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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

日米野球今昔物語

先日、メジャーリーグ(MLB)の審判員であるボブ・デービッドソンが「技量不足」という理由で1試合の出場停止処分を受けた。
よほどのメジャー通でない限りMLBの審判員の名前など知らないだろうが、デービッドソンに関しては別だ。
全ての日本の野球ファンはもちろん、野球ファン以外の人でも「ボブ・デービッドソン」の名前を知っている日本人は多いかも知れない。


そう、あの2006年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の第2ラウンドでのアメリカ×日本戦で、デービッドソンが「世紀の大誤審」をやってのけた。
8回表の日本の攻撃で、岩村明憲が放ったレフトフライで三塁走者の西岡剛がタッチアップから生還、1点勝ち越したかに見えた。
このタッチアップについてショートのデレク・ジーターが「離塁が早い」としてアピールプレイを行ったものの、一番近くにいた二塁塁審がセーフの判定。
収まらないアメリカはさらにバック・マルチネス監督が球審のデービッドソンに抗議、デービッドソンと二塁塁審の協議の結果、判定が覆って西岡はアウトとなって、勝ち越しはならなかった。
当然、日本の王貞治監督も抗議をしたが、判定は2度も覆らなかった。
ビデオを見ると、どう見ても西岡の離塁が早いとは思えない。
にも関わらず、判定が覆ったのだ。
まるで全日本女子プロレスの阿部四郎レフェリーのような、超疑惑判定である。
淡々と抗議する王監督とは対照的に、アウトが決まった瞬間のマルチネス監督の恥も外聞もないガッツポーズはちょっと忘れられない。
結局、日本は9回裏にサヨナラ負け、あまりにも痛い1敗を喫した。


デービッドソンの大失態はこれだけでは終わらなかった。
日本は第2ラウンドを1勝2敗で終え、決勝トーナメント進出はほぼ絶望となっていた。
メキシコ×アメリカ戦で、アメリカが勝てばアメリカが決勝T進出と、日本は崖っぷちに立っているというよりは、崖から落ちている途中という感じだった。
望むのは、アニメのように手をグルグル回して奇跡的に崖まで飛んで生還する、というものだが、そんなことに期待するのも虚しい。
何しろ、メキシコは既に第2ラウンド敗退が決まっていて、もはややる気もなく、前日は練習もせずにディズニーランドで遊んでいたくらいだから。
ところが試合になると、メキシコの選手が放った打球は右翼ポールに当たる明らかなホームラン。
しかし一塁塁審のデービッドソンが、ポールではなくフェンスに当たったと判定して、二塁打となったのである。
もちろんメキシコは猛抗議し、しかも球にはポールの塗料が付着しているという動かぬ証拠もあったが、デービッドソンは認めなかった。
だが、この判定にメキシコは激怒、俄然やる気を出して、とうとう2−1でアメリカを破ってしまった。
この結果、1勝2敗で並んだ日本とアメリカだったが、失点率の差で日本が決勝T進出、アメリカは第2ラウンド敗退となった。
日本のファンは勝ってくれたメキシコに最大級の賛辞を贈り、同時にメキシコを本気にさせたデービッドソンに感謝した。


と言っても、本項はデービッドソンを槍玉に挙げるものではない。
この試合を見たとき、日米の野球関係も随分変わったなあ、と感じたのを思い出したのだ。
審判の判定に対して、アメリカの監督が目を吊り上げて抗議する。
判定が覆ると、ガッツポーズして全身で喜びを表す。
アメリカでは「相手を侮辱する行為」として忌み嫌われる、派手なガッツポーズを。


