「飛鳥」は大和国(奈良県)だけではなく、河内国(大阪府)にもあり、それは「近つ飛鳥」と呼ばれていた、ということは、前回の「近つ飛鳥とシルクロード」で書いた。
その近つ飛鳥の一部だった現在の大阪府太子町に叡福寺(えいふくじ)という、聖徳太子の墓所が納められている寺があると書いたが、その叡福寺と共に「河内三太子」と呼ばれる野中寺と大聖勝軍寺という寺があることにも少し触れている。
「上之太子」と呼ばれる叡福寺に対し、それより北西の羽曳野市にある野中寺は「中之太子」、さらに北へ大和川を隔てて八尾市にある大聖勝軍寺は「下之太子」と呼ばれている。
今回は「河内三太子」の内の一つ、野中寺について書いてみたいと思う。
北から下之太子の大聖勝軍寺(八尾市)、中之太子の野中寺(羽曳野市)、上之太子の叡福寺(太子町)。赤いラインは竹内街道
【野中寺(中之太子)】
「中之太子」の野中寺は先述の通り叡福寺より北西、現在の羽曳野市にある。
前回、「近つ飛鳥」は太子町と羽曳野市東部にあったと書いたが、野中寺があるのは同じ羽曳野市でも西部で、「近つ飛鳥」からは外れている。
それでもこの辺り一帯は古市古墳群と呼ばれ、古代日本の要所だったことには変わりがなく、野中寺から東へ約2kmの所に応神天皇陵がある。
応神天皇陵は百舌鳥古墳群にある堺市の仁徳天皇陵に次いで二番目に大きい陵墓で、第15代天皇の応神天皇は実在した最古の大王(おおきみ)、即ち天皇ではないかと言われている。
野中寺は田舎にある叡福寺と違って街中にあり、目の前には府道31号線が通っていて、道路はいつも堺へ向かう車で慢性的な渋滞である。
とはいえ、この府道31号線もかつては「近つ飛鳥」に繋がる竹内街道だった。
やはり叡福寺には繋がっているのである。
電車で野中寺へ行くには、大阪阿部野橋駅(天王寺のすぐ近く)から近鉄南大阪線の準急に乗って約15分、藤井寺駅で降りてそこから徒歩約20分とやや離れている。
歩くのが面倒なら、藤井寺駅から近鉄バスの羽曳が丘方面行きに乗って約5分、「野々上」という停留所で降りればよい。
車で行く場合は、府道31号線沿いに無料駐車場があるが、駐車スペースは非常に狭く、10台ぐらいで満車になるのではないか。
それでも一応、大型バスを駐車するスペースもあるので、ツアーも時々あるのかも知れない。
ところでこの野中寺、ここまで読んで来た人は普通に「のなかでら」と読んでいたかも知れないが、本当は「やちゅうじ」と読む。
なぜ「のなかでら」ではなく、わざわざ音読みにするのか、真相は不明だ。
野中寺の近くに、藤井寺市の「野中」という地名があるが、こちらは「のなか」と訓読みである。
話は変わるがこの飛鳥時代、「遠つ飛鳥」即ち現在の奈良県明日香村近辺に建てられた寺院はほとんど「○○でら」と読む。
聖徳太子が近くで生まれたとされる橘寺や、その周辺にある飛鳥寺や岡寺、少し離れると壺阪寺や久米寺、当麻寺など、いずれも「○○でら」だ。
ところが「遠つ飛鳥」より北にある法隆寺や薬師寺は「○○じ」であり、「河内三太子」もいずれも音読みである。
ひょっとすると、「遠つ飛鳥」にある寺院は漢字が広まる以前に建てられたため、そのまま訓読みされていて、それ以外の地に建立された寺院は、漢字の読み方が広まってから名付けられたのかも知れない。
さて、この野中寺であるが、聖徳太子建立48寺院の一つとされ、聖徳太子の命により蘇我馬子が開基したとなっている。
だが実際には聖徳太子没後に建立されたのではないかと考えられているが、真意は定かではない。
野中寺の山門から境内に入ると、叡福寺に比べれば実に小ぶりな寺院だ。
叡福寺のように、長い階段を登って境内に入る必要もなく、府道31号線からすぐの所に山門があり、山門をくぐって少し歩けば本堂がある。
もちろん、拝観料は無料だ。
街中にあるにもかかわらず参拝客は叡福寺よりもさらに少なく、境内は実にひっそりとしている。
地元の人にとって、野中寺は「河内三太子」の寺という意識は全くなく、そこにあって当たり前、という存在なのだろう。
だが、野中寺にとって特別な日がある。
それは毎月18日のことだ。
この日には、重要文化財となっている「銅造弥勒菩薩半跏思惟像」が開帳される。
白鳳時代(飛鳥時代後期、645年の大化の改新以降の時代)に造られた貴重な石像とされ、これを見るには300円の拝観料が必要だ。
逆に言えば、野中寺で料金が必要なのは18日の石像拝観のみで、それ以外は全て無料である。
そしてもう一つ、見どころと言えば「朝鮮石人像」だ。
朝鮮伝来と言われており、現在の大韓民国の首都であるソウル市郊外の東九陵墓の傍に立っている石人像とよく似ているという。
ここが野中寺建立のポイントで、この付近は朝鮮からの渡来氏族である船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺だったというのだ。
船氏は王辰爾(おうじんに)を祖とする子孫であり、王辰爾は朝鮮半島の百済からのの渡来人で、船長に任命されたために船氏姓を賜わったという。
そう考えると、野中寺がなぜ「のなかでら」ではなく「やちゅうじ」と音読みされたのか納得がいく。
中国大陸の一部である朝鮮半島から来た渡来人の氏寺だから、「やちゅうじ」と音読みされたのではないか。
もっともこれは、筆者が勝手に考えた想像であり、真意のほどはわからない。
府道31号線(竹内街道)に面した、野中寺の山門。山号は青龍山。西国薬師四十九霊場十四番。本尊は薬師如来
境内に入って、本堂に通ずる道
境内の正面にある本堂
本堂の東側にある大師堂。「大師」とは弘法大師(空海)のこと。即ち、野中寺は高野山真言宗の寺院である
野中寺の近くで見つかった「ヒチンジョ池西古墳石棺」。飛鳥時代後期のもので、二上山から切り出された凝灰岩を加工して作られた
寺院なのになぜか鳥居がある。神仏習合の名残か?
さらに、野中寺のすぐ西隣には野々上八幡神社がある
本堂の東側奥にある朝鮮石人像。野中寺は渡来人が建立した寺なのだろうか
銅造弥勒菩薩半跏思惟像が納められている地蔵堂。毎月18日にならないと入ることはできない。拝観料は300円