大阪府南東部に太子町という、大阪府内とは思えない自然豊かな(ハッキリ言えば田舎)町がある。
その東側の奈良県との県境にそびえ立っている、二上山という山を御存知だろうか。
その名の通り二つの山頂を持ち、北側の高い山を雄岳(標高517m)、南側の低い山を雌岳(標高474m)といい、男女一対を成した山である。
標高は決して高くはないが、二上山は古代から神の宿る山として崇め奉られていた。
それだけにその存在は謎に包まれており、現在も二上山の正体については完全に解明されていない。
二上山は現在では「にじょうざん」と読むが、かつては「ふたかみやま」と呼ばれていた。
二人の神が宿る山、という意味も含まれている。
そして単に信仰の深い山というだけではなく、古代日本にとって極めて重要な山だったのである。
河内国、つまり現在の大阪府側から見て東側にある二上山は「日の出の山」と呼ばれ、大和国、即ち現在の奈良県側から見れば西側にあるため「日没の山」と呼ばれていた。
当然、見た形も河内国側と大和国側では正反対となり、河内国(大阪府)側から見れば左が高く(雄岳)、右が低く(雌岳)なっているが、大和国(奈良県側)から見ると左が低く(雌岳)、右が高く(雄岳)なっている。
筆者は大阪府で生まれ育ったため、奈良県側から見る二上山は奇異に映る。
逆に奈良県出身の人から見れば、大阪府側から見た二上山はしっくり来ないだろう。
河内国(大阪府)側から見た二上山。左(北)が雄岳で右(南)が雌岳。河内側には小高い丘や山が多い
大和国(奈良県)側から見た二上山。左(南)が雌岳で右(北)が雄岳。大和側は平地から突然、二上山が隆起している
二上山は死火山である。
現在は火口がなく、噴火する可能性がないので火山には分類されていないが、有史以前は噴火を繰り返していたと予想される。
二上山の火山活動が、石器時代の日本人に豊かな富をもたらした。
二上山の噴火によって良質なサヌカイト(讃岐石)が噴出し、石器を造るのに適していたのである。
現在は田舎でしかない二上山周辺は、古代日本にとっては巨大工場で、現在で言うならば京浜工業地帯のようなものだ。
二上山の北麓、大阪府境に近い現在の奈良県香芝市に屯鶴峯(どんづるぼう)という標高154mの小さな山がある。
この屯鶴峯こそが、二上山の噴火活動によって出来た山だ。
屯鶴峯は現在でも灰色のサヌカイトが剥き出しになっており、その景観は圧巻だ。
屯鶴峯に行ってみると、ここで古代日本人がせっせと石器を造っていたのか、と実感できる。
灰色のサヌカイトが剥き出しの屯鶴峯。決して雪山ではない。地面が硬いため、行く際には転ばないように注意が必要だ
二上山周辺が古代日本にとって極めて重要な場所だったことは、疑いようもない事実だ。
特に重要だったのは二上山の西側、つまり現在の大阪府だったと言えよう。
屯鶴峯は現在の奈良県に属するが、二上山から見ると西側になり、河内国との結びつきが強い。
それは石器時代から縄文時代、弥生時代を経て、古墳時代まで続く。
二上山よりも西側に、古市古墳群(大阪府羽曳野市、藤井寺市。応神天皇陵で有名)や、さらにその西側の百舌鳥古墳群(大阪府堺市。仁徳天皇陵で有名)があることでもわかる。
538年に中国大陸から日本に仏教が伝来し、飛鳥時代を迎える。
この飛鳥時代に、日本史における最大のスーパースターが誕生した。
聖徳太子である。
二上山の大阪側のふもとにある「太子町」という町名は、聖徳太子が由来ということは誰でも想像できるだろう。
当時の日本の中心地は、この大阪府太子町付近にあったのだ。
592年、推古天皇が日本初の女帝として即位すると、その甥の厩戸皇子(うまやとのみこ)、即ち聖徳太子は皇太子となり、翌593年に摂政となった。
そして太子町から二上山を越えた大和国、聖徳太子の生まれ故郷とされる現在の奈良県明日香村(あすかむら)付近に都を移したのである。
