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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

ナンバー2のチャンピオン

スポーツ界にはよく「三冠王」というのがある。
有名なのが野球の三冠王だ。
どんなタイトルでも三つ獲ればいいというのではなく、本塁打王、打点王、首位打者を独占した選手が三冠王と呼ばれる。
「オレは盗塁王、新人王、最高出塁率の三冠王だ!」などと息巻いても、誰も三冠王とは認めてくれない(それでも三つもタイトルを獲るのは立派だとは思うが)。


競馬の世界では、三歳馬のクラシック・レースである皐月賞日本ダービー菊花賞を制した馬が三冠馬ということになる。
年齢制限のない春秋の天皇賞有馬記念の方がレベルが高いようにも思われるが、逆に言えば三冠馬になるチャンスは一生に一度きりなので、貴重な「三冠」とも言える。


プロレス界の三冠王とは何か。
一応、タイトルを三つ持っていれば「三冠王」を名乗ることもできるが(タッグタイトルを加える場合もある)、現在のプロレス界で「三冠」と言えば、全日本プロレスが運営する「三冠ヘビー級王座」のことを指す。
三冠王者と言えば普通、奪取するには三つのタイトルマッチ全てに勝利してチャンピオン・ベルトを奪わなければならないが、三冠ヘビー級の場合は既に統一されているので、挑戦者が王者に1回でも勝てば三冠王となる。
三冠の内容は、インターナショナル・ヘビー級、PWFヘビー級、ユナイテッドナショナル(以下UN)・ヘビー級という歴史ある三つのタイトルで、現在ではPWF(太平洋レスリング連盟)が管理、認定している。
1989年(平成元年)4月18日、インターナショナル王者だったジャンボ鶴田が、PWF・UN二冠王者だったスタン・ハンセンを破り、三つの王座が統一されて鶴田が初代三冠チャンピオンとなった。
以降は三つ別々にタイトルマッチが行われることもなく、三冠戦で勝った方が三本のベルトを腰に巻くようになった。


ところで、「歴史ある三つのタイトル」と書いたが、よく見てみるといずれの王座も「世界」の二文字は入っていない。
つまり、「歴史ある」とは日本国内のことで、世界的(プロレスで「世界」と言えば、ほとんどアメリカのことだが)には認知されていないタイトルだった。


3本のベルトの中で最も歴史と権威があるのはインターナショナルである。
世界最高の権威とされたNWA世界ヘビー級王座に長く君臨していたルー・テーズの功績を湛えて、NWA本部がテーズを初代インターナショナル王者に認定したのだ。
1958年(昭和33年)8月27日、渡米した力道山がロサンゼルスでテーズに挑戦し、見事に勝って王者に輝いた。
力道山が敵地で”20世紀最強の鉄人”ルー・テーズを破り、世界王座奪取!」
と日本にもすぐにこのニュースが伝わり、日本中が蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
当時の日本では、それほどプロレスの認知度が高かったのである。


しかし、羽田空港で力道山の凱旋帰国を待ちわびていた大勢の記者連中は、力道山の姿を見た途端に奇妙な感情に捉われた。
力道山が手にしているはずの、栄光のNWAベルトがないのだ。
実は力道山の帰国前、テーズとの試合はノンタイトルマッチだった、という怪情報まで流れていたのである。
だが、ロスでの試合が世界最高峰のNWA世界戦だったと信じていた記者は、ベルトを持っていない力道山の姿を見て、怪情報は本当だったのか、と落胆した。
力道山はベルトを持っていないことについて、
「NWAは突然、世界タイトルマッチは中止だ、でもテーズに勝てばインターナショナル・チャンピオンの称号を与える、ベルトはないから自分で作りなさい、と言ってきた。こんなことはアメリカでは常識。テーズを破った俺がインターナショナル・チャンピオンだ!」
と説明した。


よくわからない説明だが、プロレス界というのはそういうものである。
例えばボクシングで、「お前をチャンピオンと認めてやるけど、ベルトは自分で作れ」なんてことがあり得るだろうか。
NWAの本音としては、NWA世界タイトルを日本に持って行かれたら商売あがったりだから、日本用のタイトルを用意してやる、ただしベルトは自分で作れ、NWAの名前を使うのは構わない、というところだろう。
こうして日本用のNWAタイトル、インターナショナル王座が誕生し、力道山が二代目チャンピオンになった。
テーズを初代王者にしたのはNWAではなく日本プロレスの都合で、力道山を初代王者にしたのでは権威がない、初代王者をテーズにして本場アメリカでタイトルを奪えば箔が付く、と考えたのだろう。
その上、NWAの名前を使えるのだから万々歳だ。
ただ誤算だったのが、当初はNWA世界王座奪取!と喧伝されたため、余計な混乱が起きてしまったことだが。
まあ、古き良き時代の出来事ではある。


