大和国(奈良県)だけでなく河内国(大阪府)にも「近つ飛鳥」と呼ばれる「飛鳥」があって、河内国には聖徳太子ゆかりの「河内三太子」という三つの寺院があると、前回および前々回で書いた。
もう一度おさらいすると、河内三太子とは太子町にある「上之太子」と呼ばれる叡福寺(えいふくじ)、羽曳野市にある「中之太子」の野中寺(やちゅうじ)、そして八尾市の「下之太子」こと大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)の三つである。
叡福寺に関しては「近つ飛鳥とシルクロード」で、野中寺のことは「河内三太子(野中寺編)」で書いたので、そちらを参照されたい。
今回取り上げるのは、「下之太子」の大聖勝軍寺である。
【大聖勝軍寺(下之太子)】
大聖勝軍寺は、河内三太子の中でも叡福寺や野中寺とはやや趣が異なる。
場所は「近つ飛鳥」から完全に外れた、大和川よりさらに北にある。
叡福寺は「近つ飛鳥」のド真ん中である太子町、野中寺は近つ飛鳥とは離れているとはいえ竹内街道沿いの羽曳野市にあるが、大聖勝軍寺はそれらよりも遥か北、近つ飛鳥や竹内街道とは縁もゆかりもない八尾市に建っている。
聖徳太子はなぜ、こんなところに寺を建立したのだろうか?
北から下之太子の大聖勝軍寺(八尾市)、中之太子の野中寺(羽曳野市)、上之太子の叡福寺(太子町)。赤いラインは竹内街道
そもそも「大聖勝軍寺」という名前が勇ましすぎる。
聖徳太子と言えば十七条憲法を制定して、その第一条には「和を以って貴しとなす」と書かれているではないか。
だが実は、大聖勝軍寺とは「平和主義者」と思われている聖徳太子が、戦争に勝った記念に建てた寺なのだ。
聖徳太子は、当時の有力豪族だった蘇我馬子と共に、中国大陸からもたらされた仏教を広めようとした。
これに対して強硬に反対したのが、日本古来から伝わる神道を守ろうとした物部守屋だったのである。
現在でも大聖勝軍寺の近くに「渋川」という地名が残っているが、この渋川こそが物部氏の根拠地だった。
渋川の地で、蘇我氏と物部氏による戦いの火ぶたが切って落とされた。
地の利もあり、軍事力に優れた物部氏が優勢と思われたが、蘇我氏も仏教を通して朝鮮半島から取り寄せた兵器で対抗、さらに聖徳太子による祈願で物部氏に打ち勝った、とされる。
その戦勝の地に建立されたのが大聖勝軍寺だった。
こういう歴史を見ると、名前の由来も納得できる。
現在の大聖勝軍寺は国道25号線、かつての奈良街道沿いにある。
この奈良街道をそのまま東に進んでいくと遥かかなたに聖徳太子ゆかりの法隆寺(奈良県斑鳩町)が、西に進めば四天王寺(大阪市)あるのは何かの因縁か。
国道25号線は大阪市に通ずる道とあって、慢性的な渋滞である。
片田舎の叡福寺や、街中にある野中寺よりも遥かに都会に位置している。
ドライバーたちはみんな、国道25号線沿いにある大聖勝軍寺の存在など、誰も気に留めないのではないか。
大聖勝軍寺とは、河内三太子と呼ばれる由緒正しき寺にもかかわらず、それほど目立たない寺なのである。
国道25号線に「太子堂」という交差点があるが、この近くに大聖勝軍寺がある。
太子堂というのは、大聖勝軍寺の別名なのだ。
さらに、太子堂はこの近辺の地名にもなっている。
勝てば官軍と言うが、物部守屋は自分の根拠地が、敵対した者の地名になっているというのは、いかばかりの思いであろうか。
大聖勝軍寺へ行くには、JR関西本線(大和路線)の八尾駅から徒歩15分と、結構遠い。
あるいは近鉄大阪線の近鉄八尾駅から近鉄バスの藤井寺駅行きに乗って「太子堂」という停留所で降りてすぐの所にある。
駐車場も国道25号線沿い、山門の手前に一応はあるが、「本当にここに駐車していいの?」と躊躇するぐらい狭く、そもそも駐車ラインは引かれていない。
2台も車を置けば満車になるほどスペースは狭いが、「参拝客以外は駐車お断り」と書いてあったから、逆に言えば参拝客なら駐車してもよかろうと思って、ここに車を停めた。
駐車料金は無料だが、こんな状態なので車での来訪はお勧めできない。
境内に入ると、叡福寺に比べるまでもなく、野中寺よりもさらに狭い。
本当にここが「河内三太子」の一つなのか、と思えるほど、境内はひっそりとしている。
もちろん拝観料は無料だ。
大聖勝軍寺は先述したとおり、蘇我馬子が物部守屋に打ち勝ったことを記念して、聖徳太子が開基した寺である。
創建年は594年とされ、聖徳太子の伯母である推古天皇が山号と寺号を贈った。
神道を守ろうとした物部氏はこの戦いにより滅亡、日本に仏教が広まっていった。
自身の根拠地に、敵対する宗教の建築物が設立されたというのは、さぞかし無念だっただろう。
もっとも近年の研究によると、物部守屋も仏教を受容しようとしていたとのことであるが。
国道25号線に面した大聖勝軍寺の山門前。右側にかろうじて駐車スペースがあるが、車では来訪しない方がいい
山門前にある、聖徳太子像と四天王像
大聖勝軍寺の山門。山号は神妙椋樹山(しんみょうりょうじゅさん)。河内西国三十三箇所一番。本尊は植髪太子(聖徳太子十六歳像)
山門をくぐって正面にある毘沙門堂。境内は非常に狭い
「太子堂」と呼ばれる本堂。「太子堂」とは大聖勝軍寺の代名詞であり、近辺の地名にもなっている
境内の奥にあった、多宝塔の模型。これを見ると、かつては十三重塔があった?
こちらは五重塔の模型
叡福寺と同じように、弘法大師像があった。大聖勝軍寺は野中寺と同じく、高野山真言宗の寺院である。河内三太子は、弘法大師(空海)によって平安仏教の真言宗になったということか
大聖勝軍寺の山門を出て東の方、国道25号線沿いにある物部守屋の墓。敗軍の将だけあって、有力豪族ながら小ぶりな墓である
野中寺もそうだが、大聖勝軍寺には寺院の説明書も、境内図も全くなかった。
野中寺には「西国薬師四十九霊場めぐり」というフリーペーパーと、それにまつわる会報があったが、寺院の説明書も境内図もない。
いくら拝観料は無料とはいえ、境内図ぐらいは備えておいてもらえないものだろうか。
現在ではワードという便利な物があるのだから、大した費用も手間もかけずに簡単に作れるだろう。
そうでなければ、我々素人が参拝しても、この建物はなんという名前で、どんな由来があるのか、さらにはその配置すらサッパリわからない。
結局は実物を見ても、自分で調べなければならないのである。
寺院はあくまでも宗教施設で、信者以外にサービスする必要はないと言われればそれまでだが、せっかく訪れた人に対してその程度の配慮があってもいいのではないのだろうか。
少なくとも「 河内三太子」と称される由緒正しい寺院で、その寺院の由来を知りたいと思っている客が少なからずいるのだから。
奈良県や京都府の寺院のように観光地化する必要はないが、訪れた客に寺院の説明書を提供することは決して損にはなるまい。