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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

飛び地の謎

僕は大阪府富田林市という所で生まれ育った。
大阪市中心部から南東へ約20km、よく言えば衛星都市、悪く言えば田舎である(下の地図の赤く囲ったところ。黒い車線が大阪市)。
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よく知られていることと言えば、高校野球で有名なPL学園、そしてその母体であるPL教団が毎年8月1日に行う、日本一と言われるPL花火芸術だ。
PL学園の校歌に、
「若人の夢 羽曳野の 聖丘清く 育みて」
という歌詞があるので、PL教団は羽曳野市にあると思っている人がいるが、羽曳野市ではなくてその南の富田林市である。
ではなぜ歌詞の中に「羽曳野」という地名が現れるのかと言えば、PL教団がある富田林市北中部の丘陵地帯を「羽曳野丘陵」と呼ぶからだ。


富田林市は中央部を南北に走るこの羽曳野丘陵を境に、東西で全く異なる貌を持つ。
市の東側を近鉄長野線が通っており、西側には南海高野線が走っているので、東側が近鉄文化圏、西側が南海文化圏と言ってもいい。
関西は電鉄会社が宅地開発する場合が多いので、その土地を走る私鉄によって街のカラーが決められる。
同じ富田林市内でも、近鉄沿線と南海沿線では街の風景が全く違うのだ。
大阪市内へ行くには、富田林駅から近鉄電車に乗ると天王寺の隣りである大阪阿部野橋へ、金剛駅から南海電車を利用すればミナミのド真ん中である難波へ、共に約30分で着く。
市の中心部と言えるのは東側、即ち近鉄沿線で、富田林駅周辺には大阪府下で唯一の重要伝統的建造物群保存地区である寺内町があり、歴史ある古い街並みが続く。
だが、人口密集地は西側にある南海沿線の金剛団地で、金剛駅(駅そのものは大阪狭山市にある)から広大な団地群が拡がる。
江戸時代以前から栄えていた富田林駅周辺に対して、金剛駅周辺は戦前まであまり人は住んでなかったらしく、戦後の高度成長期に大規模な宅地開発され、昭和40年代から人口が急増した。
僕はまさしくこの金剛団地で生まれ育った。


先日、部屋を整理していたら、今から約40年前、1972年頃の物と思われる富田林市の地図が見つかった。
40年も前だから当然とも言えるが、それでもここまで変わるか、というぐらい現在の富田林市とは全く違う(赤文字の右側が近鉄富田林駅、左側が南海金剛駅)。
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ちょっとこの写真ではわかりにくいかも知れないが、右側に通っている線が近鉄長野線、左側が南海高野線である。
近鉄線より左側にPL教団のある羽曳野丘陵があり、さらにその左側の水色の部分(赤文字部分)が廿山(つづやま)という地名になっている。
40年前、この廿山は雑木林しかない丘陵地帯で、富田林市を東と西に完全に分断していた。
僕が住んでいた金剛団地側から見ると、廿山の向こう側に180mの高さを誇るPL大平和祈念塔(通称:PLタワー)がそびえ立っている(写真は金剛団地側からではなく、東側から写したもの)。
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PLタワーの近くには現在は閉鎖されたPLランドという遊園地があって、子供の頃はよく遊びに行ったものだ。
だが、金剛団地に住んでいた頃は僕の家に車はなく、たとえあったとしても廿山があるためにまともな道路は通ってなかったので、電車で行かざるを得なかった。
しかし電車で行くというのが結構大変で、PLランドの最寄り駅は近鉄の富田林駅だから、南海電車で直接行くことはできない。
そこで南海電車で3駅向こうの河内長野駅へ行き、近鉄電車に乗り換えて5駅向こうの富田林駅に行って、そこからバスでPLランドへ行っていた。
だから子供の頃は、PLランド河内長野の向こうの、かなり遠い場所にあると思い込んでいた。
ところが家族で廿山の近くまで散歩した時、PLタワーがとてつもなく巨大に見えてビックリしたことがある。
これだと歩いて行けるんではないかと思ったが、いやいやこれは目の錯覚で、実際にはいくら歩いても逃げ水のようにPLタワーには辿り着くことはできないだろう、と子供心に思っていた。
実際には直線距離は約2.5kmで、道さえあれば歩いて行けないことはないほど近い距離なのだが、電車でそんな遠回りしているとは思いもよらなかった。