NWA認定のインター王者になった力道山は自分用のチャンピオン・ベルトを作り、日本でタイトルマッチを重ねてインターナショナル・ベルトは「日本の主砲」と呼ばれるようになった。
ただし、このタイトルはNWAから「力道山一代限り」と言われていた。
その後、1963年(昭和38年)12月15日に力道山が急死、インターナショナルのタイトルは勧告どおり封印された。
ところが、力道山の後継者としてジャイアント馬場が台頭し、僅か2年後に日本プロレスはNWAに「インター王座を復活させて欲しい」と要請し、NWAがこれを認めてインターナショナルが復活、王座決定戦で馬場がディック・ザ・ブルーザーを破って3代目王者となった。
早い話が、NWAにしてみれば極東の興行だから好きにしていいよ、お互い商売なんだから持ちつ持たれつで行きましょう、というところだろう。
以降は馬場が防衛を重ねて、インターナショナルは馬場の代名詞的タイトルとなる。
日本のエースの象徴とも言うべきチャンピオン・ベルトだった。
しかし、アメリカで初めてインター王座の防衛戦をザ・シークとやった時、リングアナが馬場のことを、
「ジャパニーズ・インターナショナル・チャンピオン」
と紹介された時は、馬場は酷くガッカリしたそうだ。
インターナショナルも、所詮は日本のローカル・タイトルか、と。
まあ「ジャパニーズ・インターナショナル・チャンピオン」って、直訳すれば「日本国際王者」という、わけのわからない日本語になるのだが。


ちょうどその頃、若手のホープ・アントニオ猪木が台頭してきた。
猪木は一時期、日本プロレスを離れて東京プロレスを興したがあえなく崩壊、日本プロレスに戻った。
実力とスター性を兼ね備えた猪木はたちまち馬場に次ぐナンバー2の地位を確立。
当時の日本プロレスは日本テレビが独占中継していたが、プロレス人気に目を付けたNETテレビ(現在のテレビ朝日)がプロレス中継をしたいと日本プロレスに打診してきた。
もちろん独占中継のメリットが無くなる日テレは大反対したが、結局は馬場の試合は日テレが独占中継してNETには出さない、ということで渋々合意した。
馬場の試合を放送できないNETは猪木をエースに押し立て、日本プロレス内には猪木にタイトルを獲らせるべきだ、という意見が強まった。
そして1971年(昭和46年)3月26日、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアム(力道山がテーズに勝ってインター王座を奪取した会場である)で猪木がジョン・トロスを破ってUNヘビー級王座に就いた。
トロスは日本では有名なレスラーではなかったが、インター王座の時と同様、アメリカでタイトルを奪うことが重要だったのである。
それにインターナショナルと違って、UNは日本プロレスが用意した急ごしらえではなく、一応は元々アメリカにあったタイトル。
しかもNWAが認可していたので、それなりの権威もあった。
だが、アッサリと日本に手放したということは、UNでは商売にならないとNWAが判断したのだろう。


インター王者の馬場とUN王者の猪木という二枚看板で売っていた日本プロレスだが、どうしてもUN王者はインター王者より格下、ナンバー2のチャンピオンと思われていた。
そもそも当時は、日本人同士の対決は認められてなかったのである。
当時行われていた、世界の強豪を集めて開催されたワールド・リーグ戦でも、日本陣営と外人陣営に分かれ、日本人同士、外人同士の試合はなく、日本陣営の最高得点者と外人陣営の最高得点者が決勝で争う、というシステムだった。
猪木がUN王座に就いた2ヵ月後、ワールド・リーグ戦で日本陣営は馬場と猪木が同点で決勝進出、外人陣営がザ・デストロイヤーアブドーラ・ザ・ブッチャーが同点で決勝するという事態が起きた。
ここでも日本プロレスは日本陣営同士(即ち馬場×猪木)の対戦は行わず、抽選によって猪木はデストロイヤーと戦って引き分け、馬場がブッチャーに勝って優勝した。
これにより猪木の不満が爆発、馬場の保持するインターナショナル王座に挑戦する、と発表した。
「インターナショナル王者とUN王者、二人もチャンピオンが同じ団体内にいるのはおかしい」
というのが猪木の言い分で、確かにその通りではあるのだが、当時のプロレス界では驚天動地の論理だったのである。
何しろ「リーグ戦」と銘打った大会ですら、日本人同士の対決を認めていなかったのだから。


猪木はコミッショナー(プロレス界にコミッショナーが存在していたというのも、今から考えると信じられないが。もっともコミッショナーが認定していた団体は日本プロレスのみである)にインターナショナルの挑戦要望書を提出したが、「時期尚早」という理由で猪木の申し出は却下されている。
「時期尚早」の理由として、コミッショナーは、
「馬場×猪木戦は世界最終決戦でなければならぬ。馬場、猪木両君にとって、まだまだ世界に強敵は多い。その世界中の強敵、チャンピオンを両君が全て倒したら、将来的に真の世界一決定戦として馬場×猪木戦の実現はあり得る」
と、これまたよくわからない説明をした。