これが俗にいう飛鳥京(あすかきょう)だ。
そのため、「飛鳥」と言えば明日香村を連想する人がほとんどである。
ところが、太子町付近にも「飛鳥」はあった。
現在でも太子町に程近い、大阪府羽曳野市東部に「飛鳥」という地名は残っている。
河内国の「飛鳥」を「近つ飛鳥」、大和国の「飛鳥」を「遠つ飛鳥」と呼んだ。
この「遠い、近い」は、それ以前の日本の中心地だったとされる難波(なにわ・現在の大阪市)から近い方が「近つ飛鳥」、遠い方が「遠つ飛鳥」という意味である。
となれば、現在の太子町付近の「飛鳥」こそが、本家本元の「飛鳥」と言えなくもない。
この二つの「飛鳥」を結ぶ道が、日本最古の官道と言われる竹内街道(たけのうちかいどう)だ。
竹内街道は現在の大阪府堺市堺区の大小路付近から羽曳野市、そして太子町を経て二上山の南にある竹内峠を越えて、現在の奈良県葛城市の長尾に至る道である。
この竹内街道こそが、飛鳥時代の日本における大動脈だったと言えよう。
ただし、竹内街道の東側の終点は、遠つ飛鳥から約10kmも手前である。
やはり日本最古の官道は、近つ飛鳥を重要視していたということか。
「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」
として敷設した大道(だいどう)である。
さらに推古天皇は、竹内街道を難波と飛鳥を結ぶだけでなく、中国大陸からの使節を迎えるための大道ととらえていた。
つまり、竹内街道は単なる日本の大動脈だっただけではなく、当時の日本を代表する国際道だったのである。
しかも、中国や朝鮮半島との国際交流だけではなかった。
シルクロードと言えば、ヨーロッパから東アジアの中国・長安を結んだ、西洋と東洋の架け橋とも言える「絹の道」である。
シルクロードは長安からさらに東へ進み、海を経て現在の奈良市にあった平城京が終着点と言われる。
だがそれは、奈良時代以降の話だ。
710年に平城京へ遷都する以前、日本の中心地は近つ飛鳥と遠つ飛鳥という二つの「飛鳥」だったのは先述したとおり。
その二つの飛鳥に至る道、即ち竹内街道こそが、シルクロードの東の果てだったのである。
飛鳥時代の日本には、中国大陸から朝鮮半島を経て東シナ海を渡って、九州から瀬戸内海を通って難波に入り、陸路の竹内街道により二つの「飛鳥」に大陸文化をもたらしたのだ。
いわば、ヨーロッパから伝わった文化の終着駅が竹内街道だったのである。
現在では竹内街道は国道166号線になっているが、自然豊かな田舎道といった風情で、この道がヨーロッパに通ずるとは想像もできない。
だが、遥か太古の飛鳥時代に、ヨーロッパ文化の影響を受けたと思われる逸話もある。
たとえば、聖徳太子の生誕秘話である、
「母・穴穂部間人皇女の胎内に救世観音が入り、厩(馬小屋)の前で聖徳太子生まれた」
という伝説は、イエス・キリスト出生のエピソードと酷似している。
つまり、キリスト伝説がシルクロードから竹内街道に渡り、近つ飛鳥に伝えられ、聖徳太子に当てはめられたとも考えられるのだ。
事の真意はともかくとして、実に興味深い説である。
赤いラインが竹内街道。大阪府堺市堺区大小路から太子町を経て、奈良県葛城市長尾に至る。青い部分が大阪府太子町
大阪府太子町付近の竹内街道(赤いライン)。「近つ飛鳥」太子町は、「遠つ飛鳥」奈良県明日香村に勝るとも劣らない史跡の宝庫だ。
舗装されているとはいえ、狭い路地にはかつての竹内街道の情緒が残っている。江戸時代以前は旅人で賑わい、旅籠もあったそうだ。大阪府太子町
竹内峠を降りた奈良県側。左が竹内街道で、右が現在の国道166号線
竹内街道の東端、奈良県葛城市長尾。二上山を西に望む。左が竹内街道(国道166号線)。長尾街道との合流点付近でもある。
聖徳太子と言えば、607年に当時の中国を支配していた隋に遣隋使を派遣したことで有名だ。
当時、東アジアの先進国だった隋との交流を図り、日本を近代国家にしようと目論んだのである。
