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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

甲子園物語〜その3

大正時代の人々から見れば規格外の野球場だった甲子園だが、驚天動地だったのはグラウンドの大きさだけではない。
現在の甲子園にはスタンド内に様々な飲食店が並び、野球を観なくてもスタンド内を食べ歩くだけで充分楽しめるほど充実しているが、その中でたった一つだけ1924年(大正13年)の球場オープン時から続いているメニューがある。
それが甲子園名物のカレーライスだ。


当時の食堂はカレーライスの一種類だけ。
「え、じゃあ腹が減った時はカレーしか食えないの?」
などと言うなかれ。
当時はスポーツ観戦に行って、そこでちゃんとした食事ができる、というのが珍しかったのだ。
食堂は、一塁側および三塁側内野席の1階と3階の計4ヵ所。
現在の、約5万人収容の巨大なスタンドを持ちながら、ロクな食堂もない陸上競技場よりもよっぽど充実している。
なぜカレーだったのかはわからないが、夏の暑い時の食べ物として、辛いカレーは最適と思われたのかも知れない。
また、当時はまだカレーライスが一般的ではなく、高級感を出すためにカレーライスが選ばれたとも思われる。


値段はコーヒー付きで30銭。
江戸前寿司と並ぶ高級料理だったが、これが大評判となって食堂の前には長蛇の列ができた。
それにしても、なぜコーヒーとセットだったのだろう。
当時の人は、カレー(あるいは洋食)と共にコーヒーをすするのが一種のステータスだったのだろうか。
ちなみに、戦後に甲子園が再オープンした時はコーヒー付きで60円と、やはりコーヒーとセットになっている。
現在ではカレーライスのみで500円、もちろんコーヒーは別だ。
現在の様子を見てみると、カレーと一緒にコーヒーを飲んでいる人はあまり見掛けず、飲むとしたら食後の人が多いだろう。


ファンを驚かせたのはカレーだけではなかった。
いや、選手もビックリした代物がある。
それが、当時は珍しかった水洗トイレだ。
何しろほとんどの人が水洗トイレは未体験だったので、特にもよおしているわけでもないのにトイレに行きたがる人が続出するという、奇妙な人気を誇ったのである。
しかし、大会に出場したある選手が水洗トイレとはどういうものか知らずに、用を足した後に説明書き通りヒモを引っ張ると轟音と共に水が勢いよく流れ出して、「便所が壊れた!」と大騒ぎになったというエピソードもある。


1932年(昭和7年)には、甲子園にまた一つモダンな施設が完成した。
三塁側アルプススタンド下にできた温水プールである。
当時は室内プールというのが珍しく、唯一東京に室内プールが非公開で存在したが、誰でも利用できる室内プールは甲子園の物が初めてだった。
長さ25m、幅10m、深さ1.4〜3.75mで、年間を通じて室温26度、水温25度で保たれており、一年中水泳をすることができるという、今でいうスポーツクラブのような施設だった。
日本水泳連盟にも公認され、競泳選手には格好の練習場となり、多くの選手がオリンピックに羽ばたいて、甲子園の室内プールは戦前の「水泳ニッポン」に大きく貢献した。


同じ時期、一塁側のアルプススタンド下には体育館が設けられた。
体育館だけにバレーボールやバスケットボール、さらには柔道や剣道も行われ、ここでもオリンピック選手の育成に貢献している。
甲子園球場は、外部のグラウンドのみならず、内部も当時としては時代の最先端を行く超ハイテクノロジーの施設だったのだ。
なお、現在では室内プールも体育館も取り壊され、一塁側にあった体育館はタイガースの、三塁側の室内プールはビジターチームのブルペンとなっている。


甲子園が完成した翌年の1925年(大正14年)、現在の「冬の花園」こと高校ラグビーと、「冬の国立」と呼ばれる高校サッカーの前身である「日本フートボール大会」が甲子園で催されることとなった。
当時は中等学校のラグビーとサッカーの大会を一緒に開催していたのである。
甲子園の広いグラウンドを利用して、ラグビーとサッカーの中等学校大会が行われたのだった。


戦前、甲子園で行われた野球以外の競技で、つとに有名なのがスキー・ジャンプ大会だろう。
1938年(昭和13年)、新潟から運ばれてきた膨大な雪を、左中間スタンドに設置した木造のジャンプ台に敷き詰め、スキー・ジャンプ大会を行った。
もしこの日、雨でも降って雪が溶ければ文字通り全てが水の泡である。
こんな破天荒な行事が行えたのも、当時は大らかな時代だったということか。


それより前の1933年(昭和8年)には、馬術大会も開かれた。
この時のヒーローは、前年のロサンゼルス・オリンピックの馬術障害で金メダルを獲得した西竹一(にし・たけいち)。
当時は大日本帝国陸軍の中尉だった西は、日本中の大英雄だった。
西は通称「バロン西」とも呼ばれ、この大英雄を見たさに甲子園には5万人の大観衆が詰めかけた。
バロン西は太平洋戦争終盤の1945年(昭和20年)の硫黄島の戦いで、アメリカ軍からの投降の呼びかけに応じず、ピストル自決をしたと伝えられている。


甲子園は野球のみならず、食堂や水洗トイレなど、インフラ面でも当時の日本の水準を大いに上げる役割を果たした。
そしてスポーツ面でも、水泳、バスケット、バレー、柔道、剣道、スキー、馬術、ラグビー、サッカーなど、甲子園建設当初の目的通り、多目的運動場としての役割を充分に担ってきた。
さらには野外映画会や歌謡ショー、野外歌舞伎など、芸能部門でも一役買っている。
これだけの娯楽を、一つの施設で担ってきたのは、日本の歴史上においても甲子園以外にないのではないだろうか。


その反面、戦車展覧会が行われるなど、軍事利用も目立ってきた。
1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争以来、甲子園にも確実に軍靴の足音が聞こえてきたのである。


<つづく>