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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

残塁のない野球

野球は番狂わせが起きやすいスポーツである。

そのことはここでも何度か書いてきた。

番狂わせが起きやすいとは、強いチームが負けることが多い、要するに1試合だけの勝敗では強弱が判別しにくい、ということである。

なぜそうなのか、その理由をおさらいしてみよう。

 

まず、オフェンス面から見れば、どんな優れた打者でも、3割しかヒットを打てないという点だ。

つまり、7割失敗する打者は一流で、6割しか失敗しない打者は神様扱いされる。

半分以上失敗する選手が一流となったり、神様呼ばわれするスポーツなんて、野球以外にはないだろう。

何しろ打者は、18mそこそこしか離れていない距離から、150km/hのスピードで投げられてくる球や、様々に変化する球を打ち返すのだ。

しかも、小さくて硬い円形のボールを、やはり丸いバットで打ち返すのだから、ミスショットが多いのも無理はない。

テニスや卓球でも小さなボールを打ち返すが、あくまでもラケットという面でボールを打つのだから、野球の打撃ほど難しくはない。

野球に似ているクリケットだって、バットは平面になっている。

つまり野球の打者は、丸いボールに対して丸いバットで打ち返すという、ピンポイントの精度が要求されるのだ。

 

それだけ野球では完璧に打ち返すのが困難だということだが、たとえジャストミートしても、打球が野手の正面をついてダブルプレーになり、一瞬にしてチャンスが潰れることはよくあるし、逆に当たり損ねの打球がポテンヒットとなって、2点ぐらい入るなんてことも日常茶飯事である。

完璧な打撃がアダとなり、打ち損じが幸いするなんて理不尽なことが頻発するのも、野球の特徴だ。

 

さらに、チーム1の強打者でも、1試合で打席に立つのは4回程度。

たとえ3割打者でも1試合にヒットを打つ確率は1.2本で、ノーヒットの試合も珍しくはない。

「打線は水もの」と言われるように、打撃は不確定要素が多すぎるのだ。

だから、10点取った翌日の試合では1点も取れないなんてことはよくある。

 

ではディフェンス面、チーム力の7割を占めるという投手の場合はどうか。

たしかにいい投手がいると戦力的に安定するし、打者ほどの不確定要素はない。

だが、投手は他の野手に比べて遥かに運動量が多く、毎日完投するのは不可能だ。

逆に打者は毎日でも試合があった方が調整しやすいし、試合数が多い方が打撃力が平均化するので、野球は毎日のように試合が行われる。

つまり、先発する投手は毎日変わるので、その度にチーム力が変わることになる。

チーム力の7割を投手が占めるのだから、同じチームでもAという投手が登板している時と、Bという投手が登板している時ではチーム力が全然違うのだ。

従って、真のチーム力を測るには、どうしても試合数が多くなる。

そのため、どんな国のプロリーグでも、1シーズン100試合以上は行うのが普通だ。

 

去年、圧倒的な強さで日本一になった読売ジャイアンツでも、レギュラーシーズンの勝率は6割6分7厘、クライマックス・シリーズでは3勝3敗(アドバンテージ含まず)、日本シリーズでは4勝2敗だった。

例えば大相撲で勝率6割6分7厘といえば10勝5敗で、優勝などとてもおぼつかないどころか、横綱ならほとんど最低ラインの成績である。

野球とは逆に番狂わせが起きにくいと言われるラグビーでは、今年度トップリーグと日本選手権の二冠を達成したサントリーサンゴリアスは公式戦17戦全勝(リーグ戦では13戦全勝)だった。

野球では、どれだけ強いチームでも7割勝つのは至難の技である。

 

これで野球がいかに番狂わせが起きやすいスポーツかということがわかったかと思うが、その理由が他にもあるような気がする。

それは野球というスポーツが独特なルールで行われているという点だ。

攻撃回数を9回に区切り、その中で1点でも多く点を取ったほうが勝ち、というのが野球である。

野球をよく知っている人なら、こんなことに疑問など持たないだろうが、なぜ9回に区切る必要があるのか。

よくよく考えたら、こんな奇妙なスポーツは野球だけだ。

サッカーやラグビーは前後半の2分割、アメリカン・フットボールは4分割だが事実上は2分割、アイスホッケーは3分割、セット数を争うバレーボールは5分割、野球に似ているクリケットは2イニングもしくは1イニング制である。

 

例えば、1試合に5安打しか打てなかったチームは、おそらく無得点か1点ぐらいしか取れないだろう。

ところが、その5安打が1イニングに集中していればどうなるか。

5安打が全て単打だったとしても、3点ぐらいは取れるだろう。

あるいは長打や四球が絡めば、もっと点を取れるかもしれない。

野球は9回に区切られているために、「何本ヒットを打ったか」よりも「どのタイミングでヒットを打ったか」の方が重要なのだ。

従って、打力に優れたチームがヒットをたくさん打って何度もチャンスを作るもなかなか得点できず、逆に貧打のチームがワンチャンスを活かして得点し、勝ってしまうということがよくある。