小野妹子は都から遠く離れた近江国(現在の滋賀県)出身で、身分は低かったとされる。
当時、有力豪族が有無を言わさず実権を握っていた中で、日本の浮沈を左右する重要な役目を小野妹子に託したということは、よほど聖徳太子のお眼鏡にかなった(当時はメガネなんてなかっただろうが)人物だったのだろう。
飛鳥時代に国際交流を果たした小野妹子の墓も、当時の為政者だった推古天皇の陵墓も、「近つ飛鳥」たる太子町にある。
だが、日本史を学んだ者なら誰でも知っている小野妹子や推古天皇も、その墓所は全く目立たない、実にひっそりとした場所にある。
しかも狭い路地を入って行くため車での移動は大変で、事前に調べていなければとても行ける所ではない。
「遠つ飛鳥」の奈良県明日香村は、道路や駐車場が整備されているうえに、レンタサイクルも充実しているため、気軽に各史跡を巡ることができ、観光客や修学旅行生が非常に多い。
それに比べると、「近つ飛鳥」の太子町には、よほどの歴史ファンぐらいしか訪れない。
また、太子町および近つ飛鳥の住民は、歴史ファンが泣いて喜ぶような史跡の宝庫にも、ほとんど関心を示さない。
そこにあって当たり前の史跡ばかりだから、その有難味がわからないのだ。
「遠つ飛鳥」の明日香村の住民は、観光客の多さから「ここは歴史的にも重要な場所なんだ」と認識できるだろうが。
かく言う筆者も、近所にこれだけの史跡がありながら、訪れたことはほとんどなかった。
筆者が推古天皇陵を訪れたとき、道がわからず案内板を見ていると、野良仕事をしていたオジサンが「どこに行きたいんや?」と訊いてきた。
「推古天皇陵に行きたいんです」と答えると、オジサンは道を教えてくれた。
礼を言って推古天皇陵の近くに行くと、幸い車を停められる歩道があったので、そこに車を停めて推古天皇陵へ歩いて行った。
日本初の女帝・推古天皇の陵墓にもかかわらず、さらに土曜日だったにもかかわらず、推古天皇陵を訪れていたのは筆者だけだった。
そして、仁徳天皇陵や応神天皇陵などと比べるまでもなく、遥かに小さい。
次に、小野妹子墓を目指した。
小野妹子墓は、推古天皇陵よりもさらにヘンピな場所にあり、かなり細い路地を進まなければならない。
かなり迷った挙句ようやく小野妹子墓に到着、ここにも駐車場はなかったが、幸い道が広くなっていたのでそこに車を停めた。
道のすぐ傍には科長神社(しながじんじゃ)があり、その横に小野妹子墓に通ずる階段があった。
結構長い階段を昇って行くと、小野妹子墓が見えた。
ただ、推古天皇陵と違い、ここを訪れているオバサンが一人だけいた。
オバサンは筆者に、「この木はねえ、八重桜なの。春になると綺麗に桜が咲くよ。そうそう、この昆虫、死んでるんやけど、綺麗でしょ?」と語りかけてきた。
オバサンはたまたま昆虫の死骸を見つけたらしく、綺麗な羽根を持った甲虫を筆者に見せてきた。
「あなた、お子さんいる?いるのなら喜ぶやろうし、あげるわよ」
「いえいえ、子供はいません」
オバサンの申し出は丁重に断ったが、聞けば趣味で俳句をやっていて、小野妹子墓にはよく訪れるとのこと。
春になると同志でここに集まって、満開の桜の元で一句詠むのだそうだ。
つまり、観光客や歴史ファンではなく、地元の人である。
オバサンとは別れて、小野妹子墓の周りの写真を撮っていると、今度は野良仕事をしていたオジサン(もちろん、先述の推古天皇陵への道を教えてくれたオジサンとは別人)が、「ええ写真、撮れたかぁ~?」と訊いてきた。
「ええ、まあ、なんとか」と答えたが、ここの近隣住民は、他人だろうがなんだろうが、誰彼なしに声をかける習性があるらしい。
昔の日本はどこでもそうだったというが、この「近つ飛鳥」にはまだ古き良き日本が残っているようだ。
聖徳太子の叔母である日本初の女帝・推古天皇。その墓所である推古天皇陵も大阪府太子町にある。古墳時代の巨大な天皇陵と違って、かなり小ぶりな陵墓だ