1976年に、富田林市の東側にある河南町という所に引っ越したが、この頃もまだ廿山は雑木林のままだった。
河南町には電車が通じてなくて富田林(近鉄側)までバスで行くしかなく、金剛団地に比べるとかなり不便だったため、我が家でもようやく車を購入した。
だが、廿山にはまともな道路がまだ通じてなかったので、金剛団地の知人の家に行くには車でもかなり迂回せねばならず、しかも非常に細い道だったので運転する父もかなり苦労したようだ。


ところがその2年後ぐらいに近鉄線の近くを通る大阪外環状線(国道170号線)が富田林の奥深くまで伸びて来て、さらに廿山が開発されて金剛団地と外環状線を結ぶ道路が開通したので、金剛団地と富田林中心部が格段に近くなった。
廿山の開発は急ピッチで進められ、宅地造成が進み、府立高校まで建設された。
後年、僕はこの府立高校に進学することになる。
その頃になると道路もかなり整備され、河南町から自転車通学も可能になった。
廿山の辺りは金剛東団地と名付けられ、富田林駅から近鉄バスが、金剛駅から南海バスが金剛東団地まで運行するようになり、数年前とは似ても似つかぬ姿となってかなり便利になった。
これが上の地図から約12年後、1984年頃の富田林市の地図である。
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1972年頃の地図と比べると、水色一色だった廿山が、真ん中部分の地名が変わってかなり色分けされてきたのがわかる。
そして開発されていない部分は廿山の地名が残り、南北に分かれている。
子供の頃は、廿山がこんなに開発されるなんて夢にも思わなかった。
しかし廿山の開発はまだまだ終わらず、さらに発展していった。
大阪市内まで直通できる国道309号線が廿山付近を通るようになり、外環状線と合流した。
外環状線も富田林から河内長野、さらには遥か遠くの関西国際空港まで伸びて行った(と言っても、上の地図の当時は関空はまだなかったが)。
金剛団地と外環状線を結ぶ道路と、国道309号線が交差する辺りには、ジャスコ(現在のイオン)とエコール・ロゼという大型商業施設が建設され、かつての廿山は富田林駅付近や金剛駅付近を上回る活況を呈してきた。
下の地図はさらに約17年後の2001年頃、即ち21世紀に突入した頃の地図である。
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金剛東団地が完成しており、当時から約10年後の現在でも、その姿はほとんど変わらない。
1980年前後に目の当たりにした劇的な変化に比べると、この10年間のあまりの変化のなさに拍子抜けするほどだ。
廿山の開発はほぼ完了したいうことだろう。
つまり、1970年代から2000年にかけての約30年間の富田林市の歴史は、廿山開発の歴史だったと言っても過言ではない。
金剛東団地の住民のほとんどが金剛駅を利用するため、金剛駅の乗降客数も格段に増えた。
僕が金剛団地に住んでいた頃は、金剛駅は区間急行までしか停まらず、特急はもちろん急行も通過していたが、現在では特急を含む全列車停車駅に成長した。
金剛駅に特急が停まるなんて、子供の頃は考えられなかった。
かつては2面2線の小さな駅だったのが、現在では島式2面4線の立派な駅となっている。
廿山の開発が、いかに大きな影響を与えたかがわかるだろう。
もう一度、約40年前の廿山付近の拡大図を見てみよう。
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わかりやすく赤文字で「廿山」と書いたが、実に広い範囲で「廿山」という地名が使われているのがわかる。
これは当然のことで、人が住んでいないのにわざわざ色々な地名を付ける必要はない。
地続きで人が住んでいないのなら、いくら広い範囲でも地名は一つで充分なのだ。
しかしこの約10年後、廿山の中心部が開発され、開発された部分は新たに「向陽台」や「藤沢台」という地名が付けられた。
この開発により「廿山」という地名が南北に分断され、開発されていない部分は「廿山」の地名が残ったのである。
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この約10年間にかなりの部分が開発されたと言える。
そして約17年後には「小金台」「美山台」「津々山台(明らかに「廿山」から派生した地名)」といった地名が生まれ、廿山の面積はさらに小さくなった。
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同じ「廿山」という地名なのに、南北でなぜこんなに離れているのかという謎が、この3枚の地図でよくわかる。
いわゆる飛び地というものがなぜできるのか、これでわかるだろう。
もし現在も残っている南北いずれかの「廿山」部分に無理やり家を建てて住む人が現れたら、郵便屋さんは迷子になるかも知れない。