僕が初めて日米野球を見たのは1978年(昭和53年)のことだった。
シンシナティ・レッズが来日して、読売ジャイアンツを中心に連合チームや全日本と対戦した。
当時のレッズにはエースのトム・シーバーをはじめ、野手陣にはジョニー・ベンチジョージ・フォスターピート・ローズといったスタープレイヤーを揃えていた。
一方の日本側も、長嶋茂雄は既に引退していたとはいえ、前年にハンク・アーロンのホームラン記録を破った王貞治はまだ現役で、他にも山本浩二掛布雅之、投手でも山田久志村田兆治など、錚々たるメンバーが揃っていた。
しかし、時差ボケで調子が出なかったレッズに対し、最初は2勝2敗1分と日本側は健闘したものの、そのあとは12連敗と全く歯が立たず、日本側の2勝14敗1分という惨敗に終わった。
僕が憶えているのは、レッズの選手がサードライナーを放ち、その打球がそのまま後楽園球場のレフトフェンスを直撃したシーンだった。
弾道は紛れもなくサードライナー。
だが、サードはあまりの打球の速さに一歩も動けず、打球は引力に逆らって落ちる気配はなくて、フェンスにブチ当たった。
その打球も真っすぐ伸びるのではなく、強烈なフックがかかったエゲツないラインドライブだった。
あんな打球、日本の選手ではもちろん、助っ人外人の打球でもお目にかかったことはない。
「メジャーリーガーには、日本の選手は絶対に敵わない」という意識が僕の脳裏にインプットされたのが、この時のレッズだった。
しかも、多分ジョニー・ベンチだったと思うが(何しろ子供の頃の記憶なので、ベンチだったかどうかは定かではない)、王の一本足打法を真似て打っていたのである。
要するに、レッズにとって日米野球とは、単なる遊びだったのだ。
それでも、14勝2敗1分である。
掛布は結構ヒットを放ったので、レッズの監督から「あのサードベースマンをアメリカに連れて帰りたい」と言われたが、それはあくまで社交辞令。
レッズは本気で戦っていなかったのだが、王に対しては別だった。
アーロンの世界ホームラン記録を更新した王に対して、レッズの投手陣は真剣勝負を挑んで、王はキリキリ舞いさせられたのだ。


その後も、日米野球は続けられた。
翌年の1979年(昭和54年)には、なんとナショナル・リーグアメリカン・リーグのオールスターチームが来日した。
両チームが日本を転戦してナ・リーグが4勝2敗1分で勝利。
両リーグの対戦後、ナ・ア両リーグ選抜と全日本が対戦し、1勝1敗と全日本が健闘した。


1981年(昭和56年)にはカンザスシティ・ロイヤルズが来日。
やはり巨人を中心に連合チームや全日本との対戦だったが、この時のロイヤルズは大苦戦。
あわや日米野球でMLB初の負け越しか?と思われたが、終盤の5連勝でなんとか9勝7敗1分と勝ち越して、MLBの面目が立った。
この時の日本での論評は、日本が強くなったというよりも、ロイヤルズが来日したメジャーチームで最低、という意見が強かった。


1984年(昭和59年)は、巨人が球団発足50年というメモリアル・イヤー。
読売新聞社が全精力を挙げ、真のワールド・シリーズ、即ち日米決戦の実現をを主張した。
3年間、助監督として修行していた王貞治を監督にして、日本シリーズ制覇を狙った。
対戦するのは、前年度のワールド・シリーズ覇者、ボルチモア・オリオールズである。
ところが、巨人はセントラル・リーグ3位に甘んじ、オリオールズと対戦する権利を得たのは、日本シリーズの覇者となった広島東洋カープだった。
広島は、初戦に川口和久が完封勝ちして1勝するも、その後は4連敗して世界一の座はオリオールズとなった(というか、オリオールズは前年のワールド・チャンピンであり、84年では全く関係ないのであるが)。
その後はやはり、巨人を中心とした連合チームや全日本がオリオールズと対戦した。
結局、オリオールズは8勝5敗1分。
ただし、広島との「日米ワールドシリーズ」を除くと、4勝4敗1分。
特に全日本との試合では、もうメジャー単独チームでは全日本が勝って当たり前、という風潮が出てきたのである。
ちなみにこのシリーズでは、連続試合出場世界記録を打ち立てた衣笠祥雄と、後にその記録を破る若かりし頃のカル・リプケン・ジュニアが対戦している。


