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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

甲子園物語〜その2

甲子園建設の工事が始まった時、夏の中等野球大会まで5ヵ月を切っていた。
現在の工事技術を持ってしても、当時の甲子園規模の球場を造ろうと思えば1年はかかるという。
ましてや当時はブルドーザーなどなく、牛にローラーを引かせているような有様だった。
それなのに、どうやって5ヵ月で完成させたのか?


まずは、甲子園が川の跡地に建設された、ということが挙げられる。
元々は川だったのだから、コンクリートやセメントの材料となる小石や砂利はふんだんにある。
つまり、材料の調達に全く困らなかったのである。


さらに、昼夜を問わずの突貫作業が可能だった、ということだ。
前述したように当時の甲子園周辺はキツネやタヌキが出るような野っ原だったのだから、真夜中でも近隣住民に気兼ねすることはない。
また、労働者にとっても、夜間作業は昼間作業に比べて倍以上の手当てが出るから、喜んで徹夜作業をしていたようだ。
労働力には事欠かなかったのである。
さらには、電鉄会社ということもあって、夜になっても電車の架線から電線を引っ張ってきて、裸電球を吊るして夜間でも工事を行うことが可能だったことも大きい。
それに、この年は空梅雨だったという幸運もあって、工事に支障をきたすこともなく予想以上に急ピッチで進められた。


だが、日本で初めて造られる本格的な野球場ということもあって、球場建設のノウハウがなく、手探りで行われることも多かった。
中でも土の色にはかなり気を遣った。
阪神間は白砂青松の地で、土が白いと選手も観客も目が疲れてしまってはいけないと、黒い土を探し求めた。
尼崎にある蓬川(よもがわ)の土が黒いということで、バケツでえっちらおっちら運んできたが、土が乾くと真っ白になってしまった。
神戸の熊内(くもち)の土が黒いということで試してみたが、粘り気がなくパサパサで野球場には適さなかった。
そこで淡路島から赤土を取り寄せ、熊内の黒土と混ぜ合わせ、独特の赤黒い土となった。
これが初代「甲子園の土」である。


太陽の方角にも気を配った。
三塁側が東に、一塁側を西にすることによって、選手がプレーしやすくなることを心掛けた。
守備側の選手にとってみると、太陽を背にしてプレーすることができる。
また、観客の見易さにも注意を払い、スタンドの椅子の方向を充分に検討した。
工事を一時ストップさせて、実際にプレーをしてみて見易いかどうか、何度もテストが繰り返された。


そして、中等野球は真夏に行われるということもあって、内野席には大鉄傘が造られた。
巨大な日傘である。
さらに、甲子園は野球のみならず、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールといった雨天でも行われる競技の使用も考えられていたので、スタンドの大屋根は必要だった。
実際に現在でも、アメリカンフットボール全日本大学選手権決勝は甲子園で行われ、「甲子園ボウル」と呼ばれる、日本アメフト最大の祭典である。


かくして1924年(大正13年)8月1日、甲子園は完成した。
両翼110m、中堅119m、右・左中間128mという、途方もない広いグラウンド。
両翼や中堅はともかく、右・左中間の異様な広さ(現在の甲子園の右・左中間は118m)は、外野地域でフットボール競技を行うために、長方形のような形を取ったためである。
昭和初期に来日したメジャー・リーグのホームラン王であるベーブ・ルースは甲子園のグラウンドに立って、「トゥー・ラージ(広すぎる)。この球場では私でもホームランは打てない」と嘆いたという。


この広すぎる球場は、ベーブ・ルース以上に甲子園に出場した各校にとって悩みの種だった。
それまで行われてきた豊中グラウンドや鳴尾競技場は狭すぎるため、すぐにボールがスタンドに飛び込んで様々なグラウンド・ルールがあったが、広い甲子園ではグラウンド・ルールがほとんどなく、基本的にはボールがあらぬ方向に転がってもベンチにでも入らない限りオールフリーだった。
そのため、エラーを想定したバックアップが重要なプレーとなり、打球が外野を転々とした時でも、中継プレーが勝敗を分けることとなった。
広い甲子園のおかげで、日本でも一気に近代野球が発達したのである。


甲子園竣工式の時、広いグラウンド以上に関係者を驚かせたのは、スタンドの巨大さだった。
大鉄傘に覆われた内野スタンドはコンクリートで50段、外野席は土盛りの上に築いた木造スタンドが30段、収容人員5万人という、当時としては驚天動地の大スタンド。
竣工式に立ち会った関係者は、誰もが息を飲んだ。
「この大スタンドが満員になることなど有り得ない」と。


数千人の客が鳴尾競技場に押し掛けるといかにも満杯で、中等野球人気を誇れるけど、5万人収容のスタンドで数千人の観衆では、全く盛り上がらない、と危惧する声もあった。
しかし、野田に球場設計を命じた阪神電鉄専務の三崎は、
「このスタンドでも手狭になる時が必ずやってくる。その時はグラウンドにせり出した形で、スタンドを増設すればよい」
と考えていた。
阪神電鉄のトップになる前、三崎は明治時代にアメリカを訪問し、メジャーリーグをはじめとするアメリカのプロスポーツを目の当たりにしてきた。
そんな三崎にとって甲子園建設は、日本にスポーツ文化を根付かせるチャンスと思っていたのである。


