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ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

広岡西武のアキレス腱

僕が日本シリーズで一番思い出に残っているのは、もちろん1985年(昭和60年)の阪神タイガースセントラル・リーグ)と西武ライオンズパシフィック・リーグ)の対決である。
理由は簡単、ずっと阪神ファンだった僕が、生まれて初めて阪神の優勝を体験し、もちろん日本シリーズでの阪神の晴れ姿を見たのも生まれて初めてだったからだ。
何しろ阪神としては21年ぶりのセ・リーグ優勝、ずっと「ダメ虎」と言われ続けたチームの快進撃に大阪は爆発し、虎フィーバーは全国に広がった。

 

それだけに注目された日本シリーズだったが、注目されたのは他にも色々な要素が絡み合ったからでもある。
相手はここ数年、パ・リーグのみならず日本最強と言われた西武ライオンズ
安定した実力を発揮してきた管理野球の西武と、ダメ虎と言われながら突然変異のような爆発力を見せた自由奔放な阪神という、好対照な対決。
投手力を前面に押し出し、緻密な野球でコツコツ勝利を重ねる西武と、圧倒的な打力で敵を粉砕してきた阪神。
阪神の監督が「牛若丸」と謳われた名遊撃手の吉田義男なら、西武の監督は同時期にやはり読売ジャイアンツの名遊撃手だった広岡達朗という、ショートストップ対決。
親会社は、関西大手私鉄の阪神電気鉄道と関東大手私鉄の西武鉄道
付け加えるなら、ニックネームがトラとライオンという、ネコ科最強を競う猛獣対決という面もあった。

単独行動をとるトラと、集団行動を旨とするライオンという習性も、両チームに似通っていた。

 

結論から言えば、阪神が4勝2敗で西武を圧倒して2リーグ分裂後初の日本一に輝いた。
そのせいもあり、さらにこの年は阪神フィーバーに明け暮れたこともあったので、阪神側から語られることがほとんどだった。
そこで今回は、西武目線でこの年の日本シリーズを探ってみる。
最強と言われた広岡西武はなぜ敗れたのか―。

 

西武ライオンズ(現在は埼玉西武ライオンズ)が誕生したのは1979年(昭和54年)のこと。
前年までは九州・福岡に本拠地を置いていたクラウンライター・ライオンズを、オフシーズンに西武グループ・国土計画の社長だった堤義明が買収、本拠地も関東・埼玉(所沢市)に移転させて新球団名も西武ライオンズと改称した。

 

クラウンライター・ライオンズの前身で、福岡、いや九州の人気球団だった西鉄ライオンズが凋落したのは、1969年(昭和44年)に勃発した「黒い霧事件」がきっかけだった。
この事件の影響で主力選手が永久追放され、西鉄の実力と人気は大暴落し、親会社だった西日本鉄道は球団経営を放棄せざるを得なくなった。
親会社を失ったライオンズは、今でいうネーミングライツにより太平洋クラブ・ライオンズ、そしてクラウンライター・ライオンズと名前を変えたが、資金力不足は如何ともし難く、成績も下位を低迷し、とても存続できる状態ではなかった。
福岡のライオンたちはドナドナの子牛のように、遠く離れた埼玉へ売り飛ばされたのである。
九州からプロ野球が消えた瞬間だった。

 

しかし、ライオンたちにとって新天地は天国だった。
それまでの赤貧球団から超金持ち球団になったおかげで年俸は急上昇、「食う寝るところに住むところ」即ち合宿所や練習グラウンド、練習施設などは最新鋭のものに生まれ変わったからだ。
何しろ福岡時代は、専用の練習グラウンドを持たず、福岡大学のグラウンドを借りていたぐらいだから、現在のプロ球団からは考えられないだろう。
さらに、自然豊かな狭山丘陵にデラックスな新球場までぶっ建てたのだから、選手達も驚いた。
老朽化した平和台球場に変わって、まだドームではなかったとはいえ超近代的な設備を誇る西武ライオンズ球場が本拠地になったのだから、球団体質は180°変わったと言える。

 

