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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

「投げ縄」のルーツ

連日、体罰のニュースがテレビや新聞紙面を賑わせている。

体罰については以前もここで書いたので今回は詳しく触れないが、今回の事件の背景には「体育会気質」というスポーツとは無縁、というよりスポーツ精神と正反対な考え方が日本のスポーツ界に蔓延っているからこそ、歪んだ事件が噴出している、とだけ言っておこう。

 

さて、本日(2月5日)付の朝日新聞朝刊に「体罰にラリアット」という記事が出ていた。

「今度は生徒にラリアットを食らわせた先生がいたのか!?」と思ったが、そうではなくてスタン・ハンセンが日本の体罰問題について語るという内容だった。

 

スタン・ハンセンといえば、プロレス黄金時代と言われた1980年代に大活躍したプロレスラーである。

必殺技のウエスタン・ラリアットを武器に、NWFヘビー級、PWFヘビー級、AWA世界ヘビー級、三冠統一ヘビー級など、数知れずのチャンピオンベルトを腰に巻いた伝説のレスラーだ。

では、ハンセンはどんな経緯でプロレスラーになったのだろうか?

 

スタン・ハンセンは1949年、アメリカ合衆国オクラホマ州に生まれる。

子供の頃から「バッド・ボーイ(悪童)」と呼ばれ、ケンカに明け暮れる毎日だった。

高校に入るとレスリング部とアメリカン・フットボール部を掛け持ちし、将来の進路をプロレスラーと決める。

高校卒業後、「ドラム缶を腕で抱え潰す腕力」を地元のプロモーターに売り込み、プロレスデビューを果たした。

しかし、ハンセンは試合ごとに凄まじい腕力で相手の首を絞め上げ、いつもチョークによる反則負けばかり。

ハンセンはザ・ファンクスに将来性を見込まれ、ファンク牧場があるテキサス州アマリロで修行を積むようになったが、首絞め反則は相変わらずで、師匠のドリー・ファンク・ジュニアから怒られる毎日だった。

ギャラも上がらず、プロレスを廃業しようかとさえ思う毎日だったが、日本からファンク牧場へ修行に来ていたジャンボ鶴田が「首を絞めれば反則になるが、腕を首にぶつけるぶんには反則にはならず、強力な必殺技ができるかも知れない」と助言し、ハンセンは鶴田の言葉をヒントに新必殺技の猛特訓を積んだ。

そして完成したのがウエスタン・ラリアートである。

この恐怖の首折り技によりハンセンは一流レスラーに昇り詰め、やがてはニューヨークでWWWF世界ヘビー級チャンピオンのスーパースター、ブルーノ・サンマルチノをウエスタン・ラリアートによって首を骨折させた―。

 

この経歴を読んで、多くのプロレスファンは「あれっ?」と思うだろう。

そう、ここで書いていることはほとんどがデタラメなのだ。

実はこの経歴は、かつて少年サンデーで連載されていたプロレススーパースター列伝(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)」での「首折り魔!スタン・ハンセン」シリーズで描かれていたもの。

この漫画は実在のプロレスラーのことをノンフィクションふうに描かれていたため、当時の読者はこれが本当のことだと信じられていた。

しかし、梶原一騎原作のノンフィクション作品でありがちなように、この漫画の信憑性はせいぜい2割程度だった。

ちなみに、ハンセンは「文明のキングコングブルーザー・ブロディシリーズでも登場し、ハンセン編では高卒だったはずのハンセンが、ブロディ編ではなぜか大卒になっている。

真実に近いのはブロディ編の方で、ハンセンはブロディと同じくウエスト・テキサス州立大学出身だ。

ただし、「ー列伝」ではハンセンとブロディが大学時代から大親友のように書かれているが、実際にはブロディの方が3つ年上で、もちろん面識はあったものの親友というわけではなかったらしい。

二人は同じアメフト部に所属し、「またもや、俺たちのコンビで試合を決めたな!」と、ハンセンとブロディがいかにも決勝タッチダウンを奪ったかのような絵がブロディ編では描かれているが、ハンセンのポジションはディフェンスのラインバッカーであり、そう簡単に(インターセプトをしない限り)タッチダウンなど奪えなかったはず。

卒業を目前にし、ハンセンやブロディの元にはプロのアメフト界とプロレス界からスカウトが殺到するが、ハンセンは「契約金はデカイが選手寿命が短い」アメフトよりも長年にわたって稼げるプロレスを選び、ブロディは「野蛮なプロスポーツ選手よりも、紳士的な職業に就いて欲しい」という両親の意向を汲んでスポーツ新聞記者となる。

まあ、どちらのエピソードも大嘘なのであるが……。

 

