ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

体罰

大阪市立桜宮高校で痛ましい事件が起きた。

男子バスケット部主将の生徒が顧問教師の体罰に耐えかねて、自殺したのである。

 

この教師による体罰は日常的に行われており、自殺した生徒は3~40発も殴られていたという。

しかも、桜宮高校には以前にもこの教師の体罰が報告されていたが、学校側は一応アンケートはとったものの、なんの事後対策もしなかった。

学校の隠蔽体質がまた浮き彫りになったのである。

「煮えたぎった鍋に蓋をすれば、かえって吹きこぼれる」

という大原則を知らなかったのだろう。

臭いものに蓋をしたばかりに、若くて尊い命を失った。

 

この体罰教師は熱心な指導者として知られており、殴られはしたが今では感謝している、と言っている生徒やOB(OG)も多い。

そのため、この教師を擁護する声も多く聞かれる。

おそらく、悪い先生ではなかったのだろう。

だが、この教師の体罰によって一人の生徒が死を選んだのだ。

 

そもそも、体罰ってなんなのだろう。

教育現場では「体罰禁止」ということになっている。

その反面、生徒を殴るような熱血教師の方が望ましい、という意見もある。

むしろ生徒の親が、我が子を殴れる先生に教わってもらいたい、と考えている人も多い。

生徒を殴れるのは愛情の証だ、と。

 

だが、本当にそうだろうか。

おそらくこの教師は、自殺した生徒を憎くて殴っていたわけではなく、愛情と期待を持っていたのだろう。

しかし、だからといって生徒を殴っていい、というわけではない。

生徒(あるいは部員)を殴らなくても、愛情を持ってちゃんと指導できる教師はいくらでもいる。

要するに、生徒を殴らなければ指導できない教師は、指導力不足なのだ。

 

普通に考えればわかることである。

一般社会で他人を殴ったらどうなるか。

答えは簡単、暴行罪でしょっぴかれる。

これは学校内、あるいはクラブ活動でも同じである。

先生が生徒を殴れば、暴行罪という立派な罪になるのだ。

暴行罪が成立するのは、暴行行為を行った時点、となっている。

これは刑法208条に書かれており、この罪を犯したものは「2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料となる。

暴行罪は親告罪ではないので、被害者が名乗り出なくても立派な犯罪になるのだ。

つまり、教師の暴力行為が発覚した時点でお縄頂戴となる。

さらに、暴行によって被害者が怪我を負ったりすると傷害罪となり、さらに罪は重くなるのだ。

刑法204条では、傷害罪は「15年以下の懲役又は50万円以下の罰金」と、暴行罪に比べてかなり重い。

場合によっては実刑になることもあるだろう。

 

要するに、体罰とは犯罪なのである。

ところが、学校という閉鎖的な社会では、暴力が容認されている。

明らかな暴力行為なのに、なぜか日本の学校では教師が生徒に暴力を振るうと「体罰」という言い方に変えられてしまう。

今回、生徒を自殺に追いやった教師は「体罰教師」というレッテルを貼られるだろうが、正確には「暴力教師」である。

これは、この暴力教師によって救われた生徒がいようが、あるいはクラブで立派な成績を挙げようが、この事実は変わらない。

この教師の暴力によって成長した生徒も多いかも知れないが、潰された生徒はそれ以上なのかも知れないのである。

ましてや、この教師によって生徒が一人、命を失ったのだ。

いわば、体罰という言葉が教師を甘えさせているのである。

 

こういう体罰教師、いや暴力教師にとって都合のいい言葉が「愛のムチ」である。

お前たちを愛しているから殴るんだ、なんて言い訳を付けて。

そんなことは絶対にあり得ない。

僕の父親は小学校の教師だったが、児童を殴ったことが何度もあったという。

ある日、テレビで体罰について語り合う番組があって、その中である教師が「生徒を殴るのは愛のムチだから……」と言っていた。

テレビを見ながら、僕は父親に、

「愛のムチってホンマにあるんか?腹が立ってないと、人は殴れんやろう?」

と聞いた。

父親は、

「ホンマにそのとおりや。俺も児童を何度も殴ったことがあるけど、ホンマに腹が立った時でないと殴れん。『愛のムチ』なんて思ったことは一度もない」

と言っていた。

別に憎くて殴るわけではないが、腹が立たないと他人なんて殴れないものである。

もし、腹も立たないのに他人を殴ることができるとすれば、その人は他人を殴るのが楽しいのだろう。

こんなのは人間のクズだが、体育会には多いような気がする。

 

僕も子供の頃は父親にはよく殴られもしたが、別にそのことによって成長したとは思っていない。

ハッキリ言って、殴られなければ成長できないヤツなんて、元々はダメなヤツなのである。

もし殴られて成長したと思ったのであれば、それは殴られたから成長したのではなく、何か別の要素があったのだろう。

逆に言えば、生徒を殴らなければ指導できない教師は、ダメな教師ということだ。

 

「体罰」や「愛のムチ」なんて便利な言葉で言い繕っているが、早い話が「暴力」という名のレッキとした犯罪である。

もし教育現場や体育会の連中が、

「いや、この厳しさこそが日本の文化である」

などと言い張るのなら日本は即刻、法治国家というレッテルをかなぐり捨てるべきである。

犯罪を文化などという国など、存在しないほうがいい。

そして刑法から「暴行罪」という項目を削除すべきである。

 

この暴力教師(あえてこう言う)は、職は失うだろうが罪に問われることはないだろう。

仮に罪に問われても暴行罪で(いくら生徒が死んだといっても、殺人罪や傷害致死罪になることは有り得ない)、最大でも2年以下の懲役だから執行猶予が付くと思われる。

したがって、刑務所にぶち込まれることはないだろうが、かえってその方が辛いかも知れない。

何しろ、自分の教え子を死に至らしめたのだ。

そう考えると、一生刑務所で過ごした方がどれだけ楽かわからない。

この暴力教師は、自分で良心の呵責に耐えるしかないのだ。

法によって裁かれる方が、ずっと楽だろう。

この暴力教師がどんな信念を持っていたかは知らないが、自らの暴力行為によって生徒の尊い命を奪い、一生十字架を背負っていかなければならなくなったのである。