それだけでなく球団は福岡時代のチームカラーを一掃すべく、ユニフォームとロゴマークを一新し、客を呼べるスター選手として阪神から田淵幸一を獲得、ドラフト戦略でも西武グループプリンスホテル野球部を巧みに利用して好選手を入団させた。
資金力では「球界の盟主」たる巨人を上回り、西武は「球界の新盟主」にならんとしていたのである。

 

もちろん、万年最下位のチームが急に強くなる訳もなく、球団発足初年度は最下位で、その後2年間もBクラスだったが、実力は確実に上がっていった。
そして西武誕生から4年目、それまで監督だった根本陸夫が管理部長に退いた。
管理部長となった根本は経営面にはタッチしないものの、首脳陣招聘や選手獲得といった人事面、さらに年俸査定などの責任者として君臨し、今でいうゼネラル・マネージャー(GM)のような役割を担った。
それまでドンブリ勘定だった日本のプロ球団からすれば、画期的なシステムだったのである。
根本は西武を優勝させるべく、新監督として満を持して招いたのが広岡達朗だった。

 

広岡は前述のように巨人の名ショートだったが、選手時代に巨人の監督だった川上哲治と対立し、巨人を退団する。

引退後はアメリカに渡りメジャー・リーグの練習方法を研究したあと、広島東洋カープのコーチに就任。
その後、ヤクルト・スワローズの監督に抜擢され、1978年(昭和53年)にはヤクルトを球団初のセ・リーグ優勝、さらに日本一に導いた。
しかし翌年、球団経営陣に反発し、シーズン途中で辞任する。
鬼より怖い川上監督や、逆らってはいけないワンマンオーナーにも平気で喧嘩を売るなど、広岡は相当な頑固者として知られていた。

 

広岡がもう一つ知られていた貌は、徹底的な管理野球である。
ヤクルトの監督時代、ぬるま湯ムードだったチームの雰囲気を管理野球で締め付け、選手達の反発に対しても知らぬ顔の半兵衛を決め込み、弱小ヤクルトを本当に優勝させてしまった。
福岡時代の野武士的な雰囲気が残るライオンズに、広岡式管理野球をブチ込めば優勝できると、根本は踏んだのである。

 

広岡は当初、根本からの監督要請に対し、なんでパ・リーグなんかで監督をやらなければならないのか、と思った。
巨人出身の広岡にとって、パ・リーグなど蔑視の対象でしかなかった。
当時の巨人出身者には選民思想が強かったが、広岡は特にそれが顕著だったのである。
2005年(平成17年)に、巨人の監督として星野仙一を招聘するという案に対し、巨人OB会会長だった広岡が「巨人の監督は生え抜き以外はダメ」と猛反対したことでもわかるだろう。

 

だが、広岡には頼もしい味方がいた。
広岡と共に西武にヘッドコーチとして招聘された森昌彦(現・祇晶)である。
広岡にとって森は巨人時代の後輩というだけではなく、多大な恩義があった。
川上と対立して巨人を退団した翌年、広岡は評論家として巨人のアメリカ・フロリダ州のベロビーチ・キャンプへ行ったが、川上の妨害に遭い取材許可が降りなかった。
そればかりか川上は、巨人軍スタッフに広岡を無視しろと命令したのである。
そんな中で森だけは川上命令に背き、先輩だからということで広岡を食事に誘い、色々と話をした。

 

1978年、ヤクルトの監督だった広岡はヘッドコーチとして森を迎え入れ、森は広岡にとって欠かせない参謀となった。。
内野手出身の広岡はバッテリーのことがわからなかったので、名捕手だった森の存在が必要だったのである。
さらに、広岡にとって森は単なる作戦面のコーチだけではなく、チームの規律を取り締まる「風紀委員」としても不可欠だった。
管理野球を推進する広岡は選手達の私生活を監視するために、森を選手達のお目付け役としてフルに利用したのである。
そのため森は、選手達からは監督のスパイとして徹底的に嫌われ、「森CIA」「森KGB」などと陰口を叩かれた。
さらにそのことは、選手からの首脳陣批判が森に集中し、監督である広岡は嫌われずに済んだ、という効果ももたらしたのである。
広岡―森のコンビにより、お荷物球団のヤクルトでさえ日本一にさせることができた。
広岡が西武に監督要請された時、もし森ヘッドコーチも招聘されていなければ、広岡は西武監督就任を断っていたに違いない。

 

