現在、日本各地で高校野球の秋季大会が行われている。
夏の大会が終わり、三年生が引退して一、二年生による新チームで参加する、最初の公式戦だ。
そのため新人戦とも称されるが、秋季大会は来春のセンバツでの「重要参考資料」となる。
全国10地区に分かれ、各大会での試合ぶりで実力を認められた高校が、翌春のセンバツ大会に出場できるという、極めて重要な大会なのだ。
今秋の近畿大会で、大阪3位校として出場した大阪商業大学堺高校が8強に進出した。
近畿からのセンバツ出場校は、神宮大会枠や21世紀枠を除いて例年6校だから、準々決勝進出は最低条件となる。
逆に言えば、大商大堺は8強に進出したのだから、取り敢えずはセンバツ圏内に入ったとも言えるだろう。
しかし、大阪1位校の履正社も8強進出、まだ試合を行っていない2位校の大阪桐蔭も8強進出となると、3位の大商大堺は非常に不利となる。
現在の規定では、同一都道府県からのセンバツ出場は2校まで、となっているからだ。
もし3校揃って準々決勝敗退となったら、試合内容も加味されるとはいえ3位校である大商大堺のセンバツ出場の可能性は極めて低くなる。
また、準々決勝進出校が大阪からは2校のみとなっても、準々決勝でコールド負けなどの大敗を喫すると、その実力を疑われてセンバツに選ばれないことも充分に考えられるのだ。
大商大堺は全国的には無名ながら、大阪では「悲運の強豪」として知られる。
いや、あまりに悲運なため、全国的にも結構有名かも知れない。
「野球小僧(白夜書房)」という雑誌は高校野球の季節になると「高校野球小僧」という名称で増刊号が発行されるが、その中に「甲子園出場悲願校」というコーナーがある。
コーナーの趣旨としては、地方大会では毎年好成績を収めて、甲子園出場まであと一歩と迫りながら、未だに甲子園出場経験がない高校を紹介する、というものだ。
2008年夏号を見ると、全国で「悲願校№1」に選ばれたのが、ダントツの「悲願度」により大商大堺である。
あれから4年、大商大堺は春夏通じてまだ1度も甲子園の土を踏んでいないのだから、悲願校№1の地位は死守して(?)いるだろう。
大商大堺が夏の大阪大会決勝に初めて進出したのが1986年。
以降、2003年、2005年と決勝進出を果たしているが、いずれも甲子園を目前に涙を飲んでいる。
ちょっと面白いのが、1986年の前年は阪神タイガースが日本一、2003年と2005年は阪神がセ・リーグ優勝と、阪神の快進撃とリンクしていることだ。
まあ、だからどうしたと言われればそれまでだが……。
それ以前も、それ以降も大阪大会では何度も上位進出しているが、甲子園とは縁がない。
また、大商大堺は大物食いとしても知られている。
1981年、夏の大阪大会5回戦でセンバツ優勝校のPL学園とぶつかり、3-1で見事に倒した。
この年のPLはエースが西川佳明、中心打者に吉村禎章と若井基安がいて、春夏連覇を狙えるチームと言われていたから、甲子園未出場の大商大堺はまさしく大金星を挙げたわけだ。
ところが、次の準々決勝では近畿大学付属にノーヒットノーランを食らっている。
大物は食うがポカも多いところも、阪神に似ていなくはない。
また、あと一歩でセンバツ出場という年もあった。
この時も、因縁のPLが絡んでいる。
1986年、初めて夏の大阪大会決勝に進出した大商大堺はその秋、秋季大阪大会準決勝でPLと対戦した。
旧チームからエース格だった前田克也は、PL戦まで5試合連続完封と絶好調だった。
前田は実は中学時代、PLから勧誘を受けているがこれを断り、大商大堺に進学している。
前田の2学年上には、PLで大活躍していた桑田真澄、清原和博のKKコンビがおり、当時の大阪の野球少年は誰もがKKに憧れ、PL進学を希望していたと言っても過言ではない。
だが前田は、「打倒PL」を目標にして、敢えて対抗勢力である新興校の大商大堺を選んだ。
エース格となった二年夏、KKは卒業していたとはいえPLと大阪大会決勝で対戦するビッグチャンスが訪れたが、相手のPLが準決勝で泉州(現・近畿大学泉州)に敗れてしまい、対決はお預けとなった。
そしてその年の秋、前田はいよいよ打倒PLを果たすチャンスを迎えたのである。
前田は見事なピッチングを見せ2-0でPL打線を完封、即ち6試合連続完封で決勝進出を果たした。
決勝は府立校の市岡に1-6で敗れたものの、大阪2位校として近畿大会へ進出。
初戦を突破した大商大堺は準々決勝で再びPLと対戦。
大商大堺は序盤こそ5-1と圧倒的優位に立ちながら、終盤にPLの逆襲を受けて5-8で敗れた。
準決勝進出のPLは当然ながらセンバツに選ばれ、大商大堺は同じく準々決勝敗退の市岡との争いとなったが、大阪1位校であり、大阪大会で敗れた相手の市岡が選ばれた。