では、ハンセンの本当の経歴はどうだったのか。

ハンセンは1949年8月29日、アメリカ合衆国テキサス州ナック・シティ生まれ(この時点で「―列伝」の「オクラホマ州生まれ」と異なる)。

ウエスト・テキサス州立大学でアメフトの選手だったハンセンは、卒業後にNFLのボルティモアコルツ(現在のインディアナポリス・コルツ)に入団、その後はサンディエゴ・チャージャーズに移籍したが、一軍でプレーすることはなかった。

将来に不安を感じたハンセンはシーズンオフに教職課程を取り、「アメフトでダメなら教師として生計を立てよう」と考えていたのである。

「今季ダメならアメフトは諦めよう」と決めていたチャージャーズでのキャンプで、ハンセンはコーチから「一軍と二軍との当落線上にある」と聞かされ、イチかバチかに賭けるよりも堅実な教師になろうと決心する。

アメフトで言えばギャンブルはせずに、パントを蹴り込んだというところか。

 

こうしてハンセンは、華やかなNFLの世界から地味な中学校教師の生活を送ることになる。

今回、朝日新聞がハンセンにインタビューを申し込んだのは、ハンセンが元教師だったからに他ならない。

ハンセンはインタビューで、

「アメフトのコーチをしていて体罰をしたことはなかったが、体育の授業中に男子生徒の尻を棒で軽く叩いたことはある。その生徒はアンハッピーだったろう。そのことで校長から注意を受けた。当時はアメリカでも体罰はあったが、ちょうどその頃から体罰が問題化されたので、今はもうないと思う。自分も選手時代に体罰を受けたことがあったが、そのコーチに対しては怒りの感情しかなかった」

と答えている。

 

教職に就いたハンセンだったが、安月給は如何ともし難かった。

実はハンセンの父親が、ファンク一家の総帥である元プロレスラーのドリー・ファンク・シニアと知り合いであり、その息子の現役レスラーであるドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクが大学のアメフト部の先輩だった縁もあって、ハンセンはファンク一家に勧められてプロレスラーとなったのである。

 

アメフトで鍛えた大きな体を武器にリングで暴れまわるハンセンだったが、不器用さが目立つ木偶の坊という評価で、メインエベンターには程遠かった。

その頃、日本からジャンボ鶴田がファンク牧場へ修行に来ていたが、評価はハンセンよりも鶴田の方が断然上だったのである(この辺りの表記は「―列伝」でも間違っていない)。

鶴田は当時のことを、

「日本食が恋しくて、日本からインスタントラーメンを送ってもらったんだよ。当時は俺もハンセンもギャラが安かったしね。それで腹を減らしたハンセンにご馳走してやったら、ハンセンがこのインスタントラーメンを気に入っちゃってね。勝手に30袋以上も食われちゃった」

と述懐している。

 

しかしハンセンは、ザ・ファンクスと全日本プロレスとの関係が深かったこともあって、1975年に初来日を果たす。

当時の外人レスラーにとって日本遠征は出世への登竜門と言われていたが、この頃のハンセンはドタバタした動きばかりが目立って、ちゃんとしたレスリングもできず、既に日本ではメインエベンターに出世していた鶴田とも大きく水を開けられていて、全日本プロレスの社長兼エースだったジャイアント馬場からの評価も低かった。

このシリーズ最終戦、蔵前国技館でザ・デストロイヤーと好勝負を演じたため、ボーナスを受け取ることに成功したが、この時点で馬場はもう二度とハンセンを全日本に呼ぼうとは思わなかったのではないか。

 

アメリカに戻ったハンセンは、今までのようにザ・ファンクスの庇護の元ではジャンプアップできないと思い、テキサスから離れて全米各地をサーキットするようになる。

そして転機が訪れたのが1976年4月26日、ニューヨークでのことだ。

WWWF(現在のWWE)世界ヘビー級チャンピオン、スーパースターのブルーノ・サンマルチノに挑戦した時だ。

ここでハンセンは大失態を犯してしまう。

サンマルチノに仕掛けたボディ・スラムが不器用だったために首から落ちてしまい、サンマルチノの首を折ってしまったのだ(正確には第六頸部脊椎骨骨折)。

これが有名な「スタン・ハンセンによるブルーノ・サンマルチノ首折り事件」である。

日本ではいかにもハンセンの出世試合のように報じられているが、実際にはサンマルチノはもちろん、ハンセンにとっても不幸な事故だったのだ。

サンマルチノは2ヵ月間の入院生活を余儀なくされ、ハンセンには「スーパースターを大怪我させた下手くそなレスラー」というレッテルを貼られてしまった。

 