1982年(昭和57年)、広岡西武が誕生した。
広岡―森の管理野球は、西武でも発揮されたのである。
徹底したサインプレー、私生活を律する方針はヤクルト時代と変わらなかったが、それにも増して注目されたのが「自然食信仰」。
当時のプロ野球選手は、現在の選手とは違って節制には無頓着で、タバコはガバガバ吸い、試合が終わると焼肉を腹いっぱい食べ、そのまま銀座へ呑みに行く選手がほとんどだった。
そんな選手達に広岡は禁酒・禁煙・禁肉食を命じた。
もちろん、大人の選手達にそこまで禁じる権利は監督といえどもないが、厳しい規制を設けたのは事実だ。
キャンプでは食事の時でさえビールを禁じられ、反発したエースの東尾修がヤカンにビールを入れて呑んだという武勇伝まである。
禁酒・禁煙(正確には節酒・節煙)はヤクルト時代にも実行されたが、自然食信仰とはなんだったのだろう。

当時のプロ野球選手は肉こそがスタミナ源であり、またパワーの源と考えていた。
しかし広岡は、肉は体を酸性にして怪我を誘発し、また怪我を治りにくくする腐った食物と断定、過度の肉食を禁じてベジタリアンになることを奨励したのである。
肉よりも野菜というのはもちろん、主食も白米ではなく玄米、飲み物も牛乳より豆乳を摂るように厳命し、食卓には一汁一菜の僧侶のような食材が並んだ。
私生活のみならず、最大の楽しみである食生活まで制限された選手達は、広岡監督に反発した。

 

しかし、選手達の意識改革は進み、さらに監督への反発心が思わぬパワーを生んで、広岡の監督就任初年度に西武ライオンズパ・リーグを制したのである。
たった5年前、最下位に低迷していた福岡時代のライオンズが、西武ライオンズに生まれ変わって僅か4年目にリーグ優勝を果たしたのだ。
さらに日本シリーズでも、中日ドラゴンズを4勝2敗で破って、見事日本一に輝いたのである。
それまで優勝を経験したことがなかった選手達は、広岡式管理野球への反発も忘れて、誰もが広岡監督に感謝した。

 

この日本シリーズで、広岡は画期的な戦法を編み出した。
エースの東尾を、中継ぎとして起用したのである。
シーズン中は先発の柱だった東尾を、短期決戦の日本シリーズでは重要な場面のみで投げさせ、その結果、東尾は2勝1敗1Sとチーム4勝のうち3勝に絡み、シリーズMVPに輝いた。
広岡西武の大ヒットとも言える投手起用だったが、この作戦を考えたのは森ヘッドコーチだった。
以降、広岡西武にとっての日本シリーズでの投手起用は、「東尾の中継ぎ」が基本戦略となる。

 

翌1983年(昭和58年)、圧倒的な強さでパ・リーグを制した西武は、日本シリーズで宿敵・巨人と相対することになる。
広岡にとって巨人とは、愛してやまない存在であり、憎んでも憎みきれないチームでもあった。
それは、前述を読めばわかるだろう。
広岡は巨人に育てられ、巨人に捨てられたのだ。
広岡ほどではないとはいえ、森にとっても巨人から追われた身である。
ヤクルト時代にセ・リーグでは打倒巨人の目標を成し遂げたが、遂に日本シリーズという最高の舞台で、打倒巨人を果たす時が来たのだ。
広岡にとって、ようやくパ・リーグに来た意味があったとも言えよう。

 

西武にとっても、球界の新盟主という旗印を掲げていただけに、球界の盟主たる巨人打倒は悲願であった。
西武と巨人の日本一争いは逆転に次ぐ逆転、一進一退の攻防を繰り広げ、日本シリーズ最高の名勝負と言われた。
2勝3敗で迎えた第6戦、1点ビハインドで迎えた9回裏に起死回生で同点に追い付き、延長10回で巨人のエース・江川卓からサヨナラ勝ちを奪って一気に息を吹き返した。
そして3勝3敗で迎えた第7戦、絶好調の西本聖を捉え、巨人を3-2で破って見事に2年連続日本一に輝いたのである。
このシリーズでも、エースの東尾を中継ぎとして使い、投手起用の差が日本一の明暗を分けた。