もし、あのままPLに勝っていたら、大商大堺は文句なくセンバツに選ばれていただろう。
あるいは、大阪大会と近畿大会の勝敗が逆だったら、大商大堺がセンバツ出場していたに違いない。
秋季大会でのPLとの対戦成績は1勝1敗なのに、順序が違うだけで天国と地獄である。
大商大堺は千載一遇のチャンスを逃した。
センバツに出場したPLは見事に優勝、夏の甲子園も制して春夏連覇を達成した。
そう、この時のPLのメンバーは、主将の立浪和義、エースの野村弘(現・弘樹)、剛腕の橋本清、強打の片岡篤史らを揃えた、史上最強とも目されるチームだったのだ。
春夏連覇を達成したPLにとって、大商大堺戦が最大のピンチだったわけである。
もしこの試合でPLが負けていれば、大阪1位の市岡が優先してセンバツに選ばれていただろうし、そうなれば当然、PLの春夏連覇はもちろんセンバツ制覇もなかった。
それに、大商大堺に連敗したままだったら自信喪失は免れず、夏の甲子園出場もなかったのではないか、と思われる。
あの最強軍団は幻となっていた可能性が高いのだ。
しかも、当時の大商大堺とPLには、まだ奇妙な因縁があった。
PLの立浪は、実は大商大堺に進学する予定だったのである。
立浪と橋本は中学時代、茨木ナニワボーイズに所属していたが、監督から大商大堺への進学を勧められていた。
橋本は早い段階からPL進学を決めていたが、立浪は大商大堺進学がほぼ決まっていたのである。
しかし、憧れのPL進学を捨て切れず、土壇場で大商大堺への進学を断ったのだ。
それだけに、あの大商大堺戦は人生のターニングポイントだった、と立浪は語っている。
大阪大会で敗れ、近畿大会で1-5とリードされた時は、このまま負けたら何のためにPLへ来たのか、と思った。
恩師の勧めを土壇場で断り、ある意味周囲に迷惑をかけてまで、PLを選んだのである。
もし負けていれば、大商大堺進学を断念したことを後悔したかも知れないし、その後の自分はなかったかも知れない。
この試合、大阪大会でPLを破った大商大堺は自信に満ち溢れ、PL先発の野村を早々とKO、二番手の橋本も打ち込んで5回表まで前述のように5-1とリードした。
ところが、秋は陽が落ちるのが早い。
照明灯に灯が点ると、試合の流れが一変した。
大商大堺にとって初めての体験となるナイトゲームはボールが見にくく、野手が打球を見失うことが多々あった。
走者を背負った前田は思うようなピッチングができなくなり、PL打線に掴まってしまう。
さらに、夜間照明の元で橋本の剛速球が冴え渡った。
ナイトゲームでは速球がより速く見えるので、橋本のような速球派には有利だったのである。
序盤は爆発した大商大堺打線が、完全に沈黙してしまった。
また、PLベンチでは中村順司監督がナインにハッパをかけていた。
「お前ら、こんな試合をしていて南に申し訳ないと思わんのか!」
南とは、その年の夏に死亡した二年生の南雄介のことである。
この日、11月8日は南の月命日だった。
本来ならこの試合に出ているはずである南のことを思い出したPLナインは発奮し、怒涛の反撃を見せ、4点ビハインドをひっくり返したのである。
まさしく「逆転のPL」の健在ぶりを見せ付けた一戦だった。
秋季大会で大商大堺相手に大いに苦しめられたPLは、翌春のセンバツでその経験を活かした。
準々決勝の帝京戦では延長10回サヨナラ勝ち、準決勝の東海大学甲府戦では5点差をひっくり返して延長14回の末に8-5で勝つという、大商大堺戦を彷彿するような内容だった。
センバツを制して自信を付けたPLは、夏の大会は安定した試合ぶりで相手チームを次々と圧倒し、「鉄壁野球」で春夏連覇を達成した。
あの大商大堺戦がなければ、PLはこれほどまで強くはなっていなかったに違いない。
「春夏連覇校を最も苦しめた高校」だった大商大堺は、翌年の夏の大阪大会直前に不祥事が発覚し、出場辞退。
前田は高校最後の夏を、最悪の形で終えることになってしまった。
スポーツにタラレバは禁物だが、もし近畿大会でPLに勝ってセンバツ出場していたら、大事な夏の大会前に不祥事は起こさなかったかも知れない。
それならば、大商大堺がPLの春夏連覇を阻止していたかも知れないのだ。
また、もし立浪や橋本が大商大堺に進学して、前田とチームメイトになっていたら、PLとの一戦はどんな試合になっていただろうと夢想してしまう。
悲運に泣かされ続けてきた大商大堺も、来春は初の甲子園出場のビッグチャンスだ。
10月28日のほっともっとフィールド神戸、近畿大会準々決勝で対戦する兵庫1位の報徳学園を破れば、センバツ出場はほぼ間違いない。
もっとも、大阪勢が3校とも準決勝に進出すれば、また微妙になるのだが……。
果たして、大商大堺は日本一の悲願校から「卒業」できるのだろうか。