日本史を語るうえで最大のミステリーとされるのが、邪馬台国の位置についてであろう。
中国の魏志倭人伝によると、3世紀頃の倭国(日本)に邪馬台国があったとされ、その距離と方角が記されているが、そこは日本より遥か南の海洋上なので海の上に邪馬台国があるわけもなく、矛盾を突破すべく大きく分けて九州説と畿内説(現在の近畿地方)が生まれた。
魏志倭人伝が正しい距離と方角を書いてくれていれば今日のような大論争にならずに済んだのだが、今さらそんなことを言ってもアフター・フェスティバルである(後の祭り、という意味)。
そこで日本古代史学者たちが提唱したのが、距離を修正した九州説と、方角を修正した畿内説だ。
4世紀頃には大和政権が誕生していたとされているが、邪馬台国が九州か畿内か、どちらに存在したかによって大和政権誕生の軌跡が大きく変わるため、安易に場所を特定できない。
邪馬台国以降、中国の史料で日本に関する史実が約150年間も途絶えるため、邪馬台国からいかにして大和政権が生まれたのは全くの謎で、ハッキリしたことを書いてくれよと当時の中国に対して現代の日本古代史学者は思っているに違いない。
とはいえ、文字文化がなかった当時の日本のことを、外国の中国がちゃんと史料として書いてくれているのは有り難いことだが。
位置については諸説あっても、邪馬台国が存在したのは弥生時代の後期であることには異論がないだろう。
では、弥生時代とはどんな時代だったか。
弥生時代以前は縄文時代と呼ばれているが、縄文時代との最大の違いは稲作文化の有無だろう。
縄文時代と言えば土器を使用した狩猟時代、わかりやすく言えばギャートルズよりも文明が発達した時代と言えるが、水田による米作が広まった弥生時代は、食料を安定供給できる時代に変わったわけだ。
稲作により人間社会を構成するコミュニティが生まれ、それがやがて21世紀まで続く天皇制へと発展したのだから、ある意味では日本の礎を形成したのは弥生時代と言えるかも知れない。
その弥生時代が始まったのは紀元前5世紀頃だと言われている。
さて、現在の大阪府南部に位置する和泉市の国道26号線沿いには、池上曽根遺跡というのがある。
この遺跡に使用されていた木は紀元前52年の物とされ、弥生時代中期ということになる。
卑弥呼が政権を握る300年ほども前のことだ。
ちなみに、この頃のヨーロッパ情勢はどういうものだったのか。
あのユリウス・カエサル(英語読みではジュリアス・シーザー)が大活躍していた時代である。
ローマを支配し、世界征服(と言っても、ヨーロッパと北アフリカだけだったが)を目指して勢力を伸ばしていたのが、この時代のカエサルだった。
しかし紀元前44年、即ち池上曽根遺跡に使用されていた木材の8年後に、カエサルは「ブルータス、お前もか!」という言葉と共に暗殺された。
そう考えると、当時の日本はヨーロッパに比べてかなり遅れていたということになる。
その文明の遅れは、19世紀後半の明治維新以降まで埋めることは出来なかった。
先日、その池上曽根遺跡に行ってきた。
とにかく、だだっ広い公園である。
もちろん入場無料だ。
そしてこちらが、サヌカイトなどの石を加工する工場(写真上)と、水を供給する井戸(写真下)と考えられている。
そしていよいよ、これが当時の王様が暮らしていたと思われる神殿である。
この神殿の前には「祭祀(まつり)の場」と呼ばれるスペースがあった。
要するに、お祭りを行う場だ。
ちなみに「まつりごと」とは「政」という漢字を充てる。
言うまでもなく、政治の「政」である。
つまり、お祭りとは政治のことなのだ。
当時の政治は、吉凶を占って方策を決めていた。
お祭りとはもちろん神事のことで、神事が政治に密着していたのである。
となれば、政治の中心である王室で、お祭りがおこなわれていたのは合理的とも言える。
池上曽根遺跡に住んでいた王様が、どれほどの権力を擁していたのかは知らない。
また、この時代から約300年後の邪馬台国と直結していたのかは謎のままだ。
しかし、日本の古代史において、池上曽根遺跡が重要な役割を担っていたのは間違いないだろう。
池上曽根遺跡の北へ約8km、現在の大阪府堺市堺区に、世界最大級の陵墓とされる仁徳天皇陵(大仙陵古墳)がある。
仁徳天皇の在位期間は4〜5世紀ぐらいとされているが、池上曽根遺跡が存在した約500年後ということになる。
現在の大阪府南部にあった池上曽根の王朝から約300年後に、どの場所かはわからないが邪馬台国が生まれ、その約200年後にどういう経緯で大阪南部の地に仁徳天皇が即位したのか、興味は尽きない。