 

第5戦、敵地の後楽園球場でサヨナラ負けし、2勝3敗で王手をかけられたあと、広岡は池袋のサンシャインプリンスホテルでミーティングを行った。
場所は狭い会議室ではなく、広い宴会場。
宴会場に入るなり、広岡は「カラオケをやりたくなるなあ」と言い放った。
いつもは謹厳実直な広岡が言った思わぬ冗談に、意気消沈していた選手達から笑いが漏れた。
選手達の緊張感を解きほぐしたあと広岡は、ウチは絶対に勝つ、と選手達に説明を始めた。
西武には杉本正松沼博久(松沼兄)の先発陣が残っているし、救援陣にも東尾と抑えの森繁和が控えている、逆に巨人は江川と西本に頼りきりでもう投手はいない、必ずウチが勝つようになっている、と。
広岡の言葉通り、本拠地の西武球場で連勝した西武が日本一となった。
広岡と森は、打倒巨人という最大の目標を果たしたのである。

 

しかし、打倒巨人を果たしたために、広岡西武は目標を見失ったのだろうか。
翌1984年(昭和59年)は阪急ブレーブスに独走優勝を許してしまい、西武は3位に甘んじた。
V2を支えた主力打者の田淵、山崎裕之大田卓司が揃って故障、テリー・ウィットフィールドメジャーリーグを目指して退団し、磐石を誇った投手陣も崩壊してしまたのでは、とても優勝を狙える状況ではなかった。
シーズン終了後、広岡は田淵や山崎といったベテランを一掃したのである。

 

それだけではない。
「投手陣が崩壊したのはヘッドコーチの責任」と、森も追放してしまったのだ。
蜜月と言われた広岡と森の仲がこじれたのは、この退団劇がきっかけである。
森にしてみれば、なんで俺が責任を負わされるのか、という気持ちだっただろう。
森は広岡に言われるがままに、選手達の行動に目を光らせ、選手達に嫌われるのを覚悟でスパイ活動を行っていたのだ。
森自身は、「グラウンド内での選手の管理は必要だが、私生活まで管理する必要はない」と考えていたが、「監督の考えに沿って動くのがコーチの役目」という考え方の持ち主であり、不本意ながらも広岡の命令通り選手に嫌われるスパイ役を果たしていたのである。
広岡にとって、森ほど便利な人材はいない。
しかし広岡は、森を切ってしまった。
これが広岡の、迷走の始まりである。
さらに、この年に広岡西武は重大なアキレス腱を抱えていることを露呈してしまった。
それは後に述べることにする。

 

翌1985年(昭和60年)、広岡西武は磐石の体制でパ・リーグを独走優勝した。
ベテラン陣の一掃、投手陣では工藤公康渡辺久信の台頭、野手では秋山幸二辻発彦といった若手が成長し、中日からは田尾安志も獲得して、森ヘッドコーチがいなくても優勝できることを証明した。
……ように見えた。

 

そして迎えた日本シリーズ、相手は21年ぶりに優勝した阪神タイガース
阪神は一番の真弓明信、三番のランディ・バース、四番の掛布雅之、五番の岡田彰布という超強力打線を売り物にするチーム。
その反面、投手陣は弱く、実に荒っぽいチームと思われた。
それに対する広岡西武は緻密な野球を駆使し、投手陣は安定感があるので西武が有利、という見方が圧倒的だった。
しかし、結果は以下の通りである。

 


●第1戦(10月26日)西武ライオンズ球場(阪神1勝) 観衆=32,463人

阪神 000 000 030=3
西武 000 000 000=0

 勝=池田 1勝
敗=松沼博 1敗
本=バース1号(工藤=3ラン)
勝利打点=バース1

 

●第2戦(10月27日)西武ライオンズ球場(阪神2勝) 観衆=32,593人

阪神 000 200 000=2
西武 001 000 000=1

勝=ゲイル 1勝
敗=高橋直 1敗
S=中西 1S
本=石毛1号(ゲイル=ソロ)、バース2号(高橋直=2ラン)
勝利打点=バース2

 