もはやMLBの単独チームでは日本のファンが満足しない。
そう考えたのか、1986年(昭和61年)には「スーパー・メジャー・シリーズ」として、MLBオールスターチームを日本に招いて、全日本と対戦させようという企画が持ち上がった。
かつては巨人でプレーしたデーブ・ジョンソンを監督に据えて、錚々たるメンバーを集めて来日した。
迎え撃つ全日本も、この年に2年連続3回目の三冠王に輝いた落合博満を四番打者に起用して、エースは江川卓に託して必勝態勢である。
しかしその初戦、日本のファンはいきなり度肝を抜かれた。
初回、日本の先発の江川からライン・サンドバーグが放った打球は平凡なレフトフライ。
と思っていたら、なんと後楽園球場の左中間スタンドに飛び込んだのである。
メジャーリーガーのパワーがいかに凄いか、日本の球場がいかに狭いか、思い知らされた瞬間だった。
さらに、メジャーの主砲であるデール・マーフィが右中間へ特大のホームランを放ったのである。
日本一の速球派、江川がメジャーに叩き潰された瞬間だった。


しかし、全日本も負けていない。
ミスター三冠王・落合は、メジャーの投手に対して牙を剥いた。
第1打席でタイムリーヒットを放った落合は、第二打席でそのバットが火を噴いた。
相手投手は魔球スプリット・フィンガード・ファストボールで奪三振王となったマイク・スコットである。
落合はスコットの速球を完璧に捉え、その打球はセンター左のスタンドに飛び込むと思われた。
ところが、落合の打球は急に失速し、狭い後楽園球場のフェンスの手前で跳ねてしまった。
てっきりホームランだと思っていた落合はまともに走らず、「センターオーバーの単打」という珍しい記録になった。


メジャーリーガーのサンドバーグが放った打球は平凡なレフトフライと思われたのだが、スタンドに入ってしまう。
日本を代表するスラッガーである落合が完璧に捉えた打球が、フェンス直前で失速する。
日米の野球レベルの差は明らかだった。
さらに、この年にセントラル・リーグで2年連続三冠王を成し遂げたランディ・バースは、アメリカでは主にマイナーの選手で、メジャーリーグでは僅か通算9本塁打しかなかった程度の選手だったのである。
アメリカではマイナーリーガーに過ぎない選手が、日本では2年連続三冠王という、神様的存在だったのだ。


しかも、落合は「この年(86年)の日米野球が、俺のバッティングを狂わさせた」と述懐している。
第3戦の西武ライオンズ球場での一戦で、ジャック・モリスから完璧に捉えたと思った打球が、センターフライになってしまったというのである。
これ以来、自分の非力さを痛感し、力勝負を挑んだために自分のバッティングが狂ってしまった、というわけだ。
落合はこの時の日米野球を体験して、
「日本の野球がアメリカに追い付くのは、半永久的に有り得ませんよ」
と答えている。
また、別の選手は、
「肉を食っている選手に対して、米を食っている選手が太刀打ちできるわけがありません」
とも言っていた。
要するに、日米の差であるパワーの差は如何ともし難い、というわけである。


翌年の1987年(昭和62年)には、アトランタ・ブレーブスの四番打者だったボブ・ホーナーが来日してヤクルト・スワローズに入団。
デビュー戦からホームランを連発して、日本中にホーナー・ブームを巻き起こした。
ホーナーは確かにバリバリのメジャーリーガーだったものの、全米のスーパースターだったとは言い難い。
同じブレーブスでは、デール・マーフィ(江川から超特大のホームランを放ったヤツね)の方が遥かにスーパースターだった。
所詮はホーナーなど、アトランタでの人気者に留まっていたのである。
それでも、日本中はホーナー・ブーム一色になった。
しかし翌年、ヤクルトから法外なギャランティを提示されたにも関わらず、日本球界を離れてセントルイス・カージナルスと超安値で契約。
「日本の”野球”は、アメリカの”ベースボール”とは違うスポーツだ!」
という捨てゼリフを残して。
ちなみにホーナーはこの年、全く打てずにシーズン終了後にはカージナルスを解雇され、野球界から足を洗った。