サンマルチノを欠場させたハンセンに対する風当たりは強く、商売あがったりとなったプロモーターからは「ハンセンをニューヨークから追放すべし」という意見が出たが、被害者のサンマルチノが「ハンセンを責めないで欲しい」と懇願したため、ハンセンはニューヨークを追放されずに済んだ。

ハンセンはサンマルチノの男気に対し、感激するとともに責任も大きく感じたという。

「ー列伝」ではサンマルチノ首折り事件についてハンセンが,

「(サンマルチノの首折りは)偶然じゃねえ!人気があって、英雄ぶってるやつを、ねらいうちするんだ!!」

と言っていることになっているが、そんなことは絶対に有り得ない。

相手レスラーをわざと大怪我させるなんて、それだけでプロ失格である。

 

ハンセンには、サンマルチノ欠場の責任を負わされることになった。

メインエベンターのサンマルチノが欠場している間、ハンセンが客を集めなければならないのである。

メインエベンターはプロモーターの利益のみならず、中堅レスラーや前座レスラーのギャランティーも確保しなければならなかった。

サンマルチノがいなくなったので、ハンセンが会場を満員にしなければならなかったのである。

幸いなことに(?)サンマルチノを大怪我させたハンセンの悪役人気が沸騰したおかげで、サンマルチノがいなくなっても満員の観衆を集めることができた。

 

そして1976年6月25日、サンマルチノの復帰戦にハンセンが挑戦することになったのである。

メジャーリーグニューヨーク・メッツの本拠地であるシェイ・スタジアムに満員の観衆を集めたこの日、地球の裏側の日本武道館では世紀の一戦と言われたアントニオ猪木×モハメド・アリの格闘技世界一決定戦が行われ、シェイ・スタジアムではクローズト・サーキットで放映された。

まさしくハンセンにとってレスラー人生最高の舞台だっただろう。

 

この頃、ニューヨークのメインエベンターになっていたハンセンに、猪木×アリ戦の縁があったからか、新日本プロレスからのオファーがあった。

この時、新日本行きを勧めたのは他ならぬサンマルチノだったという。

このまま海千山千のWWWFの戦略に乗るより、日本に行ってトップレスラーの道を切り拓いた方が良い、と。

自分を大怪我させたハンセンに対し、こんなアドバイスを送ったサンマルチノはやはり人格者だったのだろう。

 

1977年、ハンセンは初めて新日本プロレスのマットに立った。

2年前の全日本プロレスでは成功したとは言い難く、日本ではほとんど無名に近い存在だったにもかかわらず、新日本ではトップ外人の扱いを受けた。

理由は、WWWF世界ヘビー級チャンピオンだったブルーノ・サンマルチノを首骨折に追い込んだ実力派レスラーとして売り込んだためである。

普通なら、スターレスラーを大怪我させたらマイナスイメージになるのを逆手にとって、ハンセンはとんでもない実力の持ち主だと喧伝したのだ。

しかも、大怪我したのはライバル・全日本プロレスの総帥であるジャイアント馬場の親友だったブルーノ・サンマルチノである。

馬場の親友でありライバルだったサンマルチノでさえ、ハンセンにかかればイチコロだった、というイメージをファンに植え付けたのだ。

 

しかも、サンマルチノが大怪我した原因は、ハンセンの不器用なボディスラムではなく、必殺技のウエスタン・ラリアートによるものだ、とすり替えてしまった。

さらにハンセンのウエスタン・ラリアートの凄さを引き出すため、新日本プロレスでは猪木に次ぐ№2の地位にあった坂口征二とハンセンを対戦させ、坂口はハンセンのラリアートを食らって喉から血を吹き、失神KOという場面を作り出したのである。

この時の坂口は、血が入ったコンドームを口の中に入れ、ハンセンのラリアートを食らった瞬間にコンドームを噛みちぎって、いかにもハンセンのラリアートによる首からの出血だと演じたのである。

柔道日本一で、外人レスラー相手でもヒケを取らない坂口の巨体ですら、ハンセンのウエスタン・ラリアートの前にはひとたまりもない、という戦慄の場面を演出した。

 

だが、ブルーノ・サンマルチノの首を折ったのはウエスタン・ラリアートではなく、不器用なボディ・スラムである。

それがなぜ、ウエスタン・ラリアート伝説が一人歩きしたのだろうか?