●第3戦(10月29日)阪神甲子園球場(阪神2勝1敗) 観衆=51,355人

西武 040 100 010=6
阪神 003 000 001=4

勝=東尾 1勝
敗=中田良 1敗
本=石毛2号(中田良=2ラン)、バース3号(工藤=3ラン)、岡村1号(佐藤秀=ソロ)、 嶋田宗1号(東尾=ソロ)
勝利打点=岡村1


●第4戦(10月30日)阪神甲子園球場(2勝2敗) 観衆=51,554人

西武 000 002 002=4
阪神 000 001 010=2

勝=永射 1勝
敗=福間 1敗
S=東尾 1勝1S
本=スティーブ1号(伊藤=2ラン)、真弓1号(松沼博=ソロ)、西岡1号(福間=2ラン)
勝利打点=西岡1


●第5戦(10月31日)阪神甲子園球場(阪神3勝2敗) 観衆=51,430人

西武 011 000 000=2
阪神 400 020 10X=7

勝=福間 1勝1敗
敗=小野 1敗
本=掛布1号(小野=3ラン)、大田1号(池田=ソロ)、長崎1号(石井=2ラン)
勝利打点=掛布1


●第6戦(11月2日)西武ライオンズ球場(阪神4勝2敗) 観衆=32,371人

阪神 410 010 102=9
西武 100 100 001=3

勝=ゲイル 2勝
敗=高橋直 2敗
本=長崎2号(高橋直=満塁)、石毛3号(ゲイル=ソロ)、真弓2号(高橋直=ソロ)、掛布2号(渡辺=2ラン)
勝利打点=長崎1


阪神タイガースセントラル・リーグ)が4勝2敗で日本一(初)

最優秀選手賞=ランディ・バース(阪神)
敢闘賞=石毛宏典(西武)
優秀選手賞=真弓明信(阪神)、長崎啓二(阪神)、リチャード・ゲイル(阪神)

 


まさしく、西武が阪神に圧倒されたシリーズだった。
西武球場で始まった第1戦の先発は、西武がアンダースローの松沼博久(松沼兄)。
東尾を第1戦の先発に起用しなかったのは、要するに森が編み出した「東尾を中継ぎ起用」を踏襲したからである。
森を切ってもなお、広岡は「森野球」に固執していたのだ。
阪神の先発は2年目の池田親興
しかし西武打線は池田を攻めあぐね、ゼロ行進を繰り返す。
一進一退の攻防が続いた8回表、0-0の場面で西武は無死一、三塁の大ピンチを迎えた。
バッターは三冠王のバース。
ここで広岡は松沼博を諦め、成長著しい工藤をリリーフに送った。
シーズン中は先発に中継ぎに大車輪の活躍を見せていた若い工藤が、満を持してマウンドに上がったのである。
工藤はまさしく、日本シリーズのキーマンと言われていた。

 

しかし、工藤の起用は裏目に出た。
バースは工藤の外角球を捉え、レフトスタンドへ見事に3ランを放ったのである。
バースの一発により西武は沈没、池田に完封まで許して第1戦を落とした。
でも、なぜこの場面で工藤だったのだろう。
確かに工藤はキーマンだったとはいえ、左殺しの永射保の方が適任だったと思われる。
同じ左投手なら、アンダースローの永射の方がバースにとってはより嫌な相手だったはずだ。
だが、広岡はそうはせず、3点を失った。
さらに、池田に完封負けを喫してしまったのである。

 

第2戦の先発は、西武が高橋直樹で阪神はリチャード・ゲイル。
西武は石毛宏典がゲイルからソロホーマーを放って先制するが、阪神はすかさずバースの2ランで逆転に成功。
さらに7回、1点のビハインドの西武はセーフティ・スクイズを試みるも、バースの好守備により得点できなかった。
広岡は阪神の弱点を「バースの守備」と見ていたが、そのバースの守備によって得点を阻まれたのだからどうしようもなかった。

 

土、日の西武球場で阪神が連勝した翌日の月曜日は移動日となった。
この日、この年の広岡西武を象徴する出来事が二つもあった。
それは後に述べるが、広岡西武は負けるべくして負けた、とだけ言っておこう。

 

