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安威川敏樹のネターランド王国

お前はチョーマイヨミか!?

ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 本国の文章や写真を国王に無断で転載してはならない。
第12条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

アニキの前科

2012年10月9日、阪神甲子園球場での試合を最後に「アニキ」こと阪神タイガース金本知憲が引退した。
プロ通算21年、ビッグタイトルといえば2005年のMVP、2004年の打点王しかないのは意外だが、その偉大な功績は誰もが認めるところだろう。
本人が「最も誇りに思う」と語っていた日本記録の「1002打席連続無併殺打」、そして何よりも世界記録の「1492試合連続フルイニング出場」は、今後まず破られることがない金字塔だ。

 

2010年4月18日、横浜スタジアムで連続フルイニング出場が途切れた試合は今でもハッキリ憶えている。
「金本が先発から外れる」
その情報は試合前から得ていたが、横浜スタジアムのスコアボードに「金本」の二文字がなかったのは異様な光景だった。

その前日、レフトを守っていた金本は、右肩を負傷していたためにバックホームが出来ず、横浜ベイスターズに決勝点を与えてしまった。
そして翌日、金本は真弓明信監督に自ら欠場を申し出た。
もう自分が先発出場すれば、チームに迷惑がかかる、と。
真弓監督は金本の申し出を了承したが、試合前のメンバー表交換の時、
「本当に、このメンバー表を渡していいのか」
と迷ったという。

 

金本のプレーで、ファンの記憶にいちばん残っているのが、「右手一本でのライト前ヒット」だろう。
2004年7月29日の中日ドラゴンズ戦、金本は岩瀬仁紀から左手首に死球を受け、軟骨損傷という重傷を負った。
本来ならば当然、しばらくは欠場すべきケースである。
ところが翌日、7月30日の読売ジャイアンツ戦で、高橋尚成から右手一本でライト前ヒットを放ち、ファンの度肝を抜いた。
そして2日後の8月1日には、連続フルイニング出場の日本記録を達成した。

 

岩瀬から死球を受けた翌日、阪神の監督だった岡田彰布はトレーナーから金本の状態について報告を受けていた。

「(金本の出場は)しんどいかも知れません」
と。
しかし岡田はトレーナーの申し出を無視して、金本本人に、
「カネ、(試合に)出られるんやろう?」
と問いただした。
金本は当然、
「出ます」
と答えた。
そして、翌日の「右手一本でのライト前ヒット」が生まれたわけである。


この話、たしかに美談ではある。
金本はプロ野球選手の鑑だろう。
だが、筆者はこういう考えは好きではない
プロならば、万全の状態でファンの前でプレーしなければならない、と思う。
また、五体満足ではない選手が試合に出場することは、チームにとっても決してプラスにはならないし、怪我が悪化すれば本人のためにも良くない。

しかし、連続フルイニング出場日本記録があと2試合に迫っていた。
だとしたら、このぐらいの我儘は許されて良いのではないか?
しかもヒットを打ったのだから、誰も文句は言えまい。

無論、「四番打者は試合に出続けなければならない」という責任感もあったのだろうが、「あの時だけは記録にこだわった」と金本は後に語っている。

 

岡田監督も、トレーナーの意向を無視して金本を出場させた。
もし連続フルイニング出場記録がかかっていなければ、岡田監督も金本を休ませていたに違いない。

死球を受けたのが日本記録を達成した後だったなら、連続フルイニング出場記録はもっと早く途絶えていた可能性だってあったのだ。
たった数日間の後先で記録が変わる、まさしく野球の神様のみが成せる運命の悪戯である。

 

重傷を負いながらも無理して試合に出場したのは、この時が初めてではない。
もっと昔の、大学時代に金本の”前科”があったのだ。

広島市出身で、地元の名門高である広陵高を卒業した金本は、中央大学を受験するが失敗、1年間の浪人生活を送る。
1年後、当時はまだ野球では無名だった東北福祉大学への入学が決まった。

東北福祉大は、当時の監督だった伊藤義博の出身校である大阪市立桜宮高校出身の選手を中心に関西の高校から有力選手を集め、強豪大学に成長しつつあった。
そんな東北福祉大の選手に、1年先輩ではあるが、金本は1年浪人していたので同年齢の、後に阪神でチームメイトとなる桜宮高出身の矢野輝弘(現・燿大)がいた。
矢野や金本、さらに彼らの先輩である後のメジャーリーガー・佐々木主浩らの加入により、東北福祉大大学野球界でも有力チームにのし上がった。


よく、金本は大学時代は無名で、プロ入り後の努力によって今日を築き上げたと言われているが、これはあまり正しくはない。
金本は東北福祉大時代から充分に有望選手だったのだ。
大学4年時には日米大学野球の日本代表に選ばれているし、当然のことながら有力なドラフト候補だったのである。
出身地である広島東洋カープからドラフト指名を受け、4位というのはいささか評価が低いものの、ドラフトでは投手が上位指名される傾向が多いため、野手で4位というのは出世頭なのだ。
ちなみにイチローもドラフト4位指名である。
もっとも、プロ入り当初の金本は非力で、懸命なウェート・トレーニングによってパワーヒッターに変身したのは事実であるが。

 

金本が大学時代、最も脚光を浴びたのが4年時の全日本大学選手権決勝の試合だった。
関西大との決勝戦は大熱戦となり、延長17回までもつれ込んだ。
ちなみにこの試合、東北福祉大の先発は後のメジャーリーガー・斎藤隆、トップバッターはプロ野球で活躍することになる韋駄天・浜名千広、金本自身は三番打者だった。

延長17回表、東北福祉大の攻撃。
一死一、三塁と勝ち越しの絶好のチャンスで、打者は金本。
だが金本はこれまでノーヒットと不振を極めていた。
東北福祉大の伊藤監督は「金本に代打」を考えていたが、チームメイトの説得によりこれを撤回、金本の決勝2点タイムリーを生み出し、東北福祉大は初優勝を果たした。

この時、実は金本は左手首を剥離骨折していたのだ。
その骨折を押して、東北勢初優勝を呼び込む一打を放ったのが金本だった。
まさしくプロ入り後、2004年の「右手一本のヒット」の原型が、大学時代にあったのである。

 

プロ入り当初は非力だった体を、弛まぬ鍛錬によって鋼鉄のボディに改造した金本。

しかし本当は、鉄人とは程遠い満身創痍の肉体だった。

1492試合連続フルイニング出場中も、ずっと怪我との戦いを強いられていた。2004年は前述の軟骨損傷、2007年に左膝半月板損傷、2010年は記録断念の原因となった右肩棘上筋部分断裂……。

 

それでも金本は、自分の体にムチ打って試合に出続けた。

引退を決意して一番ホッとしているのは、44歳までの21年間、悲鳴をあげ続けた金本自身の身体なのかも知れない。