 

仮に野球が9回に分割するとしても、前のイニングを引き継ぐというルールになったらどうなるか。

今のルールでは、満塁のチャンスを逃したら攻撃側は天を仰ぎ、守備側はホッと胸を撫で下ろす。

なぜなら、次のイニングでは満塁の走者がチャラになって、無走者から攻撃が始まるからだ。

誰もが当たり前と思っているルールだが、満塁の走者がチャラにならず、次のイニングでも満塁から始まる、というルールがあっても良さそうなものである。

つまり、残塁という概念がなくなるわけだ。

 

二死満塁で打者は三振で無得点。

たしかに攻撃側は残念だが、「残塁なし」ルールだとさほど悲観することはない。

なぜなら、次のイニングは無死満塁から始まるからだ。

アメフトでは第1クォーターと第2クォーター、そして第3クォーターと第4クォーターの間にブレイクが入るが、これはサイドが変わるだけでシチュエーションは継続される。

つまり、攻め込んでいるチームは相変わらず攻め込み、守勢に回っているチームはピンチのままだ。

この原理を野球にも持ち込むのである。

 

3アウトを取ったからと言って走者がチャラになるわけではないから、出塁すればするほど有利になる。

従って、敬遠策や犠牲バントなんて戦法はなくなるだろう。

守備側はわざと四球を出すと走者が増えるだけでますます不利になるだろうし、攻撃側は犠牲バントによりわざとアウトになると、たとえ走者を進めてもかえって損だ。

3個のアウトではなく、27個のアウトの中で、いかに走者を出して生還させるかの勝負になるのだから。

そうなれば、盗塁もあまり意味のない作戦になるかも知れない。

 

逆に「2アウトからのダブルプレー」なんてケースも出てくる。

走者が次のイニングに持ち越されるのだから、アウトも持ち越されるのは当然の道理。

二死一、二塁で6-4-3のダブルプレーとなった次のイニングは、一死三塁から始まるわけである。

 

「そんなルールでやるのなら、9回に分割せずに27のアウトを取るまで延々と攻撃して、それが終われば攻守交替すればいいじゃないか」

と思われるかも知れないが、さすがにそれでは選手も疲れるだろうし、先攻後攻の有利不利がモロに出てしまいそうなので、便宜上9イニングに分けただけだ。

でも、残塁なんて制度を作るより、走者やアウト数を次のイニングまで持ち越した方が合理的と思うのだが、誰もそんなルールを考えつかなかったのだろうか。

実は野球が日本に輸入された明治時代、こんなルールで野球をやっている地方があったそうだ。

その地方の人にとって「残塁なし」のルールの方が自然に思えたに違いない。

 

もし、この「残塁なし」ルールが定着していたら、どうなっていただろうか。

何度もチャンスを作りながら残塁の山を築き上げる、慢性の便秘のような「試合運びのヘタなチーム」が、案外強くなっていたかも知れない。

逆に、ランナーを背負ってから実力を発揮し、なかなか失点しない「打たれ強い投手」は二流投手に成り下がるだろう。

9回二死までパーフェクトを続けていたダルビッシュ有のような完璧な投球をしなければ、とても完封など望めない。

 

だが「残塁あり」のルールが、野球を面白くしたとも言える。

1イニングを3アウトで区切り、走者やアウトを次のイニングに持ち込まなかったからこそ、1イニングにおける緊迫感を生んだのだ。

3アウトを取られる前に得点しなければ、せっかく出塁した走者がチャラになるので、攻撃側はなんとかそのイニング中に得点しようとする。

逆に守備側は、このピンチを乗り切れば、次のイニングは無走者からになると思って頑張る。

もしこれが「残塁なし」のルールだったら、二死満塁の場面で攻撃側は「この回に得点できなくても、次の回に走者が残るからいいや」と思うだろうし、守備側は「このピンチを切り抜けても、次の回にはまた無死満塁のピンチが続くし」と、何が何でもこのピンチを切り抜けてやろう、とは思うまい。

つまり、「残塁あり」のルールだからこそ、1イニングごとの緊張感があるのだ。

ファンだって、

「頼むから、この滅多にないチャンスでヒットを打ってくれ!」

「この大ピンチを切り抜けてくれたら、今日は勝てる!」

と、手に汗を握って観戦するのである。

「残塁あり」のルールを考えた人は、そんなことまで計算したのだろうか。

あるいは、ただ単に「残塁なし」のルールを思いつかなかっただけなのか。

 

でも、「残塁なし」ルールの野球も、見てみたい気がする。

案外ダイナミックで、面白いゲームになるかも知れない。