場所を甲子園に移した第3戦は、阪神は中田良弘、西武は工藤の先発で始まった。
西武は石毛の2ランなどで4点を奪い中田良を早々とKO、試合を有利に進めた。
しかし阪神もバースが工藤から3ランを放って追いすがる。
結果的には西武が6-4で勝ったが、工藤が第1戦に続いて第3戦でもバースにホームランを打たれたのは痛かった。
これにより、キーマンと見られていた工藤が、大事な場面で使えなくなったのである。
第4戦以降、工藤のここ一番での登板はなくなった。
唯一の登板が、第6戦でのリリーフ、勝敗が決した後である。

 

阪神の2勝1敗となった第4戦、西武は中3日でエースの松沼博を立てたが、阪神は池田の先発を回避、シーズン中はほとんど活躍しなかった伊藤宏光(現・文隆)を起用した。
誰もがあっと驚く先発起用だったが、伊藤は期待に応えて好投、スティーブ・オンティベロスの2ランだけに抑えた。
その後は阪神も同点に追い付くも、9回に福間納が西岡良洋に2ランを浴び、敗戦投手となった。
ちなみにこの日の有料入場者数・51,554人は、日本シリーズ最高の観客動員数である。

当時の日本シリーズはすべてデーゲームだったので、この日は平日(水曜日)の昼間だったのだが、それにもかかわらずこの大観衆。
現在の甲子園はスタンドが改修され、収容人員は47,757人であり、ナイトゲームでもこんな観客動員は望めない。

 

第5戦、阪神は満を持してエースの池田が先発。
一方の西武は、ローテーション通りなら第2戦で先発した高橋直だが、ベテランで中3日はいかにもキツい。
第5戦を別の投手で賄えたら、第6戦は中6日という磐石の体制で高橋直を先発起用できる。
そこで新エース候補である速球派・渡辺の先発が予想されたが、蓋を開けてみればシーズン中は3勝しかしていなかった小野和幸が先発した。
「広岡が捨てゲームを仕掛けたのか?」とも思われたこの先発起用、その危惧が初回に早くも当たり、不調だった阪神の四番・掛布がバックスクリーンへ先制3ランを放ち、早い段階で小野をKO。
西武打線も池田から大田がソロホーマーを放って追いすがるが、阪神は巧みな継投で西武の反撃を断つ。
圧巻だったのは、2点差に迫られた4回に一死満塁のピンチで打者は西岡の場面、阪神の吉田監督は敢えて前日に西岡に決勝2ランを浴びた福間をぶつけ、見事に併殺で切り抜けたシーンだ。
絶体絶命のピンチを切り抜けた阪神は5回、長崎啓二の2ランで一気に突き放し、以降は守護神・中西清起に繋いで7-2で快勝、日本一へリーチをかけた。

 

阪神が3勝2敗となり、金曜日は移動日。
この移動日でも、再び事件が起きた。
伊丹から羽田への移動で、阪神と西武の飛行機が一緒になってしまったのである。
普通なら、ピリピリしたムードが漂って当然だった。
ところが、西武のある選手が、阪神の岡田の席に来て話しかけた。
「岡田、このシリーズで当たってないのはお前だけじゃないか。頑張ってくれないと俺が困るよ。だって、俺はお前がMVPになると賭けてるんだから」
なんと、西武の選手達は、MVP選手の賭けをしていたのである。
しかも、自チームの選手ではなく、敵チームの選手がMVPになると予想していた。
つまり、西武の選手達は自分たちが負けると思っていたのである。
このやり取りを聞いていた掛布は、絶対に西武に負けるわけにはいかない、と心に誓った。

 

西武球場に戻った第6戦、先発は西武が高橋直、阪神がゲイルと、共に第2戦の先発同士だった。
広岡には計算があった。
第4戦に阪神が池田の先発を回避したからには、もう第7戦には投手が余っていない、と。
ローテーション通りだと、第7戦の阪神の先発は中田良になるが、中田良は第3戦でKOされているので、とても日本一を決める試合で任せられる投手ではない。
一方の西武には、阪神打線が苦手とするサブマリンの高橋直と松沼博が残っている。
投手力から言って、西武が有利と広岡は踏んだのだろう。

 