結局、馬場×猪木戦は実現しなかったが、この年の暮れに猪木が日本プロレス乗っ取りを企てたとして永久除名された。
プロレス界ではチャンピオンベルトとは個人の持ち物ではなく、管理・運営されている団体の所有物であるのが常識とされるため、猪木はUNタイトルを返上した。
日本プロレスから追放された猪木は、新日本プロレスを興すことになる。
空位となったUNタイトルは馬場、猪木に次ぐ三番手と見られていた坂口征二(わかりやすく言えば、坂口憲二のオヤジ)が載冠した。
猪木がいなくなって坂口が二番手に繰り上がったため、坂口にUN王者のチャンスが与えれて王座決定戦勝利し、「ナンバー2のチャンピオン」の座に就いた。
しかしその坂口も、のちに猪木との会談によって日本プロレスを離脱、UN王座を返上して猪木の新日本プロレスに参加した。


話は前後するが、猪木が日本プロレスを除名された後、馬場も日本プロレスから独立し、全日本プロレスを立ち上げる。
もちろんこの際も、インターナショナルのベルトは日本プロレスに置いていった。
その後、坂口は新日本プロレスに参加。
馬場、猪木、坂口という三大スターが去って、日本プロレスに残ったのはインターナショナルとUNのチャンピオン・ベルトのみ。
インター王座は大木金太郎、UN王座は高千穂明久(のちのザ・グレート・カブキ)が就いたが、いささか地味過ぎてスター性が欠けた。
それにしてもUN王座というのは、トコトンまでナンバー2の王者である。
客を呼べなくなった日本プロレスは、力道山以来のプロレス界の栄光を一手に担ってきたが、ここにあえなく崩壊してしまったのである。


管理団体が崩壊すれば、チャンピオン・ベルトの価値は無いにも等しい。
インターナショナル・ベルトを保持してた大木は「インターナショナル・チャンピオンでござい」と声高に宣言していたが、ロクに防衛戦が行われないインター王座など、誰も見向きはしなかった。
高千穂が保持していたUN王座に至っては、風前の灯だったのである。
元々はアメリカのタイトルだったのが(United Nationalという響きがいかにもアメリカ的である)、いつの間にか日本に定着して、ナンバー2的な扱いをされるようになった。
そして、日本プロレスが崩壊してUN王座が有名無実の物になっても、NWAは何の対策もしなかった。
所詮は極東のジャパンのタイトル、NWAにとってはどうでもよかったのだろう。


一方で、全日本プロレスを立ち上げた馬場は、ベルトの創設に躍起になった。
それが力道山ゆかりのインターナショナル・ベルトだった。
もっとも、当時のインター王者は大木だったので、そのベルトを頂戴するわけにはいかなかったが、力道山がインター王者になった時の由緒あるベルトを、力道山ゆかりの百田家から寄贈されたのだ。
つまり、大木が巻いていたベルトと力道山が巻いていたベルトは、別物だったわけである。
馬場はこの力道山ベルト争奪戦を企画し、好成績を収めた馬場が自らチャンピオンベルトを巻くことになる。
そしてこのベルトは、ハワイに設立したPWFのタイトルとし、馬場は初代PWF世界ヘビー級チャンピオン(のちにNWA加盟のため「世界」の文字は削除)となったのである。
まあ、事実上は馬場が提唱して馬場がそのチャンピオンになっただけのことであり、こういうことは他の競技では考えられないが、これもプロレス界では日常茶飯事のことだ。


馬場が保持するPWFが全日本プロレスの主要タイトルになったが、次期エース候補としてジャンボ鶴田が全日本プロレスに入団した。
となれば、鶴田にもベルトを獲らせたい。
そこで全日本プロレスは、日本プロレス崩壊以来、封印されていたUN王座の復活を求める。
もはやNWAの一員になっていた全日本プロレスの営業妨害をする理由もなく、NWAはUN王座の復活を許可する。
晴れて鶴田は復活なったUN王座決定戦に勝って、UNヘビー級チャンピオンとなった。
それでもやはり、PWF王者の馬場に次ぐ、ナンバー2の扱いである。


そのうち、全日本プロレスで「日本の主砲」と呼ばれるインターナショナルの王座復活の気運が高まった。
NWAとは関係ないところで大木金太郎が無意味に防衛戦を行っているのはもったいない、と感じたのだろう。
NWAの勧告により大木はインター王座を返上し1981年(昭和56年)、全日本プロレスでインターナショナル・ベルト争奪のトーナメント戦が行われ、ドリー・ファンク・ジュニアが第10代王者となった。
このインター戦は、新王者のドリーと、ブルーザー・ブロディによる抗争が売りになっていく。
ここに全日本プロレスは、インターナショナル、PWF、UNという三大タイトルが生まれたのだ。


