ネターランド王国憲法

第1条 本国の国名を「ネターランド王国(英名:Kingdom of the Neterlands)」と言う。
第2条 本国の国王は「禁句゛(=きんぐ)、戒名:安威川敏樹」とする。
第3条 本国は国王が行政・立法・司法の三権を司る、絶対王制国家である。
第4条 本国の公用語は日本語とする。それ以外の言語は国王が理解できないため使用禁止。
第5条 本国唯一の立法機関は「日記」なる国会で、国王が一方的に発言する。
第6条 本国の国民は国会での「コメント」で発言することができる。
第7条 「コメント」で、国王に不利益な発言をすると言論弾圧を行うこともある。
第8条 「コメント」で誹謗・中傷などがあった場合は、国王の独断で強制国外退去に踏み切る場合がある。
第9条 本国の国歌は「ネタおろし」とする(歌詞はid:aigawa2007の「ユーザー名」に記載)。
第10条 本国と国交のある国は「貿易国」に登録される。
第11条 その他、上記以外のややこしいことが起きれば、国王が独断で決めることができる。

太く短く~その1(伊藤智仁)

金本知憲石井琢朗小久保裕紀など、今季限りでユニフォームを脱ぐ不惑の選手が相次いでいる。

40歳を過ぎてなお一軍で活躍していた彼らには脱帽だが、その驚異的な肉体を維持するためによほどの鍛錬と節制をしているのだろう。

 

だが、こんな選手は一握りで、ほとんど活躍できずに引退するプロ野球選手の方が圧倒的に多い。

仮に一時的には活躍しても、怪我などでプロ野球生活を断念せざるを得ない選手も少なからずいる。

とりわけ投手は悲惨で、少々の怪我なら代打や守備要員で生き残ることができる野手と違い、肩や肘を壊してしまうと一貫の終りだ。

中には40代後半まで投げ続けた工藤公康や、47歳で今なお現役の山本昌などのバケモノ的な投手もいるが、一般的に言って野手よりも投手の方が選手寿命は短い。

でも、輝いた時期が一瞬だったからこそ、フラッシュバックのようにマウンド姿が鮮明に思い出される投手もいる。

そんな「太く短い」マウンド人生を生き抜いたハーラー達を、これから数回にわたって追ってみたい。

 

 

※チーム名の後の( )内の丸数字はドラフト順位。最初の数字は初年度

 

伊藤智仁

右投右打 花園高―三菱自動車京都―ヤクルト(①93~03)通算11年(実働7年) 37勝27敗25S 防御率2.31 タイトル:新人王(93年)

 

通算ではなく、一時期における史上最高の投手は誰か?という問いに、伊藤智仁の名前を挙げる人は多い。

ヤクルト・スワローズに入団した1993年、150km/hを超える速球以上に、伊藤が投げる140km/h超の「直角に曲がる高速スライダー」を目の当たりにしたプロ野球ファンはビックリ仰天した。

百戦錬磨のプロの強打者連中が、全くかすりもしないのである。

伊藤とバッテリーを組んでいた捕手の古田敦也は、

「こんな球、キャッチャーミットだからなんとか捕れるが、バットで打てるわけがない」

と脱帽していた。

プロを代表する一流捕手だった古田ですら、アマチュアから来た伊藤の高速スライダーは驚天動地の魔球だったのである。

 

今でも語り草になっているのが新人年の6月9日、石川県立野球場での読売ジャイアンツ戦、8回まで0点に抑えながら9回裏に篠塚和典にサヨナラソロ本塁打を浴びて、0-1で敗戦投手になった試合だ。

しかし、敗れながらもセントラル・リーグタイ記録の16奪三振を奪った快投は、未だに多くのファンの記憶に残っている。

石川県立野球場は、伊藤と篠塚のおかげで有名になったようなものだ。

 