だが、この判断は裏目に出た。
阪神打線には、既に火が点いていたのである。
第4戦まで湿りがちだった阪神打線が、小野の先発によって一気に息を吹き返し、シーズン中の打棒が蘇ったのだ。
これは広岡にとって大誤算だっただろう。
東尾をリリーフに回すという投手起用は森の作戦を踏襲するものだったが、82,83年と連覇した当時とはチーム事情が違っていた。
2年前には森繁和という絶対的なクローザーがいたが、この年の森繁和は全く頼りにならなかった。

つまり広岡は、単に森の投手起用を真似ただけである。
もし森がヘッドコーチだったら、こんな投手起用はしなかっただろう。
事実、森が西武の監督になった翌年の日本シリーズでは、東尾を先発に戻し、見事に日本シリーズを制覇している。
森解任の影響は、ここでも出ていた。

 

初回、長崎が高橋直からいきなり満塁ホームランを放って、阪神が試合を圧倒的に有利に進める。
その後も着々と加点し、西武の反撃を許さなかった。
結局、第6戦は9-3で阪神が圧勝、最終戦を待たずして阪神が4勝2敗で西武を打ち砕いて、見事に日本一に輝いたのである。
阪神の自由奔放な野球が、広岡式管理野球を完膚無きまでに叩きのめしたシリーズだった。

 

では、問題となった第3戦前の移動日に、一体何があったのか。
この日、甲子園では両チームの練習が行われていた。
阪神のフリーバッティング中、ケージの後ろで練習を見守っていた吉田監督に、広岡監督が歩み寄ってきた。
現役時代、阪神と巨人の名ショートと言われた両雄である。
広岡は吉田に何を話しかけるのだろう?
おそらく、さりげない世間話をしながら、敵情を聞き出すに違いない。
誰もがそう思った。

 

ところが、広岡が吉田に語りかけた言葉は、それとは大幅にかけ離れていたのである。

「吉田監督。強いチームを作るのは大変だね。自分は理想的なチーム作りをしたいのに、フロントがそうさせてくれない。誰にも言ってないことだけど、僕はこのシリーズ終了後、監督を辞めると思う」
なんと広岡は、吉田に監督辞任を打ち明けていたのだ。
現役時代は遊撃手としてのライバルであり、現在では同じ監督という立場の吉田なら自分の心情がわかってもらえると広岡は思ったのだろうか。

 

広岡は早稲田大学、吉田は立命館大学出身。

立命館で一回生だった吉田が、早稲田との対抗試合でショートを守っていた広岡の動きに魅了されていた。

しかし、その頃既に東京六大学のスター選手だった広岡は、監督からこう言われた。

立命館の一年坊主ショートは、お前より守備が上手いぞ」

広岡にとって、それは屈辱的な言葉だったに違いない。

その後、両者はプロに進んで日本一の名遊撃手の座を競い合った。

広岡と吉田は、お互いにとって特別な存在だったのである。

 

時計を1985年10月28日に戻すと、移動日となったこの日の夜、広岡はコーチ陣を連れ立って、大阪の繁華街である北新地に繰り出していた。
新地のクラブで広岡は、カラオケで「六甲おろし」を熱唱していたのである。
敵の首領である吉田に監督解任を打ち明け、カラオケでは敵チームの応援歌を熱唱する……。
もはや広岡は、西武の監督であることに意義を失っていた。
その兆候は既に、シーズン中に現れていたのである。

 

その年の10月9日、藤井寺球場で西武はパ・リーグ優勝を決めた。
ところが、広岡監督は胴上げされなかった。
胴上げされるべき広岡は、その場にいなかったのである。
理由は、病気のために入院していたためだ。
では、どんな病気だったのか。

 

時計は1年半前の、1984年(昭和59年)のシーズン当初に遡る。
82,83年と日本シリーズを連覇し、しかも前年は巨人を倒しての日本一だったこともあって広岡西武は余裕綽々だった。
しかもこの年、トレードで日本ハム・ファイターズから優勝請負人と言われた球界一のクローザー・江夏豊を獲得していたのである。
一匹狼・江夏と、管理野球を標榜する広岡との間では衝突が懸念されたが、それ以上に江夏加入による戦力アップは「鬼に金棒」と思われていた。
だが、事件は起きてしまったのである。

 