科長神社の横にある、小野妹子墓に続く階段。小野妹子墓は小高い丘にある
小野妹子墓。歴史的要人の墓とは思えないほど、周りは鬱蒼としている
やはり飛鳥京があった「遠つ飛鳥」の奈良県明日香村なのだろうか。
答えは「No!」で、聖徳太子の墓所とされるのは、推古天皇陵や小野妹子墓と同じく「近つ飛鳥」の太子町にある叡福寺(えいふくじ)である。
叡福寺は俗に「上之太子」と呼ばれ、「中之太子」の野中寺(やちゅうじ・羽曳野市)、「下之太子」の大聖勝軍寺(八尾市)と共に「河内三太子」と称される。
聖徳太子は生前の620年に、現在の叡福寺周辺を自らの墓所と定め、その僅か2年後の622年、49歳の時に没した。
推古天皇が聖徳太子の墓所に堂を建立したのが叡福寺の始まりとされる。
その後、奈良時代となった724年、聖武天皇が聖徳太子の墓所を守るために伽藍を整備し、叡福寺を開基したという。
叡福寺は府道32号線沿いにあって、太子町にある他の史跡に比べると圧倒的に交通の便が良い。
近鉄南大阪線の起点である大阪阿部野橋駅(JRや地下鉄の天王寺駅からすぐのところ)から河内長野(あるいは富田林)行きの準急、あるいは急行に乗って約30分、近鉄長野線の喜志駅に到着すると、東口ロータリーから金剛バスの「上ノ太子行き」「太子まわり循環」「葉室まわり循環」のいずれかに乗って約15分で「太子前」という停留所に着く。
「太子前」のバス停の目の前はもう叡福寺だ(近鉄南大阪線の上ノ太子駅からもバスは出ているが、本数が少ないのでお勧めできない)。
電車では叡福寺へ徒歩で行ける駅がないのが玉にキズだが(そもそも、太子町内に電車の駅がないのだから仕方がない)、それでも太子町の中ではかなり便利な場所にあると言えよう。
さらに、ちゃんと駐車場もある。
しかも駐車料金は無料だ。
平日に駐車場が満車になることはまずなく、休日でも狭い駐車場にもかかわらず駐車料金は無料である。
それでも大抵は駐車できるが、もし満車でも少し離れた所に霊園墓地用の駐車場があって、無料で駐車できる。
こんなこと、奈良県の有名な寺では考えられないだろう。
遠つ飛鳥はもちろん、観光地化された奈良県の寺は駐車料金も取るし、拝観料も徴収する。
同じ聖徳太子ゆかりの、奈良県にある法隆寺(斑鳩町)や橘寺(明日香村・この近辺で聖徳太子が生まれたとされる)では拝観料を取るにもかかわらず、観光客の人は絶えない。
しかし聖徳太子の墓所がある叡福寺は、法隆寺や橘寺にも劣らぬ由緒正しき寺なのに、知名度は圧倒的に低い。
叡福寺には休日でもそれほど多くの人が訪れるわけではなく、もちろん拝観料は取られない。
歴史ファンから見れば、実にもったいない話だろう。
そんな叡福寺の中で、唯一有料なのが寺宝館だ。
大人200円の入館料が必要だが、開館しているのは土日祝のみ。
開館時間は午前9時で、筆者が寺宝館に行ってみたら「入場希望者は、横の呼び鈴を押して下さい」という看板が立っていた。
正午前、やむなく呼び鈴を押したが、誰も来ない。
5分ほど待って、ようやく係員のオジサンが来た。
オジサンが扉の鍵を開けているところを見ると、どうやら筆者がこの日初めての客らしい。
土曜日、午前9時開館で、初めての客が正午前。
この時点で客は筆者一人しかなく、さらに筆者が退館するまで誰ひとり寺宝館を訪れる者はいなかった。
叡福寺の来訪者は、よほど200円を払うのがもったいないのだろうか。
ちなみに、法隆寺の拝観料は大人1000円である。
それでも、入館者が筆者ただ一人ということもあって、得したこともあった。
係員のオジサンが、わざわざ筆者に叡福寺について説明してくれたのである。
叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として歴代の天皇や権力者から大事にされてきたが、戦国時代の1574年、織田信長によって焼き討ちに遭い、開基以来の建物は一つも残っていないという。