その後の日米野球では、日本は結構健闘したと言える。
1988年(昭和63年)の日米野球では、MLBオールスターチームに対して全日本は2勝3敗2分とかなり食い下がった。
さらに1990年(平成2年)の日米野球では、遂に4勝3敗1分で、全日本がMLBオールスターチームから初勝利を挙げている。
この年のキーポイントは、MLBオールスターの四番打者がセシル・フィルダーだったことだ。
フィルダーはアメリカでチャンスを与えられず、日本でプレーして腕を磨き、メジャーに戻って本塁打王と打点王の二冠王に輝いた男。
それまでの日本に来る、いわゆる助っ人外人は、所詮は欠陥商品だった。
メジャーで通用しないから、日本に売られた選手。
その程度の選手だったという認識が強かったと言える。
「史上最強の助っ人」バースだって、先述したとおり3A級の選手だったのである。
そんな「欠陥商品」たるフィルダーが、メジャーの二冠王になることなど、考えられなかった。
これは「逆輸入」の発想で、日本プロ野球を体験したフィルダーは、成長してメジャーの二冠王となった、という図式である。
つまり、フィルダーは日本野球を経験することによって、MLBのスターダムにのし上がったという、逆説的な意味での「日本球界メジャーリーガー」となったわけだ。
しかも、フィルダーを四番に据えたMLBチームは全日本に初戦から4連敗を喫し、3勝4敗1分でMLBチームとして史上初めて負け越ししたのである。
このシリーズで新人ながら全日本に選ばれ、チーム初ホーマーを放った石井浩郎は、
「向こう(メジャー)も凄い選手ばかりなんだろうけど、こっち(全日本)だって素晴らしい選手が揃ってますからね」
と、全く物おじしないで語っていた。


それから5年後の1995年(平成7年)に、逆輸入ではなく、日本から野茂英雄という剛腕投手がMLBに輸入された。
野茂は最多奪三振のタイトルを奪い、オールスター戦でもナ・リーグの先発投手という栄誉を受けた。
さらに2001年(平成13年)には、日本人初の野手のメジャーリーガーとして、イチロー首位打者を獲得した。
こんなシーンは、僕が日米野球を見始めた時には、全く考えもしなかった。
1980年代前後は、日本人メジャーリーガーなんて、夢また夢だったのである。


そして2006年(平成18年)、野球の世界一を決める大会である第1回WBCが開催された。
運営方法についてはかなり問題があるとはいえ、画期的なことだっただろう。


「シーズン直前の大会だったため、アメリカは調整不足だった」
「アメリカは必ずしもベストメンバーとは言えなかった」


という意見もあるだろうが、それでも日本戦で先発したのはナ・リーグのエースとも言えるジェイク・ピービーだったし(ピ−ビーは前年で最多奪三振、翌年はサイ・ヤング賞を受賞)、野手陣はアレックス・ロドリゲスデレク・ジーターケン・グリフィー・ジュニア、チッパー・ジョーンズといった、いずれ劣らぬスーパースター。
敗れたとはいえ、そんな連中と堂々と渡りあえたのは、大きな財産だっただろう。


何よりも、あのマルチネス監督のガッツポーズがそれを物語っている。
あの時のアメリカチームは、完全に真剣勝負だったのだ。
日米野球をやっていた頃は、メジャーの選手たちは日本観光という物見遊山で真剣にプレーしていない。
ところが、WBCという舞台では、アメリカもプライドをかなぐり捨ててデービッドソンに圧力をかけた。
デービッドソンは労使紛争の末に一度はMLBから解雇されたが、その後は復帰が決まってマイナーリーグの審判員を務めたが、第1回WBCでアメリカに有利な判定をして、MLB復帰を示唆されたととも言われるが、真相はわからない。


そして2009年の第2回WBC。
決勝トーナメントの準決勝で、日本はアメリカを完全に粉砕した。
第1回のWBCで日本が優勝したとはいえ、アメリカには(大誤審があったにせよ)負けていたので、やはりアメリカに勝って世界一、という思いがあったわけだ。
そして準決勝でアメリカ、決勝で韓国を撃破して、WBC2連覇を達成した。
特に、長年の悲願だった打倒アメリカを果たして、世界一になったのは感無量だっただろう。


第2回WBC準決勝、日本×アメリカ戦



先日、ダルビッシュ有が登板した試合で、球審を務めていたのがデービッドソンだった。
WBCで注目を集めた二人が、同じフィールドでまた向き合うというのも、因縁を感じてしまう。