5月に関西遠征した西武は、新阪急ホテルで朝食会を行った。
チームの首脳陣はもちろん、本社の幹部連中まで顔を揃えている。
そこに、江夏も呼ばれた。
食卓に並んでいるのは当然、玄米や豆乳などの自然食ばかり。
たまたま広岡の隣りに座った江夏は、こう問いかけた。
「ねえ監督。監督はこんな物ばかり食ってて、なんで痛風なの?」

 

その場が凍りついた。
広岡が痛風だということは、西武内ではタブーだったのである。
痛風とは別名「贅沢病」。
即ち、肉類やアルコールなどを摂り過ぎた時に起きる病気である。
禁酒・禁煙・禁肉食を実践していれば、発症する病気ではない。
広岡は選手達に禁酒・禁煙・禁肉食を押し付けながら、自分では痛風になってしまった。
「選手と監督では食生活も違う」というのが広岡の論理だったが、それでは選手は納得しないだろう。

そのせいかどうかはわからないが、江夏はシーズン途中からは干されて、ずっと二軍暮らし、シーズン終了後には退団してしまった。
84年のオフには江夏、田淵、山崎と、森ヘッドコーチが西武からいなくなったのである。
広岡にとっては不満分子を一掃しただけであり、さらに翌85年にはリーグ優勝も果たしたが、それでも自分自身の不満は残っただけだった。
それがシーズン中の、優勝を目前とした時期での異例の戦線離脱である。

 

戦線離脱の理由は、痛風の悪化だった。
広岡は長野県諏訪市の病院に入院してしまったのである。
普通の病気なら選手達も同情しただろうが、何しろ病名は痛風だ。
俺たちには禁酒・禁煙・禁肉食を押し付けておいて、監督自身が痛風で敵前逃亡とは何事だ。
それが日本シリーズ第6戦前の移動日、「MVP賭け事件」に繋がったのだろう。
もはや西武の選手達に、日本シリーズで勝つ気は失せていたのだ。

 

だが、広岡の本当の不満は、根本管理部長にあった。
人事権は根本管理部長に握られ、自分の思い通りのチーム作りができない。
そこで、広岡は人事権をも統括できる権限を、フロントに求めた。
メジャー・リーグ流に言うならば、広岡がゼネラル・マネージャー(GM)とフィールド・マネージャー(監督)を兼任する、というものである。
しかし、この広岡の要求は突っぱねられた。
そして、吉田監督に予言したとおり、広岡は西武の監督を辞任することになる。

 

しかし、西武は広岡辞任の後任人事について、ウルトラCを発揮した。
1年前にはクビを切ったヘッドコーチの森を、監督として招聘したのである。
根本管理部長は、森の手腕を高く評価していた。
従って、広岡の後の森監督就任は、根本にとって既定路線だったのである。

 

広岡は、森監督就任について様々な妨害工作を施した。
曰く「森は作戦面に問題があるし、人間性も監督向きではない」と。
作戦面はともかく、人間性まで云々されることは森にとって心外だっただろう。
そもそも、選手を監視するという嫌な役を広岡から押し付けられて、そのために選手から嫌われていたのは、他ならぬ森だったのだ。
しかも自分を中傷しているのは、苦楽を共に分かち合った広岡である。
この時から、広岡と森の決裂は決定的となった。

 

西武の監督に就任した森は、広岡監督下でのヘッドコーチ時代の選手監視はやめて、グラウンド内では厳しく管理するが私生活は問わないという方針を打ち出し、西武黄金時代を築き上げた。

 

一方の広岡は、その後は現場に復帰することなかった。
1995年(平成7年)に千葉ロッテ・マリーンズのGMに就任して、弱小球団を2位に押し上げる手腕を発揮するも、自ら招聘した監督のボビー・バレンタインを「野球観が合わない」として僅か1年で解任するなど、迷走が続く。
そして翌年には自ら推した江尻亮を監督に就任させたが、この年は5位に低迷したため、GMは僅か2年で解任された。
この時も広岡は、自分を解任したロッテの重光オーナーを「独裁オーナー」と断罪している。

 

江夏は広岡を「勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任と言う人だ」と語っている。
現在でも「広岡さんは最も野球を知り尽くした人物だ」という人は多いのに、名声を残せなかったのは、あまりにも頑固な性格ゆえだろうか。
ただ「勝てば自分の手柄、負ければ他人の責任」という人生哲学は、間違いなく成功者が持っている理念ではある。