ただ、PWF王者である馬場が衰え、次期エースの鶴田に「日本の主砲」インターナショナル王座に就かせよう、ということになった。
さらにこの頃、馬場、鶴田に次ぐ「第三の男」と呼ばれていた天龍源一郎にも「そろそろタイトルを」という声が高まっていた。
そこで鶴田にはUN王座を返上してインターナショナルのタイトルに挑戦させ、空位となったUN王座を天龍に獲らせよう、ということになったのである。


果たして鶴田は、1983年(昭和58年)8月31日、ブロディを破って見事にインターナショナル王者となった。
この瞬間、全日本プロレスのエースは馬場から鶴田に移ったと言っても過言ではない。
一方の天龍は、
「なんでジャンボのお下がりであるUN王座に挑戦しなければならないんだ!?」
という不満があった。
プロレス界では鶴田が先輩ではあるが、年齢では天龍の方が一歳上である。
とはいえ、UNベルトは猪木や坂口など、偉大な先輩が腰に巻いたベルトだった。


「よし、UNのベルトを俺の代名詞にするぞ!」
と意気込んだ1984年(昭和59年)2月23日、UN王座決定戦でリッキー・スティンボートを破った天龍が、UNチャンピオンとなった。
天龍にとって初めてのビッグ・タイトルである。
大相撲からプロレスラーに転身して8年目、ようやく苦労が報われた、と思った矢先だった。


天龍のUN戦はセミファイナル、次のメインイベントでのAWA世界ヘビー級とインターナショナル・ヘビー級のダブルタイトルマッチ、ニック・ボックウィンクル(AWA世界王者)×ジャンボ鶴田(インター王者)の試合で、鶴田がニックから堂々のピンフォールを奪い、日本人初のAWA世界チャンピオンとなった。
鶴田はNWA世界王者と比肩する、AWA世界王者となったのだ。
当時のNWAとAWAの関係は、ボクシングでいうWBAとWBCに似ていたと言うべきだろう。
しかもこの試合はベスト・バウトにも選ばれた。
AWAとインターナショナルの二冠王になった鶴田の前で、天龍のUN王座奪取は全く色褪せたものになった。
UN王者とはつくづく「ナンバー2のチャンピオン」と言わざるを得ない。


鶴田の持つAWA世界王座はアメリカでのサーキット中にリック・マーテルに敗れてベルトを失ったが、インターナショナルのベルトは保持し続けた。
その後、全日本プロレス内でインターナショナル、PWF、UNの統一気運が高まり、鶴田、天龍、ハンセン、ブロディ(のちに急死)らで3本のベルトを巡る抗争が繰り広げられたが、冒頭に記した通り鶴田が三冠を統一した。
この瞬間、「ナンバー2」的タイトルだったUNヘビー級王座は、その役割を終えたのだろう。


それにしても……、と思う。
なぜUNヘビー級王座などという「ナンバー2」のチャンピオンが存在したのか。
ボクシングでもチャンピオンがいて、なんでその次が1位なのか、と思ってしまう。
チャンピオンが1位で、その次は2位だろ、なんてツッコミも入れたくなる。
相撲でも英語では、「チャンピオン」は大関のことであり、横綱は「グランドチャンピオン」と呼ばれる。
おいおい、横綱は複数いることも珍しくないのに、グランドチャンピオンが何人もいてもいいのかよ、と思うのだ。
とはいえ、ボクシングにはボクシングの、相撲には相撲の鉄の掟がある。
横綱と大関は雲泥の差だし、ボクシングにおけるチャンピオンと1位では天と地ほどの違いがある。
横綱を締める、チャンピオンベルトを巻くということは、そうでない者にとって想像を絶する隔たりがあるのだ。


でも、プロレスにおける「UNヘビー級チャンピオン」には、全く別の感情を持っている。
本当に「ナンバー2」のために存在するチャンピオン、そう思えて仕方がない。
普通に考えれば、チャンピオンというのは常にナンバー1であって、ナンバー2ということは有り得ない。
ところがプロレスでは「ナンバー2のチャンピオン」を容認してきた。
それはプロレス界において「ナンバー2のチャンピオン」とレスラーが、必要不可欠だからだろう。


現実社会でも、「ナンバー2のチャンピオン」というのは多く存在していないだろうか。
ナンバー2だからこそ光り輝く人材がいるのである。
プロレスというのは、社会を反映している、とも言える。


そう考えれば、「UNヘビー級王座」というのは、現実社会を照らし出す鏡なのかも知れない。