少なくとも「ー列伝」であるように、ジャンボ鶴田がハンセンにアドバイスしたわけではなさそうだ。

 

スタン・ハンセンの自伝「魂のラリアット(双葉社)」によれば、

「アメフトでプレーしていた時、当時は合法だった首へのタックルが威力を発揮した。それをプロレスに活かしたのがウエスタン・ラリアットだ。現在のアメフトでは首へのタックルは危険なプレーとして反則になっている」

ということだ。

しかしハンセンは、ウエスタン・ラリアットをフィニッシュ・ホールドとして使用していたわけではない。

アメリカでは、腕を相手の首に当てる程度の技だったようである。

 

では、ハンセンの代名詞である「ラリアット」はどこから来たのだろうか?

まだメインエベンターになる前のハンセンのアメリカでのポスターを見ると「STAN"THE LARIAT"HANSEN」という文字が踊っている。

つまり、「LARIAT(ラリアット)」とは技の名前ではなく、リングネームの一部というわけだ。

「LARIAT(ラリアット)」とは「投げ縄」を意味する。

テキサス生まれでテキサスを主戦場としていたハンセンにとって、カウボーイの必需品である「投げ縄(ラリアット)」はイメージにピッタリだっただろう。

そして、相手の首に腕を引っ掛ける技は「投げ縄(ラリアット)」という名にふさわしかったに違いない。

ただ、必殺技が「投げ縄(ラリアット)」では、少々力感に欠ける。

そのため、ハンセンはアメリカではウエスタン・ラリアットをフィニッシュ・ホールドに使わなかったのではないだろうか。

 

ところが日本では、ブルーノ・サンマルチノの首を折ったという伝説が、ハンセンにとってプラスに作用した。

そして、ウエスタン・ラリアートをフィニッシュ・ホールドとしたのである。

この破壊力抜群の必殺技は日本で大ブームを呼び、日本人レスラーを総なめにして、遂にはアントニオ猪木をウエスタン・ラリアートで場外に吹っ飛ばしてNWFヘビー級チャンピオンに輝いた。

 

その後、全日本プロレスに引き抜かれて、第1回来日とは雲泥の差となる外人エース待遇で、ジャイアント馬場ジャンボ鶴田と死闘を繰り広げることになった。

この移籍により、新日本プロレスで呼ばれていた「ウエスタン・ラリアート」から、より英語に近い「ウエスタン・ラリアット」と発音されるようになる。

 

ハンセンは日本で大人気レスラーとなったが、母国のアメリカではトップスターとは言えないとよく言われる。

しかし実際にはアメリカでも数多くのベルトを巻き、トップレスラーだったことは間違いない。

ただ、ハンセンのファイトスタイルは明らかに日本向きであり、日本の方が有名なのは明らかだろう。

 

ウエスタン・ラリアットでフォールを奪い、「ウィー!」と叫ぶ雄叫びは日本のファンを魅了した。

しかし、ラリアットの威力はアメリカのファンにはあまり馴染まなかったようである。

ハンセンがラリアットを開発して以降、あらゆるレスラーがラリアットを多発して流行技になったが、フィニッシュ・ホールドまで結びつけるレスラーは少なかった。

つまり、ラリアットは単なる痛め技に 過ぎなかったのである。

 

全米のトップスターとなったハルク・ホーガンは無名時代、新日本プロレスでハンセンのタッグ・パートナーとなってハンセンのエッセンスを取り入れた。

ハンセンが全日本プロレスに移籍したあと、ウエスタン・ラリアートからヒントを得た(ハッキリ言ってパクリ)新必殺技のアックス・ボンバーで一世を風靡し、新日本プロレスのエース外人に上り詰めた。

ちなみに、ウエスタン・ラリアットとアックス・ボンバーの違いは、腕を真っすぐにしているか、曲げているかだけである。

 

日本で大出世し、それを足がかりにして全米でもスーパースターになったホーガンだったが、アメリカでアックス・ボンバーを使用することはなかった。

ホーガンのアメリカでのフィニッシュ・ホールドはギロチン・ドロップだったのである。

このあたり、日米のプロレスファン気質が違うと言えるだろう。

 

ただ、ハンセンのファイトスタイルが日本のみならす、世界のプロレススタイルを変えたと言えそうだ。

ハンセン以前のプロレスといえば、じっくり相手を見てレスリングを仕掛けるスローテンポな試合ばかり。

そこへ、ハンセンのハイテンションなプロレスが持ち込まれた。

ハンセンの登場により、世界のマット界の潮流が変わったのである。

ハルク・ホーガン、ザ・ロード・ウォリアーズ、アルティメット・ウォリアー、ビッグ・バン・ベイダー、テリー・ゴディなどは、全てハンセンのコピーだ。

いずれもパワーを武器とし、ラリアット技でピンフォールを奪おうとする。

 

ハンセンの「投げ縄(ラリアット)」が、世界プロレス界の手綱を握った、ということだろうか。