しかし1603年、豊臣秀頼が叡福寺内にある聖霊殿を再建した。
1603年と言えば江戸幕府が開かれた年だから、豊臣家は凋落の一途を辿っていたはずだが、にもかかわらず秀頼も「いい仕事」をしてくれたものだ。
さらに、叡福寺内にある多宝塔は江戸時代の1652年に江戸の三谷三九郎が再建したもので、現在は二重塔となっているが、織田信長に焼かれる前は法隆寺のように五重塔だったという。
こんなことはどの歴史書にも書かれていないので、オジサンもいいことを教えてくれた。
叡福寺の境内図。山号は磯長山(しながさん)。新西国三十三ケ所霊場客番。本尊は聖如意輪観世音菩薩
叡福寺の入り口である南大門。バス停と駐車場からすぐの所に階段がある
南大門から入った境内。拝観料は無料だ。左が金堂、正面奥が二天門
境内に入ってすぐ左側(西側)にある多宝塔。1652年に江戸の三谷三九郎によって再建された。現在は二重塔だが、焼失以前は五重塔だったという。重要文化財
多宝塔の北側にある金堂。江戸時代の1732年に再建された
金堂の北側にある聖霊殿。1603年、豊臣秀頼により再建されたのがきっかけで、叡福寺の復興が進んだ。重要文化財
境内の奥にある二天門。向こう側に聖徳太子御廟がある
叡福寺の最北端、二天門をくぐったところにある聖徳太子御廟。ここに聖徳太子が眠っている
上の御堂。聖徳太子御廟の西にある
聖徳太子御廟の東にある浄土堂
浄土堂の東にある見真大師堂。1912年に再建されたこの堂には、親鸞聖人の坐像が祀られているが、これは親鸞自身が刻んだという
弘法大師堂。天台宗の最澄一派だった親鸞を祀っている、見真大師堂の隣り(南側)にあるのは面白い。叡福寺は弘法大師(空海)が開いた真言宗系の単立寺院である
境内に入って右側(東側)にある念仏堂
さらに、叡福寺から府道を隔てて南側に西方院がある 。
日本最古の尼寺と言われ、聖徳太子の三人の乳母が祀られている。
府道を挟んで叡福寺の南側にある、西方院に至る長い階段
階段を登りきったところにある、西方院の本堂
西方院山門前から叡福寺を望む
叡福寺と西方院の間の府道にある、ランドセルを背負った聖徳太子
このように太子町には史跡が目白押しなのだが、観光客はほとんどいない。
宿泊施設も、二上山のふもとに太子温泉があるぐらいだ。
しかも、太子町で最も有名な叡福寺からは遠く離れていて、客室も少なく観光客を見込んだ温泉ではない。
客は日帰りで気軽に温泉を楽しむ近隣住民がほとんどだ。
しかし、二上山は死火山とはいえ火山には違いなく、太子温泉の湯量は豊富らしい。
聖徳太子も生前は、政(まつりごと)の激務を太子温泉で癒していたに違いない。
そう考えると、聖徳太子と同じ湯に浸かっていると思うだけで有り難く感じる。
二上山のふもとにある太子温泉。近隣住民の憩いの場となっている
観光地化されていない近つ飛鳥・大阪府太子町。
それ故にかえって歴史ファンの興味を惹き付けるらしい。
ひっそりした雰囲気が逆にいい、というわけだ。
歴史ファンでなくても、この地に来れば遠つ飛鳥・奈良県明日香村とは違った魅力に気付くはずだ。
ぜひ一度、近つ飛鳥でいにしえの情緒を満喫してもらいたい。
最後に、この記事を読んでいると「~とされる」「~のようだ」というような曖昧な表現が目立つと感じた人も多いだろう。
それは、ここに書かれているのはいずれも俗説で、真相がわかっていない事柄があまりにも多いからだ。
邪馬台国ほどではないとはいえ、飛鳥時代は二上山と共に今なお多くの謎に包まれている。
なにしろ、聖徳太子は存在しなかった、という説があるぐらいだ。
しかし、多数の謎があるからこそ、この時代・この地域は多くの人を惹き付けてやまない。
しかも、現在では田舎でしかない近つ飛鳥を貫く竹内街道が、シルクロードの一部として遠くヨーロッパまで通じていたなんて、実に壮大なロマンではないか。