この年、伊藤は前半戦だけで7勝2敗、防御率0.91、126奪三振(1試合平均10.4個)、4完封という、ルーキーとは思えぬ驚異的な数字を残した。

誰にも打てない高速スライダーの秘密は、超人的な右肩の可動域にあった。

だが、高速スライダーを生み出したその肩が、伊藤にとって致命傷となったのは皮肉である。

 

伊藤の肩は可動域が広い半面、ルーズショルダー(非外傷性肩関節不安定症)という難問を抱えていた。

伊藤の右肩の構造は魔球を投げるために不可欠だったものの、非常に故障しやすいという両刃の剣だったのである。

そのため、投球数をセーブする必要があった。

だが時の監督だった野村克也は伊藤を酷使したために、後半戦を棒に振ってしまったのである。

それでも、前半戦の活躍だけで伊藤は新人王を獲得、将来を嘱望された。

 

だが、1年目の前半に酷使された右肩は元には戻らず、2年目、3年目とずっと二軍暮らし。

新人王を獲ったその代償はあまりにも大きかった。

4年目の後半にようやく一軍に復帰し、完全復活が待たれた。

 

そして5年目の1997年、抑えだった高津臣吾に変わりクローザーを任されると、全盛期を彷彿させる高速スライダーでセーブを稼ぎ、7勝2敗19S、防御率1.51で見事にカムバック賞を獲得。

しかし、翌1998年から再び先発に戻ったものの、その後は肩痛と肘痛との戦いの連続だった。

結局、2000年に挙げた8勝を最後に勝利を挙げることはできず、2003年に引退。

かつて、MAX155km/hを誇った快速球は、最終年には109km/hしか計測されなかった。

 

伊藤は社会人からプロ野球に身を投じた。

80年代後半から90年代前半にかけて、ドラフト上位の社会人出の投手は、新人年から大活躍した選手が多い。

野茂英雄潮崎哲也与田剛佐々岡真司長冨浩志など。

この現象は、1984年から野球がオリンピック種目(当時は公開競技)になったのと無縁ではないだろう。

 

当時はまだプロ選手の参加は認められておらず、アマチュア選手のみの構成で、社会人選手が中心だった。

この頃のアマ野球は金属バットである。

アマチュアとはいえキューバやアメリカのパワー溢れる打者連中が金属バットを振り回すのだから、メジャーリーガー並みのスラッガーばかりだったと言っていいだろう。

なにしろ、日本では当たり前の「打たせて取るピッチング」がまるで通用しないのだから。

巧く打たせて外野フライと思ったらそのままオーバーフェンス、詰まらせたと思ったらポテンヒット、内野ゴロでゲッツーと思いきや球足が速くてあっという間に野手の間を抜けて行く。

そんな野球を経験した投手にとって、木製バットのプロ野球は楽に思えたに違いない。

世界中が注目するオリンピックの金属バット野球では「打たせて取る」投球術は通用しないため、日本代表に選ばれた社会人の投手は「バットにかすらせない」球を磨いていたのだから、プロ野球でも活躍して当然だ。

 

だが、「かすらせない球を投げる」代償も大きかった。

その分、肩や肘に負担がかかる。

しかも、プロ野球は1年間130試合(当時)という長丁場のため、調整に失敗し、あるいは首脳陣に酷使され、短命に終わった投手も少なくない。

 

伊藤もそんな投手の一人だった。

プロ入り前年の1992年、バルセロナ五輪に出場した伊藤は1大会27奪三振のギネス記録を打ち立て、「バットにかすらせない」投球の真骨頂を見せる。

しかしプロ入り初年度は鮮烈なデビューを飾るものの、プロで規定投球回数に達したのは1998年の1年だけ。

伊藤の投球を知る者は、通算わずか37勝という数字は誰もが信じられない思いである。

 

だが、一瞬の眩しすぎる輝きを放った伊藤の高速スライダーを見たファンは、その球道を永遠に忘れることはないだろう。