているわけではないのに、なぜ非難される必要がある?勝つための作戦なのだから、悪いことをしたわけではない。青臭い論理はやめろ!」
と言うだろう。
しかしこれは、青臭いかどうかは関係なく、野球の本質をわかっていない意見なのだ。
もちろん、敬遠は合法な行為だし、敬遠をしなければならない場面で敬遠するのは当然だが、だからといって一人の打者に対して一度も勝負しないのなら、何のために野球をやっているのか、と思ってしまう。
それに、上記の歴史を見ればわかるように、野球は元々打ち合うのが楽しいスポーツなのに、それを否定してどうする、と言いたい。

要するに、野球をやっている意味がないのである。

 

事実、5打席連続敬遠をしたチームは勝ったにもかかわらず、選手達に笑顔はなかった。
それは観客から心無いヤジを受けたから、ということもあるが、それがなくても選手達は素直に喜んだだろうか。
勝っても喜べないスポーツなんてやらない方がいい。
それに、この敬遠作戦を支持する人は、次の試合で大敗したことについては何も言及しない。
そもそもこの敬遠作戦はたまたま成功しただけであって、一つ間違えれば大敗する可能性が高かったのだ。
ついでに言えば、この高校は全国から優秀な選手をかき集めているにもかかわらず、プロで大成した選手はほとんどいない。
おそらく勝利至上主義のセコイ野球ばかり教えているか、監督が使いやすい選手ばかり選んでいるのだろう。

野球を指導する立場の人間なら、野球の歴史ぐらい勉強するべきである。

そうでないと野球の本質を理解できないし、選手達にそれを伝えることもできない。

 

なぜストライク・ゾーンが生まれたのか、その経緯を知っていれば敬遠の乱発なんてできなくなるはずだ。
先に出てきたクレイトン投手、5イニングスを投げて331球も投げたという記録が残っている。

「100球で交代」の現在では、考えられない球数だ。
もっとも、この頃の投手はみんながそんなもので、5回ぐらいで300球も投げることは珍しくはなかった。
アル・スミスという投手は、一人の打者に対してなんと68球(!)も投げたという。
つまり、ベースボールに勝負論が持ち込まれ、投手は打ちにくいボールを投げるようになり、打者は打ちやすい球が来るまでじっと待つようになった。
当然、ベースボールはプレーするのも見るのも退屈なスポーツに成り下がってしまう。
そこでやむを得ず「ストライク(打て)」や「(アンフェア)ボール」の警告がされるようになった。
やって楽しく、見て楽しいベースボールにするために、ストライク・ゾーンが生まれていったのである。

そして「ストライク3つでアウト、ボール4つで一塁に出塁」という、絶妙のバランスを持ったルールが生まれた。
そういう歴史を知ると、野球の本質が見えてくるのではないか。

 

スポーツとはなにか。
その語源は「disport(気晴らし、戯れ)」から来ていて、それがやがて語形変化し「sport」となったのである。
即ちスポーツの本質とは気晴らし、あるいは戯れなのだ。
体を動かさないのに、チェスのことを「盤上のスポーツ」と呼ぶのは、チェスもまた気晴らし、戯れだからである。

ところが明治時代の日本は、スポーツの本質を理解しないまま、スポーツを「体育」として迎え入れてしまった。
そして戦前の日本ではスポーツは軍事教練や鍛錬として利用されたのである。
そこには「気晴らし、戯れ」即ち「楽しむ」という、スポーツ本来の要素はなかった。

それどころか、戦後になってもスポーツ精神とはかけ離れた体育会が幅を利かせ、21世紀の現在でも「体罰」という名の暴力が先進国ニッポンで横行しているのである。


スポーツが理解されていない、ということは日本に限ったことではなく、昨年(2012年)のロンドン・オリンピックでバドミントンの中国、韓国、インドネシアの選手達が無気力試合を行うという事件が起こった。
トーナメントで戦う上で有利になるためにわざと負けようとしたのだが、これなどスポーツの本質とかけ離れていると言わざるを得ない。
いずれもアジアの国というのがなんとも切ないが、要するにスポーツの本質を理解していないのだろう。

 

テニスやバレーボールでは相手に「サービス」し、ベースボールの投手は打者に対して「ピッチ」してプレーを楽しんだ。
現在では勝負論が第一義となっているので、古き良き時代のスポーツは成り立たないが、それでも「楽しむ」というスポーツの本質を忘れてはならない。

 

ベースボールの母国であるアメリカも威張れた状況とは言えないだろう。
プロ・スポーツ選手たちは高額年俸を得るために薬物汚染が蔓延り、あまりにもアンフェアな行為が横行した。
1998年(平成10年)に世紀のホームラン競争をしたマーク・マグワイアサミー・ソーサ、そして2007年(平成19年)にハンク・アーロンの通算ホームラン記録を破ったバリー・ボンズらはいずれもステロイドを使用し、いわば捏造されたホームラン記録を作り上げてしまった。
さらに、現役最高のメジャー・リーガーであるアレックス・ロドリゲスも薬物の使用を認めている。
この薬物汚染こそ、ベースボールの、そしてスポーツの本質から最もかけ離れたものだ。
勝利至上主義が蔓延っている今こそ、もう一度スポーツの原点に立ち返るべきだと思う。

 

ところで、「野球史年表」をアップした。
野球がどんな歴史を歩んだか、あるいはどんな時代で変化が起こったかが一目でわかり、野球の本質が見えてくると思うので、ぜひ参照されたい。

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