前述したように、日本にはまだプロ野球リーグもなく、当然のことながら阪神タイガースも存在しなかった時代。
そんな中で、アマチュアでしかない中等野球のためにここまで考えていたとは、三崎には先見の明があったと言えよう。
甲子園の建設費は、現在の金銭価値にして約40億円だったと言われる。
「ケチな経営方針」と言われる阪神電鉄会社は、後世に残る莫大な投資をしていたのだ。


第10回・全国中等学校優勝野球大会は、予定通り甲子園竣工式から12日後の8月13日に開幕した。
大会4日目の16日、異変が起こった。
この日は地元の市岡中(大阪)や第一神港商(兵庫)が登場するとあって、甲子園のスタンドは超満員。
遂には、今後10年以上は出ると思われていなかった「甲子園は満員につき来場お断り」の看板が、阪神電鉄の大阪・梅田駅および神戸・三宮駅に出されたのである。
まだプロスポーツがなかった日本でこの集客ぶりは、三崎の慧眼には恐れ入る。


そしてこの年から、中等野球では観戦料を科することにした。
もちろんこれは、甲子園建設に経費がかかったからであり、中等野球に金銭を求めるのはいかがなものか、という批判もあったが、ファンからはむしろ入場料を払って確実に試合を見られるのならその方が良い、と好意的に受け止められていたようである。
入場無料の頃は、徹夜で並んでも満員で試合が見られない、ということが珍しくなかったのだ。
こう考えると、かたくなにアマチュアリズムを守ろうとする現在の高野連に対し、当時の中等野球運営者はプロスポーツ興行を意識していた、とも言えなくもない。
ちなみに、現在の甲子園の高校野球における入場券は、ネット裏の中央特別自由席が1600円、一塁側および三塁側の特別内野自由席が1200円、一塁側および三塁側のアルプス席が500円、外野席は無料となっている(金額はいずれも小人を除く)。
これは良心的な値段設定と言うべきか。



それはともかく、中等野球から派生した甲子園の建設は大成功を収めた。
実はこの年、毎日新聞社主催で全国選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会、いわゆる春のセンバツ)が名古屋の八事山本球場で始まっており、当初の予定では全国持ち回りの大会になるはずだったが、甲子園の完成に伴い、春のセンバツも甲子園で行われることになった。
ここに、春夏の甲子園の歴史がスタートしたのである。


ここまで便宜上「甲子園」と書いてきたが、最初から「甲子園」という名前があったわけではない。
新球場にふさわしい名前はないものか、と阪神電鉄内でも議論になったが、なかなかいい名前が浮かばなかった。
そのうち、阪神電鉄内にいる博識の社員が、
「(甲子園が完成する)大正13年(1924年)は、中国の十干の最初である『甲(きのえ)』の年、日本の十二支ではやはり最初の『子(ね=ねずみ)』の年、60年に1度しかない縁起がいい干支の最初の年なので『甲』と『子』が集う園、『甲子園』とすればいいのではないか」
と発案した。


これは語呂も縁起もいい、というわけで、新しいグラウンドは『甲子園』と命名された。
現在の、ネーミングライツが蔓延るスタジアムに比べると、なんと素晴らしいネーミングだろう。
ネーミングライツで広告料を引き出すことしか考えていない連中は、「京セラドーム大阪」「ほっともっとフィールド神戸」「セーフコ・フィールド」などという、なんの情緒もない球場名ばかり生み出しているので、「甲子園」という名前の偉大さはわかるまい。
「甲子園」「こうしえん」という字の形と音の響きが、なんとも言えず素晴らしいバランスを保っているのだ。
ちなみに、甲子園は前述したとおりに野球のみならずフットボール競技を兼ねた多目的スタジアムだったので、球場とは断定せずに「阪神電車甲子園大運動場」と当時の甲子園の外壁には書かれている。


甲子園の外壁と言えば、なんと言っても蔦である。
甲子園が完成した頃、阪神電鉄内では、
「スタンドの外壁がコンクリートむき出しでは殺風景。蔦でも絡ませれば、ヨーロッパの古城を感じさせていいのではないか」
という意見が出た。
これはいい、と、阪神電鉄内でも好評を得て、甲子園の外壁に蔦が植えられた。


それ以来、甲子園の蔦は名物となった。
ちなみに筆者が初めて甲子園を訪れたのは小学校3年生の時である。
初めて野球場を訪れたのが大阪市内にあった日本生命球場で、その次に訪れたのが夏の高校野球での甲子園だったが、まず蔦に圧倒された。
コンクリート剥き出しの無機質な日生球場に比べて、蔦が絡まった甲子園は巨大な生き物のように感じたのである。


現在では改修工事のため蔦は伐採されており、甲子園名物の蔦は堪能できないが、新たに蔦を植えているので数年後には立派な甲子園の蔦がお目見えするだろう。


<つづく>